灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

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第8話 オットーの鍋

 奪った外郭壕は、勝利の匂いより空腹の匂いがした。

 

 修道院砦の南端を切り取ったとはいえ、そこはまだ“取った場所”というより“どうにかしがみついている場所”に近かった。壕は浅く、砲火の角度は悪く、補給は遅い。奪ったあとで楽になる戦場など、シオンはまだ一度も見たことがなかった。

 

 夕方、壕の底に湿った冷えが溜まり始めたころ、オットーが炊事車の脇で怒鳴った。

 

「そこ、薪を惜しむな。半生で出したら腹を壊す!」

 

 いつもの怒鳴り声だった。

 だがその奥に、少しだけ機嫌のよさが混じっているのを、シオンは聞き分けられるようになっていた。

 

 鍋の中では、信じられないくらいまともなものが煮えていた。

 

 乾燥麦、塩漬け肉、根菜の切れ端、どこから拾ってきたのか分からない豆、それに焦げかけた玉ねぎ。決して上等すぎる材料ではない。だが湯気の匂いは、人間らしかった。

 

「何が入ってるんです」

 

 シオンが鍋の中を覗き込むと、オットーは柄杓で手の甲を小突いた。

 

「覗くな。腹が減ってる顔したやつは、待ってる間に勝手に夢を見る」

 

「夢、ですか」

 

「肉が多いとか、芋がでかいとか、そういう夢だ」

 

 言いながら、彼は鍋の底をゆっくりかき回した。

 火加減を見る目は、戦場の男の目ではなく、台所の男の目だった。シオンは宿舎を思い出した。温かい鍋と、壁と、天井。数刻の平穏が、この男の手の中にあった。

 

「配るぞ。シオン、椀」

 

 木椀を受け取り、シオンは鍋の脇へ並べる。

 オットーは盛る量を一人ずつ微妙に変えた。若い兵には少し多め、負傷明けには汁多め、食えなくなっているやつには肉を細かく裂いて底へ沈める。

 

「そんなに見て分かるもんなんですか」

 

「分かる」

 

 即答だった。

 

「食えるやつの顔と、食えなくなるやつの顔は違う」

 

 オットーは次の椀へ肉をひと欠け多く落とした。

 

「食えなくなると、人間はだいたい先に目が死ぬ」

 

 その言い方に、シオンは少しだけ黙った。

 

 前線で死んだ人間の目は、もう何人も見てきた。

 けれど、生きているうちに死に始める目があるというのは、まだよく分からなかった。

 

 グレンが後ろから身を乗り出す。

 

「俺のは?」

 

「お前は黙ってても食う」

 

「ひどい偏見だ」

 

「偏見じゃない。観察だ」

 

 そう言って、オットーはグレンの椀へ本当に少し少なめによそった。

 グレンは不満そうな顔を作ったが、結局笑って受け取る。

 

 ディーンが近づいてくると、オットーは何も言われる前に塩をひとつまみ足した。

 

「薄いって言うなよ」

 

「まだ食ってない」

 

「顔が言ってる」

 

 そのやり取りが、ひどく自然だった。

 シオンは思わず二人を見比べた。ディーンは気づかないふりをしたが、グレンは気づいてわざと口元を緩めた。

 

「知ってたか、新入り」

 

「何をです」

 

「この二人、昔からこうだ」

 

 オットーが柄杓を振り上げる。

 

「余計なこと喋る暇があるなら、椀を持ってこい」

 

「はいはい」

 

 空になった椀が並ぶ。

 壕の兵たちは、普段より少しだけ静かに受け取っていった。いい匂いのする食事の前では、人は一瞬だけ言葉を失うらしい。

 

 シオンも、自分の椀を受け取った。

 匙を入れると、芋がひとつ転がった。大きくはない。だが麦粥の中で崩れず残っているだけで、妙に立派に見える。

 

 一口目を飲み込んだとき、胸の奥に熱いものが落ちた。

 

「……うまい」

 

 そう言うと、オットーは鼻を鳴らした。

 

「そうだろうな。今日は塩が生きてる」

 

「いつも塩の話しかしませんね」

 

「塩を馬鹿にするな。塩が切れた部隊から崩れる」

 

 オットーは次の椀へ汁を注ぎながら、いつになく静かな声で続けた。

 

「腹いっぱい食えた日のことだけは、死ぬ時まで覚えてるもんだ」

 

 シオンは顔を上げた。

 

 オットーは鍋を見ていた。誰へ向けた言葉か分からない、独り言みたいな言い方だった。

 

「だから一回くらいは、腹いっぱい食わせてやりたいんだよ」

 

「誰に?」

 

「皆にだ」

 

 そこで初めて、オットーは少し笑った。

 

「儲からないじゃないですか」

 

「儲けるために食わせるんじゃねえ」

 

 それは果樹園の後方陣地でも聞いた夢だった。

 だが、外郭壕の泥の匂いの中で聞くと、宿舎の暖炉の前より、ずっと大切なものに思えた。

 

 グレンが口いっぱいに鍋を詰めたまま言う。

 

「店の名前は?」

 

「まだ決めてねえ」

 

「そこは決めとけよ」

 

「決めたら潰れる気がする」

 

「縁起でもねえな」

 

 小さな笑いが広がる。

 兵たちの顔が、ほんの少しだけ緩んだ。誰かが匙を持つ手を止め、誰かがもう一口多くスープをすくう。壕の中に漂っていた尖った緊張が、鍋の湯気で少しだけ鈍くなる。

 

 シオンはその光景を見て、やっと分かった。

 

 オットーが配っているのは食事だけではない。

 この男は、ここにいる連中へ「まだ人間でいていい」と許しているのだ。

 

 だから誰も、無意識のうちにこの鍋へ寄ってくる。

 

 そのとき、ニコが壕の縁から飛び降りてきた。

 

 着地の音が、少し荒い。

 

「西から動きあり」

 

 壕の空気が一瞬で冷えた。

 

 ディーンが立ち上がる。

 

「数は」

 

「まだ読めん。砲ではなく歩かせてる。近い」

 

 オットーは何も言わず、鍋へ蓋をした。

 兵たちも匙を置く。今まであった湯気と匂いだけが、急に居場所を失ったみたいに壕の底へ溜まった。

 

「火を消せ」

 

 ディーンの声で、シオンは反射的に立ち上がった。

 

 だが、火を消し切るより早く、敵の奇襲は来た。

 

 最初は砲ではなかった。

 投げ込まれた火油瓶が、炊事車の脇で割れた。

 

 炎が、夜の壕を一気に噛んだ。

 

「散れ!」

 

 ディーンが怒鳴る。

 

 次の瞬間、負傷兵車の幌布へ火が移った。濡れているはずの布が、油を吸ったところだけ舌みたいに燃え上がる。中から負傷兵の悲鳴が上がった。

 

 だが、それだけではなかった。

 

 西の壕縁に、黒い影が続けて落ちた。

 火を目印に滑り込んだ敵襲兵だ。短剣と手斧を握った影が、そのまま壕の底へ降りてくる。

 

「グレン、西だ! 俺と来い! ニコ、上を落とせ!」

 

 ディーンは魔法剣を抜き、グレンは椀を投げ捨てて槍を掴んだ。二人は負傷兵車へ向かわず、まっすぐ西の壕縁へ駆けた。

 

「負傷兵車だ!」

 

 シオンは咄嗟にそちらへ走りかけた。

 だが視界の端で、炊事車が大きく傾くのが見えた。鍋がずれ、オットーが荷台へ飛びつく。

 

 助けなければ。

 

 そう思った瞬間、オットーの怒鳴り声が飛んだ。

 

「鍋は逃げねえ!」

 

 燃え上がる火の向こうで、オットーは歯を剥いていた。

 

「生きてるやつから引っ張れ!」

 

 その声が、腹の底へ落ちた。

 

 シオンはあの果樹園の朝を思い出していた。水を求める敵兵へ足を止め、ヘルムが腹を刺された朝を。

 順番を間違えるな。

 善意に溺れるな。

 生き残る側へ回れ。

 

 オットーが、今それを怒鳴っている。

 

「行け、シオン!」

 

 ディーンの声も重なった。

 

 シオンは歯を食いしばり、負傷兵車へ飛びついた。

 

 幌布を引き裂く。

 中には三人。ひとりは脚を折り、ひとりは胸を包帯で巻かれ、ひとりは意識がない。リゼが倒れた車輪の角度を見て叫ぶ。

 

「左から! 右は落ちる!」

 

 シオンとリゼで一人目を引きずり出す。

 

 背後では、鋼と悲鳴のぶつかる音が続いていた。

 西の壕縁で、グレンの槍が火を受けて白く走る。ひとり目を喉から突き倒し、そのまま穂先を返した。ディーンの魔法剣が二人目の肩口を斜めに裂き、逃げかけた最後の一人の背には、壕の上からニコの短槍が突き立つ。

 

 西の悲鳴が途切れた。

 

 次の瞬間、グレンが反対側から幌を剥がし、ディーンが二人目を肩へ担ぐ。三人目はオットーが――炊事車からこちらへ駆け込んできて、シオンより先に腕を抱えた。

 

「足を持て!」

 

「オットー、鍋は」

 

「あとで洗やいい!」

 

 怒鳴り返しながら、彼は意識のない兵を引きずり出した。

 

 その瞬間、炊事車の軸が悲鳴を上げた。

 

 燃えた車輪がひとつ外れ、荷台が傾ぐ。

 

「下がれ!」

 

 ディーンが叫んだ。

 

 オットーは、まだ動く影を見ていた。

 炊事車の下敷きになった若い兵だ。給仕の手伝いをしていた新兵だった。

 

「まだいる!」

 

 そう言って、オットーはもう一度火の中へ戻った。

 

 シオンは反射的に追おうとしたが、リゼが腕を掴んだ。

 

「負傷兵!」

 

 足元には、さっき引きずり出した兵が半身を起こしかけて落ちていた。

 ここで手を離せば、また順番を間違える。

 

 シオンは歯を食いしばり、そちらを支えた。

 

 その一拍の間に、車輪が落ちた。

 

 炊事車の片側が崩れ、火と鉄と木が一緒にオットーの上へ落ちる。

 

 誰かが叫んだ。

 誰の声だったかは分からない。

 

 気づけばシオンはもう走っていた。

 

 さっきまで敵を斬っていたディーンとグレンが、今度は真っ先に火の中へ飛びついた。燃えた梁を蹴り上げ、荷台の端へ肩を入れる。シオンも素手で反対側を持ち上げた。熱い。皮膚が焼ける前に、オットーの身体が半分だけ見えた。

 

「引け!」

 

 ディーンの声で三人が一斉に力を込める。

 オットーはどうにか引きずり出された。

 

 だが、もう見ただけで分かった。

 

 胸から下が酷かった。車輪に押し潰されたうえ、火を浴びている。鎧の金具は歪み、軍衣は黒く貼りつき、息をするたび喉の奥で焼けた音が鳴った。

 

 オットーはまだ、生きていた。だが、生きているだけだった。

 

「水」

 

 グレンが言ったが、オットーは首を振った。

 

「いい」

 

 声はひび割れていた。

 

 シオンは膝をついた。何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。目の前の男は、ついさっきまで鍋の塩加減を見て、皆の顔色を見て、夢みたいな食堂の話をしていた。

 

 それが今は、火と鉄に潰されている。

 

「まだ助かります」

 

 そう言ってしまったのは、たぶん自分を騙したかったからだ。

 

 オットーは目だけでシオンを見た。

 その目は、痛みより先に、まだ誰が食ったかを数えているみたいだった。

 

「何人……出した」

 

 ディーンが答えた。

 

「四人」

 

「全員か」

 

「一人……遅れた」

 

 その言葉に、オットーはほんの少しだけ息を吐いた。

 

 責める息ではなかった。

 悔しがる息だった。

 

「そうか」

 

 鍋の残りが、少し離れたところでまだ湯気を上げていた。

 蓋は半分ずれ、中の汁が泥へ零れている。

 

 オットーの視線も、そこへ向いた。

 

「ああ……」

 

 その一音だけで、シオンの喉が締まった。

 

 オットーは火傷でひきつった口元を、ほんの少しだけ動かした。

 

「もっと腹いっぱい、食わせたかったなぁ……」

 

 それが最後だった。

 

 息が、一度細く抜ける。

 次は来なかった。

 

 シオンは、ただ見ていた。

 

 泣けなかった。

 泣きたいはずなのに、身体のどこもその動きをしてくれない。

 

 ただ胸の真ん中が、ひどく空いていた。

 

 グレンが顔を背ける。

 ディーンは膝をついたまま、何も言わない。

 リゼは記録板を抱えたまま、その場へ立ち尽くしていた。

 

 誰も、すぐには動けなかった。

 

 やがてディーンが立ち上がり、低く命じた。

 

「火を消せ。残った鍋を下げろ」

 

 それは、戦場の命令だった。

 死んだ者がいても、火は消さなければならず、鍋は下げなければならない。

 

 シオンは立ち上がり、炊事車の脇へ歩いた。

 鍋の取っ手は熱かった。布を巻いて持ち上げると、まだ中は温かい。

 

 オットーがさっきまで味を見ていた温度が、そのまま手へ伝わる。

 

 それが妙に残酷だった。

 

 夜の外郭壕は、少し前まで人間の匂いがしていた。

 今は焦げた木と油と、焼けた肉の臭いしかしない。

 

 シオンは鍋を抱えたまま、ついに一度も涙を流せなかった。

 

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