灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
ニコを弔う時間は、与えられなかった。
夜が明けきる前に地下から這い上がり、朝のうちにガーヴェントへ報告し、その日の昼にはもう西壁の前面が別の顔へ変わっていた。
壕の上に運び込まれるのは糧食ではない。
黒鉄の杭。
香炉。
白灰袋。
長い鎖。
巻いた銅線。
工兵用の大槌。
どれも、昨日までの前線にはなかった荷だ。
ニコの革帯は、リゼが持っていた。
血の乾いた記録板は、アーデルが布に包んで脇へ置いていた。
誰もそれに触れないまま、別の仕事が先に始まる。
戦場は、死者を待たない。
「集まれ」
ガーヴェントの声で、前線の将校と下士官が西壁寄りの壕へ集められた。
泥の上へ板が渡され、その上に修道院地下の簡略図が炭で引かれている。
線は三本。
太い一本が、西壁の真下を走る古い主導路。
そこから脇へ枝のように伸びる灰炉導路。
さらに後から軍が穿ったらしい細い排気坑。
辺境伯の隣には、工兵頭の老人がいた。痩せた喉がひどく上下している。夜通し掘っていた顔だった。
「ここが主導路」
老人の指が、西壁の下をなぞる。
「元は修道院の灰炉の喉です。遺体を焼いた熱と煙を抜くための道だった。戦のたびに増築され、砲座の乾燥坑、排気坑、壁の水抜きまで後から噛まされておる」
炭の先が、王国側の砲座位置を叩いた。
「ここを雑に落とせば、先に潰れるのは敵ではない。こちらの西砲列、壁の基礎、退避坑だ」
別の箇所を叩く。
「帝国もそれを知っておる。ゆえに壊しには来ん。喉を握って、壁ごと魔導台に変えるつもりです」
そこまで聞いて、シオンにもようやく意味が通った。
地下の導路を奪われるというのは、ただ穴を取られることではない。
壁そのものが、敵の術式の土台になるということだ。
「では、どうする」
ガーヴェントは問いではなく、言葉を先へ促しただけだった。
工兵頭は炭の線の右端を指した。
「中枢はここです。主導路と枝導路の結び目。だが、そこへ真っ直ぐは行けん。帝国は昨夜のうちに黒杖杭と香炉列を据え始めておる」
今度はラウルが言った。
「上で火をずらす」
短い。
だが、それだけで工兵頭はうなずいた。
「数十息でいい。西壁前の火筋をねじってもらえれば、杭打ちと差し替えができる」
シオンは、思わずラウルを見た。
宮廷第三魔導師は、昨日と同じ白灰の外套をまとっていた。外套の裾には新しい焼けがついている。指先は真っ白だ。
主力級魔導師とは、前線の後ろで命令する人間ではない。
工兵が大槌を振るう数十息を、火で無理やり作る人間だ。
「地下は」
ガーヴェントが視線を落とした。
「複数班を入れる。昨夜と同じだ」
辺境伯の指先が、三つの入口へ順に落ちた。
「正面の崩れ口、北納骨堂、灰炉脇の細道。どこか一つでも先に通ればいい」
その言い方に、ディーンの横顔がわずかに固くなった。
どの班が先に通ってもいいということは、どの班が潰れても構わないということでもある。
「第三中隊ディーン班」
副官が名を読み上げる。
「西回廊崩れ口。工兵補助と導路確認」
やはり昨夜と同じ入口だった。
だが、昨夜と同じではない。
今夜は地下そのものが主戦場になる。
解散の前に、グレンがニコの記録板へ目をやった。
「これ、どうする」
リゼは抱えたまま答えた。
「持っていく」
「下に?」
「置いていくよりまし」
それで終わりだった。
誰も、もっとましな答えを知らなかった。
夕方から空の色が変わった。
西壁の向こうに沈んだ陽のあとへ、火だけが残る。
帝国は早い。
砲を撃つ前に、黒杖杭を進める。
王国側の壕から見ると、それは兵器というより、墓標を並べているように見えた。黒鉄の細い杭が、西壁前の泥へ一本ずつ打ち込まれていく。その間へ香炉が据えられ、青黒い煙が細く立つ。
「来るぞ」
バルツが言った。
それと同時に、ラウルが前へ出た。
護衛も副官も止めない。
止める権利がないのだと、その動きだけで分かる。
白灰の外套が、夜の壕でやけに白く見えた。
ラウルは西壁へ向けて手杖を上げるでもなく、空を見た。
詠唱は低く、短かった。
次の瞬間、修道院前面の空気が一度だけ歪んだ。
火が消えるのではない。
火の走る角度だけが、ほんのわずかに曲がる。
帝国側から撃ち込まれた火筋が、王国側砲座を直撃する寸前で、上へ逸れた。
その一瞬へ工兵が飛び込む。
大槌が振られ、白杭が打ち込まれ、結界兵が板を差し替え、砲兵が砲座をずらす。
数十息。
本当にそれだけだった。
だが、その数十息がなければ、誰も何もできない。
グレンが息を呑んだまま言った。
「見世物じゃないな、ありゃ」
「当たり前だ」
アーデルは板束を抱え直しながら吐き捨てた。
「見世物なら、もう少し綺麗にやる」
その言い方が妙に腹へ残った。
ラウルの火は綺麗ではない。
地面も風も敵の火も、自分の都合で乱暴にねじ曲げている。
戦場を成立させるための火だ。
地下へ入る直前、別班の横に若い男がいた。
泥の前線に似合わないほど新しい胸甲。裾の長い上等な外套。若いくせに、鼻先だけはやけに高い。
その後ろに、家付きらしい兵が二人ついている。
「あれ誰だ」
シオンが囁くと、グレンが顔をしかめた。
「アルノー・フェルステル」
「知ってるんですか」
「知ってるも何も、王都じゃそこそこ有名だ。フェルステル伯の嫡男。学院に行く前に武勲が欲しい坊ちゃんだよ」
その青年は、こちらに気づくとわざわざディーンの方へ顎を上げた。
「先に入るのはこっちだ」
言い方だけは立派だった。
ディーンは見向きもしない。
「死ぬな」
それだけ言った。
アルノーの顔が引きつったが、言い返す前に副官の声が飛ぶ。各班同時進入。合図は二回。退路崩壊時は独断後退可。
階段は昨夜よりも狭かった。
崩れた石の角が増え、灰が湿って重い。
先頭はバルツ。
その後ろをディーン、グレン、アーデル、リゼ、シオン。
ニコの場所だけが、空いていた。
誰もそこに触れなかった。
降りるほどに、香の匂いが強くなる。
花の匂いではない。
焼いた灰へ無理に甘さを混ぜたような、妙に喉へ残る匂いだった。
「香炉列が近い」
アーデルが言う。
「板は節約だ。支え以外で切るな」
バルツは曲がり角ごとに壁の灰を指でこすり、匂いを嗅いで、進路を変えた。
ニコは空気の動きと音を読んだが、バルツはもっと古いものを使う。灰の積もり方、靴裏の欠け、壁に擦れた金具の跡。
「右は新しい」
振り返りもせず言う。
「左は今夜人が通ってない」
それを聞いてシオンも足を止めた。
右から熱が来る。
しかも表の火ではなく、地下を這う種類の熱だ。
「右です」
シオンも言った。
「生きてる」
バルツが一度だけ頷く。
「じゃあ右だ」
それだけで進路が決まる。
正しいかどうかは後でしか分からない。
前線では、それでも進まなければ終わる。
灰の細道を二つ抜けたところで、前から声がした。
「こっちだ!」
アルノーだった。
別班のはずなのに、いつの間にか同じ通路へ入り込んでいた。後ろの家兵の一人が肩で息をしている。焦って道を変えたのだと見ただけで分かった。
「帝国兵だ、先に見つけた!」
顔が赤い。
武勲の熱だけで走ってきた顔だ。
「止まれ」
ディーンが言う。
「前が熱い」
だがアルノーは止まらない。
「熱いなら先に焼けばいい!」
若い声が坑道へ響いた。
アーデルが舌打ちした。
「馬鹿」
アルノーは細い短杖を抜き、前方の灰溜まりへ火を放った。
術としては大したものではない。
だが狭い地下では十分すぎた。
火が灰へ触れた瞬間、底の方で遅れて音が鳴った。
シオンの背筋が凍る。
灰の下に、熱が溜まっていた。
古い導路の中へ香と火が回り、空気ごと煮えていたのだ。
「伏せろ!」
ディーンが怒鳴るより早く、逆火が起きた。
灰溜まりが噴いた。
火の玉ではない。白く熱い息が、坑道いっぱいに吹き返した。
アルノーの後ろにいた家兵が、喉を押さえたまま倒れる。
もう一人は肩から先を焼かれ、壁へ激突して動かなくなる。
アルノー自身は吹き飛ばされ、石床へ叩きつけられた。
悲鳴も、次の瞬間には崩落音に呑まれた。
天井の古い継ぎ目が一斉に鳴る。
灰が落ちる。
奥で香炉が倒れたらしく、甘い匂いが一気に濃くなる。
「板!」
アーデルが叫ぶ。
シオンは反射で板を差し出した。
アーデルは二枚だけ切る。天井と右壁。最低限の支えしか作らない。
それ以上やれば、自分たちの火でまた熱を起こすと分かっているからだ。
バルツがアルノーの襟を掴んで引きずる。
青年は生きていたが、右の頬が赤黒く焼け、目の焦点が合っていない。
「動けるか」
ディーンが言う。
アルノーは返事の代わりに吐いた。
グレンが短く罵った。
「素人が穴の中に火を入れるなよ……!」
その叫びには、怒りが色濃かった。
前の通路は半分塞がった。
だが、完全には死んでいない。
シオンにはまだ分かった。
熱は一箇所だけ、左下へ逃げている。
つまり導路はそこで折れて、別の枝へ繋がっている。
「下だ」
口が勝手に動いた。
「左の足元。石の継ぎ目の下」
バルツがすぐにしゃがみ、灰を手で払う。
古い排気格子が出た。半分焼け落ち、半分だけ生きている。
「抜ける」
彼が言う。
ディーンは一瞬だけ考え、すぐ決めた。
「アルノーは置いてく」
家兵の生き残りが顔を上げた。
「待っ」
「死にたくなきゃ、こいつ連れて戻れ」
ディーンはそれ以上言わなかった。
救うでも見捨てるでもなく、選ばせた。
シオンは、その判断の重さを考える前に格子の下へ身体を滑らせた。
排気道は狭い。
人が這って進むための道ではなく、煙のための喉だ。
灰が肺へ入り、喉が焼ける。
その先で、ようやく見えた。
帝国の香炉列だ。
主導路の分岐点へ向けて、三つの香炉が等間隔で置かれている。香はただ焚かれているのではない。床の割れ目へ落ち、熱と一緒に地下へ吸われていた。
「あれをずらす」
アーデルが言う。
「一つでいい。列を曲げれば繋がらない。問題は、近づくと熱が走ることだ。香炉の周囲には目に見えない火が薄く張っている。板を切れば音と光で位置が割れる。槍で倒せば床ごと割れる」
バルツが香炉の後ろを見た。
「吊り鎖がある」
天井から、古い鐘索の残骸みたいな鎖が垂れている。
今は香炉を固定するために流用されているらしい。
「上からずらせる」
その一言で、動きが決まった。
グレンが槍の石突きを裏返し、鎖へ引っかける。
シオンはその鎖の根元へ熱が集まりすぎない位置を見て示す。
アーデルが板を一枚だけ切り、火の膜を半息だけ痩せさせる。
その半息に、グレンが全体重をかけた。
香炉がずれた。
床へ落ちなかった。
だが一つ分、列が曲がる。
次の瞬間、地下を走っていた熱が一箇所で噛み損ねた。
遠くで黒杖杭が一本、鈍く鳴る。
地上だ。
ラウルがそこを見逃すはずがない。
上から重い火の落ちる音がした。
砲声が続く。
人の悲鳴も混じる。
だが今の一撃は、王国側のものだった。
ディーンが短く言う。
「戻るぞ」
完全勝利ではない。
中枢を取ったわけでもない。
ただ敵の列を一つ曲げ、上に渡す時間を作っただけだ。
それでも、やる意味のある仕事だった。
地上へ戻ると、西壁前の火の色が少し変わっていた。
帝国側の青黒い筋が一つ痩せ、王国側砲列が息を吹き返している。
ラウルはまだ前にいた。
白灰の外套は煤と泥で汚れ、頬に浅い裂け傷まで入っている。
それでも彼は立ったまま、西壁の火を押し返していた。
シオンはそこで、ようやく少しだけ分かった。
この人は強いから前にいるんじゃない。
前に立って条件を変えなければ、後ろの誰も仕事ができないから前にいる。
それが主力級魔導師なのだ。
ガーヴェントは夜更け、再び戻った班を並ばせた。
アルノーは担架の上で半分気を失っている。右の頬から耳にかけてひどい火傷だった。家兵は一人しか戻っていない。
辺境伯はその損耗に眉ひとつ動かさなかった。
「帝国は導路を落とす気ではない」
ディーンが報告する。
「中枢へ繋ぐために香炉列を伸ばしている」
「分かった」
ガーヴェントは短く言った。
「次に黒衣の姫を見たら、捕えるな」
そこで一拍置く。
「殺せ」
壕の空気が、一段冷えた。
グレンが顔を上げる。
アーデルは何も言わない。
バルツも表情を変えない。
シオンだけが、息を忘れた。
捕えるな、ではなく、殺せ。
講和札としてではない。
秘密を持った証人としてもいらない。
存在ごと消せという命令だった。
ガーヴェントにとって、あの王女はもう戦争を邪魔する部品に過ぎない。
辺境伯が去ってから、ようやく夜の音が戻った。
工兵の槌音。
遠い砲声。
火の揺れる音。
リゼはニコの記録板を抱えたまま、まだ離さない。
グレンは壕の縁へ腰を下ろし、焼けたアルノーを一度だけ見てから、闇へ目を向けた。
「姫を殺せ、か」
声が乾いていた。
「簡単に言うよな」
ディーンは答えなかった。
答えられないのではない。
答えを知っていても、今は言わない顔だった。
アーデルが板束を膝へ置いたまま言う。
「そういう仕事だ」
それだけだった。
シオンは西壁の方を見た。
夜の向こうで、まだ白灰の火幕が揺れている。
その向こうに、セラフィナがいる。
ニコを殺した相手だ。
敵だ。
次に会えば、こちらも殺しに行かなければならない。
そう思うたび、胸の奥が冷えた。
だが同時に、別の感情も消えない。
あの黒衣の姫が死ねば、地下のもっと奥に沈んでいる何かも、一緒に闇へ落ちる気がしてならなかった。
ニコを殺した相手を生かしたいと思う。
その最悪さを、シオンはもう自分で分かっていた。
西壁の下では、まだ熱が生きている。
地上では火がぶつかり、地下では香が這い、どちらも相手の喉へ届こうとしている。
その夜、戦争はまた一段深くなった。