灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第12話 本物の魔導師

 翌朝、壕の中の歩き方が変わっていた。

 

 夜明け前から、伝令だけがやけに多かった。

 砲声は明け方まで途切れなかったくせに、南面を削っていた帝国砲だけが、夜半を過ぎたあたりから妙に静かになっている。静かになったと言っても、戦が終わったわけではない。止んだぶんだけ、別の音が聞こえるようになっただけだ。

 

 杭を打つ音。

 荷車の軋み。

 記録官が紙をめくる音。

 それから、怒鳴らずに動く兵たちの足音。

 

 普段なら邪魔だと肩をぶつけ合う壕の中で、今朝は皆が半歩ずつ退いていた。荷箱を運ぶ者も、担架を担ぐ者も、砲座へ走る伝令も、見えない線に従うみたいに脇へ寄っている。

 

 板の配り方も違った。

 

 いつもは壕ごと、中隊ごとに雑に積まれていた刻印板が、今朝は種類別に分けられ、記録官の手で一枚ずつ帳面へ書きつけられていた。杭も、砲兵も、結界補助も、優先の順番が変わっている。

 

 何かが起きる。

 いや、何かを起こすために、壕そのものが組み替えられている。

 

 シオンがそう気づいたのは、リゼの前へ立った時だった。

 

 彼女は壕の角で記録板を抱え、墨で地図へ何本も線を引いている。視線は紙から上がらないまま、口だけが先に動いた。

 

「遅い」

 

「何が」

 

「歩き方」

 

「そんなのまで数えてるのか」

 

「今日は魔導師が前へ出る」

 

 リゼは砂時計をひっくり返しながら言った。

 

「砲の並び、板の集め方、伝令路。全部変わってる」

 

 彼女はそこで初めて顔を上げ、修道院砦の西壁を見た。

 

「向こうも南面の砲を止めた。夜のうちに西側へ荷を回してる」

 

「荷?」

 

「黒塗りの長箱。ニコが見た」

 

 シオンは眉を寄せた。

 

 昨夜の西回廊。崩れた壁。血のような紋。冷えた焼け跡。地下へ口を開けた通路。

 あそこを見つけた夜のすぐあとに、敵の砲だけが止み、何かが西側へ運ばれている。

 

 偶然ではない。

 

 その時、アーデルが後ろから荷箱を押しつけてきた。

 

「ぼうっとするな。今日は板を運ぶ場所も違う」

 

「どこへ」

 

「前じゃない。横だ」

 

 答えになっていないようで、答えだった。

 壕の上へ出ると、意味はすぐ分かった。

 

 修道院砦の正面へ向かう砲列の後ろに、一本だけ広く空けられた土の帯がある。そこへ白灰の粉が撒かれ、細い杭が等間隔に打たれ、普通の術兵は立ち入るなという顔で近衛騎士が並んでいた。

 

 あれは壕でも砲座でもない。

 砲兵の通路でもない。

 

 魔導師の通る道だった。

 

 アーデルは荷箱の留め具を確認しながら、低く言った。

 

「夜のうちに、向こうが西壁の下へ黒杖杭を運び込んだ」

 

「黒杖杭?」

 

「古い導路に噛ませる増幅杭さ。修道院が元々何のために建てられてたか知らないけどね、下にまだ死んでない流れが残ってるなら、あいつらはそこを使って壁ごと吹き飛ばすつもりなんだろ」

 

 彼女の口調はいつも通り乱暴だった。

 だが、指先だけが妙に慎重だった。

 

「だから今日なんですね」

 

「向こうが仕掛ける日を決めた。こっちが合わせるしかなくなった」

 

 アーデルは白墨で板束に印をつける。

 

「宮廷魔導師が前へ出るのは、勝ちたい日じゃない。出なきゃ今日で終わる日だ」

 

 シオンは外郭壕の向こうを見た。

 修道院砦は、朝の光の中でも灰色だった。祈るための建物ではなく、土と石と砲火で延命している巨大な傷口にしか見えない。

 

「じゃあ、向こうも……」

 

「出すだろうさ」

 

 アーデルは即答した。

 

「一方が高位を切れば、もう一方も切る。そうしなきゃ前線一つ丸ごと消える」

 

 それは説明というより、戦場の天気の話みたいだった。

 

 やがて、白灰の道の向こうから人影が現れた。

 馬は来なかった。

 歩いてきた。

 

 白灰の外套を羽織った男が、護衛三人、記録官二人、結界補助官四人、術具運搬班六人を従えて泥の上を歩いてくる。鎧は軽く、杖も派手ではない。だが、彼が立ったところだけ、前線の形が変わった。

 

「宮廷魔導師」

 

 誰かが小声で言った。

 

「ラウル・エーヴェルスだ」

 

 シオンはその名を初めて聞いた。

 

 もっと威圧的な男を想像していた。王都の宮廷魔導師と聞けば、黄金の杖か、宝石のついた外套か、そういう芝居じみたものを思い浮かべていた。

 

 現れた男は、むしろ地味だった。

 

 年は三十前後に見える。痩せても太ってもいない。髪は薄い灰色で、後ろへ撫でつけられている。顔立ちも端整というほどではない。だが目だけが異様に静かだった。

 

 敵も、味方も、死体も、傷も見ていない。

 

 彼が見ているのは、

 風の流れ、

 砲煙の逃げ方、

 塔の影、

 土の色、

 焼け跡の濃淡、

 それから、地面の下に通る何かの気配だった。

 

 シオンはそこで、停戦の朝の黒衣の王女を思い出した。

 

 あの人も、死体を見ていなかった。

 砲座の焦げと、術式杭の焼け跡を見ていた。

 

 ラウルは修道院砦へ視線を向けたまま、記録官へ短く指示を出した。

 

「第三列を下げる。砲兵は一段右。結界補助、南東の塔影を捨てる」

 

 それだけで、周囲の大人たちが一斉に動いた。

 

 ディーンも何も言わず、中隊を率いたまま半歩引き、空いた場所へ兵を並べ直す。

 

「第三中隊、南寄りへ」

 

 怒鳴る声はいつも通りだったが、意味が違う。

 前へ出ろではない。邪魔になるな、だった。

 

 グレンが肩の槍を持ち直し、乾いた笑いを漏らした。

 

「英雄の仕事には見えませんねえ」

 

 ディーンは視線を修道院から切らずに言う。

 

「生きて、言われた場所にいろ」

 

 それからシオンを見た。

 

「お前はアーデルのところだ。杭と板を運べ」

 

「はい」

 

 アーデルはもう動き始めていた。板の束を普段と違う順で分け、白墨で数字を振り、補助官の机へ叩きつける。

 

「いつもと違うんですか」

 

「いつもは戦うために板を配る。今日は、戦いを成立させるために配る」

 

 答えになっているようで、なっていない。

 だが、その違いが大きいのだと声で分かった。

 

 その時、南面にいた砲兵から伝令が走ってきた。

 

「西壁裏、黒煙三!」

 

 リゼがすぐに言い直す。

 

「狼煙じゃない。合図だ」

 

 ニコは壕の縁に這い上がり、片目を細めた。

 

「出るぞ」

 

 帝国側は、朝靄が完全に切れるのを待っていたらしい。

 

 黒獅子旗の下に、王国側と同じように一本だけ空いた道ができている。夜のうちに運び込んだのだろう、黒い長箱が三つ並び、その脇に黒鉄の杭列が立っていた。白ではなく、煤を混ぜたみたいな暗い粉が地面へ撒かれている。

 

 その先に立つ男は、ラウルより年嵩だった。細身で、黒い外套の上からでも骨張った肩が分かる。杖というより長い黒鉄の指揮杖を持ち、後ろには帝国の結界兵と補助術者が並んでいる。

 

「西征軍付筆頭魔導師……」

 

 アーデルが顔をしかめた。

 

「オズヴァルトか。厭な奴を出してきたね」

 

 さらにその後ろ、やや高い砲座の残骸の上に、若い男がひとり立っていた。

 

 距離があり、顔までは見えない。

 だが立ち方だけで貴人だと分かった。飾り立てているわけではないのに、周囲の空気がそこだけ下がっている。

 

 ニコが低く言う。

 

「若いのがいる」

 

「誰だ」

 

 ディーンの問いに、ニコは片目を細める。

 

「皇族じゃねえか? 軍旗の位置が変だ」

 

 リゼは測距杖を支えながら、数字だけを返した。

 

「中心線より二十七歩後ろ。護衛二列。単なる観戦じゃない」

 

 その会話が終わるより早く、帝国側の黒杭が一斉に光った。

 

 砲声ではなかった。

 

 空気が、ひとつ遅れて裂けた。

 

 外郭壕の南端が、見えたまま消えた。

 

 土が吹き飛んだのではない。壕の縁が、そこだけ最初から存在しなかったみたいに抉れ、背後の砲兵と板置き場まで一直線に切り抜かれる。悲鳴が遅れて上がり、銀線入りの板がばらばらと泥へ降った。

 

 次の瞬間、王国側砲列の上に白い光が横倒しに走り、三つ並んだ砲座がまとめて沈黙した。火薬ではなく、火そのものが喉を潰されたみたいだった。

 

 シオンは板の束を抱えたまま立ち尽くした。

 

 あれが、魔導師の戦い。

 

 これまで見てきた火球も、刃の術式も、強かった。怖かった。人は簡単に死んだ。

 それでも、まだ戦いの形をしていた。

 

 今起きているものは違う。

 

 地形が一息で書き換わる。

 人ではなく場所が死ぬ。

 壕も砲座も板も、全部ただの数字へ落ちる。

 

 シオンから見れば、戦闘ではなく天災だった。

 

 グレンが、呆けたみたいな声で言った。

 

「今のを戦いって呼ぶなら、俺たちは今まで何をやってたんだろうな」

 

 冗談でも軽口でもなかった。

 本当に、そう思ったのだろう。

 

 ディーンはそれを否定しなかった。

 

「俺たちの仕事は、これを有利にすることだ」

 

 その声は低かったが、迷いがなかった。

 

「俺たちの命が千人失われようと、魔導師同士の戦いで一割の有利が取れる方が遥かに大きい。それが戦争だ」

 

 シオンの喉が、ひどく乾いた。

 

 残酷だ、とは思わなかった。

 残酷だと思えるほど、現実から離れていない声だった。

 ディーンは、そういう戦争の中で、それでも一人でも多く生かそうとしてきたのだ。

 

 だからこそ苦かった。

 

 ラウルは最初の一撃で一歩も引かなかった。

 

 彼は白灰の外套の裾を泥で汚しながら、まっすぐ前へ出た。詠唱は短い。板を使わない。補助官が二人、足元に細い銀杭を打ち込み、結界兵がそれを繋ぐ。修道院に派手な光の槍が撃ち込まれる。それからラウルは、黒く焼けた修道院西壁を一度だけ見た。

 

 そこでシオンは気づいた。

 

 ラウルは敵の魔導師を見ていない。

 見ているのは、敵の火がどこへ沈むか、その一点だけだった。

 

 帝国側の二撃目が来る。

 

 今度は上からではなかった。地面の下を走った熱が、西回廊の石床の下で一度消え、別の位置から噴き上がる。王国側の補助結界が、土の下から噛み砕かれる。

 

 その瞬間、シオンの全身にぞっとする感覚が走った。

 

 見覚えがある。

 

 昨日、西回廊の下で見た焼痕。

 冷えた石。

 熱が抜けたはずなのに、別の場所へ戻ってくる癖。

 

 同じだ。

 

 敵の術は、地下の古い流れに火を通している。

 

 シオンは気づいた時には走っていた。

 

「止まれ!」

 

 近衛の一人に肩を掴まれる。

 だが口の方が先だった。

 

「西壁の下です!」

 

 自分でも何を言っているのか分からない。けれど止まれなかった。

 

「火が沈んで、戻ってる……! あの術、地面を噛んでる!」

 

 近衛が眉をひそめる。

 補助官が邪魔だと言いかける。

 

 その時、ラウルが振り返った。

 

 目が合った。

 

 静かな、薄い色の目だった。

 だが、その一瞬だけ、シオンは値踏みされたのだと分かった。

 

「順番に言え」

 

 たったそれだけだった。

 

 アーデルに何度も叩き込まれた言葉が、そのまま上の世界から返ってきた。

 

 シオンは息を飲んだ。

 

 それから、見えた順に言った。

 

「最初に落ちたのは西壁の下です」

「次に、塔の裏で火が痩せた」

「それから、熱だけが回廊の下へ沈んで、別の場所から戻ってきた」

「……西側じゃなくて、その右です。石が冷えてるところ」

 

 ラウルは一度だけ頷いた。

 

 補助官へ指を二つ振る。

 

「南杭を一つ捨てろ。位相をずらす」

 

 結界兵が走り、銀杭を引き抜く。別の位置へ打ち直す。ラウルの詠唱が低く伸びた。白灰の外套の裾が、風もないのに揺れる。

 

 次の瞬間、王国側の地面の下を走っていた熱が、横から裂けた。

 

 火が、悲鳴を上げるみたいに歪んだ。

 

 西回廊の下で一度沈んでいた赤い脈が、今度は逆に地上へ押し出される。帝国側の老魔導師が初めて姿勢を崩し、黒杖を一歩引いた。

 

 王国側の砲列が息を吹き返す。

 沈黙していた砲兵が、間髪入れずに撃つ。

 リゼが座標を怒鳴り、アーデルが板を叩き込む。グレンが伝令を飛ばし、ディーンが空いた外郭壕の縁へ中隊を走らせる。

 

 さっきまで天災だったものが、一瞬だけ人の手へ戻った。

 

 それはほんのわずかな時間だった。

 だがそのわずかで、壊滅寸前だった王国側は踏みとどまった。

 

 シオンはその場に膝をつきそうになるのを堪えた。

 

 自分がやった、とは思えなかった。

 ただ、見えた。

 そして言った。

 

 それだけで、あの戦いに一瞬だけ手が届いた。

 

 戦況がやや落ち着いた隙に、ラウルがシオンの前へ来た。

 

 近くで見ると、彼は本当に派手さのない男だった。戦場の泥で外套は汚れ、指先には白灰がついている。宮廷の匂いより、炉の匂いがする人だった。

 

「名は」

 

「シオン・ノール、です」

 

「術兵か」

 

「補助です」

 

 ラウルはそれを聞いても顔色を変えなかった。

 

「板は答えを借りる道具だ」

 

 短く言う。

 

「魔導は違う」

 

 シオンは黙って聞いた。

 

「流れを読む。掴む。押し切る」

 

 ラウルの視線が、また修道院の西壁へ向く。

 

「今のお前は、板の向こうを一瞬見た」

 

 それだけ言うと、彼はもう次の補助官を呼んだ。

 褒めたのか、叱ったのかも分からない。

 だがシオンの胸には、その短い言葉が火傷みたいに残った。

 

 板の向こう。

 

 そんな世界が、本当にある。

 

 王国側はその日のうちに勝てなかった。

 勝ちどころか、外郭壕の半分は削られ、砲列も二つ失い、西壁の南側は昼までに三度取り返されて三度押し返した。

 

 それでも朝の一撃で終わらなかっただけ、踏みとどまったと言うべきだった。

 

 日が傾く頃、西回廊の一角がとうとう崩れた。

 

 主力級魔導戦の余波で割れた石壁が、半地下の通路をさらに露出させる。昨日見えた階段口より、もっと深い、古い石の喉が口を開けていた。

 

 アーデルは何も言わず、シオンを見た。

 目つきが少しだけ変わっていた。使える、ではなく、面倒なものを拾ってしまった、という顔だった。

 

 グレンは槍の穂先を拭きながら、まだ呆けた調子で言う。

 

「上には上がいるってのは知ってたけど、あそこまでだとはな」

 

 ニコは片目を細め、西壁の上を見た。

 

「まだ終わってねえ」

 

「何がです」

 

 シオンが訊くと、ニコは顎をわずかに動かした。

 

 修道院砦の向こう、崩れた砲座の上に、昼からずっと動かなかった影がまだ立っていた。

 

 若い男だった。

 距離があるのに、その輪郭だけは妙に冷たい。

 

 こちらを見ている。

 

 主力級魔導師同士の戦いが終わっても、その男だけは戦場を見ている。

 人を見るのでなく、壊れた壕も、削れた塔も、露出した地下も、全部ひっくるめて見ている目だった。

 

 シオンはなぜか、その視線が自分へ一度だけ落ちた気がした。

 

 ぞくりとした。

 

 火より冷たい感覚だった。

 

 ラウルですら、まだこの戦場の全部ではないのかもしれない。うまく言えないが、そう思った。

 

 外郭壕の泥は、朝からずっと同じ泥のはずだった。

 だが夕方のそれは、もう別の戦争の地面に見えた。

 

 シオンは短杖を握り直した。

 

 西壁の下からは、まだ消えていない熱が上がってくる。

 表の戦場ではなく、下にあるもの。

 火でも焼き切れなかった何か。

 

 本当に潜るべき場所は、そこだ。

 

 そして本当に戦うべき相手は、まだこちらを見ているだけだ。

 

 修道院の上に、夕暮れが落ちた。

 壕の底では兵が死に、板が割れ、伝令が走る。

 それでもシオンの意識は、戦場の表ではなく、その下と、その向こうに立つ影へ引かれていた。

 

 戦争には、まだ見えていない深さがある。

 

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