灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第2話 生き残る側

 朝になっても、果樹園は勝利の証には見えなかった。

 

 黒く裂けた幹のあいだから白い煙が細く上がり、焼け落ちた果実には夜の露が降りていた。踏み潰された実は泥の中で半ば溶け、赤黒い汁をにじませている。夜のあいだに積まれた死体は運び出されていたが、すべてではなかった。取り残されたものがまだところどころにあり、そこへ朝の光が当たると、かえって輪郭だけがはっきりした。

 

 シオンは、まだ薄暗いうちから起こされた。

 

 眠った覚えはほとんどない。壕の壁へ背を預けたまま、いつの間にか目を閉じていただけだった。手の中には、夜の終わりまで握っていたトーマの名札の感触が残っている。掌の皮膚に食い込んだ跡が、朝になってもうっすら赤かった。

 

「起きろ」

 

 ディーン伍長の声だった。

 

 シオンが顔を上げると、伍長はもう鎧の留め具を締め終えていた。いつもの外套は血と泥で固まり、昨日より少しだけ色が濃く見える。寝ていないのは、たぶん自分だけではない。

 

「顔を洗え。飲めるだけ飲んどけ。十分で出る」

 

「……どこへ」

 

 訊いたあとで、自分の声がやけに掠れていることに気づいた。

 

 ディーンは壕の外を顎で示した。

 

「拾いに行く」

 

 それで分かった。

 

 壕の外、焼けた果樹園の向こうには、まだ夜のうちに回収しきれなかった負傷兵が残っている。敵の観測が甘くなる夜のうちに運べるだけ運んだが、砲火が止まなかったせいで、中腹の石垣より先はほとんど手がつけられていない。呻き声だけが、ときおり風に乗って戻ってきていた。

 

 オットーが大鍋の底を削るようにして薄い粥を配っていた。昨日よりさらに水っぽい。けれど温かいだけで胃が動く。

 

「食えるか」

 

 そう言って木椀を差し出してきた手には、火傷の跡が増えていた。

 

 シオンは椀を受け取った。

 

「はい」

 

「吐くなよ。今日は腹の中に入ってるもんがある方が得だ」

 

 オットーの声は普段通りだったが、鍋の底を掬う手つきだけが少し荒かった。壕の隅には毛布を被せられた荷が三つ並んでいる。昨夜まではそこに人がいたのだろう。

 

 少し離れたところで、グレンが担架の布を引っ張って傷みを確かめていた。

 

「そっちは切れてる。ヘルム、こっち持て」

 

 呼ばれた若い兵が、眠たげな顔のまま担架の端を受け取る。昨日の突撃ではシオンの少し後ろを走っていたはずだ。鼻の頭にそばかすがあり、まだ声変わりの名残があるくらい若い。

 

「どうせなら勝ったあとくらい寝かせてほしいんすけど」

 

「勝ったから行くんだよ」

 

 グレンは布のたるみを直しながら笑った。

 

「負けてたら、拾いに出ることすらできねぇんだ」

 

 その横で、アーデルは革袋から刻印板を抜き出して並べている。盾代わりの短い防壁式に使うものばかりだ。火力用の長板は持っていかないらしい。

 

 リゼはすでに記録板へ何かを書き込んでいた。目の下に青い隈が浮いているくせに、指先だけは迷いがない。

 

「日が完全に上がる前に二往復。三往復目は敵の観測が入る」

 

「根拠」

 

 ディーンが短く返す。

 

「昨日の午前、敵の南砲座は日の出から四半刻遅れで修正を始めてる。今日は霧が薄いから、もっと早いかもしれないけど遅くはならない」

 

「よし」

 

 それだけで話は終わった。

 

 シオンは粥を飲み込みながら、そのやりとりを見ていた。昨日は分からなかったが、リゼはただ数字が好きなわけではないらしい。数字の向こうにある砲火や死を、彼女なりに扱える形へ直しているのだ。

 

 斥候のニコが壕の縁から戻ってきた。片目の下に朝露がついている。

 

「林の奥に二。動いてない。見張りか、回収待ちかは分からん」

 

「近いか」

 

「近づけば矢は届く」

 

 ディーンはうなずき、視線だけで人を振り分けた。

 

「俺、グレン、シオン、ヘルム、リゼ。まず中腹まで。アーデルは石垣で張れ。ニコ、林見ろ。オットーは戻った奴から飲ませろ」

 

 シオンは木椀を返し、担架の片側を持たされた。

 

 布越しに朝の冷えが手へ移る。

 

「昨日取った場所だと思うな」

 

 出る前に、ディーンが言った。

 

「勝ったあとがいちばん死ぬ。忘れるな」

 

 壕を出ると、果樹園の臭いがまた身体の中へ入ってきた。

 

 昨日より静かだった。静かなのに、余計に耳に痛い。鳥は鳴かず、風が焼けた枝を鳴らす音と、遠くの呻き声だけがする。

 

 足元の泥は一晩で少し締まっていたが、そのぶん踏んだ感触がはっきり残る。実の皮が潰れる感触と、もっと嫌な何かが混じっている気がして、シオンは考えないように前だけを見た。

 

 最初に見つけたのは、自軍の若い弓兵だった。片脚を石垣に挟まれ、顔を土へ押しつけたままかすかに呼吸している。

 

「生きてる」

 

 ヘルムがしゃがみ込んで叫ぶ。

 

 ディーンは脚を見て、石の位置を見て、それから言った。

 

「抜くぞ。シオン、布。グレン、肩を持て」

 

 シオンは慌てて包帯布を差し出した。グレンが弓兵の肩を支え、ディーンが石をずらす。脚の下半分はすでに紫に膨れ、骨の形が皮膚の上から歪んで見えた。

 

 弓兵が息を吸い、喉を潰したような声を漏らす。

 

「まだ戻せる」

 

 そう言ったのは、たぶんディーンではなく、自分自身に向けてだったのだろう。

 

 担架へ乗せると、弓兵の指がシオンの袖を掴んだ。

 

「置いて……いくな」

 

「置いていかない」

 

 反射みたいにそう答えた瞬間、グレンが横目だけでシオンを見た。何か言うかと思ったが、何も言わなかった。

 

 一本目の担架を送り返し、二本目でさらに前へ出る。

 

 石垣を越えたあたりから、死体の向きが変わった。昨日は走り抜けるだけだった場所を、今日は顔を見ながら歩かされる。

 

 王国軍の紋章。敵軍の黒獅子。焼けた布。泥の詰まった口。指輪だけが綺麗な手。

 

 シオンの視界へ、どうしても昨日のトーマの顔が重なった。

 

「止まるな」

 

 小さく言ったのはリゼだった。彼女は前を見たまま、視線だけでシオンの足の鈍りに気づいていたらしい。

 

「次の砲が来る前に拾えるだけ拾う」

 

「……分かってる」

 

「分かってない顔してる」

 

 そう返されても、腹は立たなかった。昨日よりは、少しだけ。

 

 中腹の焼けた樹の根元で、二人目が見つかった。

 自軍の術兵だった。腹を裂かれ、指先が土を掻いた跡が長く残っている。顔色は悪いが、まだ目が動く。

 

 アーデルの方を振り返ると、石垣の上から短杖が上がり、短い防壁が一瞬だけ張られた。光の幕はすぐ消える。維持する魔力が惜しいのだろう。

 

「乗せろ」

 

 ディーンの声で、担架が沈む。

 

 そのとき、少し離れた木の根元から、掠れた声がした。

 

「……みず」

 

 シオンは反射的にそちらを見た。

 

 敵兵だった。

 

 黒獅子の紋章。まだ年若い。腹のあたりがひどく血に濡れている。片手をこちらへ伸ばして、ひび割れた唇だけが動いていた。

 

「みず……」

 

 声は、もうほとんど風みたいだった。

 

 シオンの足が止まった。

 

 自分と大して歳の変わらない顔だった。髪の色も、痩せた頬の骨ばり方も、孤児院にいた頃の誰かと似て見えた。

 

 昨日、自分が見た敵兵の死に顔より、ずっと近い。

 

「シオン」

 

 ディーンが呼んだ。

 

 だがシオンは、一歩だけそちらへ寄ってしまった。

 

 水筒の口に手がかかる。

 

「そっちは後だ!」

 

 グレンの声が飛んだのと、同時だった。

 

 木の陰に転がっていた死体が、死体ではなかった。

 泥を被ったまま起き上がり、短い刃をヘルムの脇腹へ突き込む。

 

 ヘルムは、驚いたような顔で口を開けた。

 

 声になる前に、ディーンの剣がその敵兵の首を斜めに払った。

 

 血が、朝の湿った空気へ散る。

 

「担架を捨てるな!」

 

 ディーンの怒鳴り声で、シオンはやっと身体が動いた。ヘルムが膝をつき、担架の片側が泥へ落ちかける。グレンが片手でそれを支え、もう片手でヘルムの傷口を押さえた。

 

「布! 早く!」

 

 シオンは包帯布を引き抜き、差し出す。指が震えてうまく掴めない。グレンが舌打ちして自分で奪い取った。

 

「見ろ、手ぇ動かせ!」

 

 ヘルムの脇腹からは、温かい血が信じられない勢いで溢れていた。敵兵の刃は鎧の継ぎ目を正確に通している。

 

 リゼが、いつの間にか敵の林を見ていた。

 

「嫌な予感がする。急いだほうがいい」

 

「分かってる」

 

 ディーンはヘルムの肩を担ぎ上げ、グレンが反対側へ入る。

 術兵の担架は捨てられない。ヘルムも置いていけない。

 

 シオンは呆然としたまま、水を求めた敵兵の方を見た。

 彼はまだ手を伸ばしている。だがその目はもう焦点が合っていない。

 

「行くぞ!」

 

 ディーンに腕を引かれ、シオンは前へのめった。

 

 帰り道の記憶は、昨日の戦闘よりさらに曖昧だった。

 

 石垣。泥。血。

 ヘルムの息。

 担架の軋み。

 遠くで弾ける砲声。

 

 壕まで戻ったとき、オットーが最初に担架へ飛びついた。弓兵と術兵はすぐ後送へ回される。ヘルムはその場でアーデルに押さえられた。

 

「押さえて」

 

 アーデルの声は冷静だったが、額には汗が浮いていた。

 グレンが布を押し込み、シオンも言われるまま手を重ねる。傷口の熱が掌へ伝わる。熱いのに、ヘルムの顔は青かった。

 

「……いてえ」

 

 それが最初の言葉だった。

 

 次に、彼はおかしそうに笑った。

 

「りんご……食う前に……死ぬかも」

 

 オットーが怒鳴る。

 

「死ぬ前提で喋るな、馬鹿」

 

「だって……」

 

 ヘルムは言いかけて、咳き込んだ。血が泡になって口端へ滲む。

 

 アーデルの手がさらに深く傷へ入る。シオンは目を逸らしかけ、すぐに止めた。逸らすな、と昨日から何度も言われている。

 

「見てろ」

 

 アーデルが低く言った。

 

「見ないと次の時に手が遅れる」

 

 その通りだった。

 だからシオンは、ヘルムの顔を見た。

 

 怖がっていた。ちゃんと。

 さっきまで軽口を叩いていた若い兵が、自分の腹の中に手を入れられながら、子供みたいに息を詰めている。

 

「助かる?」

 

 シオンは、自分でも驚くほど小さい声で訊いた。

 

 グレンが答えなかった代わりに、アーデルが言った。

 

「分からない」

 

 それは希望でも絶望でもない、現場の返事だった。

 

 結局、ヘルムは死ななかった。

 少なくとも、その場では。

 

 アーデルが傷を塞ぎ、オットーが担架へ乗せ、後送の列へ押し込んだ。顔色は死人みたいだったが、まだ呼吸はある。壕の角を曲がるまで、シオンはそれを見送った。

 

 見えなくなってから、やっとディーンが振り向いた。

 

「何をした」

 

 怒鳴り声ではなかった。

 それがかえって怖かった。

 

 シオンは喉を鳴らした。

 

「……敵兵が、水を」

 

「訊いてない」

 

 ディーンの声が一段低くなる。

 

「お前が何を見て、何を忘れた」

 

 シオンは言葉に詰まった。

 

 敵兵が若かったこと。

 自分と歳が近かったこと。

 あのまま置いていくのが、ひどく人でなしに思えたこと。

 

 でも、そのあいだにヘルムが刺された。

 

「周りを、見てませんでした」

 

 やっと言うと、ディーンは一度だけうなずいた。

 

「そうだ」

 

 それだけだった。

 

 ディーンの握りこぶしが、一発、シオンの頬に激しく入れられる。

 

 グレンが濡れた手を軍衣で拭きながら、横から口を挟んだ。

 

「お前が悪人だったら簡単なんだけどな」

 

 倒れ伏したシオンは顔を上げられなかった。

 

「悪人じゃないから止まった。分かるよ。俺だって初めてはそうだった」

 

 そこでグレンは、少しだけ笑うのをやめた。

 

「でも、そこで止まると、今度は隣の奴が死ぬ」

 

 壕の外から、また呻き声が風に乗ってきた。

 まだ拾い切れていない者がいる。

 

 リゼが記録板を見ながら言った。

 

「二往復目、行ける」

 

 ディーンは短く息を吐いた。

 

「行く」

 

 シオンは思わず顔を上げた。

 

「おれも、ですか」

 

「お前は行かないと、次も同じことをやる」

 

 ディーンはそれだけ言って剣の血を拭った。

 

「英雄になんてならなくていいんだ。生き残る側へ回れ」

 

 その言葉の意味は、まだ全部は分からなかった。

 

 ただ、さっき果樹園で水を求めていた敵兵の目と、血を吐きながら笑ったヘルムの顔が、どちらも頭から離れなかった。

 

 壕の外では、焼けた果実の臭いがまだしている。

 

 王国軍はあの果樹園を勝利の証と呼ぶ。

 シオンにとっては、誰を先に拾うかを間違えれば、すぐに別の誰かが死ぬ場所でしかなかった。

 

 それでも、次の担架はもう用意されていた。

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