灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
殺した翌日の朝、黒パンは石より重かった。
シオンは二口目で喉を止めた。
噛んでいるはずなのに味がしない。昨夜の果樹園に残っていた焦げた臭いだけが、まだ鼻の奥へ貼りついている。自分が刺した若い敵兵の顔と、自分の流した火の白さが、目を閉じるたび順番もなく蘇った。
「飲み込め」
オットーが言った。
怒鳴っているわけではない。だが逆らえる声でもなかった。彼は荷台の端へ腰をかけ、短剣で黒パンを切り分けている。今日の分の糧食は少ない。だから一切れ一切れがやけに薄かった。
「食えないなら、水で流し込め」
「……無理です」
「無理でも腹は減る」
そう言って、オットーは木杯をシオンへ突き出した。
「昨日、何人分の包帯を燃やしたと思う」
問いの意味が分からず、シオンは顔を上げた。
「包帯?」
「包帯、塩、干し肉、触媒、油、刻印板。昨日の逆襲で前線はだいぶ空になった。今日それを入れ直さなきゃ、明日の果樹園は持たねえ」
荷台の周りには、朝から人が走っていた。
小麦袋、塩樽、矢束、油壺。布で巻かれた刻印板箱が二つ。後送用の幌馬車には、前夜の戦いで動けなくなった負傷兵が三人乗せられている。馬の鼻息と血の臭いと、濡れた木の臭いが混じって、戦場の朝にしかない湿った空気を作っていた。
「兵站が切れた部隊は、勇気より先に腹から崩れる」
オットーは言った。
「戦場じゃ、剣より先に鍋が負ける日がある。だから食え」
シオンは黒パンを水で流し込んだ。
喉に引っかかり、それでも無理やり落とす。胃が受けつけているのかも分からない。だがオットーは、それを見届けてからようやく頷いた。
「よし」
その横で、グレンが荷馬車の輪止めを蹴っていた。
「じゃあ今度は運びに行こうぜ。死人より荷車の方がまだ口数少なくて助かる」
笑っているのに、昨夜より少しだけ目の下が深い。ディーン伍長はその軽口を聞き流しながら、街道図へ短い線を引いていた。
「今日の車列は六台。糧食二、刻印板一、油と包帯一、後送一、空車一。空車は途中で拾うものがあれば積む」
リゼがその横で記録板を抱えている。
彼女は荷台ごとに積荷と人員を書き込み、馬の数と車軸の状態まで確かめていた。
「二台目の左後輪、昨日から軋んでる」
「もつか」
「平地なら。谷へ入ると怪しい」
ディーンは一瞬だけ考え、車列順を入れ替えた。
「二台目を最後尾へ。負傷兵車は中央。アーデル、お前の板箱は三台目だ」
「分かってるよ」
アーデルは刻印板箱の留め具を締め直しながら、顎でシオンを呼んだ。
「お前も来い」
「……おれがですか」
「昨日、三番を向き違えずに流した。なら今日は走る荷車の上で渡せ」
それは褒め言葉ではなく、配置換えだった。
だがシオンには、それが昨日までと違う意味を持つことが分かった。果樹園の壕でただ箱にしがみついていた補助兵から、動く列の中で役目を持つ人間へ半歩だけ押し出されたのだ。
「車列間は詰めるな」
ディーンの声が全員に飛ぶ。
「砲を受けたら左右じゃなく前後へ散れ。谷へ入ったら上を見るな。見るなら岩肌と轍だ。ニコ、前を読め」
片目の斥候はすでに馬の頭ひとつ前へ出ていた。
ニコが前を読む。リゼが距離と時間を刻む。アーデルが術式を支え、オットーが積荷を守る。グレンは人の腰を持たせ、ディーンが全部の順番を決める。
シオンはその列へ、自分の位置を探しながら歩き出した。
果樹園を離れると、街道の両脇には潰れた農家と、砲火で焼けた石垣ばかりが続いた。
麦畑は踏み荒らされ、井戸には泥が落ち、柵には途中で投げ捨てられた荷縄が絡んでいる。戦場の外に出たのではない。ただ、戦争の痕の並び方が少し変わっただけだった。
午前のうちは静かだった。
静かすぎるくらいだった。
谷へ入る少し前、ニコが馬を止めた。
「見られてる」
それだけ言って、上の岩場を顎で示す。
シオンには何も見えなかった。
だがディーンは躊躇わず手を上げた。
「車間を半分。アーデル、まだ光らせるな」
「分かってる」
アーデルは短杖を膝の上へ置いたまま、板だけを確かめる。防壁式は便利だが、目立つ。ここで不用意に光らせれば、敵砲兵に「ここだ」と教えることになる。
それでも最初の砲弾は来た。
谷口の手前、街道の左へ一発。
土が跳ねる。
少し遅れて二発目。今度は右。
三発目は、先頭車の少し前だった。
馬がいななき、御者が手綱を引き締める。
「測ってる」
リゼが低く言った。
ディーンは頷いた。
「まだ寝てる。進め」
車列は止まらない。
止まれば、次の三発が正確になる。
シオンは揺れる荷台の上で板箱を押さえながら、さっきの着弾を思い返していた。左、右、前。雑に撒いているように見えて、どれも先頭車を中心に寄っている。まるで目でなぞるみたいに。
谷へ入ると、街道は急に狭くなった。
右は切り立った岩。左は浅い沢。荷車が二台並ぶ余地はなく、前の車が止まれば全部止まる。
その一番嫌なところで、四発目が来た。
先頭車の前輪が砕けた。
荷台が大きく傾き、積んでいた小麦袋が崩れる。御者の男が悲鳴を上げるより早く、馬の一頭が倒れ、もう一頭が狂ったように暴れた。
「止めるな!」
ディーンが怒鳴る。
だが街道が細すぎる。先頭が詰まれば、後ろは動けない。
そこへ五発目。
今度は負傷兵車の脇。幌布が裂け、中のひとりが苦鳴を漏らす。
「五番!」
アーデルがついに手を出した。
シオンは板を渡す。彼女が防壁式を展開すると、淡い光の幕が車列の上へ立った。
次の瞬間、シオンは妙なものを見た。
遠くの岩場で、一瞬だけ光が返った。
鏡か、望遠硝子か、何かの反射だった。
そして六発目は、さっき防壁が光った場所へ、ぴたりと寄ってきた。
土ではない。
光を見ている。
シオンの背筋が冷えた。
七発目。さらに近い。
八発目。防壁の縁をかすめる。
「光った場所を見てる……」
気づいた時には、声に出ていた。
アーデルが舌打ちする。
「観測持ちか」
リゼはすでに着弾間隔を数えていた。
「三つで詰め、二つ目で修正入ってる」
「つまり?」
ディーンの問いに、リゼは即答した。
「防壁が出るたび、そこを真ん中に置き直してる」
また砲声。
街道の前後が削られる。
このまま防壁を出せば、守るたびに狙いを教えることになる。出さなければ次で負傷兵車が割れる。
シオンは先頭車を見た。
車輪は砕け、荷は半分崩れ、御者の男は腿を押さえて動けなくなっている。もうこの車は前へ出せない。だが、壊れているからこそ、そこで光れば目立つ。
頭の中で線が繋がった。
「囮にできます」
自分でも驚くほど、声ははっきり出た。
ディーンの目が向く。
「何をだ」
「あの先頭車です。もう動かないなら、防壁をあそこに光らせる」
言いながら、シオンは自分の考えの残酷さに気づいた。
だがもう止まれない。
「街道の曲がり角まで押し出せば、岩場からはあれが列の中心に見える。敵は光った場所へ寄せてくる。なら、あそこへ寄せさせればいい」
リゼがすぐに補った。
「次の修正まであと少しある。やるなら今」
アーデルがディーンを見る。
「板は?」
「スペアを二枚使えます」
シオンが答えると、ディーンは一瞬だけ先頭車と御者を見た。
御者は腿から血を流しながら、歯を食いしばっていた。もう自力では歩けない。車をどけるには時間が足りない。
短い沈黙のあと、ディーンが決めた。
「やる」
それは命令だった。
だから誰もためらう暇を与えられなかった。
「グレン、馬を切り離せ! オットー、負傷兵車を前へ押せ! アーデル、防壁を壊れた車に立てろ。リゼ、次弾まで数えろ! シオン、お前が板をつけろ!」
全員が動いた。
グレンが暴れる馬の手綱を掴み、短剣で轅を切る。オットーは怒鳴りながら負傷兵車の車輪へ肩を入れ、後ろの兵たちも押し込んだ。
シオンは砕けた前輪を跨いで、壊れた先頭車の側面へ這い上がった。荷台は傾き、濡れた小麦袋が足元で崩れている。御者の男が血の気を失った顔でこちらを見た。
「悪い」
シオンはそれしか言えなかった。
男は一瞬だけ笑おうとして、上手くいかなかった。
「……届けろ」
その言葉が終わる前に、アーデルが板を投げてよこした。
「つけろ!」
シオンは荷台の割れ目へ五番板を二枚差し込み、銀線が外から見えるように角度をつける。手は震えたが、向きは間違えなかった。
アーデルが短杖を構える。
防壁が、壊れた荷車の上でぱっと光った。
「押せ!」
ディーンの声で、兵たちが荷車を横へ押し出した。
砕けた車輪はまともに回らず、半分引きずるようにして曲がり角の先へ滑っていく。街道の窪みへ落ちる寸前で、グレンが最後に肩を入れた。
「十分だ! 列、走れ!」
その瞬間、九発目が来た。
砲弾は壊れた荷車のすぐ脇へ落ちた。
続いて十発目。今度は荷台の上。
敵は見事に食いついた。
「行け!」
ディーンが叫ぶ。
オットーと兵たちが負傷兵車を押し、アーデルは今度こそ本当の列へ防壁を半拍だけかける。リゼが「今!」「あと二つ!」と時間を怒鳴り、シオンは走る荷車の脇で次の板を手渡した。
背後では、壊れた先頭車が砲火に削られていく音がした。
木が裂け、穀物袋が破け、金具が弾ける。そこにまだ御者の男がいたことを、シオンは忘れられなかった。
けれど列は進んだ。
曲がり角を抜ける。
岩壁の陰へ入る。
車列は敵砲撃の綻びを縫うようにして谷を抜けた。
しばらくして砲声が遠のき、街道が少しだけ広くなったところで、ようやく停止が命じられた。
オットーは真っ先に負傷兵車の幌をめくり、生きている者から水を飲ませる。アーデルは残った板を数え、リゼは損耗と欠員を書きつけていた。
シオンはその場で膝をついた。
今度は吐かなかった。
その代わり、喉の奥がひどく乾いていた。
「助かったな」
グレンが息を整えながら言う。
「全部じゃないけど」
その言い方が、かえって重かった。
ディーンが記録板を覗き込むリゼの横へ立つ。
「損害は」
「先頭車喪失。御者一。護衛新兵一。小麦半分。ほかは通した」
リゼが答える。
通した。
その言葉の裏に、壊れた荷車とあの御者の男が置き去りになっている。
ディーンは少しだけ目を閉じ、それからシオンを見た。
「発案はお前だ」
責める声ではなかった。
だが軽くもなかった。
「はい」
「覚えとけ。正しい策でも、置いていくものは出る」
シオンは頷いた。
昨日、果樹園で人を殺した時とは違う種類の重さだった。今度は、自分の見抜いた綻びで大勢を通し、その代わりにひとつの荷車とひとりの男が砲火の中へ残った。
正しかったのだと思う。
それでも、軽くはならない。
アーデルが板箱の留め具を閉じながら言った。
「でもまた役には立った。これは偶然じゃない」
リゼも記録板から目を上げずに続ける。
「次からは観測も見て」
それは彼女なりの承認だった。
最後に、ディーンが全員へ向けて言い渡した。
「シオンは次から術式伝令兼補助に固定する。車列でも前線でも、見えたものを言え。黙るな」
命令として告げられたその一言で、シオンはまたひとつ列の中へ押し込まれた気がした。
まだ怖い。
昨日殺した顔も、今日見捨てた荷車も、簡単には頭から消えないだろう。
それでも、前線へ届いた小麦と包帯と刻印板で、今日どこかの誰かは一晩長く持ちこたえる。
戦争とはたぶん、そういうふうに出来ている。
全部は救えず、それでも運び、渡し、通し切る。
シオンは乾いた喉を鳴らし、遠くなった砲声の向こうを見た。
そこには、まだ薄い煙が上がっていた。