灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~   作:星舟能空

9 / 15
第9話 食卓の涙

 翌朝、鍋はあった。

 

 オットーだけが、いなかった。

 

 外郭壕の朝はいつもより静かだった。砲声が止んでいるわけではない。遠くで鈍く鳴っている。兵たちも起きているし、持ち場へ向けて動いてもいる。

 

 それでも静かだった。

 

 怒鳴る声が一つ足りないだけで、こんなに音が痩せるのかと、シオンはぼんやり思った。

 

 炊事車の代わりに、壕の端へ小さな焚き火が作られている。

 その前にしゃがんでいたのはニコだった。

 

 ニコの作る鍋は、うまそうには見えなかった。

 

 鍋の中身はひどく水っぽく、塩は足りず、麦は煮え切っていない。食えるものを食える形にした、というだけの朝食だった。

 

「誰もできねえなら、俺がやる」

 

 ニコはそう言ったが、言い訳みたいにも聞こえた。

 

 シオンは何も返せなかった。

 

 椀が回る。

 兵たちは黙って受け取る。

 誰も文句を言わない。

 言わないことが、余計に気まずさを際立たせた。

 

 シオンも一口すすった。

 

 まずかった。

 あたたかいだけだった。

 昨日までなら、オットーはこういうのを「腹に入れば同じだと思ってるやつの飯だ」と鼻で笑っただろう。

 

 向かいでディーン伍長が椀を見ていた。

 

 普段なら何も言わずに食う男だった。

 あるいは、オットー相手にだけ、塩が薄いとか固いとか短く言う。

 

 そのディーンが、一口飲み込んで、ぽつりと言った。

 

「まずいな」

 

 思わず、シオンは伍長を見た。

 

 ディーンはまだ椀を見ていた。

 そのまま黙った。

 

 壕の中の誰も、口を開かなかった。

 

 数秒だったのかもしれない。

 だがシオンには、その沈黙がひどく長く感じられた。

 

 そして、ディーンの肩が、ほんのわずかに震えた。

 

「一番死んじゃいけないやつが……」

 

 それは、シオンが一度も聞いたことのない声だった。

 命令の声ではなく、叱責の声でもなく、戦場で擦り切れた男の底からやっと出た、人間の声だった。

 

 ディーンは椀を握ったまま、歯を食いしばるように言った。

 

「なんで逝っちまうんだよ……! オットー!!」

 

 そこで初めて、涙が落ちた。

 

 誰が死んでも声を荒げるだけで、泣き言ひとつ見せなかった男だった。

 果樹園でも、負傷兵回収でも、雨の壕でも、火線の綻びでも、ずっと部隊の前に立って、誰かが崩れる前に怒鳴って立たせてきた男だった。

 

 そのディーンが、いまは椀を持ったまま、子供みたいに泣いていた。

 

 シオンの胸が、そこで初めて激しく震えた。

 

 オットーが死んだ時、自分は泣けなかった。

 泣けないまま鍋を運んで、火を消して、命令を聞いて、眠りもせず朝になった。

 

 でも、本当は泣きたかったのだと、伍長の顔を見てようやく分かった。

 

 その隣で、リゼが小さく言った。

 

「オットーは、伍長の親友だった」

 

 シオンは振り向いた。

 リゼは記録板を抱えたまま、まっすぐディーンを見ていた。

 

「伍長でも、親友が死んだら、泣くんだ」

 

 最後の一言は、少しだけ揺れた。

 

 彼女の頬を、一滴だけ涙が落ちた。

 

 リゼが泣くのを、シオンは初めて見た。

 

 その一滴で、何かが完全に切れた。

 

 胸の中にずっと詰まっていたものが、一気に喉へせり上がる。

 息がうまく吸えない。

 目の奥が熱い。

 

 シオンは椀を取り落とした。

 薄い朝食が泥へ散る。

 

 次の瞬間には、もう床へ突っ伏していた。

 

 声を出さずに泣くことなどできなかった。

 

「うわあああああああああああああああああ!」

 

 自分の声が、壕の中でひどく子供じみて響いた。

 

 みっともないと思う余裕もなかった。

 涙が止まらない。

 喉が裂けそうなほど叫んで、それでも足りなかった。

 

 オットーの鍋の湯気。

 「腹が減ってなくても食え」と言った声。

 黒パンを水で流し込ませた朝。

 雨の壕で桶を抱えて怒鳴っていた背中。

 あの宿舎で、街道沿いに店を出すと笑っていた顔。

 昨夜、火の中から負傷兵を引きずり出して、それでも鍋の方を見ていた目。

 

 全部が遅れて胸へ刺さってきた。

 

 こんなふうに泣いていいのか分からない。

 だが止められない。

 

 誰も、すぐには止めなかった。

 

 グレンは顔を背けたまま黙り、ニコはまずい鍋の前で膝を抱え、アーデルは目元を隠すみたいに額へ手を当てていた。

 ディーンのすすり上げる音だけが、まだ聞こえている。

 

 しばらくして、シオンの肩へ何かがそっと触れた。

 

 リゼの手だった。

 

 慰めるような撫で方ではない。

 ただ、そこにいると分かるだけの重さだった。

 

 シオンは泣きじゃくりながら、その手の意味を考えることもできなかった。

 

 どれくらいそうしていたのか分からない。

 やがて呼吸が少しずつ戻り、叫び声がしゃくり上げに変わり、涙だけが遅れて落ち続けたころ、ディーンがようやく顔を上げた。

 

 目は赤かった。

 だが、もう伍長の顔に戻り始めていた。

 

「……食え」

 

 ひどく掠れた声だった。

 

「まずくても、食え。オットーに怒鳴られる」

 

 それが精一杯の立て直しだった。

 

 グレンが、無理やり笑う。

 

「死人の名前で脅すの、反則ですよ伍長」

 

「黙れ」

 

「はい」

 

 その短いやり取りで、壕の中へ少しだけ息が戻った。

 

 朝食は結局まずいままだった。

 ニコの鍋が悪いのではない。

 誰が作っても、オットーの味にはならないのだと、皆もう分かっていた。

 

 食後、シオンはオットーの遺品袋を渡された。

 

 中には砥石、替え布、塩袋の残り、それから油の染みた小さな帳面が入っていた。

 

 開くと、文字は意外なくらい細かかった。

 

「リゼ、これなんて書いてある?」

 

 隣にいたリゼが、帳面を読み上げる。

 

「伍長 塩少し多め」

「グレン 固いパンでも食う」

「リゼ 熱いと食うのが遅い」

「シオン まず温かい汁から」

 

 そこまでリゼが読んだところで、シオンはまた涙が滲むのを感じた。

 だが今度は、さっきみたいに崩れなかった。

 

 リゼが帳面を閉じる。

 

 シオンは静かに前を向いて、こういった。

 

「生きないとな」

 

 リゼも、シオンをまっすぐに見つめて、頷く。

 

「うん」

 

 それは、普段氷のようにも感じられるリゼとは思えないくらい、熱い感情の乗った同意だった――

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。