灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
雨が三日続くと、勝ち取ったはずの果樹園はただの腐った斜面になった。
枝を失った木々のあいだに白い靄が這い、地面へ落ちた実は泥の中で完全に潰れて、もう果実の匂いではなく腐肉に近い臭いを立てている。
シオンが配属されてから四日目の朝、目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさではなく重さだった。
濡れた毛布が肩へ張り付き、軍衣は吸った水で倍の重さになっている。背中を起こすと、寝床代わりの板の下で水がちゃぷりと鳴った。壕の底には昨夜からの雨が溜まり、足首まで泥水が来ている。
「起きてるなら桶を寄こせ!」
怒鳴ったのはオットーだった。炊事用の鍋ではなく、今日は水汲み用の桶を両手に提げている。どれだけ掻き出しても壕へ流れ込む方が早いらしく、濡れた前髪が額へ張りついたまま機嫌が悪い。
シオンは板の上から滑り降り、桶を押しやった。
「これ、意味ありますか」
「ねえよ」
オットーは即答した。
「だがやらねえと腰まで来る。そうなる前に諦めるのは、兵じゃなく死体の仕事だ」
そう言って桶をひったくり、また壕の外へ泥水を捨てに行く。戻ってきたときにはもう別の兵へ怒鳴っていた。
壕の反対側では、アーデルが濡れた刻印板を一枚ずつ布で拭いていた。乾燥剤代わりに入れていた灰袋まで湿っているらしく、彼女は無言のまま眉間に皺を寄せている。
「そこの箱、こっち」
シオンは呼ばれて駆け寄り、刻印板の箱を差し出した。
アーデルは箱の中身を検め、舌打ちした。
「五番が二枚死んだ。線が浮いてる」
銀線の細工が水を吸って膨らみ、板の表面がわずかに歪んでいる。シオンには違いがまだ一目では分からないが、触ればぬめりがある。
「雨は火薬だけじゃなく術式も殺す。覚えときな」
「……はい」
「返事だけはいいね」
アーデルは死んだ板を脇へ避け、新しい布をシオンへ投げた。
「拭きながら模様見ろ。二番と五番、まだ取り違える?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
彼女はいつも通り容赦がない。だが今日はその容赦のなさが、むしろ壕の湿気の中で頼もしく感じられた。
少し離れたところで、グレンが梁の上へ腰かけ、濡れた軍靴を逆さにして水を捨てていた。
「見ろよ、新入り。昨日まで靴だったものが、今日は小舟だ」
水がどぼりと落ちる。
その横で、リゼは記録板の上へ油布をかざしながら、壕の浸水した区画へ印をつけていた。彼女の紙はいつ見ても驚くほど乾いている。
「南端、寝床三つ駄目。西壁、半刻で崩れる」
「根拠は?」
いつの間に来たのか、ディーン伍長が背後から言った。
「土の色。あと水の速さ」
「どっちへ落ちる」
「こっち」
リゼが杖の先で示したのは、刻印板箱と乾燥薪を積んだ一角だった。
ディーンは壕壁を一度見上げ、すぐに指示を飛ばした。
「オットー、寝床をずらせ。グレン、梁を一本足せ。シオン、板箱を持って移れ。アーデル、使える五番だけ残して他は高いところへ」
命令が出た瞬間に皆が動く。
壕の中で生きるというのは、たぶんこういうことなのだろうとシオンは思った。派手な突撃でも、魔法の撃ち合いでもなく、濡れる前に動かし、崩れる前に支え、使えるものを使えないものから切り離す。戦争は、そういう細かな手順の積み重ねでもある。
シオンが板箱を抱えて移動しようとすると、壕の外から戻ってきたニコが言った。
「鳥がいねえ」
誰に向けたともなく言ったその一言に、壕の空気が少しだけ変わった。
ディーンが顔を上げる。
「近いか」
「まだ探ってる。雨でこっちが鈍るの待ってる」
ニコは濡れた革帯を指先で直した。
「今夜来るかもしれん」
グレンが梁を担ぎ上げながら笑う。
「来るなら昼のうちに来りゃいいのに。夜の泥は勘弁してほしい」
「敵に言っとけ」
ディーンはそれだけ返した。
午前のあいだ、シオンたちは戦う代わりに壕と戦った。
泥水を掻き出し、寝床の板を持ち上げ、濡れた藁束を捨て、乾いた布を探し、刻印板の箱を少しでも高い位置へ移す。壕の外では雨が斜めに降り込み、壕の内では兵たちが罵り合いながら桶を回す。
単調で、終わりがなく、しかも少しでも手を抜けばすぐ怪我か病気になる。
昼前、シオンは手を止めて一度だけ壕の外を見た。果樹園の向こうは白く霞み、奪ったはずの斜面はもう敵の陣地と自軍の陣地の区別すら曖昧になっている。
「見張りなら上でやれ」
アーデルに言われて、シオンは慌てて視線を戻した。
「すみません」
「謝る暇があるなら指を動かしな。二番」
差し出された板を受け取り、シオンは線を追った。細い銀線。角の刻み。昨日より少しだけ見分けがつく。
「……二番です」
「やっと人間になってきたな」
褒めているのかどうか分からない口調だったが、シオンは少しだけ救われた気がした。
夕方になると、雨脚はさらに強まった。
オットーがどうにか焚いた火のまわりに兵たちが集まる。煙は多く、熱は少ない。濡れた麦粥は塩辛く、泥の味までした。それでも皆、黙々と腹へ流し込む。
ヘルムはまだ後送先から戻らない。生きているとも、死んだとも聞いていない。
グレンは火のそばで濡れた手袋を絞りながら、突然言った。
「なあ新入り、お前、雨の音で眠れるか」
「たぶん無理です」
「正解だ。眠れるようになると、今度は砲声で起きなくなる」
笑いが起きた。
ほんの小さな笑いだったが、それでも壕の中の空気が少しだけ軽くなる。
リゼだけは笑わず、火の届かない暗がりで記録板を抱えていた。油布の端を押さえる指先が白い。
シオンは何となく訊いた。
「紙、濡れないの」
「濡らさない」
「どうやって」
「先に守る」
それだけ言って、リゼは記録板を胸の下に寄せた。
答えになっていないようで、たぶん彼女にとってはそれで全部なのだろう。守らないといけない順番がある。濡れて困るものから先に守る。その順番を間違えないために、彼女はずっと紙を抱えている。
夜半、壕の西壁が鳴った。
最初は、水の音に混じって分からなかった。だがシオンは、藁束を運んでいる途中で足を止めた。泥水の流れが、さっきまでと変わっていた。
壕の床を流れていた水が、急に一方向へ引き始めている。
「リゼ」
呼ぶと、彼女はすぐ足元を見た。
「……来る」
ほとんど同時に、壕壁が低く呻いた。
西側の寝床がまとめて沈み、泥水と土が一気に流れ込む。梁が一本ずれ、上へ積んであった乾燥薪と板箱が傾いた。
「支えろ!」
ディーンの声が飛ぶ。
グレンとオットーが寝床の板へ飛びつき、下敷きになりかけた兵を引きずり出す。アーデルはとっさに短い防壁式を一枚起こしたが、柔らかくなった土にはほとんど効いていない。
「五番じゃ足りない!」
彼女が舌打ちする。
シオンは転がりかけた板箱へ手を伸ばし、それを抱え込んだ。中にはまだ使える刻印板がある。これが濡れ切れば、明日の砲撃を支える術式が足りなくなる。
だが箱だけ守っても、次に壕そのものが潰れる。
足元を走る泥水は、ある一点へ向かって集まっていた。
果樹園の斜面から、壕の床を切って、そのまま西壁の根元へ。昨日まで見てきた果汁や血の流れと同じ形だった。
流れがある。
シオンは気づいた。
「梁じゃなくて、流れを切らないとまた落ちる!」
気づけば叫んでいた。
ディーンが一瞬だけこちらを見る。
「どこだ」
シオンは泥の中へ膝をつき、指で水の線をなぞった。
「ここから、ここへ。こっち塞いでも意味がない、下に逃がさないと」
リゼがその線を見て、すぐに動いた。測距杖の先で床板を叩き、別の低い角を示す。
「南の排水溝へ落とせる。床を切れば流れる」
「切るものがない」
「ある」
言ったのはアーデルだった。
彼女は濡れた板箱をひっくり返し、死んだ五番板を二枚掴んだ。
「術式は死んでる。でも板は板だ」
ディーンが吠えた。
「グレン、オットー、床板を剥がせ! リゼ、流れを見ろ! シオン、お前はそこへ打ち込め!」
そこからは、考えるより先に身体が動いた。
グレンが梁を蹴り上げ、オットーが寝床板を引き剥がす。リゼが泥水の流れを見ながら「左」「もう一枚」「そこじゃない」と短く指示を飛ばす。シオンは死んだ刻印板を泥へ突き立て、即席の堰みたいに並べていく。
ただの板だ。
それでも、水は思ったより流れを変える。
さらにアーデルが生きている三番板を一枚だけ使って、床下の土を一瞬だけ硬化させた。
「今のうち!」
シオンとオットーが掘った溝へ、泥水がどっと流れ込む。さっきまで梁の根元を噛んでいた水が、今度は南端の排水溝へ向きを変えた。
壁の鳴き方が、変わった。
まだ危ない。
だが、次の崩落がその場で起きる感じではなくなった。
その瞬間、壕の外から矢が二本飛び込み、ひとつが梁へ、もうひとつが排水溝脇の土へ突き立った。
「敵だ!」
ニコの声が闇を裂いた。
探ってきた敵兵が、雨と混乱に紛れて仕掛けてきたのだ。
ディーンはすぐ外へ飛び出し、グレンも笑い声ひとつ置いて続いた。
「そこで流しとけ! 止めたらまた沈む!」
シオンはうなずくしかなかった。
剣を持って前へ出るより、今の自分に必要なのはこの溝を死なせないことだと、もう分かっていた。
リゼは膝まで泥に浸かりながら、流れの先だけを見ていた。
「もう少し深く」
「ここ?」
「違う、そっちだと寝床へ戻る」
短いやり取りを何度か交わし、二人で泥を掻いた。指先の感覚は途中からなくなっていた。雨も、汗も、泥も、区別がつかない。
やがて外の物音が遠のき、壕の中に残ったのは水の走る音だけになった。
夜明け前、ようやく西壁は持ちこたえた。
寝床三つは潰れたが、刻印板箱も乾燥薪も流されなかった。下敷きになりかけた兵も全員引きずり出せた。
ディーンが戻ってきた時には、外套の裾へ新しい泥がついていた。剣の血は、雨でだいぶ落ちている。
壕の中を見回し、床の溝と、突き立てられた死んだ刻印板と、ぐったり座り込んでいるシオンを見た。
「こいつがやったのか」
シオンが何か言う前に、リゼが答えた。
「最初に気づいたのもこいつ」
ディーンはシオンへ視線を向けた。
それから短くうなずく。
「覚えたな」
何を、とは言わなかった。
でもシオンには分かった気がした。敵を殺すことではない。壕の水、崩れる土、濡れてはいけない箱、先に守るものの順番。そういうものを、この戦場で少しだけ覚えたのだ。
朝の点呼のとき、リゼは記録板を見ながら淡々と人数を読み上げた。
その最後で、少しだけ間を置く。
「補助術兵、シオン・ノール」
昨日までただの補充兵だった場所に、自分の名が入っていることに、シオンはすぐには気づけなかった。
ディーンが横で言った。
「今日から箱持ちだけじゃない。術式伝令と補助に回れ」
壕の外では、雨がまだやまない。
勝利の証と呼ばれた果樹園は、今日もただ濡れて崩れていく。
それでもシオンの中では、昨日までとは少しだけ違うものが残っていた。
誰かを殺したわけでも、英雄になったわけでもない。
ただ一晩、壕を沈めなかった。それだけだ。
戦場では、そういう小さな働きでようやく一人前に数えられ始めるのだと、シオンは濡れた掌を見ながら思った。