Fate/Grand Order : 冠位影法録(グランドオーダー・シャドウレコード) 作:りー037
【時刻:同日 07:10頃】
【場所:第一特異点 邪竜百年戦争 オルレアン・ラ・シャリテ・メインストリート】
圧倒的な質量を持った打撃音が、燃え盛る街の空気を震わせた。
瓦礫を砕き、炎の壁を突き抜け、数十メートル先の時計塔の壁面に激突したジャンヌ・ダルク・オルタの姿。
その信じがたい光景に、戦場を支配していた絶対的な絶望の空気は、一瞬にして凍りついた。
『――ッ!? な、何が起きたんだ!? バイタルモニターの数値が一瞬だけ跳ね上がって、敵のサーヴァントが吹き飛んだ!?』
ヴァルナの腕の端末から、事態に全く追いつけていないロマニ・アーキマンの焦燥しきった声が響き渡る。
『ヴァルナ君、マシュ! 頼むから状況を教えてくれ! 敵は六騎だ、君たちの戦力じゃ絶対に勝ち目はない! 今すぐそこから撤退してくれ!!』
ロマンの悲鳴にも似た懇願は、カルデアの医療部門トップとしての、極めて真っ当で合理的な判断だった。
本来であれば、神話の領域にある英霊が六騎も揃っている状況で、マスターと不完全なサーヴァント二騎だけで立ち向かうなど、集団自殺と何ら変わらない。
だが。
「……」
崩れた民家の屋根の上に静かに降り立ったヴァルナ・クロスは、通信機の悲鳴を完全に無視し、眼下で蠢く六騎の敵性サーヴァントたちを、ただ無機質な硝子のような瞳で見下ろしていた。
彼の呼吸は乱れていない。呪力の循環にも、一切の淀みはない。
その瞳に映っているのは、絶望でも恐怖でもなく、ただ『処理すべき障害物』の配置と、その攻略手順の冷徹な計算式だけだった。
「ゲッ、ゴホッ……あ、ガァ……ッ!!」
時計塔の瓦礫の中から這い出てきたジャンヌ・オルタが、大量の血反吐を吐き出しながら、憎悪に塗れた黄金の双眸でヴァルナを睨み上げる。
「貴様……ただの、人間が……私を、コケに……!!」
怨嗟の声。しかし、その声は先ほどの絶対的な傲慢さを失い、激痛による震えを隠しきれていなかった。
ヴァルナは、そんな竜の魔女の姿を一切の感情を交えずに『観察』し、次いで、五騎の狂化サーヴァントたちへと視線を巡らせる。
激昂し、殺意を剥き出しにしている吸血鬼の男女。
怒号のような咆哮を上げ、黒い瘴気を撒き散らすフルプレートの騎士。
氷のような無表情のまま、レイピアを構えるフランスの騎士。
巨大な処刑剣を引きずり、虚ろな目で首を狙う役人。
(……戦力差、ね)
ヴァルナは内心で小さく息を吐いた。
(確かに、純粋な魔力量や筋力値の合計で言えば、あちらが圧倒的に上だ。だが……連携もなにもない、ただ狂気に任せて突っ込んでくるだけの暴徒が六人集まったところで、それは『軍隊』ではなく、ただの『的の群れ』に過ぎない)
彼は屋根の上から、自身のサーヴァントたちへと、平坦で、しかし絶対の信頼を置いた指示を飛ばした。
「マシュ。ジャンヌ」
「は、はいっ! マスター!」
「はい!」
ヴァルナの背後、石畳の上でマシュが巨大な十字盾を構え、ジャンヌが白百合の旗を鋭く突き出す。
「そっちの吸血鬼二匹は、お前たちで止めておけ。……邪魔はさせるな」
「了解しました! マスターの背中は、私たちが死守します!」
マシュの力強い返答。
「……残りは、俺が受け持つ」
その言葉は、あまりにも常軌を逸していた。
人間一人が、神話の英霊四騎を同時に相手取る。それは狂人の戯言にしか聞こえない。
だが、先ほどの『神速の一撃』を目の当たりにしたマシュとジャンヌには、彼の言葉がハッタリでも自暴自棄でもないことが、痛いほどに理解できていた。
これから始まるのは戦闘ではない。彼による、極めて理詰めの蹂躙だ。
「舐めるなァァァァァァッ!!!!」
ヴァルナのその傲慢極まりない戦力配分に、ついにジャンヌ・オルタの理性が完全に焼き切れた。
「殺せ! あんな男、原型がなくなるまで八つ裂きにして、その腸を引きずり出してやりなさい!!」
「Arrrrthuuuurrrrr!!!!」
主の命令に呼応し、漆黒の狂騎士・ランスロットが、大地を砕くほどの踏み込みと共に跳躍した。
その巨体が砲弾のように宙を舞い、瘴気を纏った無骨な大剣が、屋根の上のヴァルナ目掛けて脳天から真っ二つにしようと振り下ろされる。
同時に、下からは剣士・デオンが無音の踏み込みで接近し、崩れた壁を蹴り上がってヴァルナの死角へと鋭い刺突を放つ。
さらにその後方からは、処刑人・サンソンが、巨大な処刑剣を地面に引きずりながら、ヴァルナの着地点を予測して禍々しい刃を振り被っていた。
三方向からの、完璧なタイミングでの同時攻撃。
神話の武練を持つ英霊たちの技量は、狂化されてなお、その身体に染み付いた絶技として牙を剥く。
空へ逃げればサンソンに狩られ、その場に留まればランスロットとデオンに両断される。完全なる死の包囲網。
だが、ヴァルナ・クロスは決して立ち止まらない。
彼は屋根の瓦礫を蹴り、自ら死地――三つの刃が交錯する中心点へと身を投げた。
「ガァァァァッ!!」
上空からのランスロットの豪剣が、空気を悲鳴のように引き裂きながらヴァルナの頭蓋へと迫る。
ヴァルナは極限まで呪力を巡らせた肉体を捻り、その絶望的な質量の刃を、首の皮一枚、数ミリの隙間で回避した。剣風だけで頬が浅く裂け、一筋の血が飛ぶ。
だが、回避と同時に彼の右手は動いていた。
空中にありながら、指先で器用に影の形を作る。
「――蝦蟇」
屋根の瓦礫に落ちた影から、カエルの式神の長い舌が鞭のように飛び出した。
その舌は、ヴァルナの死角から心臓を貫こうと迫っていたデオンのレイピアに絡みつき、その刺突の軌道をほんの数センチだけ強引にずらした。
ヒュンッ!
デオンの白刃がヴァルナの脇腹を掠めて空を切る。
その一瞬の隙を突き、ヴァルナは空中でデオンの肩を蹴り台にして、さらに高く跳躍した。
「罪人は……処刑する」
しかし、地上で待ち構えていたサンソンが、着地点を予測して巨大なギロチン剣を大上段から振り下ろす。
ヴァルナは落下しながら、自身の影絵を素早く解除し、今度は体術の型へと移行した。
空中で身体を丸め、サンソンの剣の腹を『足の裏で蹴る』ことで、刃を地面へと逸らす。
ガキンッ!! という鈍い音と共に、処刑剣が石畳に深々と突き刺さった。
着地。
息つく間もない、三対一の極限の乱戦。
だが、その様相は「連携」と呼ぶにはあまりにもお粗末なものだった。狂化され、理性を失った彼らの攻撃には、味方の位置を考慮するという概念がない。ランスロットの豪剣の余波がデオンの体勢を崩し、サンソンの処刑剣がランスロットの踏み込みを邪魔する。
ヴァルナは、そんな暴徒たちの放つ無差別な殺意の渦中を、影操作の撹乱と、柔軟な体術で、まるで枯葉が風に舞うようにすり抜けていく。
「おのれェェェッ!!」
そこへ、先ほどの蹴りで意識が飛びかけていたはずのジャンヌ・オルタが、激痛を押し殺して乱入してきた。
漆黒の旗に地獄の業火のような怨嗟の炎を纏わせ、狂騎士ランスロット、処刑人サンソンと並走するようにしてヴァルナへと襲い掛かる。
四対一。戦況は最高潮に激化し、空間は完全に混沌(カオス)と化した。
「Arrrrrrthuuuuurrrr!!!!」
ランスロットが再び咆哮を上げ、今度は自身の背丈を越える大剣を、横薙ぎの旋風となって振るう。
同時に、正面からはジャンヌ・オルタの炎の旗がヴァルナを焼き尽くさんと迫り、背後からはサンソンがギロチン剣を振り下ろす。三つの致死の質量が、ヴァルナという一点で交差しようとしていた。
(……動きが雑だ。狂気に溺れ、連携を欠いた狂犬の群れほど、同士討ちの隙は大きい)
ヴァルナは回避行動を取るのではなく、あえて三者の射線が完全に被る『デッドスポット』へと自ら踏み込んだ。
そして、三つの刃が激突する寸前。彼は極限まで呪力を巡らせた両脚のバネを使い、地面スレスレへと一気に身を沈めた。
「なっ――!?」
標的が突如として視界から消えたジャンヌ・オルタ。
だが、振り抜いた攻撃は止まらない。
ヴァルナの頭上で、オルタの炎の旗と、ランスロットの絶大な質量を持つ大剣が、そのままの勢いで『正面衝突』する。
ガガァァァァァンッ!!!!
味方同士の強烈な激突。爆発的な火花が散り、サンソンはその衝撃波と炎に巻き込まれて大きく体勢を崩す。
そして何より、全力で大剣を振るったランスロットの太い両腕の動きが、自陣の攻撃と衝突した反動により、空中で『完全に硬直』した。
ヴァルナが狙っていたのは、このコンマ数秒の絶対的な隙。
地面に身を沈めていたヴァルナは、硬直したランスロットの懐――長大な武器を振るう者の最大の死角へと、吸い込まれるように滑り込んだ。
彼の右手が、ランスロットの剣を握る左腕の脇下から蛇のように絡みつき、背中側へと強引に巻き込む。立ち関節技の極致、『脇固め』の要領。
相手の腕が硬直しているからこそ、梃子の原理が完璧に働く。
ヴァルナはランスロットの肘の関節――装甲の継ぎ目という僅かな急所を正確に捉え、自身の全体重と、呪力の爆発的な放出を同時に叩き込んだ。
メギャァァァァァンッ!!!!
「ギ、ガァァァァァァァァッ!?」
狂気すらも凌駕する、暴力的な破壊音。
黒い鎧のバーサーカーの屈強な左腕が、あり得ない方向へとグニャリと折れ曲がった。
骨が砕け、霊基が悲鳴を上げる。
大剣を支える力を失い、ランスロットの巨体が激痛に痙攣して大きく体勢を崩した。
四対一の包囲網の一角。最も強大な暴力が、敵自身の連携ミスを利用した理詰めの技巧によって『片腕』へと成り下がる。
「な……ッ!?」
同士討ちの末に自身のサーヴァントの腕が粉砕された光景に、ジャンヌ・ダルク・オルタの黄金の瞳が、信じられないものを見たように極限まで見開かれる。
だが、ヴァルナは体勢を崩したランスロットに追撃をかけることはしなかった。
四対一の乱戦において、一つの標的に固執することは死を意味する。彼は流れるような、そして一切の無駄を省いた動作で胸の前に両手を持っていき、複雑な影絵の印を結ぶ。
「――脱兎」
ヴァルナの足元の影が、まるで意思を持った間欠泉のように爆発的に噴き上がった。
「何だ、これは……!?」
デオンは即座に細身のレイピアを翻し、空中の兎たちを神速の刺突で串刺しにしていく。しかし、斬っても突いても影から際限なく溢れ出す白い毛玉の群れは、デオンやサンソンたちの視界を完璧にジャックする。
その白い吹雪の向こう側で、ヴァルナの肉体はすでに物理空間から完全に消え去っていた。
自身の影の中――一切の光が存在しない、完全なる暗黒の位相空間への『影道潜行(シャドウ・リンク)』。三次元の物理法則を無視した特異点を、ヴァルナは一匹の魚のように滑らかに泳ぐ。
彼が次に浮上するための、この戦場における『最適の座標』は。
「――そこか」
兎の群れを払いのけようと、レイピアを大振りに動かしてしまったデオン。
その完全に無防備となった背後。足元に落ちた瓦礫の濃い影から、一切の音を立てずに、死神のようにヴァルナの半身が浮き上がった。
「ッ!?」
英霊としての優れた直感と剣士の反射神経が、デオンに背後の異常な気配を知らせる。
だが、致命的に遅い。
身を捻り、レイピアの切っ先を後方へ向けようとするデオンの動きよりも速く。ヴァルナの右手に、極限まで圧縮された青黒い呪力が集中する。
それは刃ではない。ただの『貫手』。しかし、呪力強化によって鋼鉄をも凌駕する硬度と質量を持ったその指先は、英霊の強靭な霊基すらも容易く貫く魔の槍と化していた。
ズバァァァァァンッ!!!!
「あ……」
剣士の口から、微かな、本当に微かな声が漏れた。
ヴァルナの貫手が、デオンの背中から心臓の付近を容赦なく貫き、その華奢な胸の正面から、血に濡れた指先を突き出していた。
さらにヴァルナは、突き刺した腕を軸にしてデオンの身体を強引に引き寄せると、空いている左手で彼女の剣を持つ右腕を掴み、自身の膝を支点にして力任せに『引き千切る』ようにへし折る。
「……邪魔だ」
ヴァルナが感情のない平坦な声でそう呟いた、まさにその直後。
「Arrrrrrthuuuuurrrr!!!!」
背後から、大気が震えるほどの咆哮が爆発した。
左腕をあり得ない方向へへし折られながらも、狂戦士の闘争本能は一切削がれてはいなかった。むしろ痛覚すらも殺意に変換し、残された右腕で大剣を引きずりながら、ヴァルナの背中を両断せんと猛烈な速度で突貫してくる。
彼は胸に致命的な穴を空けられ、ピクピクと痙攣しているデオンの『顔面』を、空いている右手で容赦なく鷲掴みにした。
「ッ!?」
「行け」
ヴァルナは極限まで呪力を練り上げた右腕の膂力だけで、デオンの身体そのものを引き剥がし、背後から突っ込んでくるランスロット目掛けて『砲弾のようにぶん投げた』。
ドガァァァァンッ!!!!
「グ、ルルルァァッ!?」
凄まじい速度で飛来した「味方の肉体」に対し、ランスロットの狂った脳髄は一瞬対応が遅れた。
デオンの身体がランスロットの胸部装甲に激突し、その凄まじい物理的衝撃によって、黒騎士の巨体は大きく後退して体勢を崩し、一時的に動きを完全に封じられる。
一瞬の撹乱と、敵の肉体すら弾丸として利用する完璧な暗殺術。
これで一騎が戦闘不能(サイレント)、もう一騎が完全に怯んだ。
「ふざけるなァァァァァァッ!!!!」
自らが使役するサーヴァントが、瞬きをする間にゴミのように扱われ、同士討ちの道具にされた。その光景に、ジャンヌ・オルタの憎悪が完全に臨界点を突破した。
彼女は最初の一撃による腹部の激痛を、無理やりに怨嗟の魔力で押さえ込み、自ら戦陣へと躍り出た。
地獄の業火のような怨嗟の炎が纏わりつく。周囲の酸素を燃やし尽くしながら、ヴァルナの頭上から必殺の一撃として、その炎の刃が振り下ろされる。
憎しみと復讐の念が限界まで込められた、魔力放出の一撃。
彼は半身を引き、右拳を腰だめに構えると、自身の全身の呪力を限界までその拳の表面に集中させた。
「――」
振り下ろされる漆黒の剣に対し、ヴァルナは真っ向から、その呪力を込めた右ストレートを叩き込んだ。
ドガァァァァァァァァンッ!!!!
剣と拳。
絶対に交わるはずのない二つの質量が激突し、爆発的な衝撃波と火花が戦場に吹き荒れた。
オルタの放つ怨嗟の炎と、ヴァルナの極度に圧縮された呪力が、互いを喰らい尽くそうと拮抗する。
「な……っ!?」
パワーは完全に互角。
純粋な魔力量ではサーヴァントであるオルタが上回っているかもしれないが、ヴァルナの『呪力の一点集中』という極限の技術が、その基礎スペックの差を完全に埋め合わせていた。
だが、ただ力で拮抗しているだけではない。ここからが、彼と彼女の決定的な『技巧の差』だった。
(……力は互角。なら、流す)
ヴァルナは拳の接触面から微かに呪力の圧を抜き、オルタの剣の軌道を、自分の身体のすぐ横へと『滑らせた』。
合気道にも似た、神業のような力の受け流し。
全力で振り下ろした力を完全にスカされたオルタは、前のめりに体勢を崩す。
「しまっ――!」
そこへ、ヴァルナの容赦のない膝蹴りが、がら空きになったオルタの鳩尾に深々と突き刺さった。
「ガ、ハァッ……!!」
最初の一撃と同じ箇所への、正確で強烈な打撃。オルタは再び血を吐きながら、地面を転がるようにして後方へと吹き飛ばされていった。
しかし。
オルタを蹴り飛ばしたその直後、ヴァルナの完全に無防備な背後から、音もなく忍び寄っていた『死神』が牙を剥いた。
「……罪人は、首を刎ねる」
処刑人、シャルル=アンリ・サンソン。
ジャンヌ・オルタの炎の剣を受け止め、蹴り飛ばす一連の攻防。その意識が前方に集中したわずかな隙を突き、彼は完全に気配を殺してヴァルナの背後へと潜り込んでいたのだ。
彼の両手には、巨大で禍々しいギロチンの刃が握られ、ヴァルナの首筋目掛けて、絶対に回避不可能なタイミングで振り下ろされようとしていた。
ヴァルナの体勢は、オルタを蹴り飛ばした直後であり、両腕も流れている。
防御も、回避も間に合わない。
だが、ヴァルナ・クロスの『十種影法術』の理は、そんな常識の枠に収まるものではない。
(……腕が塞がっているなら、影で組めばいい)
自身の背後に迫る死の刃を感じながら、ヴァルナは一切の焦りを見せず、ただ自身の『足元の影』に極度に繊細な呪力操作を行った。
手で印を結べないのなら、影そのものを操作して、地面の上に直接『影絵』の形を形成する。それは、術式の遠隔発動。
地面に描かれたのは、犬の頭部の影。
ヴァルナの背後、サンソンの凶刃がその首に触れる寸前。
地面に形成された影絵から、爆発的な質量を持った『漆黒と純白が混ざり合った毛並み』が隆起した。
「――玉犬・渾」
サンソンが驚愕の表情を浮かべる間もなく。
渾の巨大な顎が、背後からサンソンの上半身を、丸ごと食い千切った。
ゴキャァァァァンッ!!!!
「ア……?」
断末魔の悲鳴すら、上げることはできない。
首切り役人の身体は、強靭な獣の牙によって文字通り真っ二つに噛み砕かれ、砕けた霊核から金色の魔力粒子が吹き出す。
炎の爆ぜる音だけが響く中、玉犬・渾は主の背後を守るようにして、その巨大な舌で口の周りの血を舐め取る。
静寂。
ヴァルナは、ゆっくりと姿勢を戻し、戦場全体を見渡した。
背後からの奇襲を仕掛けたサンソンは、渾の顎によって消滅した。
騎士デオンは、胸を貫かれ、瓦礫の陰で完全に戦闘不能に陥っている。
この軍勢の主であるジャンヌ・オルタは、二度の蹴りによるダメージを引きずり、遠くで膝をついて荒い息を吐いている。
そして。
先ほどの乱戦の初手で、左腕をあり得ない方向へとへし折られた黒い狂騎士、ランスロット。
彼は片腕をだらりと下げながらも、未だに底知れぬ瘴気を放ち、残された右腕で大剣を握り直していた。
ヴァルナの冷徹な脳内で、戦況の計算式が更新される。
(あのセイバーはいつでも殺れる。ジャンヌ・オルタもすぐには動けない)
ヴァルナの硝子のような瞳が、瘴気を放つ黒騎士の姿を真っ直ぐに捉えた。
(ならば、この場で最も技量が突出している黒騎士を仕留める。……片腕を失い、バランスが崩れている、今なら確実にやれる)
彼の中に、一切の躊躇いはなかった。
最強の狂戦士を叩き潰すための、極限のインファイトへのスイッチが、今、完全に切り替わった。