Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【三節】灰の街と反転する生、そして嘲笑を置き去る神速

 

 白み始めた空から、薄暗い朝の光が森の木々をすり抜けて落ちてくる。

 

 空気はひどく冷たく、吐く息は微かに白い。ヨーロッパ特有の乾燥した風が、昨晩の焚き火の残り香を静かに攫っていく。

 

「……おはようございます、ヴァルナ殿、マシュ殿」

 

 

 いち早く身支度を整えていたジャンヌ・ダルクが、清冽な朝の空気を深呼吸しながら二人に声をかけた。彼女の表情は昨日までの悲哀を振り払い、静かな決意に満ちている。

 

「おはようございます、ジャンヌさん。……マスター、体の具合はどうですか?」

 

「問題ない。十分な休息が取れた」

 

 

 ヴァルナは黒衣の埃を軽く払いながら、淡々と応える。

 

 昨夜の話し合いで決まった通り、まずは情報収集。最終的な目的地であるオルレアンへ直接乗り込むのは、敵の戦力規模も目的も不明な現状ではあまりに無謀すぎる。まずは周辺の街を巡り、生存者との接触や、敵の動向に関する手がかりを探る必要がある。

 

『おはよう、みんな。こっちの観測機器も正常に動いているよ』

 

 

 腕の端末から、少し寝不足気味なドクター・ロマンの声が響く。

 

『君たちの現在地から一番近いのは「ラ・シャリテ」という街だ。だが……嫌な予感がする。さっき、ほんの一瞬だけだが、その街の方向から強大なサーヴァント反応を検知したんだ。……今は完全にロストしているけれどね』

 

「遠くへ離脱したか、あるいは結界の類で気配を隠したか……」

 

 

 彼は目を細め、森の木々の隙間から見え隠れする北西の空を仰ぎ見た。

 

 灰色の空の一部が、不自然な赤黒い色に染まっている。朝焼けではない。それは明らかに、大規模な火災によって空が照らし出されている『炎上』のサインだった。

 

「……街が、焼かれている」

 

「急ごう。生存者がいるかもしれない」

 

 

 ヴァルナの足首に、青黒い呪力が圧縮される。

 

 ドンッ!! という爆発音と共に土が抉れ、ヴァルナの肉体が砲弾のように森を飛び出した。マシュとジャンヌもそれに続き、荒れ果てた街道を驚異的な速度で駆け抜けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街に到着した三人を迎えたのは、冬木の特異点Fを彷彿とさせるような、熱と絶望の地獄。

 

 石造りの家屋は崩れ落ち、木製の柱や扉は業火に包まれて赤黒く炭化している。街全体を舐め回す炎の熱気が肌を焼き、肺を焦がすような濃密な煙が視界を遮っていた。

 

 

 だが、特異点Fと決定的に違う点が一つ。

 

 それは、そこかしこに転がる、あまりにも生々しい『人間の死骸』の数々だ。

 

「そんな……!」

 

 

 マシュが思わず口元を覆う。

 

 逃げ惑う最中に背中を斬られたであろう男、子供を抱きかかえたまま黒焦げになった母親。ただの戦争の余波ではない。明確な「虐殺」の意思を持って、この街の住民は一人残らず狩り尽くされた。

 

「誰か……! 誰かいませんか!!」

 

 

 ジャンヌは炎の熱にも怯まず、崩れた家屋の隙間を覗き込みながら悲痛な声を張り上げる。

 

 しかし、返ってくるのは建物の崩落音と、火の粉の爆ぜる音だけ。

 

『……ダメだ。熱源センサーにも、生体センサーにも、一切の反応がない。……この街に、生存者は一人もいない』

 

 

 ロマンの沈痛な報告が、彼女の僅かな希望を打ち砕く。

 

「……っ」

 

 

 ジャンヌは白百合の旗を杖のように突き立て、その場に崩れ落ちるように膝をつきそうになる。

 

 

 

 

 だが。

 

 ピクッ、と。周囲の状況を無感情に観察していたヴァルナの硝子のような瞳が、微かな『違和感』を捉えて横へ動く。

 

「ジャンヌ、マシュ。下がれ」

 

「え……?」

 

 

 ヴァルナの低く、冷徹な警告。

 

 その直後、ズズ……という、肉を引きずるような不気味な音が、燃え盛る瓦礫の奥から聞こえてくる。

 

 

 現れたのは、『街の住人だったもの』たち。

 

 首の骨が折れ曲がり、腹部から内臓をこぼし、あるいは全身の皮膚が炭化しているにもかかわらず、彼らは不規則な痙攣を伴いながら、ゆらりゆらりと立ち上がる。

 

 

 

 

 

 生ける屍(リビングデッド)。

 

 冒涜的な死者たちが、ヴァルナたちを新たな獲物と認識し、うめき声を上げながら四方八方から群がってくる。

 

「彼らは……この街の、人たち……」

 

 

 ジャンヌの顔が蒼白になる。かつて自分が命を懸けて守った民が、死してなお怪物として弄ばれている。その事実に、彼女の旗を握る手が小刻みに震えた。

 

「……マスター、指示を!」

 

 

(……死の呪いによる強制稼働か。悪霊や死徒とは違うが、術式そのものは極めて粗悪で下品だ)

 

 

 ヴァルナは一切の感情を交えず、ただ「現象」として目の前の状況を分析する。

 

 敵は弱い。だが、ジャンヌやマシュにこの哀れな死者たちを物理的に破壊させるのは、戦術的にも精神的にも悪手だ。

 

「……俺がやる」

 

 

 ヴァルナは一歩前へ踏み出し、両手を胸の前で合わせた。

 

 彼の培ったアンデッドへの知識と、十種影法術の理が、彼の脳内で瞬時に結びつく。

 

「――円鹿」

 

 

 ヴァルナの足元の影が水面のように波打ち、そこから巨大な鹿の姿をした式神が悠然と顕現した。

 

 その瞳が輝き、背には奇妙な紋様が浮かび上がっている。

 

「反転術式、広範囲出力。……洗い流せ」

 

 

 円鹿の角から、眩いほどの純白の光――『正のエネルギー』が、波紋のように周囲の空間へと解き放たれた。

 

 負の力で無理やり動かされていたリビングデッドたちに、極上の『生』のエネルギーが津波のように押し寄せる。

 

「ァ……アァ……」

 

 

 生ける屍たちは苦しむこともなく、ただその光を浴びた瞬間、肉体を縛っていた邪悪な呪いを完全に中和され、安らかな顔のまま次々と土へと還るように倒れ伏した。

 

 物理的な破壊を一切伴わない、完璧な『浄化』。

 

 

 

 通信機越しに、ダ・ヴィンチの驚愕する声が響く。

 

『信じられない……! 魔力による対抗でも、聖印でもない。ただ純粋な「正のエネルギー」そのものをぶつけて、呪いの構造式ごと完全に浄化した!? 君のあの式神、一体どういう術式構造をしているんだい!?』

 

 

「……すごい」

 

「ただの適材適所だ。」

 

 

 ヴァルナは瞬時に思考を次へと回す。

 

(この街を焼き、住民を嬲り殺しにした。……間違いなく、先程感知したサーヴァントの仕業だろうな)

 

 

 炎の爆ぜる音だけが残る、灰と血に塗れた街。

 

 これ以上の戦闘の気配はないが、同時に、この街から得られる情報もすべて失われていた。

 

「……酷い」

 

 

 ジャンヌは白百合の旗を握りしめ、黒焦げになった家屋を痛ましげに見つめた。

 

「『もう一人の私』は、一体何を考えているのでしょうか。こんな無意味な虐殺を行うなんて……正気の沙汰ではありません」

 

 

 彼女の青い瞳に、深い苦悩が浮かぶ。

 

「裏切られたことへの憎しみが、人を変えてしまうことは分かります。ですが……このような憎悪に身を任せれば、行き着く先は虚無だけだというのに」

 

 

 ジャンヌが己の狂気に思い悩んでいた時。

 

『――ッ!! まずい、全員そこから離れて!!』

 

 

 突然、ロマンの悲鳴のような叫び声が通信機から響き渡った。

 

『信じられない……先ほどロストしたサーヴァント反応が、一気に六つも現れた! しかも、一直線に君たちのいるラ・シャリテに向かっている!』

 

「六騎……!?」

 

 

 マシュの顔色が変わる。

 

『間違いない、これは迎撃部隊だ! 君たちが街に干渉したことで、敵の主力が戻ってきたんだ! 今の君たちの戦力じゃまずい、急いで森へ撤退を――!』

 

 

「――いいえ、逃げません」

 

 

 ジャンヌ・ダルクの凛とした声が遮った。

 

 彼女は振り返ることなく、敵が接近してくる方角――燃え盛る街の奥、メインストリートの瓦礫の山を見据えていた。

 

「相手の目的を知り、『私』の真意を問いただすまでは。……ここで背を向けるわけにはいかないのです」

 

 

 彼女の旗を握る手には、もはや迷いはない。

 

 その魂の形を見たヴァルナは、小さく息を吐き、静かに円鹿を影へと収納する。

 

 

 

 

 

 

 ズズン……、と。

 

 大地を揺らすような、圧倒的で、暴力的で、狂気に満ちた複数の魔力が、瓦礫の向こう側から姿を現そうとしている。

 

 

 それは、単なる気配の接近などという生易しいものではない。

 

 一騎でも規格外の質量を持つ『サーヴァント』が、六騎。それが同時に一つの空間に存在するということは、もはやそこが災害の震源地であることを意味している。

 

 

 

 現れたのは、真っ黒なフルプレートアーマーに身を包んだ、騎士。兜の奥からは赤い双眸だけがギラギラと光り、手にした無骨な大剣からは、血と泥が混ざり合ったようなドス黒い魔力が瘴気のように立ち昇っている。ただ立っているだけで、周囲の空間がその狂気に当てられて歪むほどの存在感。

 

 

 

 それに続くようにして、次々と影が姿を現す。

 

 血のように赤い外套を羽織り、優雅でありながらも底知れない残虐性を隠し持った長身の男。

 

 退廃的なドレスに身を包み、鉄の処女を背後に幻視させるような、蠱惑的で狂気的な微笑を浮かべる女。

 

 軍服のような装いで、首切り役人特有の異様なほどに冷たく、偏執的な視線を向けてくる男。

 

 そして、華美な衣装を纏いながらも、その瞳に一切の光を宿していない、氷のように無表情な剣士。

 

 

 狂化、あるいは精神汚染。

 

 まともな意思疎通など不可能であると、彼らの放つ波長が雄弁に物語っている。

 

 

 

 だが。

 

 その五騎の異端なる英霊たちを従え、悠然と、そして傲慢に歩みを進めてくる『中心の存在』を見た瞬間。

 

 

 ジャンヌ・ダルクの呼吸が、完全に止まった。

 

「あ、あぁ……」

 

 

 ジャンヌの喉の奥から、掠れた、だが確かに絶望の色を帯びた声が漏れる。

 

 

 現れたその少女は、あまりにも『彼女自身』に似すぎていた。

 

 背丈、顔立ち、そして手にしている巨大な旗。そのすべてがジャンヌ・ダルクと瓜二つ。

 

 だが、その色彩と放つ気配は、清浄なる聖女のそれとは対極にある。

 

 白百合の代わりに禍々しい邪竜の紋章が刻まれた、漆黒の旗。純白の鎧は夜の闇のように黒く染まり、透き通るような金髪は、まるで死の灰を被ったかのように色を失い、変色している。

 

 

 何よりも決定的に違っていたのは、その瞳の色。

 

 慈愛と信仰に満ちた青い瞳ではなく、憎悪と復讐の炎が燃え盛る、黄金の双眸。

 

 黒いジャンヌ・ダルクは、瓦礫の山の頂点に立ち、眼下で立ち尽くす白いジャンヌ・ダルクを見下ろした。

 

「ふふ……あははははっ!」

 

 

 甲高く、耳障りで、しかしどこか虚ろな笑い声が、炎に包まれた街に響き渡る。

 

「無様ね。本当に無様だわ。自分を焼いた者たちが残した瓦礫の上で、まだそんな綺麗事を掲げて立っているなんて。……アナタは、本当に愚かで、惨めな田舎娘ね」

 

 

 嘲笑。完全なる見下し。

 

 自身と同じ顔をした存在からの、容赦のない言葉の刃。

 

 ジャンヌは、白百合の旗を支えにしながら、震える足で一歩だけ前へ出た。

 

「……なぜ」

 

 

 彼女の声は、怒りよりも悲しみに満ちている。

 

「なぜ、貴女はこんなことをするのですか。なぜ、この国の人々を……罪のない民を、滅ぼそうとするのですか!」

 

 

 ジャンヌには、本当に、本気でわからなかった。

 

 自分が火刑に処されたことへの無念はある。理不尽に対する悲しみもある。だが、それでも彼女が愛したフランスの地と、そこに生きる人々を憎むことなど、彼女の魂からは絶対に導き出されない答えだったから。

 

「なぜ?」

 

 

 黒いジャンヌは、心底可笑しそうに目を細めた。

 

「それはこっちのセリフよ。知れたことでしょう? 逆に聞くけれど、なぜ『アナタ』はフランスの人々を守ろうとするのかしら?」

 

 

 黒いジャンヌは、見下ろす黄金の瞳に、泥のような憎悪を渦巻かせた。

 

「裏切られ、石を投げられ、魔女だと唾を吐かれた。あげくの果てには、火炙りにされて、その身を炭になるまで焼かれた。……そんな者たちを、どうして愛せるというの?」

 

「それは……私は……神の、言葉を……」

 

「黙りなさい。神などいない。あの炎の中で、誰も私を助けてはくれなかった!」

 

 

 黒いジャンヌの怒声が、爆風のように空間を震わせた。

 

「反転しているとはいえ、そんなこともわからないの? 現実から目を背けているだけの偽善者。私は、アナタが心の奥底に封じ込めた『真実の叫び』。……もはや、秩序を正す、裁定者(ルーラー)にあらず」

 

 

 黒いジャンヌは、漆黒の旗を天高く掲げる。

 

 その旗に呼応するように、空を覆う雲の奥から、数え切れないほどの飛竜の咆哮が地鳴りのように響き渡る。

 

「私は、アヴェンジャー。ジャンヌ・ダルク・オルタナティブ。復讐の体現者よ」

 

 

 彼女の宣言は、呪いそのもの。

 

「この国を地獄に変え、私を裏切った者たちを、一人残らず滅ぼし尽くす。灰になるまで焼き尽くし、すべてを無に還す。……それが、私の、私たちの出した答えでしょう!?」

 

 

 憎悪に塗れた復讐者の姿。

 

 マシュは、その圧倒的な憎悪の質量に息を呑み、一歩後ずさる。

 

 ジャンヌもまた、自分自身の『もう一つの可能性』から突きつけられた呪詛に、言葉を失い、青ざめた顔で立ち尽くすことしかできない。

 

 

 

 

 だが。

 

 その絶望的な沈黙の空間において、ただ一人。

 

 ヴァルナ・クロスだけは、自身の平熱の瞳をミリ単位たりとも揺らすことなく、極めて冷徹な分析を完了させていた。

 

(……なるほど。完全に理解した)

 

 

 ヴァルナは腕を組み、瓦礫の上に立つ黒いジャンヌを、まるでショーケースの中の標本でも見るかのように淡々と観察する。

 

 

 あれは、もはや聖人ではない。英雄としての誇りも、人としての倫理も捨て去り、ただ『復讐』というシステムに従って動く、哀れな呪いの塊。

 

 妄執に囚われて怪物へと堕ちた人間を数え切れないほど見てきた。その末路がどうなるか、彼は誰よりも熟知している。

 

「……おい」

 

 

 突然、静寂を破ったその声は、驚くほど平坦で、熱を帯びていない。

 

 ジャンヌ・オルタが、不機嫌そうに黄金の瞳を細めて見下ろしてくる。

 

「何よ。ただの人間が、私に口を利く気?」

 

「この国を、この時代を滅ぼすというのであれば。……俺はお前を、世界を修正するための障害物として叩き潰す」

 

 

 ヴァルナは、まるで「今日の夕食は肉がいい」とでも言うような、日常的なトーンで言い放つ。

 

「お前にはお前の理屈があるんだろうが、俺の知ったことじゃない。……殺しても、問題はないな?」

 

「……は?」

 

 

 竜の魔女に対する、あまりにも傲慢で、不遜な物言い。

 

 ジャンヌ・オルタは、一瞬何を言われたのか理解できないというように目を瞬かせ、次いで、その美しい顔を苛立ちに歪めた。

 

「頭がおかしいの? 目の前の戦力差が見えないのかしら。私には五騎のサーヴァントがついているのよ。それとも、自分が負けることを一切考えていないわけ?」

 

 

 彼女はギリッと奥歯を鳴らす。

 

「ただの人間が……この絶望的な戦力差で、勝てるわけがないでしょう?」

 

「戦力差か」

 

 

 ヴァルナは、小さく目を細めた。

 

「ああ、お前の後ろで突っ立っている連中のことか。……少し魔力が多いだけの、的の数が増えたところで、俺のやることは変わらない」

 

 

 その言葉が、完全に竜の魔女の逆鱗に触れた。

 

「……殺しなさい」

 

 

 ジャンヌ・オルタは、親指で首を掻き切るジェスチャーをしながら、背後の英霊たちに冷酷な命令を下した。

 

「あんな口の減らない人間、一瞬で肉塊に変えてやりなさい。……行け、バーサク・ランサー。バーサク・アサシン!」

 

 

 彼女の号令と共に、二つの影が前に出た。

 

 一つは、血のように赤い外套を纏い、手には鋭い槍を持った長身の男。

 

 一つは、退廃的なドレスに身を包み、鋭い鉄の爪を煌めかせる女。

 

 彼らは狂化され、正気を失っているはずでありながら、獲物を前にして極めて人間的で、おぞましい笑みを浮かべている。

 

「フフフ……。あの男の血、とても美味しそうねぇ」

 

 

 バーサク・アサシンとして喚ばれた女吸血鬼が、長い舌で自身の赤い唇を舐め回す。

 

「あぁ、若い男の生き血。それに、あの冷たい眼差し。悲鳴を上げさせて、その顔が恐怖に歪むのを見るのが楽しみだわ」

 

「ふん。下品な女だ。貴様の趣味など知らんが、余の槍の錆にしてくれる」

 

 

 バーサク・ランサーとして喚ばれた串刺し公が、血の滴る槍を構えながら冷酷に笑う。

 

「血を啜るなら、余が先だ。あの男の喉元から、極上の鮮血を直接飲み干してくれようぞ」

 

 

 互いに皮肉を言い合いながらも、吸血鬼としての本能をむき出しにして、ヴァルナへと狂気的な瞳を向ける。

 

 圧倒的な殺意と、血への渇望。彼らはゆっくりと、だが確実にヴァルナとの距離を詰めようと動く。

 

「マスター……!」

 

 

 マシュが盾を構え、ヴァルナを庇うように前に出ようとする。

 

 だが、ヴァルナは左手で軽くマシュを制す。

 

「……正直、『驚いた』な」

 

 

 その言葉は、恐怖から出たものではない。

 

 だが、ジャンヌ・オルタはそれを自らに対する屈服だと思い、高らかに嘲笑った。

 

「ふふっ、あはははは! なに? 今さら自分自身の置かれた状況を理解して、絶望したのかしら? 威勢が良かったのは最初だけね!」

 

 

 ジャンヌ・オルタの甲高い笑い声が響く中。

 

 ヴァルナ・クロスは、組んでいた腕を解き、両手をだらりと下に下げる。

 

「――いいや」

 

 

 その声は、街の炎の音を掻き消すほどに、静かで、底知れぬ冷たさを孕んでいた。

 

「ここは、任せた」

 

「マスター!?」

 

 

 ヴァルナが、右足を半歩だけ、前へ踏み出す。

 

 

 

 

 

 その瞬間。

 

 ヴァルナ・クロスの肉体が、その場から『消滅』した。

 

「え……?」

 

 

 ジャンヌ・オルタの笑いが止まる。

 

 マシュも、ジャンヌも、何が起きたのか理解できずに目を見開いた。

 

 

 否。消滅したのではない。

 

 空間が爆ぜる音すらも置き去りにした、真っ正面への『超加速』。

 

 ヴラド三世もカーミラも、決して油断していたわけではない。英霊の動体視力で注意深く観察していたはずだ。狂化しているとはいえ、彼らも神話の領域にある英霊。ただの人間ごときに、視覚的にも反応速度的にも後れを取るはずがない。

 

 

 

 だが、彼らには『見えなかった』。

 

 それは単純に、ヴァルナの移動速度が速かったから、というだけの理由ではない。

 

 人間の肉体は、動き出す際に必ず予備動作が存在する。筋肉の収縮、重心の移動、地面を蹴るためのタメ。それらの初動を脳が認識することで、相対する者は次の動きを予測する。

 

 

 しかし、ヴァルナは極限まで圧縮した『呪力』を細胞の隅々にまで巡らせ、肉体のリミッターを意図的に外すことで、その予備動作を完全にゼロにした。

 

 完全な無防備な立ち姿から、最高速度(フルスピード)に至るまでの時間が、限りなくゼロ。

 

 動き出す前の状態から、次の瞬間には最高速に達しているため、英霊の脳の処理すらも追いつかなかった。

 

 

 

 精密な呪力操作と、天性の体捌きの融合。

 

 どちらかが少しでも欠けていれば、自身の肉体が自重と加速に耐えきれずに停止(フリーズ)してもおかしくはない。

 

 だが、彼はそれを、呼吸をするかの如くやってのけた。

 

 

 

 

 

 ゴォォォォォォォッ!!!!

 

 遅れて、空気が引き裂かれる轟音が爆発する。

 

「な、に……っ!?」

 

 

 ヴラド三世が驚愕に目を見開いた時、ヴァルナはすでに彼の遥か後方へと抜けている。

 

 

 

 

 

 向かう先は一つ。

 

 瓦礫の山の頂点に立つ、ジャンヌ・ダルク・オルタ。

 

「――っ!?」

 

 

 

 

 彼女は咄嗟に防衛本能を働かせ、緊急回避行動を取ろうと身を捻り、漆黒の旗を盾にしようと試みた。

 

 

 だが、間に合わない。

 

 絶対的に、間に合うはずがない。

 

 超高速での移動。

 

 その速度エネルギーを、一滴も逃すことなく、自身の右脚へと集中させる。

 

 

 力は、速さと、重さ。

 

 呪力強化によって鋼鉄以上の硬度を持ったその足甲が、無防備なジャンヌ・オルタの腹部目掛けて、凄まじい遠心力と共に振り抜かれる。

 

 

 

 

 

 

 

 ドゴォォォォォォォォンッ!!!!

 

「ガ、ァァァァァァァッ!?」

 

 

 竜の魔女の口から、酸素と血が同時に吐き出された。

 

 黒い鎧がひしゃげ、内臓が押し潰されるような激痛。

 

 

 強烈な打撃音と共に、ジャンヌ・オルタの身体は、まるで弾き飛ばされた砲弾のように後方へと一直線に吹き飛んでいく。

 

「貴様ァァァッ!!」

 

 

 自らの主を一撃で屠られたことに激昂し、サイドにいたバーサク・ランサーとバーサク・アサシンが、すぐさま反転してヴァルナへと斬りかかる。

 

 

 背後からの、吸血鬼達による必殺の挟撃。

 

 しかし、ヴァルナは空気を蹴るようにして空高くへと跳躍する。

 

 

 

 

 

 ヒュンッ!

 

 ヴラドの槍とカーミラの爪が、ヴァルナのつま先を紙一重で掠め、空を切る。

 

 その背後を、即座にマシュの十字盾とジャンヌの旗が強襲し、追撃を完璧に封じ込めた。

 

 

 

 ふわり、と。

 

 ヴァルナは舞い散る灰の中を滑空し、崩れた民家の屋根の上へと、音を立てずにふわりと着地する。

 

 そのまま、一切の油断なく戦場を睥睨する。

 

 

 視線の先。

 

 時計塔の壁面に激突したジャンヌ・オルタが、瓦礫の中から這い出てきた。

 

「ゲッ、ゴホッ……あ、ガァ……ッ!!」

 

 

 彼女は膝をつき、口から大量の血反吐を吐き出している。黄金の瞳には、かつてないほどの激痛と、そして絶対的な『憎悪』が渦巻いていた。

 

 

 そんな、憎悪の底から自分を睨みつけてくる竜の魔女を。

 

 ヴァルナ・クロスは、屋根の上から極めて冷ややかに、見下ろした。

 

「……この程度で、俺に勝てると思ってる」

 

 

 彼の平坦な声が、風に乗って戦場に響く。

 

「その脳みそに、『驚いた』と言ったんだ」

 

 

 

 冷徹なる観測者の奇襲。

 

 絶望的な戦力差を、たった一撃の暴力でひっくり返した男。

 

 第一特異点での、本当の意味での死闘が、今、幕を開けようとしていた。

 

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