灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第6話 屋根のある夜

 屋根の下は、思っていたより落ち着かなかった。

 

 補給車列を通し切った第三中隊は、その日の暮れに後方の宿舎へ下げられた。宿舎といっても、もとは果樹園主の別宅か何かだったらしい石造りの家だ。壁があり、窓があり、天井がある。雨は落ちてこないし、風も直接は吹き込まない。

 

 それだけで十分なはずだった。

 

 シオンは乾いた藁床に腰を下ろしたまま、両手を膝の上へ置いていた。泥は入口でこそげ落としてきたし、軍衣もできる範囲で拭いた。それでも指先には、まだ焦げた臭いが残っている気がした。果樹園で刺した敵兵の血も、囮にした荷車の砕ける音も、静かな部屋の中では逆にはっきりした。

 

 前線の壕では、考える前に動いていればよかった。

 ここには動かなくていい時間がある。

 そのことが、かえって厄介だった。

 

「そんな顔してると、せっかくの飯がまずくなるぞ」

 

 オットーの声がした。

 

 台所だった部屋から、湯気と一緒に煮込みの匂いが流れてくる。麦粥ではない。干し肉と根菜の匂いだ。塩気と脂の混じった、久しぶりに“食事”と呼べる匂いだった。

 

 大鍋の前に立つオットーは、いつもより少しだけ機嫌がよさそうだった。木の柄杓で鍋をかき回しながら、火加減を見ている。前線では怒鳴っている姿ばかり目立つ男だが、こういう時の手つきは妙に静かだった。

 

「腹が減ってなくても食え。温かいもんは、腹より先に人間を戻す」

 

 そう言って差し出された椀を、シオンは両手で受け取った。

 

 湯気が顔へ当たる。

 匙を入れると、軟らかく煮えた芋が崩れた。

 

「……こんなの、前線でも作れるんですか」

 

「作れねえから今作ってんだ」

 

 オットーは鼻で笑った。

 

「壁があって、砲弾が飛んでこなきゃ、だいたいのもんはうまくなる」

 

 その言い方に、近くにいた兵が何人か笑った。

 

 部屋の反対側では、グレンが小さな机に陣取っていた。前へ出れば誰より先に飛び出していくくせに、こういう時は妙に腰が重い。紙切れを何枚も広げ、煤で黒くなった指へインクをつけている。

 

「次」

 

 そう言うと、若い兵がひとりおずおずと前へ出た。

 

「母親に、生きてるって」

 

「それだけ?」

 

「あと、金はまだ送れないって」

 

「夢がねえなあ」

 

 軽口を叩きながら、グレンはさらさらと紙へ書いていく。字の読めない兵は多い。書けない兵はもっと多い。

 グレンがこんなふうに代筆屋みたいな顔を持っているのは初めて見た。

 

 別の兵は恋人へ当たり障りのない言葉を頼み、別の兵は死んだ時に送ってくれとだけ言って紙を置いていった。グレンはいちいち茶化しながら、その全部を書き分けていた。字面は軽いのに、受け取る手つきだけは驚くほど丁寧だった。

 

 シオンが見ていると、グレンは視線だけで笑った。

 

「新入り、お前も書くか」

 

「送る相手がいません」

 

「そりゃ悪かった」

 

 そう言ったあと、グレンは一拍だけ表情をやわらげた。

 

「じゃあ覚えとけ。字の読めないやつが死ぬ前に頼むのは、だいたい金か、女か、生きてるって一言だ」

 

「そんなものですか」

 

「そんなもんだよ」

 

 紙から目を離さないまま、彼は続けた。

 

「人間、最後まで夢の大きいことはあんまり言わねえ」

 

 その言葉が妙に胸へ残った。

 

 暖炉のそばでは、ディーン伍長が黙って剣を研いでいた。

 石を当てるたび、規則正しい音がする。ほとんど誰とも喋らないが、部屋の中のことは全部見ているのが分かる。誰が食わずに椀だけ持っているか、誰が熱で目を曇らせているか、誰が机の端で眠りそうになっているか。視線を向けるだけで、兵たちは勝手に姿勢を正した。

 

 アーデルはその少し離れたところで、破損した刻印板を膝へ並べていた。

 

「シオン」

 

 呼ばれて近づくと、アーデルは欠けた三番板を持ち上げた。

 

「覚えてるか」

 

「……先日の果樹園で使ったやつですか」

 

「正確には、その時お前が通したやつだ」

 

 彼女は板を灯りへ透かした。銀線の紋様の一部が欠け、そこから細いひびが枝みたいに伸びている。

 

「お前、自分では運よく当てたと思ってる顔をしてる」

 

 図星だった。

 シオンは答えに詰まった。

 

「違うんですか」

 

「半分は運だよ」

 

 アーデルはあっさり言った。

 

「戦場で百パーセントなんてない。でも、運だけで向きを外さず、流し込みすぎず、発火式を成立させたわけじゃない」

 

 彼女は指で板の線をなぞった。

 

「お前は最初に模様を見た。文字じゃなく流れを見た。欠けてるところへだけ通した。だから溢れなかった」

 

「でも、あれは」

 

「怖かった?」

 

 シオンは黙ってうなずいた。

 

「怖くていい。怖いのに手順を崩さないなら、それは才能だ」

 

 彼女は板を裏返し、今度は別の刻みを見せる。

 

「天才ってのは、答えを一発で引くやつじゃない。手順の意味を忘れないやつだ。学院にいる上等な連中でも、意味を忘れて雑に流して自爆する馬鹿は山ほどいる」

 

 学院。

 その言葉へシオンは少しだけ反応した。

 

「行ったことがあるんですか」

 

 アーデルは片眉だけ上げた。

 

「講義を受けたことはある。居ついたことはない」

 

 それ以上は語らない。だが、その言い方の端に何か置き忘れたものがあるのが分かった。

 

「お前があそこでやったことは、偶然だけじゃない。だが、調子に乗るな。次も同じように通したけりゃ、毎回ちゃんと見ろ」

 

「……はい」

 

「よし」

 

 アーデルは頷き、壊れた板を脇へ避けた。

 

 シオンはようやく椀の中身へ口をつけた。

 熱かった。塩気があった。芋は柔らかく、干し肉の脂がちゃんと浮いている。前線の麦粥よりずっと濃い味なのに、飲み込んだあと、涙が出そうになるくらい身体に染みた。

 

「うまいだろ」

 

 オットーがどこか得意そうに言う。

 

「戦争が終わったら、街道沿いに店を出すんだ」

 

 誰へともなく言いながら、彼は鍋へ火を足した。

 

「兵だろうが馬方だろうが貴族の坊ちゃんだろうが、腹減ってるやつは全員食わせる。高い金は取らねえ。かわりに、食ったら帰る時はちゃんと歩いて帰れってだけだ」

 

「いい店ですね」

 

 シオンが言うと、オットーは鼻を鳴らした。

 

「だろ。夢ぐらいでかくていいんだよ。どうせ今は鍋ごと砲弾で吹き飛ぶような暮らしなんだから」

 

 その大きさに、部屋の何人かがまた笑った。

 

 夜が更けるにつれて、宿舎の音は少しずつ落ちていった。

 食い終えた兵から壁際に転がり、机に突っ伏し、暖炉のそばで舟を漕ぐ。グレンは最後の代筆を終えてインクを拭い、オットーは鍋へ蓋をした。ディーンは剣を研ぎ終えて立てかけ、見回りの順を決める。

 

 シオンも藁床へ横になった。

 乾いている。

 その乾きが、むしろ落ち着かなかった。

 

 天井がある。

 落ちてくるのは雨じゃなく、静けさだ。

 

 目を閉じると、先頭車の御者が「届けろ」と言った時の顔が浮かぶ。果樹園で刺した敵兵の驚いた目も、その横へ勝手に並んだ。

 

 眠れないまま、しばらく横になっていた。

 やがて諦めて起き上がり、外へ出る。

 

 夜気は冷たかったが、前線の冷えとは違った。砲煙の薄い、乾いた冷たさだ。

 

 外ではリゼが夜番に立っていた。壁の影へ背を預け、覆いをかけた灯りの下で記録板を見ている。昼間から何度も書き直していた紙だ。

 

「眠れないの」

 

 顔を上げずに言われた。

 

「そっちも」

 

「私は仕事」

 

 シオンは少し離れて壁にもたれた。

 しばらくは風の音だけがした。遠くの前線から、ごく小さく砲声が遅れて届く。

 

 リゼは何度も紙を見て、数字を書き直している。損耗、欠員、補充、後送。

 

「まだ合わないのか」

 

「合ってる」

 

 そう答えてから、彼女は一本線を引いて訂正した。

 

「でも、一人抜けてた」

 

「抜けることがあるのか」

 

「人が書くから」

 

 それはそうだった。

 シオンが黙ると、リゼは少しだけ息を吐いた。

 

「昼に死んだと思われてた新兵が、後送車の下で気絶してただけだった。紙の上では一回死んでた」

 

 その言い方に、シオンは妙な寒さを覚えた。

 

「笑い話じゃないな」

 

「笑えない」

 

 リゼはそこで初めて手を止めた。

 

「死ぬのは一度で済む。でも紙から抜けたら、いつどこで消えたかまで消える」

 

 その声は、いつもの平たい調子なのに、どこかだけ硬かった。

 

 シオンは少し迷ってから訊いた。

 

「お前、なんでそんなに数にこだわるんだ」

 

 リゼはすぐには答えなかった。

 灯りの覆いを指で少しずらし、記録板の端を揃える。その仕草自体が返事を引き延ばしているように見えた。

 

「父が、数字を間違えた」

 

 やがて彼女は言った。

 

「兵站の帳簿を預かる立場だった。うち、貴族っていっても大した家じゃなかったけど、辺境の砦と村の分をまとめる仕事をしてた」

 

 シオンは黙って聞いた。

 

「冬の前に、兵の数と備蓄の数が合わなくなった」

 

 彼女の声には、怒りも涙も乗っていなかった。むしろ、何度も頭の中で言い直して、擦り減った言い方だった。

 

「父が取り違えたのか、上の命令をそのまま書いただけなのか、今でも分からない。でも紙の上では足りてた。砦も村も生きてることになってた」

 

 そこで彼女は一度だけ視線を上げた。

 

「実際には足りてなかった」

 

 風が吹いた。

 宿舎の壁を撫でて、灯りの火がわずかに揺れる。

 

「春までに、砦の兵も村の人も、だいぶ死んだ。飢えと病で」

 

 シオンは何も言えなかった。

 

「でも帳簿の上では、しばらく生きてた。補給が届いてることになってたから」

 

 リゼは記録板の端を、白くなるほど強く押さえた。

 

「消えたあとで、やっと数字が直る」

 

 その言葉だけが、ひどく重かった。

 

「家は潰れた。父は処刑。私は庶子だから、きれいに一緒には消してもらえなかった」

 

 自嘲も恨みもなく、ただ事実を並べる。

 それがかえって痛かった。

 

「だから数える」

 

 リゼは言った。

 

「嫌でも残るように。あとで誰かが、最初からいなかったみたいに書き直せないように」

 

 シオンは、しばらく言葉を探した。

 だが、見つからなかった。

 

 結局、出たのはひどく素朴な一言だった。

 

「……お前、強いな」

 

 リゼは初めて、少しだけ変な顔をした。

 

「強くない」

 

「じゃあ何だ」

 

「忘れたくないだけ」

 

 それが彼女の本音なのだと、シオンにも分かった。

 冷たいのではない。忘れないために、温度を後回しにしているだけだ。

 

 その時、宿舎の前庭へ馬の蹄が乱暴に入ってきた。

 

 ディーンの声が中から飛ぶより早く、シオンたちは振り向いた。

 

 伝令だった。

 

 馬は泡を吹き、乗り手の若い兵は肩口を血で濡らしている。ほとんど転がり落ちるように馬を降り、封筒を握ったまま膝をついた。

 

「前線司令部より……第三中隊へ」

 

 宿舎の扉が開き、ディーンが出てくる。封を受け取って中身を読む顔が、灯りの下でさらに硬くなった。

 

「何ですか」

 

 アーデルも起き出してきて訊く。

 

 ディーンは紙から目を離さず答えた。

 

「修道院砦に敵の増援が向かってる。そしてこちらにも、攻城用の術式杭と工兵車が入った」

 

 短い沈黙が落ちる。

 

 次は、果樹園の取り合いでは済まない。本格的な攻囲戦になる。

 

「次の戦場は……」

 

 グレンが背後から問う。

 

「現在敵軍が制圧している修道院砦前面。外郭壕の攻略だ」

 

 ディーンは封書を畳んだ。

 

「起こせ。半刻で出る」

 

 たったそれだけで、せっかく戻りかけていた人間の顔が、また兵の顔へ戻っていく。

 

 オットーは鍋の残りへ蓋をし直し、グレンは書きかけの紙をまとめ、アーデルは刻印板箱の留め具を確かめ、リゼは新しい損耗欄を空けた。誰一人文句を言わないわけではない。だが手は止まらなかった。

 

 シオンは藁床の前へ戻り、まだ温もりの残る寝台を見下ろした。

 結局、一度も眠れなかった。

 

 それでも、屋根の下にいた数刻のあいだ、自分たちは確かに兵ではなく人間へ戻りかけていたのだと思う。オットーの鍋も、グレンの手紙も、アーデルの講義も、リゼの記録も、そのためにあった。

 

 外へ出ると、夜気はさっきより冷たかった。

 宿舎の中の温気が背中へ残っているぶんだけ、余計にそう感じる。

 

 シオンは荷を担ぎ直し、門の前で立ち止まった。

 石造りの家の窓から、まだ暖炉の赤が見える。

 

 だが自分たちが向かう先にあるのは、その光ではなく、前線のほうで鈍く明滅する砲火だった。

 

 屋根のある夜は、一晩も持たなかった。

 

 それでもシオンは、その短さごと胸に入れて歩き出した。

 明日また前へ出るためには、こういう夜が必要なのだと、もう少しで認められそうな気がしていた。

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