Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【閑話】特異点への幕間:無垢なる天使と、虚勢の車椅子、そして名前を呼ぶための数センチ

 静寂。

 

 無機質な白で統一された医務室には、規則正しい電子音と、微かな寝息だけが満ちていた。

 

 シミュレーター空間での限界を超えた特訓を終え、マシュ・キリエライトは泥のように深い眠りに落ちている。

 

 ヴァルナは、彼女のベッドの傍らに置かれた簡素なパイプ椅子に深く腰掛けたまま、その寝顔をぼんやりと眺めていた。

 

 彼女のバイタルは正常値を取り戻しつつあり、デミ・サーヴァントとしての驚異的な回復力が、酷使された筋肉の繊維と魔力回路を修復しているのが感じ取れる。もう心配はない。

 

 

 

 そう判断し、自室へ戻ろうとしたのだが。

 

 心地よい静けさと、カルデアの空調がもたらす一定の温度の中、彼はいつの間にか目を閉じ、パイプ椅子に背を預けたまま、浅い眠りへと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――そして、彼は夢を見た。

 

 否、それは彼自身の記憶から構成された夢ではない。

 

 マスターとサーヴァント。魂と魂を繋ぐ魔術的な『パス』が、眠りという無防備な状態において混線し、互いの深層意識を共有させる現象。

 

 

 彼は、マシュ・キリエライトという少女の『過去の光景』を追体験(トレース)していく。

 

『……』

 

 

 

 

 真っ白な部屋。窓のない無菌室。

 

 それが、彼女の知る「世界」のすべてだった。

 

 ヴァルナは感情の動かない瞳で、その残酷な記憶の断片を眺める。

 

 カルデアという人類救済を掲げる組織の、最も暗く、非人道的な深部。前所長マリスビリー・アニムスフィアが進めていた「デミ・サーヴァント実験」の被検体として、彼女は生み出される。

 

 優れた魔術回路を持つ魔術師の遺伝子を掛け合わせて作られたデザイナーベビー。生まれながらにして「実験材料」という運命を背負わされ、人工的な遺伝子調整の代償として、彼女の細胞には『最高でも十八歳前後までしか生きられない』という残酷な寿命(リミット)が設定されていた。

 

 

 

 物心がつく前から、彼女の小さな体には、英霊の魂を憑依させるための過酷な霊媒実験が繰り返される。

 

 そしてある時、ついに一騎の英霊(ギャラハッド)の召喚・憑依に成功する。だが、その高潔なる英霊は、カルデアの非人道的な実験に激怒し、マシュの体を乗っ取ることも、力を貸すことも拒否して、彼女の魂の奥底で深く眠りについてしまったのだ。

 

 

 結果として、実験は「失敗(凍結)」扱いとなる。

 

 

 外の世界を知らない。空の青さも、風の冷たさも、土の匂いも。

 

 すべては部屋にある端末のモニターから得た「知識」でしかない。

 

 拒絶した英霊が彼女の命を辛うじて繋ぎ止めている状態であったため、彼女はカルデアの無菌室から一歩も出られない、孤独な日々を送り続けた。

 

 

 

 だが、その絶望的な白の世界にも、小さな温もりが存在した。

 

『やあ、マシュ。今日の調子はどうだい?……ふふっ、そんなに警戒しないでくれよ。僕はただ、君と話をしたいだけなんだ』

 

 

 彼女の主治医となったロマニ・アーキマン。

 

 彼はマシュを「実験体」としてではなく、「一人の人間」として扱った。多くの対話を通じて、不器用に、しかし真摯に、彼女に人の温かさや「心」の在り方を教え続けた。

 

 

 

 静かにその光景を見届ける。

 

 過酷な境遇。だが、彼女はその運命を恨むことはしない。ただ静かに、訪れるであろう短い寿命の終わりを、凪いだ水面のような心で受け入れようとしていた。

 

 

 

 

 

 ――あの日、彼と出会うまでは。

 

 

 夢の景色が反転する。

 

 燃え盛る炎、崩れ落ちる瓦礫、鼓膜を劈く爆発音。

 

 特異点Fへのレイシフト直前、カルデア中央管制室で起きた破壊工作の瞬間。

 

 下半身を巨大な瓦礫に押し潰され、致命傷を負って死を待つばかりのマシュ。

 

 そこに、瓦礫を退け、無表情のまま彼女を見下ろす男が現れた。

 

 

 ヴァルナ・クロス。彼自身の姿だった。

 

 夢の中で、ヴァルナは『マシュの視点』から、自分自身を見上げる。

 

 炎の照り返しを受ける、硝子のように感情の読めない瞳。

 

 

 だが、その男は迷うことなく、死にゆく彼女へと右手を差し伸べた。

 

 

『先輩……手、が……あたたかい、です……』

 

『そうか。お前は冷たいな』

 

『……ふふ、先輩は、本当に……変な人、ですね……』

 

 

 ヴァルナにとって、それは「ただ目の前に助けられそうな命があったから、手を伸ばしただけ」の行為。そこに深い意味も、意義も、崇高な目的もなかった。いつものように、ただ最適解を実行したに過ぎない。

 

 

 

 

 

 だが。

 

 マシュの心と深くリンクした今、彼は初めて理解する。

 

 

 あの無骨で無感情な彼の手のひらの温もりが、孤独な無菌室で死を受け入れようとしていた少女にとって、どれほど鮮烈で、衝撃的な『光』だったのかを。

 

 自分の人生を、運命を、根底から歪めるほどの巨大な引力。

 

 戦いは怖い。傷つくことも怖い。短い寿命で死ぬ運命にある自分が、外の世界に出ることなど許されないと思っていた。

 

 それでも、彼女の魂の奥底で眠っていた英霊の力を目覚めさせ、自身の身の丈ほどもある重厚な盾を手に取って戦場に立つ理由。

 

 

 

 

 

 ――この人を、守りたい。

 

 そのためなら、敵がどんな強大な神話の存在であろうと、どんな化け物であろうと立ち向かえる。

 

 少女の魂に、そんな鋼のような強い意志が芽生えるに至った、決定的な出来事。

 

 

 手を握られた、あの瞬間の感触。

 

 あの日、あの燃え盛る炎の中で、彼女は『運命』に出会ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 うつらうつらとした意識の底から、ヴァルナはゆっくりと浮上した。

 

 どうやら、簡素なパイプ椅子に座ったまま、かなり深く寝入ってしまっていたらしい。

 

 

 ゆっくりと目を開ける。

 

 視界には、清潔な白いベッドと、そこで穏やかな寝息を立てるマシュの姿。

 

「……ん?」

 

 

 ふと、自分の右腕が妙に重いことに気づく。

 

 視線を落とすと、ベッドの横にだらりと垂らしていた彼の手を、眠っているマシュが両手でしっかりと握りしめ、あろうことか自分の胸元へと抱き込むようにしてホールドしていたのだ。

 

 

 寝返りを打った拍子に無意識に掴んだのだろう。

 

 軽く引っ張ってみたが、彼女の腕の力はビクともしない。

 

 微かな「すーっ、すーっ」という規則正しい寝息の音。そして、彼の右腕を包み込む、少女特有の体温と柔らかな感触。

 

 

 

 かなり長時間、この体勢で寝てしまっていたようだ。

 

 小さく息を吐きながら、ヴァルナは空いた左手で自分の首の裏を揉みほぐし、周囲の気配へと意識を向ける。

 

 

 

 

 

 

 

 バタバタバタッ!!

 

 医務室の扉の向こう、廊下の方から、慌ただしい足音と職員たちの声が聞こえてくる。

 

(……騒がしいな)

 

 

 第一の特異点の正確な座標が固定されたか、レイシフトの最終準備に入ったか。

 

 漠然とそう考えたが、ヴァルナは「まあ、どうでもいいか」と一瞬でその思考を断ち切る。彼が動くべき時が来れば、ロマニなりダ・ヴィンチなりが必ず呼びに来るはずだ。

 

 

 

 

 彼は再び、自分の右腕を大切そうに抱え込んでいるマシュの寝顔へと視線を落とす。

 

(……そうか。そういう境遇だったか)

 

 

 パスを通じて垣間見た、彼女の過去。

 

 作られた命。短い寿命。運命を他者に弄ばれた人生。

 

 その残酷な事実を前にして、ヴァルナの硝子のような瞳の奥に、ほんの少しだけ、熱を帯びた感情が揺らぐ。

 

 

 

 それは同情ではない。哀れみでもない。

 

 不幸な人間など、この世に腐るほどいる。彼は死徒に家族を喰われた者、悪霊に魂を汚染された者、魔術師の実験の犠牲になった子供たちを、それこそ山のように見てきた。

 

 

 

 成功する人間がいれば、失敗する人間もいる。

 

 幸福な人間がいれば、理不尽に不幸になる人間もいる。

 

 全員が成功することなどあり得ないし、平等に幸福になることなどあり得ない。

 

 

 彼は、それを間違っているとは思っていなかった。

 

 すべての人間が、一切の苦労なく思い通りの人生を歩むことができる世界があるとしたら、それは人の世界ではなく、神が作り上げた無機質な箱庭に過ぎない。

 

 何をすることもなく、努力することもなく、ただ望む幸福が与えられるだけの世界に、命の価値など生まれない。

 

 

 失敗があり、不幸があり、残酷な出来事が星の数ほど存在するこの世界。

 

 ヴァルナ・クロスは、そんな理不尽な世界を『悪』だとは微塵も思っていないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 だが。

 

 彼女の生き方には、深く思うところがある。

 

 あれほど苛烈で、救いのない境遇に置かれていながら。

 

 彼女の心には、世界に対する『恨み』が一切ない。誰かを呪う『悪性』がない。

 

 あるのは、純粋な『善性』と、他者を思いやる『慈愛』だけ。

 

「……あまりにも、善良」

 

 

 その低く静かな声に反応したのか、マシュは「んぅ……」と小さく寝息を漏らし、ヴァルナの腕を抱えたままモゾモゾと体をよじる。

 

 

 

 起きる気配はない。

 

 その柔らかな寝顔を見つめ続ける。

 

(あまりにも、いびつだ。あんな生き方を強いられた者が、どうして無垢に人々を信じることができる? どうして、赤の他人のために己の命を懸けて盾を構えることができる?)

 

 

 

 だが、彼女はそれをやっている。

 

 現実に、己の命を削って彼の前に立ち、すべてを守ろうとしている。

 

「……そんなこと、あり得るのか」

 

 

 彼にとって、それは理解の範疇を超える『奇跡』のような生態。

 

(……あぁ、そんなことが)

 

 

 彼女の体にしっかりと抱え込まれていた右腕を、彼女を起こさないように、極めて慎重に、ゆっくりと引き抜く。

 

 腕の温もりが消えて少しだけ寒そうに身を縮めた彼女の肩に、ずれていた白い掛け布団を丁寧に掛け直す。

 

 

 

 彼は、音を立てずにパイプ椅子から立ち上がった。

 

 慌ただしく職員が走り回る廊下の喧騒を背に聞きながら、彼は眠る少女に向けて心の中で静かに祈りながら。

 

(……これから始まる聖杯探索の旅が、お前にとって良きものであるといい)

 

 

 感情の起伏を持たないはずの男。

 

 彼の中に存在する、すべてを傍観者として眺める『残酷なほど平等な天秤』が。

 

 その瞬間、彼自身も無意識のうちに、ほんの少しだけ、彼女の側へと偏った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医務室を後にしたヴァルナは、まっすぐに自身の個室へと戻る。

 

 

 レイシフトの時刻が迫っている。その前に、やっておかなければならないことがある。

 

 ヴァルナは胸の前で、片手の薬指と中指の間を広げてもう片方の手を重ね、両親指を耳に見立てた犬の影絵を作った。

 

「――玉犬」

 

 

 床に落ちた彼の影がボコリと盛り上がり、そこから二頭の巨大な犬が姿を現した。

 

 

 真っ白な体毛を持つ『玉犬・白』と、漆黒の体毛を持つ『玉犬・黒』。

 

 特異点では、この二頭を融合させた拡張状態『玉犬・渾』として運用していた。その状態のままセイバーの聖剣による致命的な斬撃を受けたため、現在このように分離させた状態であっても、二頭の腹部には痛ましい裂傷の痕が深々と刻まれている状態だ。

 

『グルルゥ……』

 

『クゥン……』

 

 

 大型犬を優に超える巨体を持つ二頭は、苦しそうに床に寝そべり、荒い息を吐いている。

 

(……やはり、まだ傷が深すぎる)

 

 

 他の式神たちは問題なく運用できるレベルまで回復したが、近接戦闘の要である玉犬だけは、自然回復に任せていてはレイシフトに間に合わない。

 

 通常であれば、影の底に沈めたまま術者の呪力を微量ずつ送り続けて再生を促す。だが、彼はより直接的な手段を取ることにした。

 

 

 ベッドの縁に腰を下ろし、床に寝そべる白と黒の玉犬の頭に、それぞれ両手を添える。

 

「少し、荒療治になるが……我慢しろ」

 

 

 彼の手のひらから、青黒い高密度の『呪力』が直接、二頭の式神の体内へと流し込まれる。

 

 呪術師の負の感情から生み出される呪力は、呪力そのもので構成されている式神たちにとって、最も効率の良い「燃料(餌)」となる。死霊や悪霊などを捕食させればさらに回復は早まるが、今のカルデアにそんな都合の良いものはいない。術者自身の呪力を直接注ぎ込むのが、最も手っ取り早い回復手段だ。

 

『ワォォォン……!』

 

 

 高濃度の呪力を直接注がれる感覚に、二頭が微かに身をよじるが、裂けていた腹部の傷口が、目に見える速度で塞がっていっく。

 

「よし、その調子だ。しっかり喰え」

 

 

 ヴァルナは、二頭の柔らかい毛並みを交互に撫でながら、静かに、しかし絶え間なく呪力を流し込み続けた。

 

 彼の呪力リソースをもってしても、式神の霊体そのものを再生させる作業は集中力を要し、心地よい疲労感を伴う。

 

 

 

 

 

 静かな自室。

 

 式神たちとの呪力の循環。

 

 規則正しい犬たちの呼吸音を聞いているうちに、ヴァルナはいつの間にか、玉犬の頭に手を添えたまま、再びうつらうつらと、深い微睡みの中へと落ちていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――バイタル安定、魔力回路の定着率も九十八パーセント……奇跡だな。いや、君の執念と言うべきかな」

 

 

 医療区画の集中治療カプセルがシューッという排気音と共に開き、ロマニ・アーキマンの安堵の声が響いた。

 

 

 カプセルの中からゆっくりと身を起こしたのは、カルデア所長、オルガマリー・アニムスフィア。

 

 彼女の記憶は、あの炎上する冬木の大空洞で、信頼していたレフ・ライノールに裏切られ、カルデアスへと投げ込まれようとした瞬間で途切れている。

 

「……私、生きているのね」

 

 

 自身の両手を見つめ、指先を動かす。確かな肉体の感覚がある。

 

 レフの言葉が真実であれば、彼女の肉体はカルデア中央管制室の爆発で既に失われ、魂だけの存在になっていたはずだ。

 

「ああ。新人君が、レイシフト崩壊の土壇場でレフから奪い取った『聖杯の欠片』を使って、自身の術式を経由させて君のゴーストと魔力を強引に繋ぎ止めたんだ。」

 

 

 ロマニがタオルと温かい飲み物を渡し、心底ホッとしたように微笑んだ。

 

「まだ起きたばかりだ。再構成されたとはいえ、君の肉体は急造品に近い。今日は一日、絶対に安静に……」

 

「馬鹿言わないで。私が寝ていたら、誰がこのカルデアを指揮するっていうのよ」

 

 

 オルガマリーはロマニの手からタオルをひったくり、毅然とした顔で言い放った。

 

「肉体に問題がないなら、すぐにでも管制室に戻るわ。生き残ったスタッフの把握、施設の復旧状況、レイシフトの演算……やるべきことは山積みなんだから」

 

 

 カプセルから降りようとした彼女の足が、ガクンと崩れる。

 

 再構成されたばかりの肉体と神経が、まだ完全にリンクしていない証拠だ。

 

「ほら、言わんこっちゃない! だからまだ歩くのは無理だってば!」

 

「う、うるさいわね! 足が少し痺れているだけよ!」

 

「はいはい、わかったから。どうしても行くなら、せめてこれに乗って。所長が倒れたら、僕たちが困るんだからね」

 

 

 ロマニがため息をつきながら用意したのは、医療用の車椅子だ。

 

 オルガマリーは悔しそうに唇を噛みながらも、それに大人しく腰を下ろす。

 

「僕はレイシフトの最終調整をしているよ。何かあれば通信機で呼んでくれ」

 

 

 ロマニがひらひらと手を振りながら医療区画を出て行くのを見送ると、オルガマリーは車椅子の操作パネルに手を置き、静かな廊下へと一人で滑り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ウィィィン……。

 

 

 モーターの駆動音だけが、深夜のカルデアに響く。

 

 廊下のあちこちには、爆発の爪痕が痛々しく残っている。黒焦げになった壁、ひしゃげた隔壁、機能を停止した防犯カメラ。

 

 彼女の誇りであったアニムスフィアの結晶は、無残に破壊されている。

 

「……」

 

 

 オルガマリーは顔をしかめ、車椅子を走らせる。

 

 彼女の目的地は、管制室ではない。彼女は一人の男の部屋へと向かった。

 

 

 

 ヴァルナ・クロス。

 

 その名前を、舌の上で転がす。

 

 彼女の脳裏に、カルデアスに吸い込まれそうになったあの瞬間の記憶が、スローモーションのように蘇る。

 

 絶望の中、もう誰の声も届かないと思っていた虚空。そこに、自らの体が消し炭になるリスクも顧みず、限界を超えた跳躍で飛び込んできた黒い影。

 

 

 彼が力強く自分を引き寄せ、その広い胸に抱きとめてくれた感触。

 

 無礼で、失礼で、デリカシーの欠片もない男。

 

 けれど、あの瞬間の彼の腕は、誰よりも温かく、そして絶対に自分を手放さないという強烈な意志に満ちていた。

 

「っ……」

 

 

 ブルブルと首を横に振って、その熱を無理やり冷まそうとする。

 

「べ、別に……違うわよ! ただ、カルデアの所長として、身を呈して私を助けた職員に労いの言葉をかけるのは当然の義務なんだから! そう、これは義務よ!」

 

 

 誰も聞いていない廊下で、一人でブツブツと言い訳を並べ立てる。

 

 そうこうしているうちに、車椅子は彼の個室の前に到着してしまった。

 

「…………」

 

 

 扉の前に立ち、彼女はピタリと動きを止めた。

 

 

 どうしよう。いきなり入って、迷惑がられないかしら。

 

 なんて声をかければいい? 『助けてくれてありがとう』? いや、それじゃ所長としての威厳がない。『アンタの働き、悪くなかったわよ』? いや、偉そうすぎる。

 

 

 

 右往左往すること、およそ五分。

 

 彼女は自分の小心者っぷりに腹が立ち、両手で自分の頬をパンッ! と強く叩く。

 

「私は所長よ! 職員の部屋に入るのに遠慮なんていらないわ!」

 

 

 意を決して、彼女はインターホンも押さずに扉の開閉ボタンを勢いよく叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 プシュゥゥゥッ。

 

「ちょっとアナタ! 所長である私が直々に……って、え?」

 

 

 いつもの勝ち気な態度で声を張り上げて入室した彼女の目に飛び込んできたのは、予想外の光景。

 

 

 

 部屋の中央にあるベッド。

 

 驚くべきことに、彼の足元の床には、真っ白な体毛と漆黒の体毛を持った巨大な二匹の狼が寝そべっており、ヴァルナは、その二匹の頭に手を乗せたまま眠りこけていたのだ。

 

「……どういう状況なの、これは」

 

 

 オルガマリーはあっけにとられ、大声を出したにもかかわらずピクリとも動かない彼を見て、パチパチと瞬きをする。

 

 カルデアでの最初の説明会で、彼が立ったまま目を開けて寝ていたことを思い出す。

 

(本当に、よく寝る男ね……)

 

 

 オルガマリーは車椅子の駆動音を極力抑え、そーっと、足音を忍ばせるように彼に近づく。

 

 

 二匹の狼は彼女の接近に気づいているはずだが、敵意がないと判断したのか、薄く目を開けただけで再び眠りに落ちる。

 

 ベッドのすぐ傍まで近づき、彼女は座ったまま眠るヴァルナの顔を、至近距離でまじまじと見つめた。

 

(……助けて、もらったのよね)

 

 

 ほんの少し、魔が差した。

 

 自分でも何をやっているんだろうと思いながら、彼女は恐る恐る右手を伸ばし、彼の前髪を指先でツン、とつつく。

 

「……おぉ」

 

 

 ほんの少し硬めの髪質。それがなんだかおかしくて、彼女はうんうんと謎の感慨に耽りながら、もう一度ツンツンと小突いた。

 

 

 

 起きる気配はない。

 

(案外、無防備じゃない……)

 

 

 少しだけ調子に乗った彼女は、今度は彼の通った鼻筋に指を這わせようと、そっと手を伸ばす。

 

 

 

 

 

 

 

「何をしてる」

 

 

 底冷えのするような、無機質で平坦な声が至近距離で響いた。

 

「きゃぁぁぁっ!?」

 

 

 オルガマリーは心臓が飛び出るほど驚き、車椅子の上でビクッと肩を跳ねさせる。

 

 見れば、ヴァルナはいつの間にか目を開け、一切の寝起きのまどろみを感じさせない静かな瞳で、彼女の伸ばした手をじっと見据えていた。

 

「お、驚かせないでよ! 起きてるなら起きてるって言いなさいよ!」

 

「今起きたんだ。というか、本当に何をしている。俺の髪に何か付いていたか?」

 

 

 ヴァルナは割と本気で疑問に思っているらしく、自分の髪を片手でガシガシと掻く。

 

「べ、別に! ちょっと用があって来ただけよ!」

 

「そうか。俺の顔に触れることがその用件とやらなら、もう済んだだろ。出て行け」

 

「そ、そんなわけないでしょ!」

 

 

 あまりにも冷たい塩対応に、オルガマリーはどもりながら食ってかかる。

 

 車椅子の彼女と、ベッドの縁に座る彼の目線が、真っ直ぐに交差する。

 

「そ、その……」

 

 

 いざ面と向かうと、用意していた言葉が喉の奥でつっかえる。

 

 彼女はギュッと膝の上で拳を握りしめ、一度深呼吸をしてから、意を決して顔を上げ。

 

「……助けてくれて、ありがとう。アンタが手を伸ばしてくれなかったら、私は本当に消滅していたわ。……カルデアの所長として、いや、オルガマリー・アニムスフィア個人として、アナタにお礼を言いに来たの」

 

 

 

 彼女なりの、最大限の誠意と感謝。

 

 だが、ヴァルナの反応は、相変わらずぶっきらぼうなものだ。

 

「気にする必要はない。俺が勝手にやったことだ。問題ない」

 

「それでもよ! 助けられたのは事実なんだから、お礼くらい言わせなさいよ!」

 

 

 引かない男と、引けない女。

 

 ほんの数時間、だが濃密な死線を共にしたことで、オルガマリーは「この男に遠慮しても無駄だ」ということを完全に理解した。だからこそ、彼女は強引にお礼の言葉を押し売りし続ける。

 

「アンタのその無愛想なところは腹が立つけど、アンタが私の命の恩人だってことは変わらないわ。だから、これは私のケジメよ!」

 

「……分かった、分かった。受け取っておく」

 

 

 ヴァルナはこれ以上言い合っても不毛だと悟り、小さく息を吐いて適当に流した。

 

「それで……アンタは何をしていたの? こんな大きな犬を出して、寝ていたようだけど」

 

「ああ、こいつらか」

 

 

 ヴァルナは足元で眠る二匹の玉犬の頭を軽く撫でた。

 

「メンテナンスだ。重要な主戦力だが、あの黒いセイバーとの決戦でかなり深い傷を負ったからな。俺の呪力を直接流し込んで修復を早めていた」

 

 

(いや、アンタ完全にヨダレ垂らして寝てたわよね……)

 

 

 内心でツッコミを入れつつ、オルガマリーは黙って見守る。

 

「だいぶ塞がってきてはいるが、いきなり実戦に投入するのはリスクがある。リハビリがてら、少しずつ試していくしかないな。……ドクターに言って、シミュレーターを借りるか」

 

 

 そう言って、彼は二匹の式神を自身の影の中へと収納し、部屋の扉へと向かって歩き出す。

 

 

 相変わらず、マイペースな男。

 

 普段の彼女なら、「所長との会話の途中で勝手に席を立つな!」とヒステリックに文句をぶつけていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 だが、今は違う。

 

「……もう、いってしまうの?」

 

 

 ポツリとこぼれた、震えるような声。

 

 同時に、彼女の右手が伸び、通り過ぎようとしたヴァルナの黒いコートの裾を、チョコンと摘むように掴む。

 

 少し前に進めば、簡単に振り解けてしまうような、弱い、弱い力で。

 

「……」

 

 

 ヴァルナは足を止め、振り返る。

 

 彼女の顔は、いつもの勝ち気な所長のものではない。

 

 

 

 すがれるものが何もなく。

 

 爆発で半壊し、スタッフの大半を失った。カルデアの廊下を見た。自身の誇りであった組織の残骸を。

 

 そして、信じ切っていたレフ・ライノールからの裏切り。

 

 一度死亡したという現実を叩きつけられ、聖杯の力で無理やりこの世に繋ぎ止められた命。

 

 

 起きたばかりの彼女は、所長としての責任感と持ち前の虚勢でなんとか現実を受け止め、立っているように見せていた。

 

 だが、その心は限界まで擦り切れ、無意識のうちに『誰かの温もり』という拠り所を探している。

 

 

 

 

 

 

 

 裾を掴む彼女の震える手と、不安に揺れる瞳をじっと見つめ。

 

 

 彼は何を思ったのか。

 

 何も言わず、ただ静かに踵を返し、再びベッドの縁に腰を下ろした。

 

 

 互いに見つめ合う、無言の空間。

 

 自分が思わず弱音を吐いてしまったことに気づき、照れくさくなったオルガマリーは、パッと裾から手を離し、赤くなった顔を少しだけ横に逸らす。

 

「……肉体に、不具合はあるか?」

 

 

 彼なりの、不器用な気遣い。自身を心配してくれたのかと、オルガマリーの胸が微かに踊る。

 

 だが、彼女はそれを必死に隠し、コホンと咳払いを一つ。

 

「も、もう何も問題はないわ。聖杯の再構成は完璧よ。所長として、カルデアの指揮を執る務めを十分に果たせるわ」

 

 

 車椅子に乗りながらも、彼女は胸を張って答えた。

 

「そうか。ならば良かった」

 

 

 頷き、そして――。

 

「一度、肉体を完全に破壊されていたようだからな。どこかおかしくなっている可能性も考えたが、問題ないのであれば何よりだ」

 

 

 

 

 ピシリ、と。

 

 オルガマリーの笑顔が凍りつく。

 

(この男、普通の人間なら絶対に触れないであろうトラウマ部分を、ガンガン踏み抜いてくる……っ!)

 

 

 彼特有のものすごいデリカシー皆無の発言。

 

 あまりの配慮のなさに、怒りを通り越して、もはやドン引きするレベルである。

 

 

 だが、彼女はハァと深く息を吐いた。こいつはこういう男なのだ。悪意があるわけではなく、純粋な事実確認として口にしているだけだと、もう嫌というほど分かっている。

 

「……アンタって、本当にそういうところあるわよね。やれやれだわ」

 

 

 彼女が呆れたようにため息をついた、その時だった。

 

 彼女の反応の意味が分からなかったヴァルナが、ふいに顔を近づけてきた。

 

「え?」

 

 

 

 

 スッ、と。

 

 彼の顔が、オルガマリーの鼻先数センチの距離まで迫ってくる。

 

 

 特異点Fで、初めて彼が彼女の前に現れた時と同じ。

 

 彼は、彼女の言葉だけを信用せず、自身の『目』と『呪力』を使って、彼女の身体的状態に本当に異常がないかを直接確認しようとしただけ。

 

「な、なにを……っ!」

 

 

 だが、される側のオルガマリーからすればたまったものではない。

 

 キスでもしそうになるほどの、異常な至近距離。

 

 彼女は現在車椅子に座っており、逃げることができない。彼の瞳が、自分の顔を舐め回すようにジロジロと観察してくる。

 

 

 

 

 カァァァァッ!!

 

 彼女の顔が一瞬で沸騰し、頭の中が真っ白になる。

 

 心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、呼吸が乱れる。

 

「ち、近いっ! 少し離れなさいよっ!」

 

「……待て。動くな」

 

 

 ヴァルナは彼女の肩を軽く押さえ、さらに顔を近づけて目を細めた。

 

「心拍数が異常に上昇している。顔も赤い。……やはり、肉体の再構成による不具合か? 無理をせず、安静にした方がいいんじゃないか。カルデアの頭が使い物にならなくなるのは、問題だろう」

 

 

 

 

 

 

 ――ザバァァァッ。

 

 オルガマリーの頭から、見えない冷水が浴びせかけられた。

 

 顔に集まっていた熱が、サーッと一瞬で引く。

 

(こ、こいつ……っっっ!!)

 

 

 車椅子から動けない体でありながら、彼女の両拳にギリギリと力が集まっていくのを感じる。

 

 どこまでもデリカシーがなく、乙女心を一ミリも理解していない朴念仁。

 

 

 だが、その怒りも数秒で沈静化する。

 

 この男と喋っていると、本当に疲れる。この独特な雰囲気の、無愛想で、天然で、人の心に土足で踏み込んでくる男。

 

 

 でも、彼は冷たいように見えて、不器用ながらも気遣いはできる。

 

 先ほども、自分の弱い引き留めに対して、何も言わずに立ち去るのをやめてくれた。今も、彼なりに本気で自分の体調を心配してくれているのだろう。

 

「……ふふっ」

 

 

 気づけば、オルガマリーの口から自然と笑みがこぼれていた。

 

 死の恐怖も、孤独の寂しさも、この男といると呆れが勝ってどうでもよくなってしまう。

 

「……それよりも、いつまでもここにいていいのか? 所長」

 

 

 その言葉を聞いて、オルガマリーは真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返した。

 

「オルガマリーよ」

 

「……ん? 知っているが、なんだ? やはり記憶の不具合か?」

 

「いちいち不具合を疑うのやめなさいよ! 私は正常よ!」

 

 

 オルガマリーはプイッと顔を逸らし、少しだけ照れくさそうに口を尖らせた。

 

「そうじゃなくて。……名前で、呼びなさいよ。所長じゃなくて」

 

「……名前で?」

 

「そうよ。特別に許可してあげる。……私も、これからはアンタのことを『ヴァルナ』って呼ぶから」

 

 

 また少しだけ顔に熱が集まるのを感じながら、彼女は必死に所長としての威厳を保とうと背筋を伸ばした。

 

 

 少しの、静かな沈黙。

 

「分かった、オルガマリー」

 

 

 彼の低い声で呼ばれた自分の名前に、彼女の胸の奥がキュンと鳴る。

 

「……これでいいか?」

 

「ええ。悪くないわ」

 

 

 オルガマリーは満足そうに微笑み、車椅子を反転させた。

 

「さあ、いつまでも油を売ってないで、さっさとシミュレーター室に行きなさい! アナタはこれからのカルデアの最重要戦力なんだから、式神たちのリハビリ、キッチリ終わらせてきなさいよ!」

 

「ああ。分かっている」

 

「それと! くれぐれも無茶はしないこと!倒れたりしたら、私が困るんだからね!」

 

 

 車椅子を走らせて遠ざかっていく彼女の背中越しに飛んでくる小言には、以前のようなヒステリックな響きはなく、不器用だが確かな気遣いが込められているのを感じる。

 

 過酷な人類史奪還の旅。その本格的な幕開けを前に、孤高の呪術師と若き所長の間には、静かで確かな絆が結ばれていた。

 

 




 取りあえず、最後の閑話ですね

 日常風景って書くの楽しいな!
他にも色々と絡めて書きたかったんですけど、長過ぎると微妙かなって思ったのでここまで!


 次の幕間は、オルレアン終わったら
 そこまで行けたらいいな~

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