Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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邪竜百年戦争・オルレアン
【一節】邪竜降る空、合理的なる異邦の徒手と、白百合の聖女


 純白の光の奔流が収束し、世界が新たな色と匂いを持って再構築される。

 

 魔術的な次元の跳躍――レイシフトが完了した直後、ヴァルナ・クロスの鋭敏な感覚器官は、まずその『空気の質』を正確に計測していた。

 

(……冬木の特異点Fで感じた、あの焦げたゴムや近代的な建材が燃える不快な匂いではない)

 

 

 ここは、もっと生々しい。

 

 踏み締める土と、青草の匂い。古い木造の家屋が炭化する臭気。そして何より、おびただしい量の血と獣の脂が焦げる、むせ返るような死臭が風に乗って運ばれてきていた。

 

「……着いたな」

 

 

 静かに息を吐き、足元の感触を確かめながら、周囲の状況をフラットな視点でモニタリングする。

 

 気配、魔力残滓、風の向き、隠れられそうな地形の把握。

 

「マスター……ここは……」

 

 

 彼の背後で、マシュ・キリエライトが、息を呑んで周囲の惨状を見渡した。

 

 彼らが降り立ったのは、なだらかな丘の上。だが、そこから見下ろすことができるはずのフランスの美しい田園風景は、見る影もなく破壊され尽くし、あちこちから黒煙が立ち上っている。

 

『――通信確立! よし、二人とも無事だね!』

 

 

 ヴァルナの腕に巻かれた通信端末から、ロマニ・アーキマンの安堵した声が響き渡る。

 

 その声を聞きながら、ヴァルナは自身の身を包む、分厚い『黒いコート』の襟を無造作に正した。指先に触れる、特殊な防刃・耐魔繊維の冷たい感触。だが、その裏地には、彼自身の体温とは異なる、不可視の熱のようなものが微かに脈打っていた。

 

『バイタルサイン正常、空間座標の固定も完了した。それと……うん、そっちの様子を見る限り、「礼装」も正常に機能しているようだね』

 

 

 ロマンの言葉に、ヴァルナは己の胸元――コートの奥へと意識を向ける。

 

 彼には、魔術師として必須であるはずの『魔術回路』が根本から欠落している。魔力を生み出すことも、体内に留めることも、他者へ供給することもできない。

 

 彼が操る「呪力」というエネルギーは、魔力とは似て非なる異質の力であり、サーヴァントという霊体の存在維持や宝具の駆動を賄うことはできないのだ。

 

 特異点Fでの戦いで霊基に蓄えられていた『初期残量(バッテリー)』、その備蓄は既になく、空っぽ。

 

 回路を持たない彼が、これ以上サーヴァントを使役するためには代わりの「管」が必要になる。

 

 

 

 

 ゆえに、この黒いコートが彼には必要だった。

 

 カルデアの技術部が総力を挙げて調整を施した、外付けの疑似魔術回路とも呼べる特注の魔術礼装。

 

 カルデアから送られてくる膨大なバックアップ魔力をこのコートが受信し、生地に縫い込まれた術式を血管のように経由して、契約したサーヴァントへと流し込む。

 

 

 彼自身は、ただの「中継地点(ターミナル)」に過ぎない。

 

『やあやあ、新人マスター君。私達が徹夜で調整を施した特注品の着心地はどうかな?』

 

 

 ロマンの声に被さるように、通信機から別の声が割り込んでくる。レオナルド・ダ・ヴィンチの、鈴を転がすような、だが知的な興味に満ちた声だ。

 

『君の肉体には魔力を通す回路がない。だから、そのコート自体が君の魔術回路の代わりだ。カルデアからの魔力供給をそこで受け取り、マシュの霊基へとパスを繋ぐ『魔力供給の道(ハイウェイ)』さ。……計器上では完璧に機能しているが、そっちの体感として異物感やラグはないかい?』

 

「……悪くない」

 

 

 視線を周囲の索敵に向けたまま、淡々と答える。

 

「俺自身の動きを阻害するほどの重さもない。背中からマシュへ、目に見えない管が繋がっているような感覚はあるが……戦闘のノイズにはならない。機能としては十分だ」

 

 

 己を「システムの一部」として語るその冷徹な自己評価に、ダ・ヴィンチが通信の向こうで『相変わらず可愛げのない評価だねぇ』と苦笑するのが聞こえた。

 

「マシュ。そっちの供給は足りているか。息継ぎに問題があるなら、今のうちにダ・ヴィンチに言っておけ」

 

「……あ、はい!」

 

 

 突然話を振られたマシュは、背筋をピンと伸ばして頷く。

 

「カルデアからの魔力、マスターの礼装を経由して、確かに私の霊基へと流れ込んできています。出力は非常に安定していて……その、とても……マスターの温かさを、感じます」

 

 

 マシュは胸元に手を当ててそう告げた。彼女にとって、魔力の供給とは、ただのエネルギーの譲渡以上の、生命線であり絆の証明でもあるのだろう。

 

「そうか。機械の排熱か何かだろう。気にするな」

 

 

 彼は、情緒も欠片もない言葉を平坦に返した。

 

『あー……君ねぇ、そういうところだよ本当に! 乙女心が分かってないというか、デリカシーの概念を母親のお腹の中に置いてきたのかい!?』

 

「俺は事実を言ったまでだ。……それよりもドクター、状況の整理を優先しろ」

 

 

 ダ・ヴィンチの小言を完全にシャットアウトし、ヴァルナは話を強制的に本筋へと戻す。彼の瞳の奥には、これから相対するであろう「未知の特異点」への、微かな、だが確かな興味が灯り始めていた。

 

『あ、ああ、そうだったね。君たちが今いるのは西暦一四三一年、フランス。……百年戦争が終結に向かいつつある時代だ』

 

 

 ロマンが気を取り直し、管制室のモニターから得られる情報を読み上げ始める。

 

「百年戦争……。ジャンヌ・ダルクが活躍した時代、ですね」

 

『ああ。本来の歴史なら、数日前にルーアンでジャンヌ・ダルクが火刑に処され、その後フランス軍が反撃に転じて平和に向かっていくはずなんだ。だが……』

 

 

『観測データは異常だらけだよ、二人とも』

 

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチの、知的な興味に満ちた声。

 

『この時代には存在しないはずの強大な魔力反応が、フランス全土にばら撒かれている。まるで、神代の幻獣でも蘇ったかのようなデタラメな数値だ。新人マスター君の持つ「呪力」とも違う、純粋で暴力的なマナの結晶体だよ』

 

「神代の、幻獣……」

 

 

 マシュが眉をひそめる。

 

 上空を覆う分厚い灰色の雲を見上げた。

 

「ドクター、ダ・ヴィンチ。状況は理解した。……だが、わざわざ計器で観測するまでもない」

 

 

 ヴァルナが淡々と告げると同時。

 

 頭上の分厚い雲を切り裂いて、鼓膜を劈くような甲高い咆哮が響き渡った。

 

「キシャァァァァァァッ!!!!」

 

 

 灰色の雲の中から、巨大なコウモリのような翼を持った影が幾つも降下してくる。

 

「……双足飛竜(ワイバーン)の群れ、ですか」

 

『なっ……ワイバーン!? 一四三一年のフランスに!?』

 

「理由は後で考えればいい。……今は、迎撃する」

 

 

 ヴァルナの足元で、青黒い呪力が音もなく渦を巻き始める。

 

「ドクター。周囲に人がいないか、ワイバーンの数は何体か、そして周囲に何か別の異変がないか。常にモニタリングしてこちらへ送れ」

 

『ええっ!? ちょっと待ってくれ、君たちの存在証明(アンカー)を固定しつつ、周囲の記録もしつつ、同時並行で解析をやってるんだよ! 僕だってそこまで手が回らないんだ!』

 

「サボってるオルガマリーにでも仕事を投げればいいだろ。あいつなら、それなりに使えるはずだ」

 

 

 通信機越しにさらりと爆弾を投下した、その直後。

 

『別にサボってるわけじゃないわよ!!』

 

 

 管制室にいるはずの所長、オルガマリー・アニムスフィアの怒声が通信機からビリビリと響いた。

 

『私はスタッフ全体に指示を出しながら、アンタたちのバックアップに動いてるのよ! 到着早々、なんて口の利き方なの!』

 

「そうか。なら引き続き、頼む」

 

『っ……人の話を聞きなさいよ!!』

 

 

 特異点の絶望的な空気などどこ吹く風。

 

 彼らのいつものわちゃわちゃとしたやり取りが、マシュの緊張をほんの少しだけ解きほぐす。

 

(……空飛ぶトカゲか。死徒や悪霊とは勝手が違うが、物理法則に従って肉体を持っているなら、潰せば死ぬことに変わりはない)

 

 

 彼は『鵺』や『大蛇』を喚び出す印を結ぼうと両手を胸の前に持ち上げたが、ふと、視界の端――丘の下の街道沿いで、何かが動くのを捉えた。

 

「――っ、マスター! あそこに!」

 

 

 マシュもそれに気づき、指を差す。

 

 丘の下を通る石畳の街道。そこで、鉄の鎧を着込んだ十数人のフランス兵たちが、空から急降下してきた三頭のワイバーンに襲撃されている。

 

「陣形を崩すな! 槍を突き立てろ!」

 

 

 兵士の隊長らしき男が怒号を飛ばすが、彼らの持つ粗末な鉄の槍はワイバーンの硬い鱗に弾かれ、逆に巨大な尾の薙ぎ払いで数人の兵士が宙を舞い、血を吐いて倒れ伏す。

 

 絶望的な戦力差。このままでは、数分のうちに彼らは竜の餌食となるだろう。

 

「……マシュ」

 

 

 印を結ぼうとしていた手をスッと下ろした。

 

「現地の人間がいる。俺の影を見せれば、無用な混乱と恐怖を与える可能性がある。コンタクトを図るなら、正体不明の『化け物使い』として現れるべきじゃない」

 

 

 彼は、これまでの経験から、一般人が「未知の神秘」に対してどれほどの排他性と恐怖を抱くかを熟知していた。

 

 特にこの中世ヨーロッパの時代、得体の知れない影の獣を使役する異端の術式は、問答無用で「魔女」や「悪魔」の烙印を押されかねない。助けた相手から石を投げられるような事態は、非効率極まりないことだ。

 

「盾と、俺の体術だけでいく。お前は俺の死角をカバーしろ」

 

「はい、マスター!!」

 

 

 足首に、極限まで圧縮された青黒い呪力が集中する。

 

 

 

 

 

 

 

 ――ダンッ!!

 

 丘の上の土が爆発するように抉れ、その長身が、まるで砲弾のように空中へと射出された。

 

 数十メートルの距離と高低差を、たった一回の跳躍でゼロにする、人間離れした跳躍力。

 

「なっ……!?」

 

 

 襲われていたフランス兵たちが、空から降ってきた黒衣の青年に目を丸くする。

 

「グルルゥッ!?」

 

 

 兵士の一人を食い殺そうと巨大な顎を開いていた一頭のワイバーンが、頭上から迫る異常な質量の気配に気づき、威嚇の声を上げた。

 

 

 

 

 だが、遅い。

 

「――落ちろ」

 

 

 ヴァルナは空中で身体を捻り、重力と落下のエネルギーをすべて乗せた右の踵落としを、ワイバーンの脳天目掛けて正確に振り下ろした。

 

 莫大な『呪力』によって鋼鉄以上の硬度と質量を持ったその踵が、幻獣の硬質な鱗をまるで薄氷のように粉砕する。

 

 

 

 

 

 メギャァァァァァンッ!!!!

 

 

 

「ギャ、ァァァッ!?」

 

 

 断末魔の悲鳴を上げる暇すらない。ワイバーンの巨大な頭蓋骨が完全に陥没し、その巨体は勢いよく地面に激突して石畳の街道を蜘蛛の巣状に砕き割る。

 

「な、なんだアイツは……! 素手で、竜を……!?」

 

 

 兵士たちが腰を抜かして震える中、ヴァルナは潰れたワイバーンの背中を蹴ってふわりと音もなく着地した。

 

「キシャァァァァッ!!」

 

 

 仲間の死に激昂した残る二頭のワイバーンが、ヴァルナを標的に定めて左右から同時に襲い掛かる。

 

 鋭い爪が胴体を切り裂こうと迫るが。

 

「遅いですよ!!」

 

 

 

 

 ガギィィィィンッ!!!!

 

 ワイバーンの爪が盾の表面で火花を散らして弾かれ、その反動で一頭の体勢が大きく崩れる。

 

「隙ありです、マスター!」

 

「ああ。上等だ」

 

 

 ヴァルナはマシュの盾を足場にするようにしてさらに跳躍し、体勢を崩したワイバーンの懐へと完全に潜り込んだ。

 

 左の掌でワイバーンの下顎を強引にカチ上げ、無防備になった首の逆鱗――頸動脈が通る急所へと、右の手刀を突き刺し。

 

 

 

 

 

 ズバァァァァッ!!

 

 呪力を纏った手刀は、名剣すら凌ぐ切れ味で太い首の肉を断ち切り、脊髄を半ばまで切断した。

 

 二頭目が、大量の血を吹き出しながらどうと倒れ伏す。

 

「ギチィィッ!」

 

 

 残る最後の一頭が、背後から火炎の息(ブレス)を吐き出そうと胸を大きく膨らませる。

 

 

 

 

 

 

 だが、そのブレスが放たれるよりも早く。

 

「――主よ、この身を委ねます!!」

 

 

 凛とした、しかし力強い少女の声が戦場に響き渡る。

 

 

 街道の奥の森から、一陣の風のように飛び出してきた『影』。

 

 純白の鎧を身に纏い、手には巨大な白百合の旗(ラ・ピュセル)を握り締めた、金髪の少女。

 

 

「はぁぁぁぁっ!!」

 

 

 

 

 

 ドガァァァァンッ!!

 

 旗の柄に込められた強烈な魔力の爆発。ブレスを吐き出そうとしていたワイバーンの喉の奥でその魔力が弾け、ワイバーンは自らの炎と少女の打撃によって内側から頭部を吹き飛ばされ爆散した。

 

「……」

 

 

 ヴァルナは血に濡れた右手を軽く振り払いながら、突如乱入してきたその少女を静かに『観察』する。

 

(……人間ではないな。英霊か。だが、特異点Fで見たシャドウサーヴァントのような淀んだ魔力は感じない。だが……)

 

 

「ふぅ……。間に合って、よかったです」

 

 

 少女は旗を肩に担ぎ直し、額の汗を拭いながら、此方へと振り向く。

 

 その透き通るような青い瞳には、純粋な安堵の光が浮かんでいる。

 

「お怪我はありませんか? 私は……」

 

 

 

 

 少女が名乗ろうとした、その時。

 

 

「ひ、ヒィィィィィッ!!!」

 

「魔女だ!! 魔女が蘇ったぞ!!」

 

「化け物め!! 我々を呪い殺しに来たんだ!! 逃げろォォォッ!!」

 

 

 その耳障りな声の余韻だけが、破壊された街道に虚しく響く。

 

 逃げていくフランス兵たちの背中を、マシュは唖然とした表情で見送っていた。彼女の紫色の瞳には、信じられないものを見たという戸惑いが浮かぶ。

 

 

 

 だが、誰よりも深い悲しみを抱いているのは、彼らを救った張本人である純白の少女だ。

 

 彼女は、所在なげに宙を彷徨っていた手をゆっくりと下ろし、逃げ惑う人々の姿を、ただ静かに、酷く痛ましそうに見つめていた。

 

 

 

 しかし、彼女の悲哀は一瞬。

 

 小さく深呼吸をすると、まるで己の内の揺らぎを無理やりに断ち切るかのように、凛とした顔を上げてヴァルナたちの方へと向き直った。

 

 カチャリと鎧を鳴らし、歩み寄ってくる金髪の少女。

 

「……飛竜の群れを撃退していただき、本当にありがとうございました。お怪我がなくて何よりです」

 

 

 透き通るような、しかし確かな強さを持った声。

 

 ヴァルナは、彼女を見下ろし淡々と答える。

 

「気にするな。こちらこそ助かった」

 

 

 その平坦な言葉に、少女は少しだけ安堵したように微笑み、自身の胸に手を当てて名乗った。

 

「私は、ジャンヌ・ダルク。……クラスはルーラーのサーヴァントだと認識しています」

 

 

 ジャンヌ・ダルク。フランスの救国の聖女。

 

 その名を聞いた瞬間、ヴァルナの脳内で、かつて叩き込まれた膨大な歴史的・宗教的知識のインデックスが一瞬にして検索され、合致した。

 

 神の啓示を受け、百年戦争でフランス軍を勝利に導いた奇跡の少女。そして、味方の裏切りによって異端審問にかけられ、火刑に処された悲劇の聖人。

 

 

 内心で極めて冷徹な分析を下しながら、自身も短く名乗る。

 

「俺はヴァルナ・クロス。カルデアのマスターだ。……こっちはマシュ」

 

「マシュ・キリエライトです。よろしくお願いします、ジャンヌさん」

 

 

 マシュは盾を背負い直し、少し緊張した面持ちで頭を下げる。

 

 しかし、彼女の脳裏には先ほどの異常な光景が引っ掛かったまま。

 

「あの……ジャンヌさん。なぜ、彼らは貴方を『魔女』と呼んだのでしょうか。貴方はこの国を救った『聖女』のはずなのに……」

 

 

 マシュの純粋な疑問。その言葉に、ジャンヌの瞳が再び微かに翳る。

 

「……詳しい話は、あちらでしましょう。ここで立ち話をするのも危険です」

 

 

 彼女はそう言って、街道から少し離れた、鬱蒼と茂る森の方を指差した。

 

 確かに、ここは開けすぎている。逃げた兵士たちが援軍を呼んで戻ってくる可能性もあれば、空から新たなワイバーンが降ってくる危険もあるだろう。

 

 

 マシュはどうするべきか、視線でマスターに判断を委ねた。

 

「……行くぞ。この特異点の謎を解明するためにも、彼女の持っている情報は必要だ」

 

『僕も賛成だ。まずは安全な場所に移動して、情報交換をしよう』

 

 

 三人は破壊された街道を外れ、日の光が木漏れ日となって降り注ぐ、静かな森の奥へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 血と脂の焦げる不快な風は、森の奥深くへと進むにつれて木々に濾過され、幾分か息がしやすくなっている

 

 街道から完全に姿を隠せる、鬱蒼と茂る樹々に囲まれた少し開けた空間。

 

「さて、ここなら問題はないでしょうか」

 

 

 ジャンヌ・ダルクが歩みを止め、ヴァルナとマシュの方へと向き直った。

 

 だが、彼女が振り返ったその時。

 

「えっ……!?」

 

 

 彼女の視界を、ヴァルナの顔が完全に埋め尽くしていた。

 

 鼻先が触れ合うほどの、異常な至近距離。

 

「ひゃっ……!?」

 

 

 ジャンヌはビクッと肩を跳ねさせ、思わず短く可愛らしい悲鳴を上げて後退りした。だが、ヴァルナはその後退した分だけ同じ歩幅ですり足のように距離を詰め、一切瞬きをせずに彼女の瞳の奥、魂の形そのものを覗き込んでいく。

 

「お前は、何だ」

 

 

 感情の起伏が一切ない、平坦な声。

 

「特異点Fで見た英霊たちの魂は、泥のように淀んで濁っていた。それに比べ、お前から放たれる魔力の波長は清浄だが……あまりにも存在が『希薄』に感じられる。何かの欠損か? それとも、そういう仕様なのか?」

 

「あ、あのっ……近、近いです……っ」

 

 

 あまりにも近い距離。純潔の聖女である彼女は、これまで成人男性にここまで距離を詰められた経験などない。どうしたらいいか分からず、顔を真っ赤にして口ごもり、白百合の旗を胸の前でギュッと抱きしめる。

 

「マスターっ!!」

 

 

 その光景を見かねたマシュが、ヴァルナの後ろ襟をガシッと掴み、強引にズルズルと引き剥がす。

 

「いきなりそんなに近寄ってはダメだと、何度言えば分かるんですか! 相手のパーソナルスペースというものを少しは考慮してください!」

 

『ちょっとアンタ!!』

 

 

 さらに、腕の通信機から、カルデアの管制室にいるオルガマリーの怒声が飛ぶ。

 

『相手はあの聖女、ジャンヌ・ダルクよ!? 初対面でなにセクハラみたいな距離感で迫ってんのよ、この常識知らず! カルデアの品位が疑われるでしょ!』

 

「……? セクハラ? 魂の構造と魔力波長を肉眼で観測しようとしただけだが」

 

 

 現在の彼は『外側からの観察者』としての視点しか持っていない。相手が男であろうと女であろうと、聖女であろうと悪魔であろうと、興味を持った対象への距離の測り方が根本的におかしい。

 

「……ジャンヌさん、申し訳ありません。先輩……マスターは、本当に悪気があるわけではないんです。ただ、少しばかり色々な部分が欠落しているだけで……」

 

 

 マシュがペコペコと頭を下げる。

 

「い、いえ……! 大丈夫です、気にしなくても……。少し、驚いただけですから」

 

 

 ジャンヌは少し顔を赤くしながらも、ふわりと柔らかく微笑んだ。

 

 張り詰めていた空気が、彼らの独特のペースによって少しだけ緩む。

 

 ヴァルナは手頃な倒木に腰を下ろし、マシュとジャンヌもそれぞれ向かい合うように岩に腰掛けた。

 

 

 

 森の静寂が、彼らを包み込む。

 

「さて……」

 

 

 ヴァルナは長い脚を組み、先ほどまでの天然ぶりはどこへやら、逃げ場のない鋭い視線でジャンヌを真っ直ぐに見据える。

 

「いくつか聞きたいことがある。なぜ、聖女であるお前が魔女と呼ばれているのか。……そして、このフランスで一体何が起きているのか」

 

 

 問いかけは冷徹で、事務的ですらあった。

 

 ジャンヌは旗を大切そうに膝に抱き、少し迷うように視線を落とした後、静かに口を開く。

 

「……私自身、数時間前に召喚されたばかりで、持っている情報は限られています。ですが、私が森を抜け、村々を見て回って確信したことがあります」

 

 

 彼女は一度言葉を切り、深い悲しみを帯びた瞳でヴァルナたちを見た。

 

「どうやら、この世界には……『私以外のジャンヌ・ダルク』が、もう一人いるようなのです」

 

「……もう一人の、ジャンヌ・ダルク?」

 

 

 マシュが信じられないというように目を見開く。

 

「はい。そして、その『もう一人の私』が、竜の群れを操り……このフランスの地を、人々を、無差別に襲っているのだと」

 

 

 

 静かな森に、衝撃的な事実が落ちる。

 

『……あり得ない話じゃない』

 

 

 通信機から、ロマニの真剣な声が響いた。

 

『同じ英霊が、同じ時代に複数存在するケースは、理論上は存在する。特に、英霊の持つ別の側面……反転体や、異なる解釈での召喚とかね』

 

 

 なるほど、とヴァルナは内心で頷く。

 

 彼は目の前で痛ましそうに俯くジャンヌを、極めてフラットな視点で『観察』していた。

 

 

 先ほどの兵士たちを我が身を挺して守った行動に、一切の偽りはなかった。この目の前にいる少女が、人間を虐殺して国を焼くような存在には到底見えない。

 

 であるならば、このフランスを焼いているのは、間違いなく『別の側面で召喚された何者か』であると推測できる。

 

「貴方は裁定者(ルーラー)のクラスのサーヴァントですよね? なら、ルーラーとしての固有能力……周囲のサーヴァントの気配を感知する能力があるはずです!近くに、敵のサーヴァントの気配はありますか?」

 

 

 だが、ジャンヌはゆっくりと首を横に振った。

 

「……申し訳ありません。ヴァルナ殿が先ほど仰った通り、私は、サーヴァントとして極めて不完全な状態で召喚されているらしいのです」

 

 

 彼女の表情には、己の無力さに対する悔しさが滲んでいる。

 

「ルーラーとしてのクラススキルが、まったく機能していません。聖杯からの知識の付与もなく、敵の気配を広域で感知することも、真名を見破ることもできない。……今の私は、ただの少し腕の立つ兵士と変わりません」

 

 

 不完全な召喚。知識の欠落。

 

「そうか」

 

 

 彼は短くそう告げると、ゆっくりと目を閉じる。

 

 状況は芳しくない。現地で合流したサーヴァントは自身の能力の半分も発揮できない状態にあり、敵は空を埋め尽くすほどの竜を操る未知の存在。

 

 彼は脳内で戦況のシミュレートを行いながら、今後どう立ち回るべきかの計算を静かに進める。

 

 

 逆に、ジャンヌ・ダルクは不思議そうに見つめ返した。

 

「あの……差し出がましいようですが、あなた方は一体、どういった存在なのですか? その装いも、私の知るどの国のものとも違うようですし……。それに、貴方のその並外れた身体能力は、どう見ても人間の領域を超えています」

 

 

 ヴァルナは目を開け、マシュに顎で合図する。

 

「マシュ、説明してやれ」

 

「はい、マスター」

 

 

 マシュは姿勢を正し、カルデアという機関の目的、未来からのレイシフト、そして今、人類の歴史が根底から燃やされようとしている『人理焼却』の事実を、簡潔に、しかし丁寧に説明した。

 

 

 一通りの説明を聞き終えたジャンヌの顔は、驚愕に表情を歪める。

 

「歴史が……燃やされている。そんな、途方もないことが……」

 

 

 彼女は信じられないというように口元を覆う。

 

「それに比べれば、私自身の悩みなど……大したものではありませんね」

 

 

 そう呟いたジャンヌは、己の膝の上に置かれた自身の手を、じっと見つめた。

 

「……私は今、私自身を信用できずにいます」

 

 

 彼女の震える声が落ちる。

 

「魔女と呼ばれている私。あの竜たちを操って、かつて私が命を懸けて守った都市を、人々を攻撃しているのは……私の別の姿なのだと」

 

 

 彼女の瞳には、悲しみと、自分自身に対する疑問、そして得体の知れない恐怖が入り混じっていた。

 

「そもそも、なぜ『私』は竜を操ることができるのでしょうか。私の逸話に、竜を従えたなどという伝承はないはず。それに、これほど大量の飛竜が空を埋め尽くすなど、明らかにおかしい……」

 

『その通りだよ』

 

 

 ドクター・ロマンが、通信機越しに思考をまとめるように口を開く。

 

『ワイバーンを現代の魔術で召喚するなんて不可能だ。なんなら、この時代の魔術レベルでもね。膨大な魔力をどうやって補っているのか。……結論は一つしかない』

 

 

 ロマンの声音が、一段と重くなる。

 

『異常の根本原因である「聖杯」。その聖杯の力を用いて、誰かが竜を召喚し、操っている。……それが、一番可能性の高い仮説だ』

 

 

 

 聖杯。

 

 あらゆる願いを叶えるという、強大な魔力の結晶。特異点Fで見た、あの忌まわしい泥の器。

 

「……なるほどな」

 

 

 ヴァルナは組んでいた脚を解き、真っ直ぐにジャンヌの瞳を覗き込む。

 

「敵の正体も、目的のブツも大体予想がついた。……で、お前はどうする?」

 

 

 平坦な、しかし核心を突く問い。

 

「この先、どう動く気だ。不完全な召喚で、誰も味方がいないこの狂った国で」

 

 

 ジャンヌ・ダルクは、少しの間だけ沈黙した。

 

 

 だが、彼女が再び顔を上げた時。

 

 その青い瞳からは迷いの霧が完全に晴れ、代わりに真っ直ぐで力強い光が宿っていた。

 

「――私は、戦います!」

 

 

 彼女は白百合の旗を強く握り締め、静かに、しかし断固として言い放つ。

 

「このフランスを蹂躙する障害……『もう一人の私』を、この手で排除しなければなりません。たとえ私一人でも戦う。……一度この悲劇に目を向けたからには、見逃すことなどできません」

 

 

 彼女の言葉には、狂信的な盲目さはなく、ただ純粋な「救済への意思」だけがあった。

 

「……歴史書の通り、本当に気高い方ですね」

 

 

 マシュが、感嘆の溜息を漏らしながら彼女を見つめる。

 

 

 ヴァルナもまた、無言で彼女の瞳の奥を見つめていた。

 

 嘘偽りのない、本気の瞳。己の身がどうなろうとも、慈しみに満ちた心で他者のために戦うことを決意した瞳。

 

 

 聖女、ジャンヌ・ダルク。

 

(……ああ。彼女は、本物だ)

 

 

 奇跡を騙り、信徒から金を巻き上げる偽りの聖者たち。血にまみれた手を隠し、神の言葉を都合よく解釈して弱者を搾取する権力者たち。己の保身のために異端審問を乱発する腐敗した神父たち。

 

 

 彼は、そんな人間の醜悪な「偽物」を嫌というほど見てきた。

 

 だからこそ、今目の前にいるこの少女の『筋の通った在り方』が、どれほど希少で、どれほど尊いものかが理解できる。

 

 彼は、純粋に美しいと。

 

 

 

 

 ヴァルナの感情の動かない、硝子のような瞳がわずかに細められ。

 

 その無機質な表情が崩れ、極めて珍しく、微笑みを浮かべた。

 

「……本当に美しい聖女だ」

 

 

 まるで道端に咲く可憐な花を愛でるような、奇跡の結晶を称えるような。

 

「お前は、本物だ」

 

 

 一切の打算がないストレートな称賛。

 

 偽物を知っている彼だからこそ言える、絶対的な評価。

 

「えっ……あ、あの……!?」

 

 

 真っ直ぐな言葉に、ジャンヌ・ダルクの顔が真っ赤に染まる。

 

「そ、そんな……! 私は、聖女などと呼ばれるような立派な人間ではありません! ただの、田舎の村娘で……!」

 

 

 彼女は慌てて両手を振り、照れたように目を泳がせて謙遜する。

 

 しかし、その実直さすらも、彼女が本物であることの証明なのだろう。

 

「…………先輩」

 

 

 マシュが、盾の裏からジト目を向ける。

 

 だが、当のヴァルナは「なんだ?」と不思議そうに首を傾げるだけ。事実を口にしたに過ぎない。

 

「コホン。……ええと、ジャンヌさん」

 

 

 マシュは気を取り直し、一歩前へ出て提案する。

 

「私たちの目的である『特異点の修復』の根本原因が、その『もう一人のジャンヌ・ダルク』である可能性は極めて高いです。……であるならば、私たちは目的を同じくする者として、協力できるのではないでしょうか」

 

『僕も大賛成だ!』

 

 

 ロマンが通信機越しに力強く同意する。

 

『彼女の持つ戦力は、今のカルデアにとって喉から手が出るほど欲しい。それに、何より彼女の人柄は信用できる!』

 

「そうだな。戦力は多い方がいい。……頼めないか。俺たちと一緒に来てくれ。互いに背中を預けあおう」

 

 

 ヴァルナは立ち上がり、右手を差し出した。

 

 ジャンヌは、差し出された大きな手を、少し驚いたように見つめる。

 

 自分を信じきれず、兵士たちから魔女と呼ばれ、世界に絶望しかけていた自分を、「本物だ」と肯定し、共に戦おうと言ってくれる異邦人たち。

 

「……はい」

 

 

 柔らかく微笑み、その手をしっかりと握り返す。

 

「こちらこそ。どうか、これからよろしくお願いいたします、ヴァルナ殿、マシュ殿」

 

 

 確かな温もりと、信頼に満ちた握手。

 

 強力なサーヴァントとの同盟が結ばれた、まさにその瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 ――ピクッ。

 

 足元に落ちていた影が、微かに、だが不吉に波打つ。

 

 同時に、森の奥深くから、空気を震わせるような重低音の『獣の咆哮』が響き渡る。

 

「……マスター。竜の匂いだけじゃありません」

 

「……ええ。嫌な魔力の気配が、急速にこちらへ近づいてきます」

 

 

 白百合の旗を槍のように構え直し、鋭い視線を森の暗がりへと向けた。

 

「……挨拶代わりの歓迎らしいな」

 

 

 ヴァルナは首の骨をコキリと鳴らし、両手を胸の前で交差させて印を結ぶ準備に入る。

 

 彼の瞳の奥には、再び冷徹な『戦闘者』としての光が宿っていた。

 

 

 特異点の修復という途方もない道程。

 

 孤高の呪術師と、白亜の盾の乙女、そして救国の聖女。

 

 協力を結んだ三人の、初めての戦闘が今始まろうとしていた。

 

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