Fate/Grand Order : 冠位影法録(グランドオーダー・シャドウレコード) 作:りー037
【時刻:1431年 某月某日 ??:??】
【場所:第一特異点 邪竜百年戦争 オルレアン・近郊の森】
木々の隙間を縫って吹き込む風が、ふいにその温度を下げた。
焦げた肉の匂いとは違う、もっと生々しく、獣の体臭と血の匂いが混ざり合った濃密な悪臭。
ピクッ、とヴァルナ・クロスの足元に落ちる濃い影が、主の意思を先取りするように微かに波打った。
「……来るか」
ヴァルナは極めて平坦な声で呟き、森の奥――木々が最も密集し、暗がりが深くなっている方角へと視線を向けた。
ガサリ、と重い足音が下草を踏み荒らす音が響く。一つではない。二つ。
ワイバーンのような巨体ではないが、明らかに人間のものではない異常な質量を持った四足歩行の気配だ。
「……マスター。竜の匂いだけじゃありません。魔獣です」
マシュ・キリエライトが即座にヴァルナの前に進み出た。
身の丈ほどもある白亜の十字盾をドンッ、と大地に突き立て、重心を深く沈める。特異点Fでの幾多の死線を潜り抜けた彼女の構えには、もはや素人特有の迷いや隙は一切なかった。
「……ええ。嫌な魔力の気配が、急速にこちらへ近づいてきます」
ジャンヌ・ダルクもまた、マシュの隣へと並び立った。
純白の鎧をカチャリと鳴らし、身の丈を超える巨大な白百合の旗(ラ・ピュセル)を槍のように鋭く構える。その青い瞳には、先ほどの「魔女」と呼ばれた哀しみは微塵もなく、ただ目の前の脅威から仲間を守るという純粋な戦意だけが灯っていた。
「……敵の数は二匹だ」
ヴァルナは一歩後ろへ下がり、戦場全体を俯瞰できる定位置へと移動した。
彼の長い十の指が、胸の前で複雑な形に絡み合い、いつでも式神を召喚できる影絵の形(印)を精密に構築していく。
「マシュ、お前はいつも通り前衛だ。敵の攻撃を受け止め、ヘイトを稼げ」
「はい、マスター!」
「ジャンヌ。お前の魔力波長は清浄だが……どうにも出力が安定していない。サーヴァントとしては弱体化しているように見える。無理に前に出るな、気をつけて立ち回れ。基本はマシュの盾を壁にして、その旗で遊撃しろ」
「……はい。ご指示に感謝します、ヴァルナ殿」
自身の不完全さを正確に見抜かれたことに微かな驚きを見せつつも、ジャンヌは素直に頷いた。
「俺は周囲の警戒と、状況の分析に回る。何かあれば介入するが……二匹程度なら、お前たちで十分に捌けるはずだ」
ヴァルナの声音には、一切の焦りがない。
それは冷酷な突き放しではなく、マシュとジャンヌの実力を正確に算出した上での、理詰めの信頼。
グルルルルルゥゥゥッ!!!!
森の暗がりから、二つの異形が飛び出してきた。
体長三メートルを超える、狼と獅子を掛け合わせたような筋骨隆々の魔獣。その全身は岩のように硬そうな漆黒の体毛に覆われ、顎にはノコギリのような無数の牙が並んでいる。
狂気に爛れた真っ赤な双眸が、清浄な魔力を放つジャンヌと、それを庇うように立つマシュを明確な「餌」として捉えていた。
「来ます……っ!」
マシュの警告と同時。二匹の魔獣が、全く同じタイミングで地面を蹴った。
凄まじい脚力。重戦車のような質量が、時速百キロを超える速度で一直線にマシュの盾へと激突する。
ガガァァァァァンッ!!!!
鋼鉄と骨が軋むような、鼓膜を劈く轟音が森に響き渡った。
二匹同時の体当たり。常人なら即座に肉片となるその運動エネルギーを、マシュは盾の裏に肩を密着させ、全身のバネを使って完璧に受け流した。
ズザザザッ、と彼女のブーツが土を深く抉りながら数メートル後退するが、その防衛線はミリ単位たりとも崩壊していない。
「今です、ジャンヌさん!!」
「――はぁぁぁっ!!」
マシュの壁の裏側から、一陣の風のようにジャンヌが飛び出した。
盾との衝突で一瞬だけ動きが止まった右側の魔獣の頭部目掛け、白百合の旗の硬質な石突きを、槍の刺突の如く鋭く突き出す。
ドゴォォンッ!!
魔力を帯びた痛烈な一撃が魔獣の顎を捉え、その巨体を横方向へと大きく弾き飛ばす。
しかし。
(……浅いな)
後方でその攻防を観察していたヴァルナの硝子のような瞳が、極めて冷徹にその一撃の威力を評価した。
本来のジャンヌ・ダルクであれば、あの質量の一撃なら頭蓋ごと粉砕できただろう。だが、今の彼女は不完全な召喚のせいで筋力も魔力出力も著しく低下している。弾き飛ばされた魔獣はすぐに体勢を立て直し、怒り狂った咆哮を上げて再び襲い掛かってきた。
「グルァァァァッ!!」
左側の魔獣がマシュの盾を迂回し、態勢を崩しているジャンヌへと鋭い爪を振り下ろす。
「させませんっ!!」
マシュが即座に盾を横に薙ぎ払い、その爪撃を弾き返した。そのまま盾の表面で魔獣の胴体を強打し、ジャンヌから強引に引き剥がす。
マシュが防御し、ジャンヌが攻撃する。
その陣形自体は間違っていない。だが、ヴァルナの目から見れば、その連携には明らかに「歪み」が生じていた。
(……マシュの動き自体は、初めの頃と比べれば格段に良くなっている。盾の重心の置き方、受け流しから打撃への移行。肉体の使い方が『サーヴァント』としてのそれに順応しつつある)
ヴァルナは静かに息を吐きながら、戦闘の推移をデータとして脳内に蓄積していく。
(だが、カバーの意識が強すぎる。ジャンヌが本調子でない、そして彼女が『不完全で脆い』と認識してしまっているせいで、マシュの意識が『敵を倒すこと』よりも『ジャンヌを庇うこと』に偏っている)
事実、マシュの立ち位置は、ジャンヌを守るために本来よりも半歩ほど敵に近づきすぎていた。
盾の可動域が狭まり、防御の要であるマシュ自身が攻撃の余波を受けやすい危険な間合いだ。
「……マシュ」
ヴァルナの、戦場の喧騒の中でも不思議とよく通る平坦な声が響いた。
「敵との間合いが近すぎる。お前は今、ジャンヌを庇うことに意識を割きすぎて、自分の防御範囲(テリトリー)を自ら狭めている」
「えっ……!?」
魔獣の爪を弾き返しながら、マシュがハッとして目を見開く。
「連携において、お前の役割は『壁』だ。もっと引け。ジャンヌの攻撃範囲と自分の防御範囲の重なる『点』を正確に見極めろ。攻撃は、彼女の旗に任せておけばいい」
ヴァルナの指示は、的確で、残酷なほどに理詰めの最適解だった。
真面目なマシュの「誰かを守りたい」という焦りを、冷や水を浴びせるように冷静に軌道修正する。
「……はいっ!!」
マシュは即座にヴァルナの指示に従い、ステップを踏んで半歩後ろへと後退した。
その瞬間、彼女の盾の可動域が一気に広がり、二匹の魔獣の動きが急に窮屈になったように見えた。
「いきます……主よ、この身に力を!!」
マシュが作った完璧な防御の壁の裏から、ジャンヌが再び跳躍した。
今度は迷いがない。マシュが完全に敵の意識を引きつけている間に、ジャンヌは全身のバネと魔力を旗の切っ先に集中させ、一匹目の魔獣の胴体目掛けて渾身の刺突を放った。
ズバァァァァッ!!
清浄な魔力が魔獣の分厚い毛皮を貫き、その内臓を深く抉り取る。
「ギャァァァァァァッ!?」
致命傷を負った一匹目の魔獣が、大量のどす黒い血を吐き出しながら痙攣し、そのまま絶命して地面に崩れ落ちた。
「やりました! 残るは一匹――」
マシュが安堵の声を上げた、その瞬間だった。
「キシャァァァァァッ!!!!」
仲間の死によって完全に理性を失い、狂乱状態に陥った残る一匹の魔獣が、マシュの盾を無視して、空中にいるジャンヌへと直接飛びかかったのだ。
常軌を逸した跳躍力。
「ジャンヌさん!!」
マシュが盾を掲げようとするが、間に合わない。
ジャンヌは空中で体勢を捻り、咄嗟に旗の石突きを魔獣の顔面目掛けて振り抜いた。
グチャッ!!
「ガアァァァァァァッ!?」
旗の先端が魔獣の右目を正確に抉り取る。
だが、それは同時に、魔獣の死に物狂いの反撃を許す結果となった。
激痛に狂い悶える魔獣の巨大な前腕が、力任せに空中のジャンヌの胴体を薙ぎ払ったのだ。
「きゃあっ……!!」
鈍い衝撃音と共に、ジャンヌの華奢な体が宙を舞う。
彼女は咄嗟に身を捻り、地面を転がりながら何とか受け身を取った。純白の鎧が土に塗れ、口の端から微かに血が流れる。
「ガ、グルルルルルルゥゥゥゥッ!!!!」
右目から大量の血を流しながら、魔獣が倒れ伏したジャンヌを明確な標的と定め、その巨大な顎を大きく開いて飛びかかった。
ジャンヌは痛みを堪えて立ち上がり、急いで旗を構えようとする。
だが、その魔獣の牙が彼女の喉元に届くよりも遥かに早く、背後の『影』が動いた。
「――玉犬・黒」
平坦で、しかし絶対的な命令。
ジャンヌの足元、そして周囲の木々が落とす濃い影の海から、音もなく『それ』は顕現した。
深い漆黒の毛並みを持つ、巨大な狼の式神。
「え……?」
ジャンヌが呆然と見開いた視界の先。
飛びかかってきた魔獣の横腹に、影から飛び出した玉犬・黒の牙と爪が、まるで最初からそこに配置されていたかのような完璧なタイミングで突き刺さった。
ヴァルナの極限まで圧縮された呪力によって強化された玉犬の爪は、魔獣の岩のような硬度の毛皮を、まるで濡れた紙のように容易く引き裂いた。
ズバァァァァァァンッ!!!!
「ギ、ァ……!?」
悲鳴すら上げる暇はなかった。
玉犬・黒の恐るべき咬合力と切断力が、魔獣の胴体を真っぷたつに噛み砕き、その内臓と骨を四散させる。
どしゃり、と。二匹目の魔獣だった肉の塊が、ジャンヌの目の前に血飛沫を上げて崩れ落ちた。
静寂。
森に響くのは、玉犬・黒が鼻息を鳴らす音と、ポタポタと滴る魔獣の血の音だけになった。
「……」
ジャンヌは目を見開き、自身の命を救った漆黒の狼を見上げた。その狼は敵を屠った後、主であるヴァルナの足元へとトコトコと戻り、そのまま影の中へと溶けるようにして消えていった。
カツ、カツ、と。
一切の焦りを感じさせない静かな足音を響かせ、ヴァルナが歩み寄ってくる。
彼はジャンヌの目の前で立ち止まると、感情の読めない硝子のような瞳で彼女を見下ろした。
「……大丈夫か」
極めて短い、だが確かな気遣いの言葉と共に。
ヴァルナは、土に塗れた聖女へ向かって、己の長い右手をそっと差し伸べた。
【時刻:同日 20:30頃】
【場所:第一特異点 邪竜百年戦争 オルレアン・近郊の森 野営地】
すっかり日が落ちた森の奥深く。
パチパチと薪が爆ぜる音と、微かな煙の匂いが、夜の冷え込みを和らげていた。
ヴァルナが手際よく組み上げた小さな焚き火を囲むようにして、三人は丸太に腰を下ろしている。燃え盛る赤い炎が、彼らの顔に濃い影を落としては揺らめいていた。
「……先ほどは、本当にありがとうございました」
ジャンヌ・ダルクは、自身の膝の上に乗せた両手をきつく握り締め、炎を見つめながらポツリと呟いた。
「私一人で戦うなどと……。もし貴方たちがいなければ、私はあの魔獣に喉を食い破られて、何も成せずに消滅していたでしょう」
彼女の声には、己の未熟さへの深い自責が滲んでいた。
「……ですが、今はとても心強いです。貴方たちのような方々と肩を並べて戦えることが、本当に嬉しい」
ジャンヌは顔を上げ、ヴァルナとマシュに向かって、偽りのない感謝の微笑みを向けた。
「気にするな。お前の持つ魔力ポテンシャルは決して低くない。ただ、出力の回路が目詰まりを起こしているだけだ」
ヴァルナは木の枝で焚き火を突っつきながら、平坦な声で返す。
「それに、まだ連携の初日だ。完璧に動けないのは当然の計算内に入っている」
慰めでも謙遜でもない、ただの事実の確認。その徹底してフラットな態度が、逆にジャンヌの肩の力を抜かせていた。
マシュはパチパチと鳴る炎を見つめながら、少し言い淀むように口を開いた。
「……ジャンヌさん。少し、不躾なことをお聞きしてもいいですか?」
「はい。何でしょう、マシュ殿」
「その……街道で、彼らを助けたのに『魔女』と呼ばれてしまったこと。……気にして、いませんか?」
マシュの控えめな気遣い。
理不尽な迫害。かつて命を懸けて守ったはずの民衆からの、呪いのような言葉。それがどれほど彼女の心を傷つけたか、マシュには痛いほど想像できたからだ。
だが、ジャンヌは静かに、そしてきっぱりと首を横に振った。
「大丈夫です。もちろん、私自身が『魔女』だと誤認されてしまうことは、とても悲しいことですが……それは、仕方のないことなのです」
彼女の青い瞳は、憎しみではなく、どこまでも深く人に寄り添う慈愛に満ちていた。
「本来の歴史であれば、私がルーアンの広場で火刑に処されたのは、ほんの数日前の出来事です。……炎に焼かれたはずの私が蘇り、竜を操って虐殺を行っているとすれば、民衆が私を恐れ、憎むのも無理はありません」
怒りすらも飲み込み、彼らの恐怖を理解しようとする気高さ。
「今は、ただ真実を証明するしかありません。私と瓜二つの『竜の魔女』を、この手で討ち果たすこと。……それが、私にできる唯一の贖罪であり、救済です」
ジャンヌの確固たる決意を聞き届け、ヴァルナは短く息を吐いた。
「……目的がブレていないなら、それでいい」
彼は木の枝を火に投げ込み、今後の戦術方針へと話題を切り替えた。
「しばらくの間、俺たちは斥候に徹する。敵の戦力規模、竜の発生源、そして『竜の魔女』の現在地。すべてが不明な見知らぬ土地だ。今は率先して情報を集めるフェーズだと認識しろ」
「はい、マスター。無闇な戦闘は避け、生存と情報の持ち帰りを最優先ですね」
「ああ。目的はシンプルだが、敵の物量と狂気を考えれば達成は極めて困難だ。慎重に動くぞ。……今日はもう暗い。これ以上の移動はリスクが高い。明日の早朝に出発する」
ヴァルナの端的な指示に、マシュとジャンヌは同時に頷いた。
「では、ヴァルナ殿」
ジャンヌが、少し心配そうな表情でヴァルナを見た。
「貴方はサーヴァントとは異なり、生身の人間です。今のうちに眠って休息を取るべきです。見張りは、私とマシュ殿で交代で行いますから」
サーヴァントは魔力さえ供給されていれば、基本的に睡眠を必要としない。だが、人間であるヴァルナの肉体には間違いなく疲労が蓄積しているはずだ。
「……そうだな」
ヴァルナはあっさりとその提案を受け入れる。
「お言葉に甘えよう。何かあれば、すぐに起こしてくれ」
彼は木を背にして座り直すと、腕を組んでゆっくりと目を閉じた。
そして、わずか数秒後。
彼の呼吸は一定のリズムを刻み始め、周囲の魔力や殺気を感知する最低限の『呪力の被膜』だけを残して、完全に深い眠りへと落ちていった。
静かな森の中、薪が爆ぜる音だけが響く。
「……もう、寝てしまわれたのでしょうか?」
ジャンヌが信じられないというように小声で問いかけた。
「はい。……どうやら、完全に熟睡しているようです」
マシュは苦笑いしながら、スースーと静かな寝息を立てる自身のマスターを見つめた。
「先輩は、どこでもすぐに眠れる方のようです。カルデアで初めてお会いした時も、所長の大事な説明会の最中にも、すぐ寝ていましたし……特異点Fの火の海の中でも、少し時間が空けば平然と眠っていましたから」
「ふふ、本当に……不思議な方ですね」
ジャンヌもまた、微かに口元を綻ばせた。
パチッ、と。
火の粉が弾け、二人の少女の間に一時的な沈黙が降りた。
「……あの、ジャンヌさん」
マシュが、焚き火の炎を見つめたまま、静かに口を開いた。
「詮索するつもりはないのですが……貴方はまだ、私たちに何か『言っていないこと』があるのではないですか?」
「え……?」
ジャンヌの肩が、ビクッと跳ねた。
「なんとなく、そう思ったんです。……貴方の瞳の奥に、さっきとは違う、不安のようなものが揺れているように見えて」
マシュの紫色の瞳が、ジャンヌを真っ直ぐに見つめる。それは追及ではなく、純粋な仲間としての心配だった。
ジャンヌはしばらくの間、自身の膝に置かれた手をきつく握り締めていたが、やがて観念したように深く息を吐き出した。
「……マシュさんには、敵いませんね」
彼女は痛ましげに目を伏せ、ポツリポツリと、心の奥底に隠していた本音をこぼし始めた。
「……私というサーヴァントが不完全なせいか、それとも、死んで間もないせいかは、わかりません」
ジャンヌの声が、微かに震える。
「英霊の座には、過去も未来もないと聞きました。ですが……今の私には、自身の歴史や世界の情報といった『記録』に触れる力が、まったく備わっていないのです」
知識がない。スキルが使えない。
それは単に「弱い」ということではない。サーヴァントとしての『自身の在り方』が定義できないという、根源的な恐怖だった。
「……今の私は、サーヴァントとしての新人のような感覚です。まるで、生前の……あの、剣を持ったばかりの初陣のような、ひどく心許ない気分なのです」
ジャンヌは、眠っているヴァルナの方へと視線を向けた。
「ヴァルナ殿は、私を『美しい聖女だ』『本物だ』と……そう、真っ直ぐに言ってくださいました。その言葉に、私はどれほど救われたか」
だが、と。彼女は唇を噛む。
「今の私には、その言葉に見合うだけの力がありません。……期待に応えることができないのではないか。貴方たちの、足手まといになってしまうのではないかと……それが、怖いのです」
救国の聖女が抱える、あまりにも人間らしく、脆い不安の吐露。
すべてを打ち明け終えたジャンヌは、ただ下を向いて震えていた。
しかし。
「――それなら、大丈夫です」
迷いのない、凛とした強い声が、夜の森に響いた。
ジャンヌが驚いて顔を上げると、そこには、焚き火の明かりに照らされたマシュの、強い意志を宿した瞳があった。
「……マシュ、さん?」
「私自身も……まだ『初陣』みたいなものです」
マシュは自身の巨大な十字盾にそっと手を触れながら、優しく微笑んだ。
「私は、自身の内に英霊を宿したデミ・サーヴァントです。ですが、私に力を貸してくれた英霊の真名も、この盾の真の力も、引き出すことができていません。……ジャンヌさんと同じ、英霊としての力をフルに発揮できない、不完全な新人なんです」
「貴女も……?」
「はい。特異点で初めて実戦を経験した時、私は自分の力に絶望しかけました。足手まといになってしまうと……そう思ったからです」
マシュの脳裏に、崩落する天井を素手で支え、血まみれの自分を真っ直ぐに見下ろしていた、あの黒衣の異邦人の姿がフラッシュバックする。
『造られた命だろうが、寿命が短かろうが、お前は今、生きている。死を受け入れるのは、すべての足掻きを終えてからにするべきだ』
「でも、先輩は……不完全な私を、ただ『生きろ』と肯定してくれました」
マシュは、静かに眠るヴァルナの横顔を見つめた。
「先輩は、強い人です。とても、強い人です。……ですが、あの人は『強いから戦っている』わけではないのだと、私は思うんです」
出会ってから、まだ数日しか経っていない。
彼の言葉数は少なく、感情は読めず、時に残酷なまでに合理的だ。
それでも、マシュは彼の魂の形を、誰よりも近くで見てきた。
「先輩は、義務感でもなく、責任感でもなく……ただ、自分の『在り方』を全力で貫いているだけなんです。偽りを嫌い、本物を尊び、己の眼で見たものだけを信じる。……あの人は、私たちが不完全であることなど、最初から気にしていないはずです」
マシュは再びジャンヌに向き直り、その両手をしっかりと握り締めた。
「先輩が貴女の背中を預けると言ったのは、貴女が『強いサーヴァント』だからではありません。……貴女の、その『魂』を信じたからです」
真っ直ぐで、力強い、後輩からの誓い。
「だから、大丈夫です。私たちが不完全なら、補い合って……頑張りましょう」
薪がパチリと爆ぜる。
心の奥底に巣食っていた冷たい恐怖が、確かな温もりによって溶かされていく。
「……はい。……ありがとうございます、マシュさん」
ジャンヌは瞳を拭い、今日一番の、本当に美しく、安心したような笑顔を咲かせた。
夜の森を抜ける風は冷たい。
だが、小さな焚き火を囲む不完全な少女たちの心には、もう迷いはなかった。
二人の密談を、静かな寝息を立てる彼だけが、ただ微動だにせずに聞き届けていた。