Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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幕間
【閑話】特異点への幕間:孤高の影と、見習い盾兵


 特異点F――炎上汚染都市・冬木からの生還を果たした翌日。

 

 カルデアの標準時刻に従い、ヴァルナ・クロスは静かに目を覚ました。

 

 無機質で簡素な自室のベッド。シーツの擦れる微かな音が、鼓膜に現実の輪郭を伝える。

 

 

 彼はゆっくりと上半身を起こし、自身の肉体状況をスキャンするように深い呼吸を繰り返した。肺の奥まで空調管理された人工的な空気を満たし、吐き出す。

 

 背中には、昨日フラウロスから受けた魔力光線による致命傷の余韻が、幻痛(ファントムペイン)のように微かにへばりついていた。だが、それはあくまで脳が錯覚しているだけの記憶の残滓に過ぎない。既に肉体の損傷は細胞レベルで完全に修復されている。問題なく戦えるレベルだ。

 

「……肉体はいい。問題は、術式の方か」

 

 

 ヴァルナはベッドの上に胡坐をかき、目を閉じて自身の足元――すなわち、十種影法術の根源である『影の底』へと深く意識を沈め込んだ。

 

 

 そこに控える式神たちの状態を確認する。まずは、特異点においてセイバーオルタの機動力を削ぐための搦め手として酷使した『大蛇』と『蝦蟇』。

 

 二体の式神は、魔力放出の余波や打撃などで受けたダメージがまだ残っているものの、一晩の影の中での休眠を経て、表面の傷はある程度塞がってきている。この分なら、あと半日もあれば完全な状態へと復帰するだろう。

 

 

 だが、問題は別の個体だった。

 

(……玉犬・渾。やはり、時間がかかるか)

 

 

 特異点の終盤、セイバーオルタの絶望的な踏み込みによって腹部を深く斬り裂かれた傷跡。消滅こそ間一髪で免れたものの、刻まれたダメージは深く、自己修復の速度は著しく低下している。

 

 

 渾は、ヴァルナの近接戦闘における最大の主軸であり、最も信頼を置く手札の一つだ。それが万全ではないというのは、今後の聖杯探索(グランドオーダー)において手痛いディスアドバンテージとなる。

 

 とはいえ、破壊されて二度と戻らない最悪の事態よりは遥かにマシだ。ヴァルナは渾に向けて「ゆっくり休め」と微かな呪力の波長で労いの意思を伝えると、影から意識を引き戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 ピンポーン。

 

 その時、自室の扉に備え付けられたインターホンが、無機質な電子音を鳴らす。

 

『先輩。起きていますか?』

 

 

 スピーカー越しに聞こえてきたのは、少し遠慮がちで、しかし温かみのある少女の声――マシュ・キリエライトだった。

 

「……ああ。入ってくれ。鍵は開いている」

 

 

 ヴァルナが答えると、シューッと軽い音を立てて自動ドアがスライドし、カルデアの制服に身を包んだマシュが姿を現す。

 

「おはようございます、先輩。その……お体の具合はいかがですか?」

 

「問題ない。そっちはどうだ」

 

「はい。私も、サーヴァントとしての回復力のおかげで、筋肉痛すら残っていません。……あの、もしよろしければ、一緒に朝食でもいかがですか?」

 

 

 マシュが少し恥ずかしそうに、だが真っ直ぐな瞳で誘いかけてくる。

 

 ヴァルナはベッドから降り、軽く首を鳴らした。

 

「分かった。行こう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カルデアの食堂(カフェテリア)は、広大でありながらひどく閑散としていた。

 

 爆発事故によって大半のスタッフが失われ、生き残った二十名足らずの職員も、シフト制で仮眠を取りながら復旧作業に追われているため、常に数人しか姿を見せない。

 

 

 ヴァルナとマシュは、配給された簡素なレーションと温かいスープ、そしてコーヒーを受け取り、窓際のテーブルに向かい合って座る。

 

「いただきます」

 

 

 マシュが行儀よく両手を合わせる。ヴァルナは特に何も言わず、無言でスープに口をつけた。味は悪くない。魔術師の工房のような施設にあって、最低限の食のインフラが生きているのは幸いだろう。

 

「先輩。昨夜はよく眠れましたか?」

 

 

 パンをかじりながら、マシュが探るように尋ねてくる。

 

「ああ。泥のように眠った。あの後、所長の様子はどうだ」

 

「はい。ドクターからの報告では、現在も集中治療カプセルの中で安定した眠りについているそうです。バイタルに異常はなく、聖杯の力による肉体の再構成も定着しつつあると」

 

 

 マシュの表情が、パッと明るく綻ぶ。

 

「所長が目覚めたら、きっとまた大騒ぎになりますね。……この状況に真っ赤になって怒る姿が目に浮かびます」

 

「容易に想像がつく。頭痛の種が増えたな」

 

「ふふっ、そんなこと言ったら、また怒られてしまいますよ」

 

 

 マシュがくすくすと笑う。昨日までの死線が嘘のような、穏やかな朝の風景。

 

 しばらくの静寂の中、食器の当たる音だけがテーブルに響いていたが、不意にマシュが思い出したように顔を上げた。

 

「あ、そうだ。先輩。ダ・ヴィンチちゃん……ダ・ヴィンチ技術顧問から、先輩へ伝言を預かっています」

 

「……伝言?」

 

 

 

 ヴァルナの眉が、微かにピクリと動いた。

 

「はい。『朝食が終わったら、私の工房に顔を出してほしいな☆』とのことです。とても上機嫌で、昨日の夜からずっと先輩の術式についてブツブツと考察を巡らせていました」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、ヴァルナの顔に、あからさまな「嫌そう」な色が浮かんだ。

 

 彼の中で、あの絶世の美女の皮を被った天才英霊は、完全に『変人』のカテゴリーに分類されている。自分の内臓や影を解剖したがるような輩に、わざわざ自分から近づきたくはない。

 

「……無視してもいいか?」

 

「だ、ダメですよ! カルデアの技術的支柱ですし、これからの装備の支給なども彼女の工房を通すことになりますから」

 

 

 マシュが慌てて説得にかかる。

 

 ヴァルナは「はぁ……」と、珍しく人間らしい深いため息を吐いた。

 

「分かった。……食い終わったら、向かう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やあやあ! 待っていたよ、ヴァルナ君!」

 

 

 ダ・ヴィンチ工房の扉が開くや否や、テンションの高い歓声がヴァルナを出迎える。

 

 雑然と積まれた魔導書、謎の機械部品、そしてどこから持ってきたのか分からない絵画や彫刻。そのカオスな空間の中央で、ダ・ヴィンチは両手を広げて満面の笑みを浮かべていた。

 

「ダ・ヴィンチ。……何の用だ」

 

「つれないなぁ。君の無事を確認したかったのと、これからの旅に向けた装備の調整さ。……というのは建前で、本音は君のその特異な基盤、十種影法術だっけ? そのシステムがどうしても気になってね!」

 

 

 ダ・ヴィンチはヴァルナの周囲をぐるぐると回りながら、彼の足元に濃く落ちる「影」を興味津々の瞳で観察し始める。

 

「昨日の所長の治療で見せた離れ業。影の中に物体を取り込み、魔力を中継するそのプロセス。君の影の中は、一体どういう次元構造になっているんだい? 虚数空間の一種かな?」

 

「……ただの、収納スペースだ。重さもそのまま感じる。便利だが、そこまで高尚なものじゃない」

 

 

 ヴァルナは無表情のまま答えると、証拠を見せるように自身の影の表面を微かに波立たせ。

 

 

 

 

 

 ヌラリ、と。

 

 影の表面から、柄が十字架の形をした剣の束のような武器がせり上がる。

 

「例えば、こういうものも入れてある」

 

「おや、これは……『黒鍵』じゃないか! 投擲用の概念武装か。なるほど、代行者上がりという噂は本当だったんだね」

 

 

 ダ・ヴィンチが目を輝かせて黒鍵を覗き込む。

 

「君ほどの異常な体術の使い手なら、この黒鍵もさぞ恐ろしい精度で使いこなすんだろうね? 同時に何本投げられるんだい? 軌道を曲げたり……」

 

「……いや。俺は黒鍵の扱いは、そこまで上手くない」

 

 

 ヴァルナは黒鍵をクルクルと指先で回し、再び影の中へと落とし込んだ。

 

「使えることは使えるが、これを極めるには途方もない反復練習と、独特の技術体系の習熟が必要だ。俺は自分の強みを『近接格闘』と『式神との連携』に置いている。わざわざ不得手な投擲武器を伸ばすより、自分の得意な部分に集中する方が効率的だと判断しただけだ」

 

「ふぅむ。なるほど、合理的だね」

 

 

 

 ダ・ヴィンチは顎に手を当てて頷く。

 

 彼女は、ヴァルナのように複数の武術系統を混合させ、変幻自在の体術を操る天才であれば、どんな武器でも器用に使いこなすものだと想定していた。だが、彼はあえて「やらないこと」を明確に選択する理知的な戦士なのだ。

 

「教会の内情を言えば、黒鍵をメイン武装として極めようとする奴は、修道僧のような偏執的な変人ばかりだ。俺の昔の知人にもいたが……あれは一種の狂気だな。俺はそこまで一つの武器に執着できない」

 

 

 ヴァルナは、かつて教会の訓練施設で見かけた、黒鍵を指の間に挟んで嬉々として投擲していた某先輩の姿を思い出しながら、微かに苦笑した。

 

「俺ができるのは、せいぜい相手の影を物理的に床へ縫い留める『影縫い』に使う程度だ。俺自身の術式と親和性があったから、拘束用の手札として残しているに過ぎない」

 

 

(……君も、影に獣を飼っていて自分自身を怪物の形に改造させるなんて、十分に狂気的な変人だと思うけどね)

 

 

 心中でそうツッコミを入れたが、目の前の男が「自分を変人だとは微塵も思っていない」ことに気づき、面白そうに目を細めた。

 

「興味深いね。君自身の自己評価と、客観的な異常性のズレがとても魅力的だ。もっと話を聞かせてくれないか? 例えば、君のその魔術回路の配線構造と、影への魔力供給のバイパス経路について……」

 

 

 ダ・ヴィンチがさらに身を乗り出して専門的な質問を連射し始めようとしたため、ヴァルナは「これ以上は長くなる」と即座に危険を察知し、踵を返そうとした。

 

「――おっと、待った待った」

 

 

 だが、万能の天才の好奇心は、その程度で振り切れるものではない。

 

 ダ・ヴィンチはヴァルナの前に回り込むと、彼の足元で静かに揺らめく影を指差した。

 

「そんなに便利で広大な収納スペースがあるのに、中に入れているのが黒鍵数本だけ……なんてことはないだろう? 他にも何か隠しているんじゃないかい?」

 

「……」

 

 

 ヴァルナは露骨に面倒そうに、深い、深いため息をついた。

 

 ここで拒絶して強引に立ち去ることもできるが、この天才英霊の性格上、一度火のついた探求心は満たされるまで執拗に付き纏ってくるだろう。

 

「……見せるだけだぞ」

 

 

 自身の影に腕を沈めると、ドロリとした暗黒の中から、新たに二つの物体がせり上がってきた。

 

 それはどちらも、禍々しい気配を封じ込めるための『赤い聖骸布』によって厳重にぐるぐると巻かれている。

 

 

 

 一つは、手のひらに乗る程度の小さな円柱状の箱。

 

 もう一つは――全長、百二十センチほどはあるだろうか。身の丈の半分以上を占める、巨大な『十字架』のような形をした無骨な代物だった。

 

「そ、それはなんだい……?」

 

 

 ダ・ヴィンチの顔から、先ほどまでの飄々とした笑みがわずかに消える。

 

 特に、ヴァルナの傍らに立て掛けられた巨大な十字架。幾重にも巻かれた布越しでさえ、そこから漏れ出す異常なまでの『死と神秘の密度』を、天才の直感は正確に感じ取っていた。

 

「とてつもないモノを感じるが……」

 

「中身を見てもいいぞ。ただし、こっちだけだ」

 

 

 十字架には触れさせず、手のひらサイズの円柱の箱だけを無造作にダ・ヴィンチへと手渡した。

 

 ダ・ヴィンチが慎重に聖骸布を解き、箱の蓋を開ける。

 

 

 

 

 

 ――瞬間、彼女は中身と『目』が合った。

 

 特殊な防腐の溶液で満たされた円柱状のガラス容器。その中に、神経の束をわずかに残した、鮮やかな『ピンク色の両眼球』がぷかぷかと浮遊している。

 

「こ、これは……魔眼、かい?」

 

 

 ダ・ヴィンチが驚愕に目を丸くし、あらゆる角度からその眼球を観察し始める。

 

「そうだ。俺には使えないものだが、訳あって手に入ったから持ち歩いているだけだ」

 

「訳あってって……ちなみに、どういった能力の魔眼なんだい?」

 

「分からない。興味もない」

 

「手に入れたとは、どういう経緯だろうか……。まさか君、『魔眼蒐集列車(レール・ツェッペリン)』にでも乗車した経験が?」

 

 

 その探るような問いに、彼は少しだけ意外そうに眉を動かした。

 

「……詳しいな。だが、そういうオークションのような上品なものではない。全く関係ないとは言わないが」

 

 

 過去の記憶――ただのデータの一つを引き出し、淡々と口を開く。

 

「一時期だが、死徒と行動を共にしていたことがある。その吸血鬼はかなり質が悪い部類でな。人間の肉体を解体してはいじくり回し、虫に変えたり、異形の死徒に造り替えたりする、悪辣極まりない女だった」

 

「……死徒と!?」

 

「その被害者……いや、被害者と呼ぶにはアレも元々悪人だったか。とにかく、女に無惨に改造された人間が、その負荷と呪いで後天的にこの魔眼を開眼してな。手がつけられないほど暴れ出した」

 

「それで……?」

 

「俺が取り押さえて、両の目を直接抉り取った。その時の産物だ」

 

 

 ヴァルナは、まるで「散らかっていたゴミを拾って捨てた」程度のテンションで、生きた人間の顔面から眼球を抉り取った過去を語る。

 

「うわぁ……」

 

 

 カルデア随一の天才であり、倫理観のタガが外れているはずのダ・ヴィンチでさえ、その生々しい暴挙と、それを語るヴァルナの「一切の悪びれなさ」に顔を引き攣らせ、ドン引きした。

 

「君、平然とした顔をして色々エグいことやってるんだね……。相当な問題児扱いされていたんじゃない?」

 

「そうか? 必要な処理をしただけだ」

 

 

 彼の中に「残酷なことをした」という自覚はない。

 

 暴れるから、止める。魔眼が原因だから、抉る。そこにあるのは完全な合理性と、人間の感情・痛覚に対する決定的な『温度差』だけ。

 

「……それで? ちなみに、そっちの巨大な十字架は?」

 

 

 ダ・ヴィンチは気を取り直し、最大の危険物へと視線を向けた。

 

 (……なんだ、アレは。とてつもない呪いと神秘が込められている。『概念武装』の類だろうが、あまりにも危険な劇物だ)

 

 

 聖骸布に包まれたその構造のすべてを読み切ることはできない。ダ・ヴィンチは微かに生唾を飲み込みながら問いかけた。

 

「そっちの方が、眼球なんかよりもよっぽどヤバい雰囲気を感じるんだが……一体、どういう代物だい?」

 

「原理を人間に継承させた後に、その細胞を余すことなく編み込んで作られた十字架」

 

「……は?」

 

「餞別として、もらったものだ」

 

 

 ヴァルナは、これまでと同じように淡々と答える。

 

 だが、その声色には、魔眼の時とは明確に違う『何か』が混ざっているように見えた。

 

「ねえ、ヴァルナ君。一旦、そっちも私に預けてくれないか? ぜひ解析させてほしい。私の技術なら、君がより使いやすいように調整することも……」

 

「魔眼であれば、煮るなり焼くなり好きにすればいい。だが、こちらはダメだ」

 

 

 その大きな手が、赤い聖骸布に包まれた巨大な十字架の上に、ポンと優しく置かれる。

 

 

 感情の起伏が少なく、あらゆる武器への執着を持たないはずの彼が。

 

 狂気じみた死徒の所業すらも「観察」として流す彼が。

 

 この武装にだけは、彼なりの美意識に触れた『特別な相手』に対する、静かで不器用な敬意を示しているような。

 

「一応、俺にとって大切なものだからな」

 

 

 他者の干渉を完全に拒絶する冷たい威圧感が、一瞬だけ工房の空気を凍らせる。

 

 ダ・ヴィンチが息を呑むと同時、ヴァルナは十字架をズルリと影の中へ沈め込み、完全にその姿を隠匿した。

 

「……長居したな」

 

「おや、もう行くのかい? 私はまだ君のその影の内部構造について、聞きたいことが山ほど……」

 

 

 食い下がろうとする天才の言葉を無視して、工房の出口へと向かう。

 

「……ああ、一つ聞きたいことがあった」

 

 

 自動ドアが開く直前。ヴァルナはふと思い出したように振り返って尋ねた。

 

「広く使える訓練場所はないか? フランスへ向かう前に、少し体を動かしておきたい」

 

「訓練場所? うーん、今のカルデアの損傷具合だと、物理的なトレーニングルームはまだ使えないね。……それなら、シミュレーターを使うといい」

 

 

 ダ・ヴィンチがニッコリと笑って指を立てる。

 

「レイシフトの環境テストにも使われる仮想現実空間さ。ロマニに頼めば、適当な環境をセットアップしてくれるはずだよ。仕事の邪魔になるかもしれないけど、君の頼みなら断れないだろうさ」

 

「……分かった。助かる」

 

 

 短く礼を言い、名残惜しそうに「また後で話を聞かせてね!」と手を振るダ・ヴィンチの工房を足早に後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中央管制室は、カルデアの中で最も張り詰めた空気が漂う場所だった。

 

 複数のオペレーターがコンソールに向かい、特異点の演算やカルデアスの監視、施設の復旧作業に追われている。その喧騒の中心で、ロマニ・アーキマンは文字通り「死にそうな顔」をして、山積みのデータ端末と格闘していた。

 

「あー、ダメだ……魔力炉心の出力が安定しない……! ムニエル君! 第四セクターのバイパスを急いで繋ぎ直して! それから、フランスのレイシフト座標の再計算を……!」

 

 

 フラフラと倒れそうになりながら指示を飛ばすロマニの姿は、見ているこちらが不安になるほどの過労状態だ。

 

「ドクター」

 

「ひぃぃっ!?」

 

 

 ロマニが肩を跳ね上げ、ビクッと振り向く。

 

「な、なんだ、新人君か……! 脅かさないでよ、寿命が縮むかと思ったじゃないか……。君は絶対安静なんだから……」

 

「傷はもう治した。それより、ダ・ヴィンチから聞いた。シミュレーターというものを使わせてほしい」

 

 

 ヴァルナは、死にかけているロマニの様子など一切気にした風もなく、淡々と要求を突き通す。

 

「シ、シミュレーター!? ダメだよ、君はあんな致命傷を負ったばかりなんだぞ! いくら傷が塞がったからって、魔力の消耗や精神的な疲労は残っているはずだ!!」

 

 

 ロマニは珍しく声を荒げて引き止めようとする。だが、彼は冷徹な理屈だけでロマニの懸念をバッサリと切り捨てた。

 

「不要だ。俺の体は俺が一番理解している。それに、動かなければ勘が鈍る。フランスへ行くまであと数日しかないんだ、その猶予を効率的に使うだけだ。……だから、頼む」

 

 

 一切の感情論を挟まない、極めて合理的な説得。

 

 ロマニはヴァルナの瞳の奥にある「譲らない意志」を読み取り、大きく肩を落とした。

 

「……分かったよ。……はぁ、本当に君は不器用な戦闘狂だよ」

 

 

 ロマニが疲れたように笑い、シミュレーターの準備をしようと立ち上がった――その瞬間。

 

「うわっ!」

 

 

 限界を超えていたロマニの足から力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。それを、ヴァルナが咄嗟に腕を伸ばして無造作に支え止める。

 

「……ごめんごめん。ちょっと立ちくらみがしてね。最近、ロクに寝れていなくて……」

 

「寝たらどうだ」

 

「そういうわけにはいかないさ。僕だけじゃない、職員のみんなも、仮眠を取りながら必死でカルデアを回しているんだ。僕が休むわけにはいかない」

 

 

 ロマニは机の上に散乱していた大量の資料を、トントンと端を揃えてまとめた。

 

 その光景を見て、ヴァルナの脳裏にふと、懐かしい過去の記憶がフラッシュバックした。

 

(……昔も、こんなことがあったな)

 

 

 かつて代行者として活動していた頃。彼にも、報告書の作成や教会の手続きといった「書類仕事」という概念が存在した。

 

 だが、彼は絶望的にその手の事務作業に向いていない。できなくはないが、無駄が多く、異常に時間がかかる。結果として、彼はいつも生真面目で面倒見のいいシスターに、すべての書類仕事を丸投げしていた。

 

『あとは頼んだ』

 

『ちょっと! また私に押し付ける気ですか!? 貴方は本当に体しか動かせない単細胞なんですから!……はぁ、貸しなさい。私がやった方が効率がいいです』

 

 

 

 やけくそ気味にブツブツと文句を言いながらも、完璧に書類を仕上げてくれていた彼女の姿が、目の前で資料をまとめるロマニの姿と重なる。

 

(……俺は、書類整理で力になってやることはできない。俺にできるのは……)

 

 

 ヴァルナは無言のまま、ロマニを支えていた手を離し、自身の胸の前で影絵を作った。

 

「――円鹿」

 

 

 

 ぽわぁん。

 

 管制室の無機質な床の影から、眩いばかりの純白の光を放つ巨大な鹿が、突如として顕現した。

 

 神聖な雰囲気を纏うその姿に、近くでコンソールを操作していた太めのオペレーター――ムニエルが、飲んでいたコーヒーを「ぶっ!」とモニターに吹き出す。

 

「な、なんだァ!?」

 

「ひぃっ!? 鹿!? なんで管制室に鹿が!?」

 

 

 周囲のスタッフたちが一斉に作業の手を止め、驚愕の目を向ける。

 

「おいおい、新人君! ここで式神を展開するなんて……!」

 

 

 ロマニが慌てて制止しようとするが、円鹿はゆっくりとロマニに近づき、その角から温かな反転術式――『正のエネルギー』を、ロマニの身体へと直接流し込み始める。

 

「わっ……!? な、なんだこれ……温かい……?」

 

「特異点Fでモニタリングしていただろう。俺の回復用の式神だ」

 

 

 ヴァルナは円鹿を影へと収納し、呆然としているロマニを見下ろした。

 

「体はどうだ」

 

「……信じられない。三日三晩、ぐっすり眠り込んだ後のように体が軽いよ。まさか、肉体の損傷だけじゃなく、疲労まで回復できるなんて……!」

 

 

 ロマニは自身の腕を回しながら、目を輝かせた。

 

「いやぁ、助かったよ これならあと三日は徹夜できそう……じゃなくて! シミュレーターの準備だね、すぐに行うよ!」

 

 

 完全回復したロマニが、嬉々としてコンソールに向かい、すさまじい速度でタイピングを始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仮想現実のダイブ装置が並ぶシミュレーター室。

 

 ロマニからの準備完了の合図を受け、ヴァルナが装置のポッドに入ろうとした時。

 

「先輩!」

 

 

 背後から、息を切らせたマシュが駆け込んできた。

 

 彼女の手には、盾がしっかりと握られている。

 

「どうかしたか」

 

「その……私にも、一緒に訓練をさせていただけないでしょうか」

 

 

 マシュは真っ直ぐにヴァルナを見つめ、真剣な顔で頼み込んだ。

 

「特異点Fでは、先輩に助けられてばかりでした。フランスへ行く前に……もっと先輩との連携を深めたい。私の盾の精度を、上げたいんです」

 

 

 健気で、力強い願い。

 

 少しだけ考える素振りを見せた後、静かに頷いた。

 

「いいだろう。入れ」

 

 

 ポッドに入り、意識が仮想空間へとダイブする。

 

 

 視界が光に包まれ、次に目を開けた時。

 

 彼らが立っていたのは、鬱蒼とした木々が生い茂る『深い森の中』だった。

 

 土の匂い、木々の間から差し込む木漏れ日、そして肌を撫でる風の冷たさ。

 

『えー、聞こえるかい二人とも。環境のセットアップは完了した。仮想敵(エネミー)のプログラムはどうする? ゴブリンの群れにする? それともワイバーンにするかい?』

 

 

 

 ロマニの通信が響く。

 

 マシュが盾を構え、どこから敵が現れてもいいように警戒態勢をとる。

 

「不要だ」

 

 

 だが、ヴァルナの答えは予想外のものだった。

 

『えっ? 不要って、じゃあ誰と訓練するんだい?』

 

「マシュがいるだろう。俺とこいつで、模擬戦をする」

 

 

 その言葉に、マシュは「えっ!?」と間の抜けた声を上げた。

 

「せ、先輩と私が、戦うんですか!?」

 

「ああ。エネミーの動きはプログラムされたパターンの域を出ない。それよりも、俺がお前の盾を直接叩いた方が、実戦での判断力と耐久力の向上に繋がるだろう」

 

 

 俺は教えるのが上手くないから体で覚えろ、と言わんばかりに、マシュの正面に立って自身のコートの裾を軽く払う。

 

「遠慮は不要だ。お前の持てる全力で、防ぎ切ってみろ」

 

「わ、分かりました……! 行きます、先輩!」

 

 

 マシュが覚悟を決め、盾を前方に構えて踏み込む。

 

 デミ・サーヴァントの筋力が爆発し、大質量を持ったシールドバッシュがヴァルナ目掛けて放たれる。

 

 

 

 

 

 だが。

 

 ヴァルナの姿は、マシュの盾が当たる直前に、幻のようにフッとその場から掻き消える。

 

「――っ!?」

 

「遅い。踏み込みの初動が大きすぎる」

 

 

 声は、マシュの真横から聞こえた。

 

 異常な体捌き。縮地とも呼べるステップでマシュの死角に潜り込んだヴァルナが、強化を施した容赦のない『右の回し蹴り』を、マシュの脇腹目掛けて叩き込む。

 

 

 

 

 

 

 

 ドガァァァァンッ!!

 

 

「きゃああっ!?」

 

 

 強烈な衝撃が盾の縁を掠め、マシュの体が森の木々を薙ぎ倒しながら、近くの小川の川辺まで吹き飛ばされた。水しぶきが上がり、彼女は泥だらけになって地面を転がる。

 

「く、うぐっ……」

 

「立て。敵は待ってくれないぞ」

 

 

 

 小川の対岸に、いつの間にかヴァルナが立っている。

 

 

 どこにも隙のない流麗な構えだ。

 

「俺のこの動きに対応できるなら、英霊の速度にも十分ついていけるはずだ。……お前の盾は、ただの防壁じゃない。絶対の硬度を持った『質量兵器』だ。それを忘れるな」

 

 

 

 厳しい、容赦のない指導。

 

 だが、マシュはその言葉の裏にある「彼女の生存率を少しでも引き上げようとする」不器用な優しさを、痛いほどに感じ取っていた。

 

「……はいっ!!」

 

 

 マシュは泥だらけになりながらも立ち上がり、川の水を蹴り立てて再びヴァルナへと突進する。

 

 

 

 

 

 右、左、上段からの振り下ろし。

 

 マシュの猛攻を、ヴァルナは最小限の動きで捌き、いなし、時には呪力を込めた掌底で盾ごと弾き返す。

 

 

 

 

 

 

 ガガァァンッ! バギィィンッ!!

 

 

 森の中に、金属の激突音と呪力の破裂音が何度も何度も木霊する。

 

 吹き飛ばされては立ち上がり、叩きつけられては盾を構え直す。

 

 

 泥臭く、しかし確実な経験値の蓄積。

 

 ヴァルナの理不尽なまでの体術を肌で感じながら、マシュの盾の軌道は少しずつ、だが確実に無駄を削ぎ落とし、鋭さを増していた。

 

「……悪くない」

 

 

 マシュの盾が初めてヴァルナの頬を微かに掠めた時、彼は嬉しそうに口角を上げた。

 

 管制室のモニター越しに、泥だらけになって殴り合う二人の姿を見守っていたロマニは、コーヒーを啜りながらポツリと呟いた。

 

『……なんだか、本当に兄と妹みたいだな』

 

 

 第一特異点へのレイシフトを数日後に控え、彼らの間には、血と汗と呪力によって結ばれた、確かな信頼の絆が静かに深まりつつあった。

 

 

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