灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第14話 黒杖杭の夜

 ニコを弔う時間は、与えられなかった。

 

 夜が明けきる前に地下から這い上がり、朝のうちにガーヴェントへ報告し、その日の昼にはもう西壁の前面が別の顔へ変わっていた。

 

 壕の上に運び込まれるのは糧食ではない。

 黒鉄の杭。

 香炉。

 白灰袋。

 長い鎖。

 巻いた銅線。

 工兵用の大槌。

 

 どれも、昨日までの前線にはなかった荷だ。

 

 ニコの革帯は、リゼが持っていた。

 血の乾いた記録板は、アーデルが布に包んで脇へ置いていた。

 誰もそれに触れないまま、別の仕事が先に始まる。

 

 戦場は、死者を待たない。

 

「集まれ」

 

 ガーヴェントの声で、前線の将校と下士官が西壁寄りの壕へ集められた。

 泥の上へ板が渡され、その上に修道院地下の簡略図が炭で引かれている。

 

 線は三本。

 太い一本が、西壁の真下を走る古い主導路。

 そこから脇へ枝のように伸びる灰炉導路。

 さらに後から軍が穿ったらしい細い排気坑。

 

 辺境伯の隣には、工兵頭の老人がいた。痩せた喉がひどく上下している。夜通し掘っていた顔だった。

 

「ここが主導路」

 

 老人の指が、西壁の下をなぞる。

 

「元は修道院の灰炉の喉です。遺体を焼いた熱と煙を抜くための道だった。戦のたびに増築され、砲座の乾燥坑、排気坑、壁の水抜きまで後から噛まされておる」

 

 炭の先が、王国側の砲座位置を叩いた。

 

「ここを雑に落とせば、先に潰れるのは敵ではない。こちらの西砲列、壁の基礎、退避坑だ」

 

 別の箇所を叩く。

 

「帝国もそれを知っておる。ゆえに壊しには来ん。喉を握って、壁ごと魔導台に変えるつもりです」

 

 そこまで聞いて、シオンにもようやく意味が通った。

 

 地下の導路を奪われるというのは、ただ穴を取られることではない。

 壁そのものが、敵の術式の土台になるということだ。

 

「では、どうする」

 

 ガーヴェントは問いではなく、言葉を先へ促しただけだった。

 

 工兵頭は炭の線の右端を指した。

 

「中枢はここです。主導路と枝導路の結び目。だが、そこへ真っ直ぐは行けん。帝国は昨夜のうちに黒杖杭と香炉列を据え始めておる」

 

 今度はラウルが言った。

 

「上で火をずらす」

 

 短い。

 

 だが、それだけで工兵頭はうなずいた。

 

「数十息でいい。西壁前の火筋をねじってもらえれば、杭打ちと差し替えができる」

 

 シオンは、思わずラウルを見た。

 

 宮廷第三魔導師は、昨日と同じ白灰の外套をまとっていた。外套の裾には新しい焼けがついている。指先は真っ白だ。

 

 主力級魔導師とは、前線の後ろで命令する人間ではない。

 工兵が大槌を振るう数十息を、火で無理やり作る人間だ。

 

「地下は」

 

 ガーヴェントが視線を落とした。

 

「複数班を入れる。昨夜と同じだ」

 

 辺境伯の指先が、三つの入口へ順に落ちた。

 

「正面の崩れ口、北納骨堂、灰炉脇の細道。どこか一つでも先に通ればいい」

 

 その言い方に、ディーンの横顔がわずかに固くなった。

 どの班が先に通ってもいいということは、どの班が潰れても構わないということでもある。

 

「第三中隊ディーン班」

 

 副官が名を読み上げる。

 

「西回廊崩れ口。工兵補助と導路確認」

 

 やはり昨夜と同じ入口だった。

 だが、昨夜と同じではない。

 今夜は地下そのものが主戦場になる。

 

 解散の前に、グレンがニコの記録板へ目をやった。

 

「これ、どうする」

 

 リゼは抱えたまま答えた。

 

「持っていく」

 

「下に?」

 

「置いていくよりまし」

 

 それで終わりだった。

 誰も、もっとましな答えを知らなかった。

 

 夕方から空の色が変わった。

 

 西壁の向こうに沈んだ陽のあとへ、火だけが残る。

 帝国は早い。

 砲を撃つ前に、黒杖杭を進める。

 

 王国側の壕から見ると、それは兵器というより、墓標を並べているように見えた。黒鉄の細い杭が、西壁前の泥へ一本ずつ打ち込まれていく。その間へ香炉が据えられ、青黒い煙が細く立つ。

 

「来るぞ」

 

 バルツが言った。

 

 それと同時に、ラウルが前へ出た。

 

 護衛も副官も止めない。

 止める権利がないのだと、その動きだけで分かる。

 

 白灰の外套が、夜の壕でやけに白く見えた。

 ラウルは西壁へ向けて手杖を上げるでもなく、空を見た。

 

 詠唱は低く、短かった。

 

 次の瞬間、修道院前面の空気が一度だけ歪んだ。

 

 火が消えるのではない。

 火の走る角度だけが、ほんのわずかに曲がる。

 

 帝国側から撃ち込まれた火筋が、王国側砲座を直撃する寸前で、上へ逸れた。

 その一瞬へ工兵が飛び込む。

 大槌が振られ、白杭が打ち込まれ、結界兵が板を差し替え、砲兵が砲座をずらす。

 

 数十息。

 本当にそれだけだった。

 

 だが、その数十息がなければ、誰も何もできない。

 

 グレンが息を呑んだまま言った。

 

「見世物じゃないな、ありゃ」

 

「当たり前だ」

 

 アーデルは板束を抱え直しながら吐き捨てた。

 

「見世物なら、もう少し綺麗にやる」

 

 その言い方が妙に腹へ残った。

 ラウルの火は綺麗ではない。

 地面も風も敵の火も、自分の都合で乱暴にねじ曲げている。

 

 戦場を成立させるための火だ。

 

 地下へ入る直前、別班の横に若い男がいた。

 泥の前線に似合わないほど新しい胸甲。裾の長い上等な外套。若いくせに、鼻先だけはやけに高い。

 その後ろに、家付きらしい兵が二人ついている。

 

「あれ誰だ」

 

 シオンが囁くと、グレンが顔をしかめた。

 

「アルノー・フェルステル」

 

「知ってるんですか」

 

「知ってるも何も、王都じゃそこそこ有名だ。フェルステル伯の嫡男。学院に行く前に武勲が欲しい坊ちゃんだよ」

 

 その青年は、こちらに気づくとわざわざディーンの方へ顎を上げた。

 

「先に入るのはこっちだ」

 

 言い方だけは立派だった。

 

 ディーンは見向きもしない。

 

「死ぬな」

 

 それだけ言った。

 

 アルノーの顔が引きつったが、言い返す前に副官の声が飛ぶ。各班同時進入。合図は二回。退路崩壊時は独断後退可。

 

 階段は昨夜よりも狭かった。

 崩れた石の角が増え、灰が湿って重い。

 

 先頭はバルツ。

 その後ろをディーン、グレン、アーデル、リゼ、シオン。

 

 ニコの場所だけが、空いていた。

 誰もそこに触れなかった。

 

 降りるほどに、香の匂いが強くなる。

 花の匂いではない。

 焼いた灰へ無理に甘さを混ぜたような、妙に喉へ残る匂いだった。

 

「香炉列が近い」

 

 アーデルが言う。

 

「板は節約だ。支え以外で切るな」

 

 バルツは曲がり角ごとに壁の灰を指でこすり、匂いを嗅いで、進路を変えた。

 ニコは空気の動きと音を読んだが、バルツはもっと古いものを使う。灰の積もり方、靴裏の欠け、壁に擦れた金具の跡。

 

「右は新しい」

 

 振り返りもせず言う。

 

「左は今夜人が通ってない」

 

 それを聞いてシオンも足を止めた。

 右から熱が来る。

 しかも表の火ではなく、地下を這う種類の熱だ。

 

「右です」

 

 シオンも言った。

 

「生きてる」

 

 バルツが一度だけ頷く。

 

「じゃあ右だ」

 

 それだけで進路が決まる。

 正しいかどうかは後でしか分からない。

 前線では、それでも進まなければ終わる。

 

 灰の細道を二つ抜けたところで、前から声がした。

 

「こっちだ!」

 

 アルノーだった。

 

 別班のはずなのに、いつの間にか同じ通路へ入り込んでいた。後ろの家兵の一人が肩で息をしている。焦って道を変えたのだと見ただけで分かった。

 

「帝国兵だ、先に見つけた!」

 

 顔が赤い。

 武勲の熱だけで走ってきた顔だ。

 

「止まれ」

 

 ディーンが言う。

 

「前が熱い」

 

 だがアルノーは止まらない。

 

「熱いなら先に焼けばいい!」

 

 若い声が坑道へ響いた。

 

 アーデルが舌打ちした。

 

「馬鹿」

 

 アルノーは細い短杖を抜き、前方の灰溜まりへ火を放った。

 術としては大したものではない。

 だが狭い地下では十分すぎた。

 

 火が灰へ触れた瞬間、底の方で遅れて音が鳴った。

 

 シオンの背筋が凍る。

 

 灰の下に、熱が溜まっていた。

 古い導路の中へ香と火が回り、空気ごと煮えていたのだ。

 

「伏せろ!」

 

 ディーンが怒鳴るより早く、逆火が起きた。

 

 灰溜まりが噴いた。

 火の玉ではない。白く熱い息が、坑道いっぱいに吹き返した。

 

 アルノーの後ろにいた家兵が、喉を押さえたまま倒れる。

 もう一人は肩から先を焼かれ、壁へ激突して動かなくなる。

 

 アルノー自身は吹き飛ばされ、石床へ叩きつけられた。

 悲鳴も、次の瞬間には崩落音に呑まれた。

 

 天井の古い継ぎ目が一斉に鳴る。

 灰が落ちる。

 奥で香炉が倒れたらしく、甘い匂いが一気に濃くなる。

 

「板!」

 

 アーデルが叫ぶ。

 

 シオンは反射で板を差し出した。

 アーデルは二枚だけ切る。天井と右壁。最低限の支えしか作らない。

 それ以上やれば、自分たちの火でまた熱を起こすと分かっているからだ。

 

 バルツがアルノーの襟を掴んで引きずる。

 青年は生きていたが、右の頬が赤黒く焼け、目の焦点が合っていない。

 

「動けるか」

 

 ディーンが言う。

 

 アルノーは返事の代わりに吐いた。

 

 グレンが短く罵った。

 

「素人が穴の中に火を入れるなよ……!」

 

 その叫びには、怒りが色濃かった。

 

 前の通路は半分塞がった。

 だが、完全には死んでいない。

 

 シオンにはまだ分かった。

 熱は一箇所だけ、左下へ逃げている。

 つまり導路はそこで折れて、別の枝へ繋がっている。

 

「下だ」

 

 口が勝手に動いた。

 

「左の足元。石の継ぎ目の下」

 

 バルツがすぐにしゃがみ、灰を手で払う。

 古い排気格子が出た。半分焼け落ち、半分だけ生きている。

 

「抜ける」

 

 彼が言う。

 

 ディーンは一瞬だけ考え、すぐ決めた。

 

「アルノーは置いてく」

 

 家兵の生き残りが顔を上げた。

 

「待っ」

 

「死にたくなきゃ、こいつ連れて戻れ」

 

 ディーンはそれ以上言わなかった。

 救うでも見捨てるでもなく、選ばせた。

 

 シオンは、その判断の重さを考える前に格子の下へ身体を滑らせた。

 

 排気道は狭い。

 人が這って進むための道ではなく、煙のための喉だ。

 灰が肺へ入り、喉が焼ける。

 

 その先で、ようやく見えた。

 

 帝国の香炉列だ。

 

 主導路の分岐点へ向けて、三つの香炉が等間隔で置かれている。香はただ焚かれているのではない。床の割れ目へ落ち、熱と一緒に地下へ吸われていた。

 

「あれをずらす」

 

 アーデルが言う。

 

「一つでいい。列を曲げれば繋がらない。問題は、近づくと熱が走ることだ。香炉の周囲には目に見えない火が薄く張っている。板を切れば音と光で位置が割れる。槍で倒せば床ごと割れる」

 

 バルツが香炉の後ろを見た。

 

「吊り鎖がある」

 

 天井から、古い鐘索の残骸みたいな鎖が垂れている。

 今は香炉を固定するために流用されているらしい。

 

「上からずらせる」

 

 その一言で、動きが決まった。

 

 グレンが槍の石突きを裏返し、鎖へ引っかける。

 シオンはその鎖の根元へ熱が集まりすぎない位置を見て示す。

 アーデルが板を一枚だけ切り、火の膜を半息だけ痩せさせる。

 

 その半息に、グレンが全体重をかけた。

 

 香炉がずれた。

 

 床へ落ちなかった。

 だが一つ分、列が曲がる。

 

 次の瞬間、地下を走っていた熱が一箇所で噛み損ねた。

 遠くで黒杖杭が一本、鈍く鳴る。

 

 地上だ。

 ラウルがそこを見逃すはずがない。

 

 上から重い火の落ちる音がした。

 砲声が続く。

 人の悲鳴も混じる。

 だが今の一撃は、王国側のものだった。

 

 ディーンが短く言う。

 

「戻るぞ」

 

 完全勝利ではない。

 中枢を取ったわけでもない。

 ただ敵の列を一つ曲げ、上に渡す時間を作っただけだ。

 

 それでも、やる意味のある仕事だった。

 

 地上へ戻ると、西壁前の火の色が少し変わっていた。

 帝国側の青黒い筋が一つ痩せ、王国側砲列が息を吹き返している。

 

 ラウルはまだ前にいた。

 白灰の外套は煤と泥で汚れ、頬に浅い裂け傷まで入っている。

 それでも彼は立ったまま、西壁の火を押し返していた。

 

 シオンはそこで、ようやく少しだけ分かった。

 

 この人は強いから前にいるんじゃない。

 前に立って条件を変えなければ、後ろの誰も仕事ができないから前にいる。

 

 それが主力級魔導師なのだ。

 

 ガーヴェントは夜更け、再び戻った班を並ばせた。

 

 アルノーは担架の上で半分気を失っている。右の頬から耳にかけてひどい火傷だった。家兵は一人しか戻っていない。

 

 辺境伯はその損耗に眉ひとつ動かさなかった。

 

「帝国は導路を落とす気ではない」

 

 ディーンが報告する。

 

「中枢へ繋ぐために香炉列を伸ばしている」

 

「分かった」

 

 ガーヴェントは短く言った。

 

「次に黒衣の姫を見たら、捕えるな」

 

 そこで一拍置く。

 

「殺せ」

 

 壕の空気が、一段冷えた。

 

 グレンが顔を上げる。

 アーデルは何も言わない。

 バルツも表情を変えない。

 

 シオンだけが、息を忘れた。

 

 捕えるな、ではなく、殺せ。

 講和札としてではない。

 秘密を持った証人としてもいらない。

 存在ごと消せという命令だった。

 

 ガーヴェントにとって、あの王女はもう戦争を邪魔する部品に過ぎない。

 

 辺境伯が去ってから、ようやく夜の音が戻った。

 工兵の槌音。

 遠い砲声。

 火の揺れる音。

 

 リゼはニコの記録板を抱えたまま、まだ離さない。

 グレンは壕の縁へ腰を下ろし、焼けたアルノーを一度だけ見てから、闇へ目を向けた。

 

「姫を殺せ、か」

 

 声が乾いていた。

 

「簡単に言うよな」

 

 ディーンは答えなかった。

 答えられないのではない。

 答えを知っていても、今は言わない顔だった。

 

 アーデルが板束を膝へ置いたまま言う。

 

「そういう仕事だ」

 

 それだけだった。

 

 シオンは西壁の方を見た。

 夜の向こうで、まだ白灰の火幕が揺れている。

 その向こうに、セラフィナがいる。

 

 ニコを殺した相手だ。

 敵だ。

 次に会えば、こちらも殺しに行かなければならない。

 

 そう思うたび、胸の奥が冷えた。

 

 だが同時に、別の感情も消えない。

 あの黒衣の姫が死ねば、地下のもっと奥に沈んでいる何かも、一緒に闇へ落ちる気がしてならなかった。

 

 ニコを殺した相手を生かしたいと思う。

 その最悪さを、シオンはもう自分で分かっていた。

 

 西壁の下では、まだ熱が生きている。

 地上では火がぶつかり、地下では香が這い、どちらも相手の喉へ届こうとしている。

 

 その夜、戦争はまた一段深くなった。

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