灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
翌朝、壕の中の歩き方が変わっていた。
夜明け前から、伝令だけがやけに多かった。
砲声は明け方まで途切れなかったくせに、南面を削っていた帝国砲だけが、夜半を過ぎたあたりから妙に静かになっている。静かになったと言っても、戦が終わったわけではない。止んだぶんだけ、別の音が聞こえるようになっただけだ。
杭を打つ音。
荷車の軋み。
記録官が紙をめくる音。
それから、怒鳴らずに動く兵たちの足音。
普段なら邪魔だと肩をぶつけ合う壕の中で、今朝は皆が半歩ずつ退いていた。荷箱を運ぶ者も、担架を担ぐ者も、砲座へ走る伝令も、見えない線に従うみたいに脇へ寄っている。
板の配り方も違った。
いつもは壕ごと、中隊ごとに雑に積まれていた刻印板が、今朝は種類別に分けられ、記録官の手で一枚ずつ帳面へ書きつけられていた。杭も、砲兵も、結界補助も、優先の順番が変わっている。
何かが起きる。
いや、何かを起こすために、壕そのものが組み替えられている。
シオンがそう気づいたのは、リゼの前へ立った時だった。
彼女は壕の角で記録板を抱え、墨で地図へ何本も線を引いている。視線は紙から上がらないまま、口だけが先に動いた。
「遅い」
「何が」
「歩き方」
「そんなのまで数えてるのか」
「今日は魔導師が前へ出る」
リゼは砂時計をひっくり返しながら言った。
「砲の並び、板の集め方、伝令路。全部変わってる」
彼女はそこで初めて顔を上げ、修道院砦の西壁を見た。
「向こうも南面の砲を止めた。夜のうちに西側へ荷を回してる」
「荷?」
「黒塗りの長箱。ニコが見た」
シオンは眉を寄せた。
昨夜の西回廊。崩れた壁。血のような紋。冷えた焼け跡。地下へ口を開けた通路。
あそこを見つけた夜のすぐあとに、敵の砲だけが止み、何かが西側へ運ばれている。
偶然ではない。
その時、アーデルが後ろから荷箱を押しつけてきた。
「ぼうっとするな。今日は板を運ぶ場所も違う」
「どこへ」
「前じゃない。横だ」
答えになっていないようで、答えだった。
壕の上へ出ると、意味はすぐ分かった。
修道院砦の正面へ向かう砲列の後ろに、一本だけ広く空けられた土の帯がある。そこへ白灰の粉が撒かれ、細い杭が等間隔に打たれ、普通の術兵は立ち入るなという顔で近衛騎士が並んでいた。
あれは壕でも砲座でもない。
砲兵の通路でもない。
魔導師の通る道だった。
アーデルは荷箱の留め具を確認しながら、低く言った。
「夜のうちに、向こうが西壁の下へ黒杖杭を運び込んだ」
「黒杖杭?」
「古い導路に噛ませる増幅杭さ。修道院が元々何のために建てられてたか知らないけどね、下にまだ死んでない流れが残ってるなら、あいつらはそこを使って壁ごと吹き飛ばすつもりなんだろ」
彼女の口調はいつも通り乱暴だった。
だが、指先だけが妙に慎重だった。
「だから今日なんですね」
「向こうが仕掛ける日を決めた。こっちが合わせるしかなくなった」
アーデルは白墨で板束に印をつける。
「宮廷魔導師が前へ出るのは、勝ちたい日じゃない。出なきゃ今日で終わる日だ」
シオンは外郭壕の向こうを見た。
修道院砦は、朝の光の中でも灰色だった。祈るための建物ではなく、土と石と砲火で延命している巨大な傷口にしか見えない。
「じゃあ、向こうも……」
「出すだろうさ」
アーデルは即答した。
「一方が高位を切れば、もう一方も切る。そうしなきゃ前線一つ丸ごと消える」
それは説明というより、戦場の天気の話みたいだった。
やがて、白灰の道の向こうから人影が現れた。
馬は来なかった。
歩いてきた。
白灰の外套を羽織った男が、護衛三人、記録官二人、結界補助官四人、術具運搬班六人を従えて泥の上を歩いてくる。鎧は軽く、杖も派手ではない。だが、彼が立ったところだけ、前線の形が変わった。
「宮廷魔導師」
誰かが小声で言った。
「ラウル・エーヴェルスだ」
シオンはその名を初めて聞いた。
もっと威圧的な男を想像していた。王都の宮廷魔導師と聞けば、黄金の杖か、宝石のついた外套か、そういう芝居じみたものを思い浮かべていた。
現れた男は、むしろ地味だった。
年は三十前後に見える。痩せても太ってもいない。髪は薄い灰色で、後ろへ撫でつけられている。顔立ちも端整というほどではない。だが目だけが異様に静かだった。
敵も、味方も、死体も、傷も見ていない。
彼が見ているのは、
風の流れ、
砲煙の逃げ方、
塔の影、
土の色、
焼け跡の濃淡、
それから、地面の下に通る何かの気配だった。
シオンはそこで、停戦の朝の黒衣の王女を思い出した。
あの人も、死体を見ていなかった。
砲座の焦げと、術式杭の焼け跡を見ていた。
ラウルは修道院砦へ視線を向けたまま、記録官へ短く指示を出した。
「第三列を下げる。砲兵は一段右。結界補助、南東の塔影を捨てる」
それだけで、周囲の大人たちが一斉に動いた。
ディーンも何も言わず、中隊を率いたまま半歩引き、空いた場所へ兵を並べ直す。
「第三中隊、南寄りへ」
怒鳴る声はいつも通りだったが、意味が違う。
前へ出ろではない。邪魔になるな、だった。
グレンが肩の槍を持ち直し、乾いた笑いを漏らした。
「英雄の仕事には見えませんねえ」
ディーンは視線を修道院から切らずに言う。
「生きて、言われた場所にいろ」
それからシオンを見た。
「お前はアーデルのところだ。杭と板を運べ」
「はい」
アーデルはもう動き始めていた。板の束を普段と違う順で分け、白墨で数字を振り、補助官の机へ叩きつける。
「いつもと違うんですか」
「いつもは戦うために板を配る。今日は、戦いを成立させるために配る」
答えになっているようで、なっていない。
だが、その違いが大きいのだと声で分かった。
その時、南面にいた砲兵から伝令が走ってきた。
「西壁裏、黒煙三!」
リゼがすぐに言い直す。
「狼煙じゃない。合図だ」
ニコは壕の縁に這い上がり、片目を細めた。
「出るぞ」
帝国側は、朝靄が完全に切れるのを待っていたらしい。
黒獅子旗の下に、王国側と同じように一本だけ空いた道ができている。夜のうちに運び込んだのだろう、黒い長箱が三つ並び、その脇に黒鉄の杭列が立っていた。白ではなく、煤を混ぜたみたいな暗い粉が地面へ撒かれている。
その先に立つ男は、ラウルより年嵩だった。細身で、黒い外套の上からでも骨張った肩が分かる。杖というより長い黒鉄の指揮杖を持ち、後ろには帝国の結界兵と補助術者が並んでいる。
「西征軍付筆頭魔導師……」
アーデルが顔をしかめた。
「オズヴァルトか。厭な奴を出してきたね」
さらにその後ろ、やや高い砲座の残骸の上に、若い男がひとり立っていた。
距離があり、顔までは見えない。
だが立ち方だけで貴人だと分かった。飾り立てているわけではないのに、周囲の空気がそこだけ下がっている。
ニコが低く言う。
「若いのがいる」
「誰だ」
ディーンの問いに、ニコは片目を細める。
「皇族じゃねえか? 軍旗の位置が変だ」
リゼは測距杖を支えながら、数字だけを返した。
「中心線より二十七歩後ろ。護衛二列。単なる観戦じゃない」
その会話が終わるより早く、帝国側の黒杭が一斉に光った。
砲声ではなかった。
空気が、ひとつ遅れて裂けた。
外郭壕の南端が、見えたまま消えた。
土が吹き飛んだのではない。壕の縁が、そこだけ最初から存在しなかったみたいに抉れ、背後の砲兵と板置き場まで一直線に切り抜かれる。悲鳴が遅れて上がり、銀線入りの板がばらばらと泥へ降った。
次の瞬間、王国側砲列の上に白い光が横倒しに走り、三つ並んだ砲座がまとめて沈黙した。火薬ではなく、火そのものが喉を潰されたみたいだった。
シオンは板の束を抱えたまま立ち尽くした。
あれが、魔導師の戦い。
これまで見てきた火球も、刃の術式も、強かった。怖かった。人は簡単に死んだ。
それでも、まだ戦いの形をしていた。
今起きているものは違う。
地形が一息で書き換わる。
人ではなく場所が死ぬ。
壕も砲座も板も、全部ただの数字へ落ちる。
シオンから見れば、戦闘ではなく天災だった。
グレンが、呆けたみたいな声で言った。
「今のを戦いって呼ぶなら、俺たちは今まで何をやってたんだろうな」
冗談でも軽口でもなかった。
本当に、そう思ったのだろう。
ディーンはそれを否定しなかった。
「俺たちの仕事は、これを有利にすることだ」
その声は低かったが、迷いがなかった。
「俺たちの命が千人失われようと、魔導師同士の戦いで一割の有利が取れる方が遥かに大きい。それが戦争だ」
シオンの喉が、ひどく乾いた。
残酷だ、とは思わなかった。
残酷だと思えるほど、現実から離れていない声だった。
ディーンは、そういう戦争の中で、それでも一人でも多く生かそうとしてきたのだ。
だからこそ苦かった。
ラウルは最初の一撃で一歩も引かなかった。
彼は白灰の外套の裾を泥で汚しながら、まっすぐ前へ出た。詠唱は短い。板を使わない。補助官が二人、足元に細い銀杭を打ち込み、結界兵がそれを繋ぐ。修道院に派手な光の槍が撃ち込まれる。それからラウルは、黒く焼けた修道院西壁を一度だけ見た。
そこでシオンは気づいた。
ラウルは敵の魔導師を見ていない。
見ているのは、敵の火がどこへ沈むか、その一点だけだった。
帝国側の二撃目が来る。
今度は上からではなかった。地面の下を走った熱が、西回廊の石床の下で一度消え、別の位置から噴き上がる。王国側の補助結界が、土の下から噛み砕かれる。
その瞬間、シオンの全身にぞっとする感覚が走った。
見覚えがある。
昨日、西回廊の下で見た焼痕。
冷えた石。
熱が抜けたはずなのに、別の場所へ戻ってくる癖。
同じだ。
敵の術は、地下の古い流れに火を通している。
シオンは気づいた時には走っていた。
「止まれ!」
近衛の一人に肩を掴まれる。
だが口の方が先だった。
「西壁の下です!」
自分でも何を言っているのか分からない。けれど止まれなかった。
「火が沈んで、戻ってる……! あの術、地面を噛んでる!」
近衛が眉をひそめる。
補助官が邪魔だと言いかける。
その時、ラウルが振り返った。
目が合った。
静かな、薄い色の目だった。
だが、その一瞬だけ、シオンは値踏みされたのだと分かった。
「順番に言え」
たったそれだけだった。
アーデルに何度も叩き込まれた言葉が、そのまま上の世界から返ってきた。
シオンは息を飲んだ。
それから、見えた順に言った。
「最初に落ちたのは西壁の下です」
「次に、塔の裏で火が痩せた」
「それから、熱だけが回廊の下へ沈んで、別の場所から戻ってきた」
「……西側じゃなくて、その右です。石が冷えてるところ」
ラウルは一度だけ頷いた。
補助官へ指を二つ振る。
「南杭を一つ捨てろ。位相をずらす」
結界兵が走り、銀杭を引き抜く。別の位置へ打ち直す。ラウルの詠唱が低く伸びた。白灰の外套の裾が、風もないのに揺れる。
次の瞬間、王国側の地面の下を走っていた熱が、横から裂けた。
火が、悲鳴を上げるみたいに歪んだ。
西回廊の下で一度沈んでいた赤い脈が、今度は逆に地上へ押し出される。帝国側の老魔導師が初めて姿勢を崩し、黒杖を一歩引いた。
王国側の砲列が息を吹き返す。
沈黙していた砲兵が、間髪入れずに撃つ。
リゼが座標を怒鳴り、アーデルが板を叩き込む。グレンが伝令を飛ばし、ディーンが空いた外郭壕の縁へ中隊を走らせる。
さっきまで天災だったものが、一瞬だけ人の手へ戻った。
それはほんのわずかな時間だった。
だがそのわずかで、壊滅寸前だった王国側は踏みとどまった。
シオンはその場に膝をつきそうになるのを堪えた。
自分がやった、とは思えなかった。
ただ、見えた。
そして言った。
それだけで、あの戦いに一瞬だけ手が届いた。
戦況がやや落ち着いた隙に、ラウルがシオンの前へ来た。
近くで見ると、彼は本当に派手さのない男だった。戦場の泥で外套は汚れ、指先には白灰がついている。宮廷の匂いより、炉の匂いがする人だった。
「名は」
「シオン・ノール、です」
「術兵か」
「補助です」
ラウルはそれを聞いても顔色を変えなかった。
「板は答えを借りる道具だ」
短く言う。
「魔導は違う」
シオンは黙って聞いた。
「流れを読む。掴む。押し切る」
ラウルの視線が、また修道院の西壁へ向く。
「今のお前は、板の向こうを一瞬見た」
それだけ言うと、彼はもう次の補助官を呼んだ。
褒めたのか、叱ったのかも分からない。
だがシオンの胸には、その短い言葉が火傷みたいに残った。
板の向こう。
そんな世界が、本当にある。
王国側はその日のうちに勝てなかった。
勝ちどころか、外郭壕の半分は削られ、砲列も二つ失い、西壁の南側は昼までに三度取り返されて三度押し返した。
それでも朝の一撃で終わらなかっただけ、踏みとどまったと言うべきだった。
日が傾く頃、西回廊の一角がとうとう崩れた。
主力級魔導戦の余波で割れた石壁が、半地下の通路をさらに露出させる。昨日見えた階段口より、もっと深い、古い石の喉が口を開けていた。
アーデルは何も言わず、シオンを見た。
目つきが少しだけ変わっていた。使える、ではなく、面倒なものを拾ってしまった、という顔だった。
グレンは槍の穂先を拭きながら、まだ呆けた調子で言う。
「上には上がいるってのは知ってたけど、あそこまでだとはな」
ニコは片目を細め、西壁の上を見た。
「まだ終わってねえ」
「何がです」
シオンが訊くと、ニコは顎をわずかに動かした。
修道院砦の向こう、崩れた砲座の上に、昼からずっと動かなかった影がまだ立っていた。
若い男だった。
距離があるのに、その輪郭だけは妙に冷たい。
こちらを見ている。
主力級魔導師同士の戦いが終わっても、その男だけは戦場を見ている。
人を見るのでなく、壊れた壕も、削れた塔も、露出した地下も、全部ひっくるめて見ている目だった。
シオンはなぜか、その視線が自分へ一度だけ落ちた気がした。
ぞくりとした。
火より冷たい感覚だった。
ラウルですら、まだこの戦場の全部ではないのかもしれない。うまく言えないが、そう思った。
外郭壕の泥は、朝からずっと同じ泥のはずだった。
だが夕方のそれは、もう別の戦争の地面に見えた。
シオンは短杖を握り直した。
西壁の下からは、まだ消えていない熱が上がってくる。
表の戦場ではなく、下にあるもの。
火でも焼き切れなかった何か。
本当に潜るべき場所は、そこだ。
そして本当に戦うべき相手は、まだこちらを見ているだけだ。
修道院の上に、夕暮れが落ちた。
壕の底では兵が死に、板が割れ、伝令が走る。
それでもシオンの意識は、戦場の表ではなく、その下と、その向こうに立つ影へ引かれていた。
戦争には、まだ見えていない深さがある。