灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第13話 辺境伯ガーヴェント

 眠った気がしないまま朝になった。

 

 昨夕、西回廊の一角が崩れ、地下へ続く古い石の喉が口を開けてから、前線は一度も静かにならなかった。砲声は夜通し遠くで鳴り、壕では負傷兵が呻き、工兵は土嚢を積み直し、記録官は新しい地図を作り、結界兵は焼き切れた板を仕分けていた。

 

 そのどれもが、これまでも前線にあった音だった。

 なのに今朝は、その一つひとつが別の意味を持って聞こえた。

 

 何かが大きく変わろうとしている。

 兵なら誰でも、それだけは分かる朝だった。

 

 夜明け前、壕の向こうで馬が止まった。

 

 珍しいことではない。将校が来ることも、後方の監軍が来ることもある。だが、今朝のざわめきはそれとは違った。誰かが怒鳴って道を開けさせる前に、兵たちの方が勝手に身体を退いている。

 

 ディーンが珍しく外套の襟を直したのを見て、シオンはそれだけで相手の格を悟った。

 

 現れた男は、思ったよりも背が高くなかった。

 だが、小さく見える要素が一つもなかった。

 

 黒に近い緑の軍外套。装飾の少ない胸甲。片手で持った手杖。白い手袋。年は四十をいくつか過ぎているだろうに、所作も歩幅も無駄がなかった。

 

 その男の左右には近衛、後ろには記録官と副官、そのさらに後ろに旗持ちと輜重が続いている。前線まで来るには、あまりに重い列だった。

 

 それでも彼は、その重さごとここへ来る権利がある顔をしていた。

 

「辺境伯だ」

 

 グレンが小さく言った。

 

「ミンスター辺境伯……ガーヴェント」

 

 シオンはその名を知っていた。

 王国の西辺を支える名門。

 国境線の守護者。

 帝国へ最も強硬な主張をする、主戦派王国貴族。

 

 そういう言葉では知っていた。

 だが目の前に立っている男は、守護者だの名門だのという言葉より先に、別のものに見えた。

 

 この戦争の、持ち主。

 

 ガーヴェントは壕の縁に立ち、修道院砦の西壁を見た。

 砲煙も泥も血も、彼の視界を曇らせていないようだった。

 

「喉が開いたな」

 

 それが、第一声だった。

 

 壕の兵たちは黙った。

 

 誰も、何を指しているのか分からない顔はしない。

 西壁の下に開いた地下の口を、この男が「喉」と呼んだ瞬間、あれがただの穴ではなくなったからだ。

 

「ただの壁の下の空洞ではない」

 

 ガーヴェントは副官へも兵へもなく言った。

 

「この戦線の喉だ。あそこを帝国に通せば、西壁は敵のものになる」

 

 声は高くない。

 だが、壕の底まで落ちてくるような重さがあった。

 

 彼はそこで初めて周囲を見た。

 

 ディーンの方へ一瞬だけ目をやり、続いてその後ろのシオンたちを見る。

 兵の顔を覚えるためではない。ただ、どのくらい使える駒が残っているか数えるための視線だった。

 

「入口ごとに班を分けろ」

 

 副官が書き取る。

 

「工兵、斥候、術兵、現場判断のできる下士官。足りない分は混ぜろ。地下を知る必要がある。先に押さえた側が壁を取る」

 

 それだけ言うと、彼はもう別の将校へ向き直った。

 兵の死者数も、昨夜の主力級魔導戦の損耗も、今この場では後回しらしかった。

 

 シオンの胸の奥で、何かが冷えた。

 

 果樹園で死んだ兵も、オットーも、昨日まで壕の上で焼けた砲兵も、この男にとっては最初から喉へ届くための肉だったのではないかと思えてしまった。

 

 その時、ディーンが短く言った。

 

「動くぞ」

 

 声に感情はなかった。

 

 第三中隊から選ばれたのは、ディーン、グレン、アーデル、リゼ、ニコ、シオン。

 そこへ別中隊から古参の斥候伍長が一人だけ足された。

 

「バルツ・ハイネだ」

 

 その男は名だけを置いた。

 鼻筋の通った痩せた顔に、白い古傷が一本入っている。ニコより年上で、口数は少ない。こちらを品定めするでもなく、ただ壕の向こうの西壁だけを見ていた。

 

 地下へ入る班は、彼らだけではなかった。

 別の入口へ向かう工兵混成班。西回廊の崩れ口から潜る術兵班。北側納骨堂から回る斥候班。壕の上で待機する回収班。

 

 地上ではすでにラウルが動き始めていた。

 

 西壁の前面に、白灰の道が一本通り、その上で宮廷第三魔導師は朝の火をねじ曲げている。塔影と砲列の間へ巨大な熱の幕が立ち、オズヴァルトの火筋が少しだけ押しずらされる。その数十息の隙に、工兵が杭を打ち、結界兵が板を差し替え、砲兵が一斉に位置を変える。

 

 ラウルは指揮しているだけではなかった。

 戦場の条件そのものを殴って変えていた。

 

 ディーンが低く言う。

 

「見とけ」

 

 シオンが顔を向けると、彼は修道院を見たまま続けた。

 

「上であれが殴り合ってるから、下で俺たちが潜れる」

 

 その言い方に飾りはなかった。

 

「逆に言えば、俺たちが喉を押さえれば、上は一割有利になる」

 

 昨日の言葉の続きだった。

 自分たちの命が千人失われても、魔導師同士の一割が大きい。

 その一割を作るために、今度は地下へ降りる。

 

 戦争はどこまで行っても分かりやすく残酷だった。

 

 西回廊の崩れ口は、昨日より広がっていた。

 半ば落ちた石階段の縁へ灰が吹き寄せ、下から湿った冷気が上がってくる。祈る場所の冷たさではない。火が通ったあとにしか残らない、妙に乾いた冷えだった。

 

 バルツが先に入る。

 その後ろをニコ。ディーン。グレン。アーデル。リゼ。シオン。

 

 最後尾へ入る直前、シオンは振り返った。

 

 地上では白灰の火幕がまだ揺れている。

 壕の上を、誰かが走る。

 板が割れる音がする。

 誰かが死んだらしい悲鳴が遅れて来る。

 

 上でも戦争は続いている。

 だが自分たちの戦争は、ここから別の形になる。

 

 階段を降りると、空気が変わった。

 

 湿り気より先に、古い灰の匂いが来る。

 地下は思っていた以上に広かった。納骨堂、祈祷室、崩れた通路、灰炉へ続くらしい細い導路、後付けで打ち抜かれた軍用の横穴。それらが幾度も増築されて、修道院の下で歪んだ迷路になっている。

 

 足元には骨壺の欠片。

 壁には削り取られた墓銘。

 ところどころに焼けた鉄具。

 そして、軍があとから刻んだ短い記号。

 

 祈りと埋葬と戦争が、全部同じ石へ乗っていた。

 

 シオンは息を浅くした。

 火の抜けた痕が多すぎる。

 死んだ導路と、まだ昨夜の熱を噛んでいる導路が、触れなくても分かる。

 

「右は死んでる」

 

 思わず口から出た。

 

 バルツが振り返る。

 

「何が」

 

「導路……だと思います。こっちは熱がない」

 

 バルツは眉ひとつ動かさなかった。

 

「じゃあ左へ行く」

 

 それだけだった。

 疑うより、使う。前線の人間の応答だった。

 

 リゼは何も言わず、砂時計を返しながら分岐の数だけを書きつける。

 アーデルは板を一枚ずつ惜しみ、火を最小限に抑える。グレンは後ろの気配を気にして何度も振り返る。

 ディーンだけが、前も後ろも同じ重さで見ていた。

 

 進むほどに、地下の空気が変わる。

 上から落ちてくる振動が近くなるたび、石の継ぎ目に残った古い熱がかすかに起きる。地上でラウルとオズヴァルトが殴り合うたび、その揺れがここまで届いているのだ。

 

 つまり地下は独立した別戦場ではない。

 地上の魔導戦と、一本の骨で繋がっている。

 

 第二納骨室へ出た時、バルツが拳を上げた。

 

 全員が止まる。

 

 前方の灰の床に、新しい足跡があった。

 敵だ。

 しかも一人二人ではない。

 

 ニコが壁際を這うみたいに進み、指を二本立てる。

 少数。

 こちらと同じくらい。

 

 ディーンは剣の柄へ手をやり、グレンへ左を示し、アーデルへ天井の亀裂を目で示した。火は最小限。崩せば全員死ぬ。

 

 静かな殺し合いになる。

 

 シオンは短杖を握り、喉の中だけが熱くなるのを感じた。

 

 その時だった。

 

 黒衣の影が、納骨室の向こうに立った。

 

 細い。

 黒い。

 けれど闇に溶けない。

 

 停戦の朝、焼痕を見ていた横顔。昨日、戦場の上から壕も塔も地下も全部見ていた冷たい影。あの王女だと、一瞬で分かった。

 

 第二王女セラフィナ。

 

 名を口に出した覚えはない。

 だがシオンの中では、その姿へもう名前が貼り付いていた。

 

 彼女もこちらを見た。

 たぶん、シオンのことを覚えていたわけではない。

 ただ、その場で最も邪魔な者たちとして王国兵を見ただけだ。

 

 ニコが短く言った。

 

「左!」

 

 それはシオンへ向けた声でも、全員への警告でもあったのだろう。

 次の瞬間、ニコの身体がひねられた。

 

 セラフィナの右手が、ごく小さく動いた。

 

 火球ではなかった。

 刃の術式とも少し違う。

 光の細い線が一筋だけ走り、灰の空気を裂いた。

 

 ニコの喉から肩へ、斜めに赤い線が浮かぶ。

 

 そのあとで血が出た。

 

 ニコは何が起きたか分からない顔のまま一歩だけ下がり、壁へぶつかって崩れた。

 

 誰より足音を読んでいた男が、音もなく落ちた。

 

 シオンの頭が真っ白になった。

 

 美しいとか、恐ろしいとか、そんな言葉は一つも浮かばなかった。

 ただ、自分が焼痕の向こうに何かを見た気がした相手が、いま目の前で仲間を殺した。

 その事実だけが、金槌みたいに頭を殴った。

 

「退け!」

 

 ディーンの声で身体が動いた。

 

 グレンが後ろの通路へ飛びつく。

 同時に帝国側の護衛が二人、灰の柱の陰から出た。

 

 狭い通路で剣が鳴る。

 バルツが短く低い刃で一人の脚を払う。

 ディーンがもう一人へ食い込み、魔法剣の鈍い光が喉元を裂く。

 アーデルは板を壁へ叩きつけ、崩れかけた天井へ薄い支えを作る。

 

 灰の床が低く鳴った。

 

 シオンにも分かった。

 熱の入った場所が近すぎる。

 これ以上重みをかければ、通路ごと落ちる。

 

「だめだ!」

 

 叫んだのはシオンだったか、アーデルだったか、自分でも分からない。

 

 次の瞬間、納骨室の奥で何かが崩れ、灰の床へ蜘蛛の巣みたいな亀裂が走った。

 

 グレンの顔が歪む。

 

「っ……!」

 

 そこへディーンが怒鳴った。

 

「退け!」

 

 命令が刃みたいに響いた。

 

「行け!」

 

 ディーンが今度はシオンの背を押した。

 

 退路が落ちる。

 誰かがもう一撃でも強い術を使えば、全員埋まる。

 

 シオンはそれでもニコから目を離せなかった。

 

 血が灰へ落ちている。

 片目を覆っていた革帯の跡だけが顔へ白く残っている。

 もうその目は何も見ていない。

 

 それなのに、置いていくしかなかった。

 

 グレンが歯を食いしばって身を翻す。

 アーデルが板を切り、支えを最後の一息ぶんだけ延ばす。

 リゼが一度だけニコの倒れた位置を見て、何かを書こうとして、書けずに記録板を抱きしめた。

 

 シオンは最後に、セラフィナを見た。

 

 彼女は追ってこなかった。

 血のついた細剣を下ろし、封印棚から抜いた何かを胸へ抱えたまま、ただこちらを見ていた。

 

 勝ち誇ってはいない。

 酔ってもいない。

 

 ただ、自分のすべきことをしている顔だった。

 

 地上へ這い上がった時、朝の光はもう白くなっていた。

 

 壕の上ではまだ戦争が続いている。

 砲声。伝令。白灰の火幕。工兵の槌音。負傷兵の呻き。

 何も止まっていない。

 

 止まっているのは、ニコだけだった。

 

 しかも、そこにいない。

 

 バルツが持ってきた革帯は血で硬くなっていた。

 記録板には灰がこびりついている。ニコの指の跡も、まだ少し残っていた。

 

 ガーヴェントはすぐに現れた。

 

 待っていたのだろう。

 前線で兵が戻るのを待つ貴族の顔ではなかった。戦場の奥に突っ込ませた犬が、何を咥えて戻るかを見る人間の顔だった。

 

「何を見てきた」

 

 それが第一声だった。

 

 シオンは、その瞬間にこの男を嫌いになった。

 

 ディーンが答える。

 

「帝国側も地下の中枢を探っています」

 

「それだけか」

 

「第二王女がいました」

 

 ガーヴェントの目が、そこで初めてわずかに動いた。

 

「確かか」

 

「確かです」

 

「何を持ち出した」

 

「不明です」

 

 ガーヴェントは少しだけ黙った。

 その沈黙のあいだも、彼の目はニコの革帯にも記録板にも落ちなかった。

 

「次は押さえろ」

 

 短い命令だった。

 

 講和札として、とは言わなかった。

 殺せ、ともまだ言わなかった。

 だがその声の冷たさだけで、シオンには十分だった。

 

 この男にとって、人も姫も地下の記録も、全部が戦争の部品なのだ。

 

 ガーヴェントが去ってから、ようやく息が戻った。

 

 グレンはしばらく何も言わず、血に濡れた革帯だけを見ていた。

 アーデルは板束を地面へ置き、白くなった指で目元をこすったが、それが汗か何かは分からなかった。

 リゼは記録板を抱えたまま動かなかった。

 数字を書ける彼女でも、いまは何も書けないのだとシオンにも分かった。

 

 ラウルが遅れて戻ってきたのは、その後だった。

 西壁方面の火幕を別の補助官へ渡したのだろう。外套の裾には新しい煤がつき、白灰の指先には薄く血が混じっている。

 

 彼はニコの死を聞いても、安い慰めを口にしなかった。

 代わりに革帯と記録板を見て、短く問うた。

 

「どこで落ちた」

 

 ディーンが答える。

 第二納骨室。封印棚。黒衣の王女。細い光刃。遺体は回収不能。

 

 ラウルはそれを聞き終えて、西壁の下を見た。

 

「破壊が目的なら、姫は地下に入らない」

 

 静かな声だった。

 

「なにかを取りに来ている」

 

 シオンの胸がざわついた。

 

 敵は壁を落としたいのではない。

 もっと奥にある何かを奪いたい。

 そして第二王女セラフィナは、それを自分で探している。

 

 あの停戦の朝の視線と、今朝の殺意が、同じ一本の線へ繋がる。

 

 シオンは革帯を見た。

 それはニコそのものではなかった。

 記録板も、剣も、外套も、遺体の代わりにはならない。

 

 置いてきた。

 自分たちはニコを置いてきた。

 

 その事実だけが、胸の底へ重く沈んだ。

 

 それでも地上では砲声が鳴り、兵は走り、火は上がり、地下の口はまだ開いたままだった。

 

 ディーンが革帯を受け取った。

 何も言わず、一度だけ握る。

 その拳の形だけで、怒りも悔しさも分かった。

 

「次は」

 

 グレンが低く言う。

 

「次は、あいつを……」

 

 その先が言葉にならない。

 

 シオンも同じだった。

 

 セラフィナを憎むべきだった。

 ニコを殺した敵なのだから、迷う余地などないはずだった。

 それなのに、あの地下でこちらを見た彼女の目が、勝ち誇った目ではなかったことを、どうしても忘れられない。

 

 恋に似たもの。

 敵意。

 怒り。

 喪失。

 

 全部が一緒に胸の中へ流れ込み、どれがどれだか分からなくなる。

 

 ラウルはそんなシオンを一瞥し、それから西壁の方へ顎を向けた。

 

「戦争が変わった」

 

 それだけ言った。

 

 誰も答えなかった。

 答える必要がなかった。

 

 そしてその最初の代価が、ニコだった。

 

 シオンは、血の乾きかけた記録板を見つめた。

 

 あの王女は、もうただの姫ではない。

 自分たちを殺してでも先へ進む敵だ。

 

 そう思わなければならない。

 

 なのに胸のどこかで、それだけでは終われない予感が、火の残り熱みたいに消えずにいた。

 

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