灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第4話 初めての

 雨が上がった朝、果樹園は昨日までよりひどい顔をしていた。

 

 枝は濡れて黒く光り、地面へ落ちた果実は三日ぶんの雨を吸って腐り始め、踏みしめるたび泥の下で嫌な潰れ方をする。晴れた空だけがやけに高く、そこだけ見れば戦場の外みたいだった。

 

 だが、鳥が鳴かなかった。

 

 ニコが壕の上から戻ってきた時には、もう答えが顔に出ていた。

 

「来る」

 

 短い一言で、壕の空気が変わる。

 

 ディーン伍長はすぐに立ち上がった。

 

「総員前へ。果樹園を取り返しに来るぞ」

 

 オットーが悪態をつきながら鍋を引っ込め、グレンが槍と短杖をまとめて肩へかける。リゼは記録板を巻き取り、昨日まで壕壁の崩れ具合を書いていた紙の裏へ新しい線を引き始めた。

 シオンは一瞬だけ立ち尽くしたが、アーデルに箱ごと胸を叩かれて我に返った。

 

「ぼさっとするな。今日は後ろじゃない」

 

「……え」

 

「前へ出るって言ったんだよ」

 

 アーデルは刻印板の箱を開き、濡れていない板だけを抜き出していく。銀線の細いもの、太いもの、角に深い刻みのあるもの。彼女の指は迷わない。

 

「人が足りない。装填手が二人吹き飛んだ。お前、昨日から板の見分けがつくようになったろ」

 

「でも、おれ、まだ」

 

「まだ、で済むならいいね」

 

 そう言って、アーデルは短杖の補助把手をシオンの手へ押しつけた。

 

「聞いとけ。五番は受ける板。三番は焼く板。向きが逆なら味方が死ぬ。分からなくなったら模様を見ろ。文字を見るな、流れを見ろ」

 

 模様を見ろ。

 流れを見ろ。

 

 それは彼女がずっと言ってきたことだった。

 

「魔力は」

 

 シオンが訊くより早く、アーデルは自分の短杖を持ち上げた。

 

「板に通ってる線の、欠けてるところだけを埋めるイメージだ。流し込みすぎるな。お前みたいな初手は、だいたい溢れさせる」

 

 魔力なんて、自分の中にあると意識したことはほとんどない。

 徴募所の検査では「少ないわけじゃない」と言われただけだ。学院へ行くような連中とは違う。そういうものだと思っていた。

 ただ、魔力がないわけじゃないことは、この隊ではすでに知られていたのだろう。

 

 ディーンの声が飛ぶ。

 

「列ごとに下がるぞ! 一列目、果樹園の下枝まで。二列目は壕に残れ。リゼ、距離!」

 

「二百四十、まだ砲は寝てる」

 

 寝てる、という言い方をシオンは覚えたばかりだった。敵砲兵がまだ正確な観測を始めていない時に、リゼはそう言う。

 

「シオン!」

 

 グレンが壕の縁から振り返る。

 

「今日から箱持ち卒業だ。嬉しいだろ」

 

 笑っているのに、目は笑っていなかった。

 

 シオンは返事もできないまま、アーデルの後ろについて壕を出た。

 

 晴れているせいで、果樹園は遠くまで見通せた。

 それがかえってまずかった。敵の動きも、自分たちの貧弱さも、昨日までよりずっとはっきり見える。

 

 南斜面の向こうで、黒獅子の旗が三つ上がった。

 

 次の瞬間、砲声が空を割った。

 

 最初の着弾は果樹園の中腹だった。焼けた幹が一本、根元から折れて飛ぶ。続いて二発、三発。昨日まで水を吸っていた土が、今日は乾き始めていたぶんだけ高く跳ねた。

 

「伏せろ!」

 

 ディーンの声で全員が身を低くする。

 シオンも反射的に果樹の根元へしゃがみ込んだ。頭の上を石片と木片が叩く。湿った実の残骸が頬に当たり、甘く腐った汁が首筋へ垂れた。

 

「三番!」

 

 アーデルが手を出す。

 

 シオンは箱を開いた。

 細い線。浅い刻み。三番。

 昨日までなら迷っていた指が、今日はぎりぎり間に合う。

 

 板を渡すと、アーデルは短杖へ組み込み、空気を裂くように撃った。白く鋭い火線が敵前列の土嚢へ走り、ひとつを焼き破る。

 

「次、五番」

 

 今度は太い線。

 板の向きを確かめて差し出す。

 アーデルは一拍だけシオンを見た。合っている、ということだろう。

 

 防壁が張られる。薄い光の幕。砲片を全部は止められないが、ないよりはましだ。

 

 その横で、リゼが腹の底から声を張っていた。

 

「百九十! 次、左へ寄る!」

 

 昨日まで紙と壕壁ばかり見ていた少女が、今日は砲火のまんなかで距離を叫んでいる。その声を頼りに、ディーンは兵を半歩ずつ動かしていく。

 

「一列目、右へ寄せろ! 二列目、壕から出るな!」

 

 本格的な戦闘だ、とシオンはその時ようやく理解した。

 昨日の壕と戦う時間とも、その前の負傷兵の回収とも違う。誰かの後ろにいれば済む時間が終わって、自分ももう列の中へ入れられている。

 

 敵歩兵が果樹の間を上がってきた。

 雨でぬかるんだ地面へ板を敷き、その上から盾持ちが進む。後ろには工兵がいる。壁を壊すための兵だ。

 

 ディーンが歯を食いしばった。

 

「工兵がいる。壕を割るぞ」

 

 グレンが短く笑う。

 

「嫌な敵だな」

 

 敵砲がまた落ち、今度は前進壕の端が吹き飛んだ。土が崩れ、そこへ敵の先頭が工兵の土魔法で雪崩れ込む。

 

「五番!」

 

 アーデルが叫ぶ。

 

 シオンは渡す。

 防壁が一枚、間に合う。だが次の敵はその横から入ってきた。壕の口が半分潰れているせいで、狭いところへ人が詰まる。

 

 誰かが叫んだ。

 王国軍の兵がひとり、先頭の工兵の斧で喉元を引かれて落ちる。

 

 シオンはただ見た。

 見ているだけの一瞬だったはずなのに、やけに長かった。

 

 敵兵がひとり、壕の底へ飛び込んでくる。

 若い顔だった。泥にまみれているのに、頬だけはまだ少年みたいに細い。シオンとそう歳は違わないように見えた。

 

 その兵の目が、シオンを捉えた。

 

 槍先が上がる。

 

 動け、と頭では思った。

 身体が固まる。

 昨日、負傷兵回収で水を求めた敵兵に足を止めた時と同じだった。あの一瞬で、また誰かが死ぬ。

 

 今度は誰が。

 

 次の瞬間、横からリゼがシオンを突き飛ばした。

 

 槍先が、さっきまでシオンのいた空間を裂く。

 リゼは地面へ転がり、記録板を抱えたまま息を詰めた。敵兵はそのまま彼女へ向き直る。

 

 リゼが――死ぬ。このままいけば、数瞬後には。

 

 そこで、シオンの身体が勝手に動いた。

 

 足元に落ちていたのは、さっき死んだ王国兵の短槍だった。柄は泥で滑る。重い。

 それでも両手で掴んで、ただ前へ押し出した。

 

 刃が、何か柔らかいものを裂いて、次に硬いものへ当たった。

 

 若い敵兵の顔が、すぐ目の前にあった。

 驚いた顔だった。痛がるより先に、信じられないという顔をしていた。

 

 シオンも同じ顔をしていたと思う。

 

 槍を抜く感触は、刺す時よりずっと嫌だった。

 

 熱い血が手へかかる。

 敵兵は膝から落ち、喉の奥で変な音を鳴らした。

 

 それで終わりだった。

 立派な断末魔も、劇的な言葉もない。目の前にいた人間が、さっきまで人間だった重さのまま泥へ崩れただけだ。

 

「シオン!」

 

 アーデルの声で、現実が戻った。

 

 振り向くと、彼女の肩から血が噴いていた。工兵の投げた短斧が鎧の継ぎ目へ食い込んでいる。

 

 それでも彼女は倒れていなかった。

 左手で傷口を押さえ、右手で刻印板を二枚まとめてシオンへ突きつける。

 

「三番、差せ! 今!」

 

 シオンは息を呑んだ。

 

「おれ、まだ」

 

「いいから流せ! 線の欠けたとこだけだ!」

 

 工兵たちはもう壕の口へ集まり始めている。ここで焼き切らなければ、一気に崩れる。

 

 シオンは板を受け取った。

 

 銀線の紋様が、血と泥の中で妙にはっきり見えた。

 怖いはずなのに、その瞬間だけは目が落ち着く。線がどこから入り、どこで絡み、どこが欠けているか。それだけを見ていればよかった。

 

 短杖へ板を差し込む。

 

 手のひらの奥から、熱いものを押し出すような感覚があった。

 これが魔力なのか、と理解するより先に、紋様が光る。

 

「埋めろ! 溢れさせるな!」

 

 アーデルの怒鳴り声。

 

 シオンは欠けている線だけをなぞるように意識した。

 全部へ流すな。必要なところだけ。必要な形だけ。

 

 板が震えた。

 次の瞬間、短杖の先から火が走った。

 

 火球ではなかった。

 もっと細く、もっと鋭い。焼けた果樹の根元を舐め、工兵が抱えていた油染みの縄束と盾へ噛みつくみたいに広がる。

 

 濡れたはずの縄が、油を吸っていたぶんだけ一気に燃えた。

 工兵の前列が火に包まれ、狭い壕口で折り重なる。

 

「押せ!」

 

 ディーンが叫ぶ。

 グレンが飛び込み、燃えた盾を蹴り返し、ほかの兵が槍で押し戻す。壕の口は半分、炎と焦げた木と人間で塞がった。

 

 敵の逆襲はそこで勢いを失った。

 

 砲火はしばらく続いたが、壕の口を失った歩兵は果樹園の中腹で足を止め、やがて笛の音とともに下がっていく。

 

 晴れた空の下に残ったのは、焼けた幹と、新しく増えた焦げ跡と、吐き気のする臭いだけだった。

 

 戦いが終わると、シオンはその場で膝をついた。

 

 手が震えていた。

 自分が刺した敵兵の顔が、目を閉じても消えない。そこへ、さっき自分が流した火の臭いが重なる。焼けた木の臭いではない。もっと生臭くて、もっと嫌なものだ。

 

 胃の中身が逆流した。

 果樹園の泥へ吐きながら、シオンは何も考えられなかった。

 

 これが初めての人殺しだとか、初めての魔術だとか、そういう言葉へ直す余裕がない。

 ただ、自分の手で人を刺した感触と、自分の魔術で何かを焼いた臭いだけが、頭の中に貼りついて離れなかった。

 

 足音が近づき、目の前へ軍靴が止まる。

 

 ディーン伍長だった。

 

 怒鳴られると思った。

 立てと言われると思った。

 

 だが彼は、しばらく無言でシオンを見下ろしたあと、低く言った。

 

「これでやっと前線の仲間入りだ」

 

 慰めではなかった。

 褒め言葉でもなかった。

 ただ事実を置いたような声だった。

 

「忘れるな。お前が今日殺した奴の顔も、お前が今日流した火の熱さも」

 

 シオンは吐き気の残る喉で、かろうじて息をした。

 

「忘れられません」

 

「だろうな」

 

 ディーンはそれだけ言って去った。

 

 入れ替わるみたいに、リゼが近くへ来た。

 記録板の角が割れている。さっきシオンを突き飛ばした時にぶつけたのだろう。それでも彼女は、まず板の無事を確かめてからシオンを見た。

 

「さっき……」

 

 言いかけて、少しだけ息を継ぐ。

 

「死ぬところだった」

 

 褒めるでもなく、淡々と言う。

 けれどそれが、彼女なりの最大限の承認だとシオンには分かった。

 

「……お前も、押してくれた。ありがとう」

 

「刺される方が嫌だっただけ」

 

 相変わらずの言い方だ。

 それなのに、少しだけ救われる。

 

 リゼは果樹園の下を見た。

 敵兵の死体も、味方の死体も、晴れた空の下で妙にくっきりしていた。

 

「次は、止まらないで」

 

 短い一言だった。

 責めているのでも、励ましているのでもない。ただ次の戦場のために必要なことだけを言っている。

 

 シオンは頷いた。

 頷くしかなかった。

 

 果樹園に差す陽光は、勝利の証なんかではなかった。

 ここで自分が初めて人を殺し、初めて魔術を流したという事実を、ただ明るく照らしているだけだった。

 

 そしてシオンは、その明るさの中でようやく、本当に自分の戦争が始まってしまったのだと知った。

 

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