灰かぶりの魔術戦記 ~ただの補助兵だった孤児の少年、戦場で本物の魔導師に才を見出され、『灰かぶりの英雄』として戦場と魔法学院を成り上がる~ 作:星舟能空
翌朝、鍋はあった。
オットーだけが、いなかった。
外郭壕の朝はいつもより静かだった。砲声が止んでいるわけではない。遠くで鈍く鳴っている。兵たちも起きているし、持ち場へ向けて動いてもいる。
それでも静かだった。
怒鳴る声が一つ足りないだけで、こんなに音が痩せるのかと、シオンはぼんやり思った。
炊事車の代わりに、壕の端へ小さな焚き火が作られている。
その前にしゃがんでいたのはニコだった。
ニコの作る鍋は、うまそうには見えなかった。
鍋の中身はひどく水っぽく、塩は足りず、麦は煮え切っていない。食えるものを食える形にした、というだけの朝食だった。
「誰もできねえなら、俺がやる」
ニコはそう言ったが、言い訳みたいにも聞こえた。
シオンは何も返せなかった。
椀が回る。
兵たちは黙って受け取る。
誰も文句を言わない。
言わないことが、余計に気まずさを際立たせた。
シオンも一口すすった。
まずかった。
あたたかいだけだった。
昨日までなら、オットーはこういうのを「腹に入れば同じだと思ってるやつの飯だ」と鼻で笑っただろう。
向かいでディーン伍長が椀を見ていた。
普段なら何も言わずに食う男だった。
あるいは、オットー相手にだけ、塩が薄いとか固いとか短く言う。
そのディーンが、一口飲み込んで、ぽつりと言った。
「まずいな」
思わず、シオンは伍長を見た。
ディーンはまだ椀を見ていた。
そのまま黙った。
壕の中の誰も、口を開かなかった。
数秒だったのかもしれない。
だがシオンには、その沈黙がひどく長く感じられた。
そして、ディーンの肩が、ほんのわずかに震えた。
「一番死んじゃいけないやつが……」
それは、シオンが一度も聞いたことのない声だった。
命令の声ではなく、叱責の声でもなく、戦場で擦り切れた男の底からやっと出た、人間の声だった。
ディーンは椀を握ったまま、歯を食いしばるように言った。
「なんで逝っちまうんだよ……! オットー!!」
そこで初めて、涙が落ちた。
誰が死んでも声を荒げるだけで、泣き言ひとつ見せなかった男だった。
果樹園でも、負傷兵回収でも、雨の壕でも、火線の綻びでも、ずっと部隊の前に立って、誰かが崩れる前に怒鳴って立たせてきた男だった。
そのディーンが、いまは椀を持ったまま、子供みたいに泣いていた。
シオンの胸が、そこで初めて激しく震えた。
オットーが死んだ時、自分は泣けなかった。
泣けないまま鍋を運んで、火を消して、命令を聞いて、眠りもせず朝になった。
でも、本当は泣きたかったのだと、伍長の顔を見てようやく分かった。
その隣で、リゼが小さく言った。
「オットーは、伍長の親友だった」
シオンは振り向いた。
リゼは記録板を抱えたまま、まっすぐディーンを見ていた。
「伍長でも、親友が死んだら、泣くんだ」
最後の一言は、少しだけ揺れた。
彼女の頬を、一滴だけ涙が落ちた。
リゼが泣くのを、シオンは初めて見た。
その一滴で、何かが完全に切れた。
胸の中にずっと詰まっていたものが、一気に喉へせり上がる。
息がうまく吸えない。
目の奥が熱い。
シオンは椀を取り落とした。
薄い朝食が泥へ散る。
次の瞬間には、もう床へ突っ伏していた。
声を出さずに泣くことなどできなかった。
「うわあああああああああああああああああ!」
自分の声が、壕の中でひどく子供じみて響いた。
みっともないと思う余裕もなかった。
涙が止まらない。
喉が裂けそうなほど叫んで、それでも足りなかった。
オットーの鍋の湯気。
「腹が減ってなくても食え」と言った声。
黒パンを水で流し込ませた朝。
雨の壕で桶を抱えて怒鳴っていた背中。
あの宿舎で、街道沿いに店を出すと笑っていた顔。
昨夜、火の中から負傷兵を引きずり出して、それでも鍋の方を見ていた目。
全部が遅れて胸へ刺さってきた。
こんなふうに泣いていいのか分からない。
だが止められない。
誰も、すぐには止めなかった。
グレンは顔を背けたまま黙り、ニコはまずい鍋の前で膝を抱え、アーデルは目元を隠すみたいに額へ手を当てていた。
ディーンのすすり上げる音だけが、まだ聞こえている。
しばらくして、シオンの肩へ何かがそっと触れた。
リゼの手だった。
慰めるような撫で方ではない。
ただ、そこにいると分かるだけの重さだった。
シオンは泣きじゃくりながら、その手の意味を考えることもできなかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがて呼吸が少しずつ戻り、叫び声がしゃくり上げに変わり、涙だけが遅れて落ち続けたころ、ディーンがようやく顔を上げた。
目は赤かった。
だが、もう伍長の顔に戻り始めていた。
「……食え」
ひどく掠れた声だった。
「まずくても、食え。オットーに怒鳴られる」
それが精一杯の立て直しだった。
グレンが、無理やり笑う。
「死人の名前で脅すの、反則ですよ伍長」
「黙れ」
「はい」
その短いやり取りで、壕の中へ少しだけ息が戻った。
朝食は結局まずいままだった。
ニコの鍋が悪いのではない。
誰が作っても、オットーの味にはならないのだと、皆もう分かっていた。
食後、シオンはオットーの遺品袋を渡された。
中には砥石、替え布、塩袋の残り、それから油の染みた小さな帳面が入っていた。
開くと、文字は意外なくらい細かかった。
「リゼ、これなんて書いてある?」
隣にいたリゼが、帳面を読み上げる。
「伍長 塩少し多め」
「グレン 固いパンでも食う」
「リゼ 熱いと食うのが遅い」
「シオン まず温かい汁から」
そこまでリゼが読んだところで、シオンはまた涙が滲むのを感じた。
だが今度は、さっきみたいに崩れなかった。
リゼが帳面を閉じる。
シオンは静かに前を向いて、こういった。
「生きないとな」
リゼも、シオンをまっすぐに見つめて、頷く。
「うん」
それは、普段氷のようにも感じられるリゼとは思えないくらい、熱い感情の乗った同意だった――