灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
奪った外郭壕は、勝利の匂いより空腹の匂いがした。
修道院砦の南端を切り取ったとはいえ、そこはまだ“取った場所”というより“どうにかしがみついている場所”に近かった。壕は浅く、砲火の角度は悪く、補給は遅い。奪ったあとで楽になる戦場など、シオンはまだ一度も見たことがなかった。
夕方、壕の底に湿った冷えが溜まり始めたころ、オットーが炊事車の脇で怒鳴った。
「そこ、薪を惜しむな。半生で出したら腹を壊す!」
いつもの怒鳴り声だった。
だがその奥に、少しだけ機嫌のよさが混じっているのを、シオンは聞き分けられるようになっていた。
鍋の中では、信じられないくらいまともなものが煮えていた。
乾燥麦、塩漬け肉、根菜の切れ端、どこから拾ってきたのか分からない豆、それに焦げかけた玉ねぎ。決して上等すぎる材料ではない。だが湯気の匂いは、人間らしかった。
「何が入ってるんです」
シオンが鍋の中を覗き込むと、オットーは柄杓で手の甲を小突いた。
「覗くな。腹が減ってる顔したやつは、待ってる間に勝手に夢を見る」
「夢、ですか」
「肉が多いとか、芋がでかいとか、そういう夢だ」
言いながら、彼は鍋の底をゆっくりかき回した。
火加減を見る目は、戦場の男の目ではなく、台所の男の目だった。シオンは宿舎を思い出した。温かい鍋と、壁と、天井。数刻の平穏が、この男の手の中にあった。
「配るぞ。シオン、椀」
木椀を受け取り、シオンは鍋の脇へ並べる。
オットーは盛る量を一人ずつ微妙に変えた。若い兵には少し多め、負傷明けには汁多め、食えなくなっているやつには肉を細かく裂いて底へ沈める。
「そんなに見て分かるもんなんですか」
「分かる」
即答だった。
「食えるやつの顔と、食えなくなるやつの顔は違う」
オットーは次の椀へ肉をひと欠け多く落とした。
「食えなくなると、人間はだいたい先に目が死ぬ」
その言い方に、シオンは少しだけ黙った。
前線で死んだ人間の目は、もう何人も見てきた。
けれど、生きているうちに死に始める目があるというのは、まだよく分からなかった。
グレンが後ろから身を乗り出す。
「俺のは?」
「お前は黙ってても食う」
「ひどい偏見だ」
「偏見じゃない。観察だ」
そう言って、オットーはグレンの椀へ本当に少し少なめによそった。
グレンは不満そうな顔を作ったが、結局笑って受け取る。
ディーンが近づいてくると、オットーは何も言われる前に塩をひとつまみ足した。
「薄いって言うなよ」
「まだ食ってない」
「顔が言ってる」
そのやり取りが、ひどく自然だった。
シオンは思わず二人を見比べた。ディーンは気づかないふりをしたが、グレンは気づいてわざと口元を緩めた。
「知ってたか、新入り」
「何をです」
「この二人、昔からこうだ」
オットーが柄杓を振り上げる。
「余計なこと喋る暇があるなら、椀を持ってこい」
「はいはい」
空になった椀が並ぶ。
壕の兵たちは、普段より少しだけ静かに受け取っていった。いい匂いのする食事の前では、人は一瞬だけ言葉を失うらしい。
シオンも、自分の椀を受け取った。
匙を入れると、芋がひとつ転がった。大きくはない。だが麦粥の中で崩れず残っているだけで、妙に立派に見える。
一口目を飲み込んだとき、胸の奥に熱いものが落ちた。
「……うまい」
そう言うと、オットーは鼻を鳴らした。
「そうだろうな。今日は塩が生きてる」
「いつも塩の話しかしませんね」
「塩を馬鹿にするな。塩が切れた部隊から崩れる」
オットーは次の椀へ汁を注ぎながら、いつになく静かな声で続けた。
「腹いっぱい食えた日のことだけは、死ぬ時まで覚えてるもんだ」
シオンは顔を上げた。
オットーは鍋を見ていた。誰へ向けた言葉か分からない、独り言みたいな言い方だった。
「だから一回くらいは、腹いっぱい食わせてやりたいんだよ」
「誰に?」
「皆にだ」
そこで初めて、オットーは少し笑った。
「儲からないじゃないですか」
「儲けるために食わせるんじゃねえ」
それは果樹園の後方陣地でも聞いた夢だった。
だが、外郭壕の泥の匂いの中で聞くと、宿舎の暖炉の前より、ずっと大切なものに思えた。
グレンが口いっぱいに鍋を詰めたまま言う。
「店の名前は?」
「まだ決めてねえ」
「そこは決めとけよ」
「決めたら潰れる気がする」
「縁起でもねえな」
小さな笑いが広がる。
兵たちの顔が、ほんの少しだけ緩んだ。誰かが匙を持つ手を止め、誰かがもう一口多くスープをすくう。壕の中に漂っていた尖った緊張が、鍋の湯気で少しだけ鈍くなる。
シオンはその光景を見て、やっと分かった。
オットーが配っているのは食事だけではない。
この男は、ここにいる連中へ「まだ人間でいていい」と許しているのだ。
だから誰も、無意識のうちにこの鍋へ寄ってくる。
そのとき、ニコが壕の縁から飛び降りてきた。
着地の音が、少し荒い。
「西から動きあり」
壕の空気が一瞬で冷えた。
ディーンが立ち上がる。
「数は」
「まだ読めん。砲ではなく歩かせてる。近い」
オットーは何も言わず、鍋へ蓋をした。
兵たちも匙を置く。今まであった湯気と匂いだけが、急に居場所を失ったみたいに壕の底へ溜まった。
「火を消せ」
ディーンの声で、シオンは反射的に立ち上がった。
だが、火を消し切るより早く、敵の奇襲は来た。
最初は砲ではなかった。
投げ込まれた火油瓶が、炊事車の脇で割れた。
炎が、夜の壕を一気に噛んだ。
「散れ!」
ディーンが怒鳴る。
次の瞬間、負傷兵車の幌布へ火が移った。濡れているはずの布が、油を吸ったところだけ舌みたいに燃え上がる。中から負傷兵の悲鳴が上がった。
だが、それだけではなかった。
西の壕縁に、黒い影が続けて落ちた。
火を目印に滑り込んだ敵襲兵だ。短剣と手斧を握った影が、そのまま壕の底へ降りてくる。
「グレン、西だ! 俺と来い! ニコ、上を落とせ!」
ディーンは魔法剣を抜き、グレンは椀を投げ捨てて槍を掴んだ。二人は負傷兵車へ向かわず、まっすぐ西の壕縁へ駆けた。
「負傷兵車だ!」
シオンは咄嗟にそちらへ走りかけた。
だが視界の端で、炊事車が大きく傾くのが見えた。鍋がずれ、オットーが荷台へ飛びつく。
助けなければ。
そう思った瞬間、オットーの怒鳴り声が飛んだ。
「鍋は逃げねえ!」
燃え上がる火の向こうで、オットーは歯を剥いていた。
「生きてるやつから引っ張れ!」
その声が、腹の底へ落ちた。
シオンはあの果樹園の朝を思い出していた。水を求める敵兵へ足を止め、ヘルムが腹を刺された朝を。
順番を間違えるな。
善意に溺れるな。
生き残る側へ回れ。
オットーが、今それを怒鳴っている。
「行け、シオン!」
ディーンの声も重なった。
シオンは歯を食いしばり、負傷兵車へ飛びついた。
幌布を引き裂く。
中には三人。ひとりは脚を折り、ひとりは胸を包帯で巻かれ、ひとりは意識がない。リゼが倒れた車輪の角度を見て叫ぶ。
「左から! 右は落ちる!」
シオンとリゼで一人目を引きずり出す。
背後では、鋼と悲鳴のぶつかる音が続いていた。
西の壕縁で、グレンの槍が火を受けて白く走る。ひとり目を喉から突き倒し、そのまま穂先を返した。ディーンの魔法剣が二人目の肩口を斜めに裂き、逃げかけた最後の一人の背には、壕の上からニコの短槍が突き立つ。
西の悲鳴が途切れた。
次の瞬間、グレンが反対側から幌を剥がし、ディーンが二人目を肩へ担ぐ。三人目はオットーが――炊事車からこちらへ駆け込んできて、シオンより先に腕を抱えた。
「足を持て!」
「オットー、鍋は」
「あとで洗やいい!」
怒鳴り返しながら、彼は意識のない兵を引きずり出した。
その瞬間、炊事車の軸が悲鳴を上げた。
燃えた車輪がひとつ外れ、荷台が傾ぐ。
「下がれ!」
ディーンが叫んだ。
オットーは、まだ動く影を見ていた。
炊事車の下敷きになった若い兵だ。給仕の手伝いをしていた新兵だった。
「まだいる!」
そう言って、オットーはもう一度火の中へ戻った。
シオンは反射的に追おうとしたが、リゼが腕を掴んだ。
「負傷兵!」
足元には、さっき引きずり出した兵が半身を起こしかけて落ちていた。
ここで手を離せば、また順番を間違える。
シオンは歯を食いしばり、そちらを支えた。
その一拍の間に、車輪が落ちた。
炊事車の片側が崩れ、火と鉄と木が一緒にオットーの上へ落ちる。
誰かが叫んだ。
誰の声だったかは分からない。
気づけばシオンはもう走っていた。
さっきまで敵を斬っていたディーンとグレンが、今度は真っ先に火の中へ飛びついた。燃えた梁を蹴り上げ、荷台の端へ肩を入れる。シオンも素手で反対側を持ち上げた。熱い。皮膚が焼ける前に、オットーの身体が半分だけ見えた。
「引け!」
ディーンの声で三人が一斉に力を込める。
オットーはどうにか引きずり出された。
だが、もう見ただけで分かった。
胸から下が酷かった。車輪に押し潰されたうえ、火を浴びている。鎧の金具は歪み、軍衣は黒く貼りつき、息をするたび喉の奥で焼けた音が鳴った。
オットーはまだ、生きていた。だが、生きているだけだった。
「水」
グレンが言ったが、オットーは首を振った。
「いい」
声はひび割れていた。
シオンは膝をついた。何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。目の前の男は、ついさっきまで鍋の塩加減を見て、皆の顔色を見て、夢みたいな食堂の話をしていた。
それが今は、火と鉄に潰されている。
「まだ助かります」
そう言ってしまったのは、たぶん自分を騙したかったからだ。
オットーは目だけでシオンを見た。
その目は、痛みより先に、まだ誰が食ったかを数えているみたいだった。
「何人……出した」
ディーンが答えた。
「四人」
「全員か」
「一人……遅れた」
その言葉に、オットーはほんの少しだけ息を吐いた。
責める息ではなかった。
悔しがる息だった。
「そうか」
鍋の残りが、少し離れたところでまだ湯気を上げていた。
蓋は半分ずれ、中の汁が泥へ零れている。
オットーの視線も、そこへ向いた。
「ああ……」
その一音だけで、シオンの喉が締まった。
オットーは火傷でひきつった口元を、ほんの少しだけ動かした。
「もっと腹いっぱい、食わせたかったなぁ……」
それが最後だった。
息が、一度細く抜ける。
次は来なかった。
シオンは、ただ見ていた。
泣けなかった。
泣きたいはずなのに、身体のどこもその動きをしてくれない。
ただ胸の真ん中が、ひどく空いていた。
グレンが顔を背ける。
ディーンは膝をついたまま、何も言わない。
リゼは記録板を抱えたまま、その場へ立ち尽くしていた。
誰も、すぐには動けなかった。
やがてディーンが立ち上がり、低く命じた。
「火を消せ。残った鍋を下げろ」
それは、戦場の命令だった。
死んだ者がいても、火は消さなければならず、鍋は下げなければならない。
シオンは立ち上がり、炊事車の脇へ歩いた。
鍋の取っ手は熱かった。布を巻いて持ち上げると、まだ中は温かい。
オットーがさっきまで味を見ていた温度が、そのまま手へ伝わる。
それが妙に残酷だった。
夜の外郭壕は、少し前まで人間の匂いがしていた。
今は焦げた木と油と、焼けた肉の臭いしかしない。
シオンは鍋を抱えたまま、ついに一度も涙を流せなかった。