灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
朝になっても、果樹園は勝利の証には見えなかった。
黒く裂けた幹のあいだから白い煙が細く上がり、焼け落ちた果実には夜の露が降りていた。踏み潰された実は泥の中で半ば溶け、赤黒い汁をにじませている。夜のあいだに積まれた死体は運び出されていたが、すべてではなかった。取り残されたものがまだところどころにあり、そこへ朝の光が当たると、かえって輪郭だけがはっきりした。
シオンは、まだ薄暗いうちから起こされた。
眠った覚えはほとんどない。壕の壁へ背を預けたまま、いつの間にか目を閉じていただけだった。手の中には、夜の終わりまで握っていたトーマの名札の感触が残っている。掌の皮膚に食い込んだ跡が、朝になってもうっすら赤かった。
「起きろ」
ディーン伍長の声だった。
シオンが顔を上げると、伍長はもう鎧の留め具を締め終えていた。いつもの外套は血と泥で固まり、昨日より少しだけ色が濃く見える。寝ていないのは、たぶん自分だけではない。
「顔を洗え。飲めるだけ飲んどけ。十分で出る」
「……どこへ」
訊いたあとで、自分の声がやけに掠れていることに気づいた。
ディーンは壕の外を顎で示した。
「拾いに行く」
それで分かった。
壕の外、焼けた果樹園の向こうには、まだ夜のうちに回収しきれなかった負傷兵が残っている。敵の観測が甘くなる夜のうちに運べるだけ運んだが、砲火が止まなかったせいで、中腹の石垣より先はほとんど手がつけられていない。呻き声だけが、ときおり風に乗って戻ってきていた。
オットーが大鍋の底を削るようにして薄い粥を配っていた。昨日よりさらに水っぽい。けれど温かいだけで胃が動く。
「食えるか」
そう言って木椀を差し出してきた手には、火傷の跡が増えていた。
シオンは椀を受け取った。
「はい」
「吐くなよ。今日は腹の中に入ってるもんがある方が得だ」
オットーの声は普段通りだったが、鍋の底を掬う手つきだけが少し荒かった。壕の隅には毛布を被せられた荷が三つ並んでいる。昨夜まではそこに人がいたのだろう。
少し離れたところで、グレンが担架の布を引っ張って傷みを確かめていた。
「そっちは切れてる。ヘルム、こっち持て」
呼ばれた若い兵が、眠たげな顔のまま担架の端を受け取る。昨日の突撃ではシオンの少し後ろを走っていたはずだ。鼻の頭にそばかすがあり、まだ声変わりの名残があるくらい若い。
「どうせなら勝ったあとくらい寝かせてほしいんすけど」
「勝ったから行くんだよ」
グレンは布のたるみを直しながら笑った。
「負けてたら、拾いに出ることすらできねぇんだ」
その横で、アーデルは革袋から刻印板を抜き出して並べている。盾代わりの短い防壁式に使うものばかりだ。火力用の長板は持っていかないらしい。
リゼはすでに記録板へ何かを書き込んでいた。目の下に青い隈が浮いているくせに、指先だけは迷いがない。
「日が完全に上がる前に二往復。三往復目は敵の観測が入る」
「根拠」
ディーンが短く返す。
「昨日の午前、敵の南砲座は日の出から四半刻遅れで修正を始めてる。今日は霧が薄いから、もっと早いかもしれないけど遅くはならない」
「よし」
それだけで話は終わった。
シオンは粥を飲み込みながら、そのやりとりを見ていた。昨日は分からなかったが、リゼはただ数字が好きなわけではないらしい。数字の向こうにある砲火や死を、彼女なりに扱える形へ直しているのだ。
斥候のニコが壕の縁から戻ってきた。片目の下に朝露がついている。
「林の奥に二。動いてない。見張りか、回収待ちかは分からん」
「近いか」
「近づけば矢は届く」
ディーンはうなずき、視線だけで人を振り分けた。
「俺、グレン、シオン、ヘルム、リゼ。まず中腹まで。アーデルは石垣で張れ。ニコ、林見ろ。オットーは戻った奴から飲ませろ」
シオンは木椀を返し、担架の片側を持たされた。
布越しに朝の冷えが手へ移る。
「昨日取った場所だと思うな」
出る前に、ディーンが言った。
「勝ったあとがいちばん死ぬ。忘れるな」
壕を出ると、果樹園の臭いがまた身体の中へ入ってきた。
昨日より静かだった。静かなのに、余計に耳に痛い。鳥は鳴かず、風が焼けた枝を鳴らす音と、遠くの呻き声だけがする。
足元の泥は一晩で少し締まっていたが、そのぶん踏んだ感触がはっきり残る。実の皮が潰れる感触と、もっと嫌な何かが混じっている気がして、シオンは考えないように前だけを見た。
最初に見つけたのは、自軍の若い弓兵だった。片脚を石垣に挟まれ、顔を土へ押しつけたままかすかに呼吸している。
「生きてる」
ヘルムがしゃがみ込んで叫ぶ。
ディーンは脚を見て、石の位置を見て、それから言った。
「抜くぞ。シオン、布。グレン、肩を持て」
シオンは慌てて包帯布を差し出した。グレンが弓兵の肩を支え、ディーンが石をずらす。脚の下半分はすでに紫に膨れ、骨の形が皮膚の上から歪んで見えた。
弓兵が息を吸い、喉を潰したような声を漏らす。
「まだ戻せる」
そう言ったのは、たぶんディーンではなく、自分自身に向けてだったのだろう。
担架へ乗せると、弓兵の指がシオンの袖を掴んだ。
「置いて……いくな」
「置いていかない」
反射みたいにそう答えた瞬間、グレンが横目だけでシオンを見た。何か言うかと思ったが、何も言わなかった。
一本目の担架を送り返し、二本目でさらに前へ出る。
石垣を越えたあたりから、死体の向きが変わった。昨日は走り抜けるだけだった場所を、今日は顔を見ながら歩かされる。
王国軍の紋章。敵軍の黒獅子。焼けた布。泥の詰まった口。指輪だけが綺麗な手。
シオンの視界へ、どうしても昨日のトーマの顔が重なった。
「止まるな」
小さく言ったのはリゼだった。彼女は前を見たまま、視線だけでシオンの足の鈍りに気づいていたらしい。
「次の砲が来る前に拾えるだけ拾う」
「……分かってる」
「分かってない顔してる」
そう返されても、腹は立たなかった。昨日よりは、少しだけ。
中腹の焼けた樹の根元で、二人目が見つかった。
自軍の術兵だった。腹を裂かれ、指先が土を掻いた跡が長く残っている。顔色は悪いが、まだ目が動く。
アーデルの方を振り返ると、石垣の上から短杖が上がり、短い防壁が一瞬だけ張られた。光の幕はすぐ消える。維持する魔力が惜しいのだろう。
「乗せろ」
ディーンの声で、担架が沈む。
そのとき、少し離れた木の根元から、掠れた声がした。
「……みず」
シオンは反射的にそちらを見た。
敵兵だった。
黒獅子の紋章。まだ年若い。腹のあたりがひどく血に濡れている。片手をこちらへ伸ばして、ひび割れた唇だけが動いていた。
「みず……」
声は、もうほとんど風みたいだった。
シオンの足が止まった。
自分と大して歳の変わらない顔だった。髪の色も、痩せた頬の骨ばり方も、孤児院にいた頃の誰かと似て見えた。
昨日、自分が見た敵兵の死に顔より、ずっと近い。
「シオン」
ディーンが呼んだ。
だがシオンは、一歩だけそちらへ寄ってしまった。
水筒の口に手がかかる。
「そっちは後だ!」
グレンの声が飛んだのと、同時だった。
木の陰に転がっていた死体が、死体ではなかった。
泥を被ったまま起き上がり、短い刃をヘルムの脇腹へ突き込む。
ヘルムは、驚いたような顔で口を開けた。
声になる前に、ディーンの剣がその敵兵の首を斜めに払った。
血が、朝の湿った空気へ散る。
「担架を捨てるな!」
ディーンの怒鳴り声で、シオンはやっと身体が動いた。ヘルムが膝をつき、担架の片側が泥へ落ちかける。グレンが片手でそれを支え、もう片手でヘルムの傷口を押さえた。
「布! 早く!」
シオンは包帯布を引き抜き、差し出す。指が震えてうまく掴めない。グレンが舌打ちして自分で奪い取った。
「見ろ、手ぇ動かせ!」
ヘルムの脇腹からは、温かい血が信じられない勢いで溢れていた。敵兵の刃は鎧の継ぎ目を正確に通している。
リゼが、いつの間にか敵の林を見ていた。
「嫌な予感がする。急いだほうがいい」
「分かってる」
ディーンはヘルムの肩を担ぎ上げ、グレンが反対側へ入る。
術兵の担架は捨てられない。ヘルムも置いていけない。
シオンは呆然としたまま、水を求めた敵兵の方を見た。
彼はまだ手を伸ばしている。だがその目はもう焦点が合っていない。
「行くぞ!」
ディーンに腕を引かれ、シオンは前へのめった。
帰り道の記憶は、昨日の戦闘よりさらに曖昧だった。
石垣。泥。血。
ヘルムの息。
担架の軋み。
遠くで弾ける砲声。
壕まで戻ったとき、オットーが最初に担架へ飛びついた。弓兵と術兵はすぐ後送へ回される。ヘルムはその場でアーデルに押さえられた。
「押さえて」
アーデルの声は冷静だったが、額には汗が浮いていた。
グレンが布を押し込み、シオンも言われるまま手を重ねる。傷口の熱が掌へ伝わる。熱いのに、ヘルムの顔は青かった。
「……いてえ」
それが最初の言葉だった。
次に、彼はおかしそうに笑った。
「りんご……食う前に……死ぬかも」
オットーが怒鳴る。
「死ぬ前提で喋るな、馬鹿」
「だって……」
ヘルムは言いかけて、咳き込んだ。血が泡になって口端へ滲む。
アーデルの手がさらに深く傷へ入る。シオンは目を逸らしかけ、すぐに止めた。逸らすな、と昨日から何度も言われている。
「見てろ」
アーデルが低く言った。
「見ないと次の時に手が遅れる」
その通りだった。
だからシオンは、ヘルムの顔を見た。
怖がっていた。ちゃんと。
さっきまで軽口を叩いていた若い兵が、自分の腹の中に手を入れられながら、子供みたいに息を詰めている。
「助かる?」
シオンは、自分でも驚くほど小さい声で訊いた。
グレンが答えなかった代わりに、アーデルが言った。
「分からない」
それは希望でも絶望でもない、現場の返事だった。
結局、ヘルムは死ななかった。
少なくとも、その場では。
アーデルが傷を塞ぎ、オットーが担架へ乗せ、後送の列へ押し込んだ。顔色は死人みたいだったが、まだ呼吸はある。壕の角を曲がるまで、シオンはそれを見送った。
見えなくなってから、やっとディーンが振り向いた。
「何をした」
怒鳴り声ではなかった。
それがかえって怖かった。
シオンは喉を鳴らした。
「……敵兵が、水を」
「訊いてない」
ディーンの声が一段低くなる。
「お前が何を見て、何を忘れた」
シオンは言葉に詰まった。
敵兵が若かったこと。
自分と歳が近かったこと。
あのまま置いていくのが、ひどく人でなしに思えたこと。
でも、そのあいだにヘルムが刺された。
「周りを、見てませんでした」
やっと言うと、ディーンは一度だけうなずいた。
「そうだ」
それだけだった。
ディーンの握りこぶしが、一発、シオンの頬に激しく入れられる。
グレンが濡れた手を軍衣で拭きながら、横から口を挟んだ。
「お前が悪人だったら簡単なんだけどな」
倒れ伏したシオンは顔を上げられなかった。
「悪人じゃないから止まった。分かるよ。俺だって初めてはそうだった」
そこでグレンは、少しだけ笑うのをやめた。
「でも、そこで止まると、今度は隣の奴が死ぬ」
壕の外から、また呻き声が風に乗ってきた。
まだ拾い切れていない者がいる。
リゼが記録板を見ながら言った。
「二往復目、行ける」
ディーンは短く息を吐いた。
「行く」
シオンは思わず顔を上げた。
「おれも、ですか」
「お前は行かないと、次も同じことをやる」
ディーンはそれだけ言って剣の血を拭った。
「英雄になんてならなくていいんだ。生き残る側へ回れ」
その言葉の意味は、まだ全部は分からなかった。
ただ、さっき果樹園で水を求めていた敵兵の目と、血を吐きながら笑ったヘルムの顔が、どちらも頭から離れなかった。
壕の外では、焼けた果実の臭いがまだしている。
王国軍はあの果樹園を勝利の証と呼ぶ。
シオンにとっては、誰を先に拾うかを間違えれば、すぐに別の誰かが死ぬ場所でしかなかった。
それでも、次の担架はもう用意されていた。