Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【六節】復讐の業火と白亜の城壁、そして戦場に舞い降りた星のソナタ

 

 圧倒的な質量がもたらした終末的な轟音の余韻が、焦土と化した街路からゆっくりと引いていく。

 

 分厚い土煙の向こうから、ザッ、ザッ、と、一定のリズムを崩さない冷徹な足音が近づいてくる。

 

 ジャンヌ・ダルク・オルタの黄金の瞳は、瓦礫の山を越えて現れたその黒衣の男の姿に完全に釘付けになっていた。

 

 男の右手の掌からは、狂騎士の刃を素手で受け止めた際についた深い裂傷から、未だに赤い血がポタポタと滴り落ちている。だが、男はその痛みに顔をしかめることも、血を拭う素振りすら見せない。

 

 彼の感情の動かない、底知れぬ硝子のような瞳が、ただ真っ直ぐに自分だけを捉えている。

 

 

 ――次はお前の番だ。

 

 その平坦な視線から放たれる無言の『圧』が、物理的な重さを持って彼女の霊基を締め上げた。

 

「ぁ……アア……ッ」

 

 信じられない。信じられるはずがない。

 

 ほんの数分前まで、彼女はこの絶望の街路で、五騎の神話の英霊を従えた絶対的な『竜の魔女』として、あの無様な己の分身を見下ろしていたはずだ。

 圧倒的な戦力差。絶対の優位。彼女が座る復讐の玉座は、誰にも脅かされることのない不可侵の領域であると信じて疑わなかった。

 

 

 それが、どうだ。

 

 たった一人。

 

 得体の知れない能力と、狂気すら上回る暴虐のインファイトを振るう、たった一人の人間の手によって、彼女の軍勢は文字通り蹂躙された。

 

 処刑人は噛み砕かれ、フランスの剣士は胸を貫かれ、最強の狂戦士は空から降ってきた超質量によって完全に圧殺された。吸血鬼の二騎も、あの忌々しい盾の小娘と白い自分によって完全に足止めされている。

 

 解決策を模索する。

 

 自身の腹部には、男から受けた二度の蹴りによる致命的なダメージが蓄積していた。臓腑は焼け焦げたように痛み、まともに立ち上がることすら困難。

 

 逃げるか。いや、不可能だ。あの男の予備動作ゼロの超加速を見れば、背を向けた瞬間に心臓を抉り出されることくらい、嫌でも理解できる。

 

(……ここで、終わるの?)

 

 ジャンヌ・オルタの脳裏に、氷のように冷たい絶望が広がる。

 

(私が? この、ジャンヌ・ダルクが……復讐すら果たせぬまま、あんな得体の知れない人間の暴力によって、路地裏の泥のように這いつくばって、無様に死ぬというの?)

 

 

 ――そんなことは。

 

 ギリッ、と。

 

 彼女の奥歯が、砕けんばかりの音を立てて噛み締められた。

 

 

 ――そんなことは、あっていいはずがない!!

 

 恐怖と絶望が、一瞬にしてドス黒い『憎悪』へと反転する。

 

 明確な打開策などない。ただ、「自身の敗北」という結果のみを、彼女の魂が全力で否定する。

 

「あああああぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」

 

 ジャンヌ・オルタが、血を吐くような絶叫を上げる。

 その瞬間、彼女の身体から立ち昇っていた黒い魔力が、爆発的な勢いで膨張を開始した。

 

 フランスという国への憎悪。自分を裏切った世界への憎悪。

 そして何より、自身の玉座を理不尽な暴力で引きずり降ろした、目の前の黒衣の男への極限の憎悪。

 

 目的を達するまで、死ぬわけにはいかない。この世界を、自身の胸で燃え盛る憎しみで燃やし尽くすまで、終わることはできない。

 

 

 こんなところで、死ねるものか。

 

 復讐者(アヴェンジャー)としての、ただ一つの在り方。

 

 彼女は、自身の内に芽生えた死への恐怖すらも、すべて薪として己の憎悪の炎へとくべる。

 

 

 ゴォォォォォォォォォッ!!!!

 

 ジャンヌ・オルタを中心に、周囲の瓦礫が熱でドロドロに溶け始める。

 

 圧倒的な魔力チャージ。この局面を強引に塗り替えるための、常軌を逸した熱量。

 

 それは、アヴェンジャーとしてのクラススキル『自己回復(魔力)』の完全なる暴走。

 

 復讐が果たされるまで、その魔力は自身の命を削ってでも延々と湧き続ける。いわば、特級の魔力炉心。彼女はそれを、自身が持つ最大の攻撃――『宝具』を回し続けるためだけに全開で稼働させたのだ。

 

「フフッ……アハハハハハハハッ!!!! 燃えなさい……全部、全部、灰になるまで燃え尽きなさい!!」

 

 火刑に処されたという彼女の逸話、その呪いそのものを具現化した『憎悪の炎』。

 近づくだけで魂ごと飲み込まれ、炭化させられるような、恐るべき気迫と凄みが戦場を支配した。

 

(……宝具の発動シークエンスか)

 

 広域殲滅の対軍宝具。

 

 ならば、発動される前に接近して、その首を物理的に落として潰すのが最適だ。

 どんなに強力な能力だろうが、発動させなければ無意味。

 

 足首に呪力を圧縮し、神速の踏み込みに入ろうとした。

 

「――マスター!!」

 

 ヴァルナが動くよりも早く、彼の眼前に一つの影が躍り出る。

 

 巨大な十字盾を構え、一切の迷いのない瞳で燃え盛る業火を見据える少女。

 

 マシュ・キリエライト。

 

「……マシュ?」

「下がってください、マスター。今のあの炎の密度……接近すれば、先輩の防御でも無事では済みません!」

 

 マシュは、自身の背中にあるヴァルナを庇うようにして、大地の石畳に深く盾の石突きを叩きつけた。

 

 彼女は、シールダー。

 

 誰かを傷つけるための矛ではなく、大切な者を守り抜くための盾。

 それが、彼女の唯一の武器であり、彼女自身の『矜持』。

 

「先輩の背中を預かると、そう約束しました。……だから、ここは私が守ります!!」

 

 マシュの全身から、清浄で、そしてどこまでも強固な魔力の光が溢れ出す。

 

 

 絶対に、この世界を燃やし尽くす。

 

 絶対に、マスターを守り抜く。

 

 アヴェンジャーとしての憎悪の矜持と、シールダーとしての守護の矜持。

 

 絶対に譲れない二つの魂が、焦土と化した街の中心で正面から激突する。

 

「吠え立てよ……!!」

 

 ジャンヌ・オルタが、自身の憎悪のすべてを込めた漆黒の旗を、天空へと高く掲げた。

 

 彼女の背後に、地獄の業火で編み上げられたような、巨大な竜の幻影が浮かび上がる。

 

「これが私を焼いた憎しみ! 私の怨念! ……『吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)』ッ!!!!」

 

 

 宝具解放。

 

 街の通りを埋め尽くすほどの、巨大な黒炎の津波。

 敵味方の区別すらなく、触れるものすべてを存在から消し去ろうとする圧倒的な広域殲滅の業火が、マシュとヴァルナに向かって解き放たれた。

 

「チッ……あの狂女、我らもろとも消し飛ばす気か!!」

「冗談じゃないわ!!」

 

 遠くで戦っていたヴラドとカーミラが、そのあまりにも巨大な殲滅の炎に戦慄し、慌てて後方へと退避していく。

 

「マシュさん! ヴァルナ殿!!」

 

 ジャンヌ・ダルクもまた、自身の反転体が放った信じられないほどの憎悪の質量に青ざめ、二人の名を叫ぶ。ここまでの深い怨念を、彼女は抱き続けていたというのか。

 

 

 しかし。

 

 迫り来る死の業火を前にして、マシュ・キリエライトの瞳は、ただの一ミリも揺らいではいない。

 

「――真名、疑似展開」

 

 マシュの祈りに応え、彼女の持つ巨大な十字盾が、眩いばかりの光を放ち始める。

 

 それは、人々を守る城壁の光。

 

「集いし星の息吹。輝ける命の奔流……!!」

 

 憎悪の業火が、マシュの数メートル先まで迫る。

 だが、彼女は盾を構えたまま、大地に根を張った大樹のように一歩も退かない。その後ろには、自身を肯定し、在り方を示してくれた、大切なマスターがいるからだ。

 

 その『先輩を守る』という彼女の絶対的な意思が、カルデアの仮想宝具に『人理の守護』という概念を完全に仮託させた。

 

「……『仮想宝具 疑似展開/人理の礎(ロード・カルデアス)』ッ!!!!」

 

 マシュの絶叫と共に、十字盾から、巨大な光の城壁が展開される。

 

 あらゆる厄災を退け、人理を守り抜く絶対の防壁。

 

 

 ズゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!!!!

 

 ジャンヌ・オルタの放った憎悪と呪いの黒炎が、マシュの展開した城壁に正面から激突した。

 

 街全体が白と黒の閃光に包まれ、視覚と聴覚が完全に機能不全に陥るほどの大爆発。

 

 巨大な熱量が防壁を舐め回し、マシュの細い腕の骨をミシミシと軋ませる。

 

「くっ……あぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 凄まじい物理的重圧と概念の衝突によって石畳を抉りながら数センチ後退する。

 

 

 だが、折れない。

 

 彼女の魂の強度が、仮想宝具の守護の力を限界以上に引き上げる。

 

 どれほどの憎悪の炎であろうとも、彼女の背中にある「絶対の信頼」を焼き尽くすことなどできない。

 

「燃えろ……燃えろォォォッ!!」

 

 ジャンヌ・オルタは血の涙を流しながら、残された魔力のすべてを炎へと注ぎ込む。

 

 

 しかし。

 

 

 パリィィィィンッ!!!!

 

 やがて、守護の概念が憎悪の概念を完全に上回る。

 

 マシュの白亜の城壁が黒炎の津波を完全に弾き返し、行き場を失った業火は、空の彼方へと霧散するようにして弾け飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。

 

 熱風が吹き抜け、焦げた匂いだけが残る街路。

 

 ジャンヌ・オルタは、震える手で漆黒の旗を杖代わりにしながら、何とかその場に立っていた。

 

 魔力は完全に底を突き、霊基は今にも崩壊しそうだ。

 

 彼女は、煙が晴れた先を、絶望的な瞳で見つめた。

 

 

 そこに立っていたのは。

 

 一切の火傷すら負わず、巨大な盾を構え続ける少女と。

 その背後で、ただ静かに、冷徹にこちらを見据える黒衣の男の姿。

 

「あ……」

 

 ジャンヌ・オルタの膝から、完全に力が抜けた。

 

 ガクン、と瓦礫の上に両膝をつく。

 

 

 防がれた。

 

 すべてを出し切り、命を削って放った憎悪の炎すらも、あの名も知らぬ少女の盾に、真正面から打ち砕かれたのだ。

 これでも、足りないというのか。私の復讐は、私の存在意義は、彼らには届かないというのか。

 

 

 ザッ。

 

 マシュの背後から、ヴァルナ・クロスが静かに歩み出た。

 勝敗は完全に決した。彼は、残された最大の障害物を「処理」するために、無防備に膝をつく竜の魔女へと、ゆっくりと歩み寄っていく。

 

「……あぁ……」

 

 ジャンヌ・オルタの内側に、深く、冷たい諦念が広がる。

 もう、指一本動かす力もない。死が、すぐそこまで迫っている。

 

 

 その絶望の淵で。

 

 彼女の脳裏に、今は傍らにいない、ある狂気の魔術師の姿が浮かび上がった。

 世界中が自分を否定する中で、唯一、自身の存在を『貴女こそが真の復讐者だ』と肯定し、慈しんでくれた男。

 

(……ジル)

 

 彼女の唇から、助けを求めるように、小さな声が零れ落ちる。

 

 ヴァルナは、一切の感情を交えることなく、彼女の首を正確に刈り取るため、その右手に呪力を圧縮させながら最後の一歩を踏み出した。

 

 

 

 だが。

 

『――ッ!! 待って、二人とも!! 今すぐそこから離脱してくれ!!』

 

 ヴァルナの腕の通信端末から、これまでで最も切羽詰まった、悲鳴のようなロマニ・アーキマンの絶叫が響き渡った。

 

『レーダーに異常な魔力反応! 竜の群れだ、数十……いや、百近い! さらにサーヴァントの反応も複数接近してる! でも、そんなもの比じゃない!!』

 

 通信越しでも伝わってくる、ロマンの尋常ではない焦燥。

 

『とんでもなく巨大で、邪悪な魔力反応が真っ直ぐそっちに向かってる!! ダメだ、桁が違いすぎる! あれは……神話級の「竜」そのものだ!!』

 

 ロマンの警告とほぼ同時。

 

 焦土と化したラ・シャリテの空を覆っていた分厚い煙が、突如として発生した暴風によって大きく吹き飛ばされる。

 

 バサッ、バサバサバサッ!! という、空気を不気味に叩き据える無数の羽音。

 空を真っ黒に染め上げるほどのワイバーンの群れが、遠くの山間から怒涛の勢いで押し寄せてくる。さらにその後方には、そのワイバーンの群れすらもただの羽虫に思えるほどの、圧倒的で、そして底知れぬ邪悪さを孕んだ『巨大な気配』が、世界そのものを押し潰すような重圧を放ちながら接近してきていた。

 

「ア……アハハッ」

 

 その気配を感じ取った瞬間。

 

 俯いていたジャンヌ・オルタの口から、乾いた笑い声が漏れる。

 彼女はうつろな瞳で空を見上げ、その黄金の双眸に狂気的な歓喜の光を蘇らせる。

 

「……来てくれたのね、ジル。私のために。私を、助けるために……!」

 

 彼女を肯定する唯一の存在、キャスターが差し向けたであろう、本隊の援軍。

 そして、この第一特異点における最大の切り札である『邪竜』の気配。

 

(……面倒なことになった)

 

 ヴァルナは、上空から迫る圧倒的なプレッシャーを肌で感じながら、冷徹に思考を回した。

 

 竜の群れや、追加のサーヴァント数騎程度であれば、少し骨は折れるが処理することは可能。だが、あの奥に控えている規格外の『気配』は別だ。

 

 あれは、今の戦力と手札で正面からぶつかるには、あまりにもリソースを食いすぎる。何より、味方を守りながら戦えるような代物ではない。

 

「……マシュ、ジャンヌ。撤退するぞ」

 

 竜の魔女から視線を切り、即座に背後の二人に合図を送った。

 

「ここに留まるのはまずい。森の奥へ向かう」

「了解です、マスター!」

「はい。わかりました!」

 

 マシュとジャンヌが頷き、態勢を立て直して走り出そうとした。

 

 

 しかし。

 

「――逃がすと思うか、忌々しい人間めが!!」

 

 血を吐くような怒声と共に、彼らの退路を塞ぐようにして二つの影が躍り出た。

 

 

 吸血鬼、ヴラド三世、カーミラ。

 

 先ほどのジャンヌ・オルタの宝具展開の際、その凄まじい業火から逃れるために後方へと退避していた彼らは、直撃を免れ、未だに戦意を滾らせている。

 

「私に恥をかかせておいて、おめおめと逃げられると思っているの……? その生意気な首、ここで引き裂いてあげるわ!!」

 

 カーミラが拷問器具のような鉄の爪を煌めかせ、ヴラドが長大な槍を構えて、ヴァルナたちに殺意を向ける。

 

(……チッ)

 

 内心で舌を打つ。

 

 時間がない。あの竜の気配は、あと数分と待たずにこの場に到達する。あの化け物が到着すれば、この場からの離脱は物理的に不可能となり、無傷では済まないだろう。

 

 自分一人であれば、どうとでもなる。だが、彼はチラリと視線を横へ向けた。

 

 そこには、盾を構えるマシュ・キリエライトの姿がある。

 一見して毅然と立っているように見えるが、ヴァルナの眼には、彼女の足が微かに震え、肩で荒い息をしているのがはっきりと見えていた。

 

 無理もない。英霊たちとの連戦に加え、先ほどアヴェンジャーの憎悪のすべてを込めた対軍宝具を、己の仮想宝具だけで真正面から受け止めたのだ。彼女の魔力と体力は、すでに限界を向かえつつある。

 

(このまま吸血鬼の相手に手間取れば、あの竜が来る。……マシュの身に、危険が及ぶ)

 

 二人を庇い、吸血鬼と竜を同時に処理する。

 

 

 その計算式を脳内で弾き出した瞬間。

 

 ヴァルナ・クロスの瞳の奥で、カチリ、と何かが切り替わる音がした。

 

 彼にとって、カルデアの任務はどうでもいい。人理修復という大義名分にもあまり興味はない。

 

 だが、『自身のサーヴァントとなったこの少女の犠牲』だけは。

 それだけは、彼の冷徹な論理において、絶対に容認できない事象だ。

 

 その危惧への想いと反比例するように、ヴァルナの胸中に、目の前で道を塞ぐ吸血鬼たちへの、そして接近してくる邪竜への『極限の殺意』が爆発的に膨れ上がる。

 

(……なら、手っ取り早く更地にするか)

 

 盤面をひっくり返す、十種影法術の最強にして最凶の式神。

 

 だが、現在のヴァルナは己の術式に厄介な『縛り』を課している。

 

 この縛りをすり抜け、強引に最奥の禁忌を顕現させるためには、ひとつの面倒なプロセスを噛ませる必要があった。

 

 

 『領域展開』である。

 

 ただでさえ莫大な呪力を消費する領域展開に、最強の式神の召喚コストまで上乗せされる。特異点修復という長期戦を考えれば、後の戦闘に響く極めて重いリスクだ。術師としてのリソース管理において、これほど非効率で燃費の悪い選択はない。

 

 

 だが。

 

 躊躇いは、一秒たりもない。

 

 極端すぎる合理性と、執着。

 

 十種影法術の最奥にして最大の禁忌。

 

 

  彼は無造作に両腕を前に出し、今まで見せたどの式神とも違う、異質な形に両手を組み合わせた。

 

 片手で静かに印を結びながら、もう片方の手で虚空に幾何学的な紋様(メタトロンキューブ)の外縁をなぞるように描く。領域展開のための『印』。

 

 

 

 ――瞬間。

 

 戦場の空気が、完全に『凍りつく』。

 

「……え?」

 

 殺意を剥き出しにしていたカーミラの動きが、ピタリと止まる。

 

 ヴラドの額から、不気味なほどの脂汗が噴き出した。

 

 ジャンヌ・ダルクが、そして限界を迎えていたマシュでさえも、背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒に襲われ、息を呑む。

 

 

 ヴァルナ・クロスの全身から漏れ出す呪力の『質』が、根本から変質していたのだ。

 

「布瑠部……」

 

 ヴァルナの口から、冷たく、そしておぞましい祓詞が紡がれる。

 

「由良……」

 

 その言葉が発音された瞬間、背後の空間が歪み、巨大な法陣のようなものが形成されようとした。

 

 

 あと一言。

 

 あと一言、彼がその口を動かせば、最強にして最凶の式神が顕現し、この戦場を真の地獄へと叩き落とす。

 

 吸血鬼たちが本能的な恐怖に縛られ、一歩も動けない中。

 

 

 最後の一文字を紡ごうとしたとき。

 

 

 

「ヴィヴ・ラ・フランス!!」

 

 血と臓物と焦げた匂いが充満するこの凄惨な戦場に、どう考えても似つかわしくない、あまりにも可憐で、華やかな少女の声が響き渡る。

 

「……?」

 

 ヴァルナの意識が、一瞬だけそちらへと向けられ、口の動きが止まる。

 

 紡ぎかけられた悍ましい呪詛が、空間に溶けて霧散した。

 

 

 瓦礫の山の上に立っていたのは、眩いばかりの純白のドレスに身を包んだ、美しい少女だった。

 

 クリスタルガラスのように透き通った青い瞳と、優雅な微笑み。

 

 まるで舞踏会の会場にでも現れたかのように、彼女はふわりとドレスの裾をつまみ、優雅なカーテシーを披露する。

 

「ごきげんよう、勇敢なる旅人さんたち! 私の愛するフランスへようこそ。……でも、今は少しばかりご挨拶の時間が足りないみたいね」

 

 

 マリー・アントワネット。

 

 地獄の空間に突如として挿入された「王妃の輝き」。その圧倒的な場違い感と美しさは、周囲の空気すらも一瞬で中和してしまったかのように鮮やかだった。

 

 彼女はウインクを一つ落とすと、自身の背後にある暗がりへと、軽やかに指示を飛ばした。

 

「お願い、アマデウス! 彼らに素敵な『音楽』を聞かせてあげて!」

「やれやれ……王妃の頼みとあらば、仕方がない」

 

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。

 

 彼は指揮棒を振るうように両腕を掲げ、自身の宝具を解放した。

 

「さあ、聴くがいい! 『死神のための葬送曲(レクイエム・フォー・デス)』!!」

 

 突如として、廃墟の街に荘厳にして圧倒的な『音楽』が鳴り響く。

 それは耳で聴く物理的な音ではない。至高の魔術音楽によって編み上げられた、星々のソナタ。

 

「…… 体が、動か、ない……!?」

「貴様ら……何者だッ!」

 

 吸血鬼たちが苦悶の表情を浮かべる中、マリーは瓦礫から軽やかに飛び降り、ヴァルナたちに向かってにっこりと微笑んだ。

 

「さあ、今のうちに逃げましょう! 私たちについてきて!」

 

 

 唐突すぎる第三者の介入。

 

 ヴァルナは組んでいた両手の印を静かに解き、目の前のドレスの少女と、硬直している吸血鬼たちを交互に見比べる。

 

 

 一瞬の思考。

 

 このまま切り札を切ってすべてを更地にするか、それとも、この場違いな少女の提案に乗るか。

 

(呼ぶ必要はない、か。……リソースの温存が、最適だ)

 

 ヴァルナは、あれほどの極限の呪力と殺意を練り上げていたにもかかわらず、あっさりとそれをゼロに引っ込めた。

 

 彼は冷静な判断を下す。

 

「……マシュ、ジャンヌ。あいつらに続く。走れ」

「は、はいっ!」

「分かりました!」

 

 マリーとアマデウスが先導し、深い森の奥へと向かう獣道へと駆け出していく。

 

 ヴァルナはその背中を追いながら、最後に一度だけ、後ろを振り返る。

 

 アマデウスの音楽によって硬直したままの吸血鬼たち。

 そして、その奥で、空を覆うほどの巨大な竜の群れと邪悪な気配を背に受けながら、こちらを狂気的な黄金の瞳で睨みつけているジャンヌ・ダルク・オルタの姿。

 

 彼女の憎悪は、決して消えていない。

 

 だが、この第一戦(ラウンド)は、間違いなくこちら側の完全勝利だ。

 

 ヴァルナは無言のまま視線を切り、マシュの背中を守るようにして、鬱蒼と茂るフランスの森の奥へと、その黒衣の姿を消していった。

 

 

 絶望の特異点に、ついに反撃の楔が打ち込まれた。

 竜の魔女と異端の呪術師の、血塗られた戦争が、今ここから本格的に始まる。

 

 

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