Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
血と脂の焦げる臭いが充満していたラ・シャリテの街から遠く離れ、鬱蒼と茂る森の奥深く。
木々の間から差し込む光が、苔むした岩や下草を優しく照らしている。遠くで小鳥の囀りが聞こえるほど、ここには手付かずの自然の静寂が保たれていた。
「ふぅ……ここまでくれば、ひとまずは大丈夫かしら」
純白のドレスに身を包んだ少女――マリー・アントワネットが、足元の悪い獣道を優雅な足取りで抜けながら、可愛らしく安堵のため息をついた。
彼女は両腕を空に向かってぐっと伸ばし、凝り固まった身体をほぐすように背伸びをする。
「周囲の様子はどうだ」
『周辺に、敵対的な魔力反応はないわ。あの馬鹿げた質量の竜の群れも、どうやらラ・シャリテの街の上空で旋回しているだけで、こちらを追跡してきている様子はないわね』
カルデア管制室からの、オルガマリー・アニムスフィアの報告。
その確かな言葉に、張り詰めていた空気がふっと緩み、全員が深く息を吐き出した。
「うーん、気持ちのいい空気ね! フランスの森の朝は、やっぱりこうでなくちゃ」
胸いっぱいに清浄な空気を吸い込み、キラキラとした笑顔を咲かせる。
「あ、あの……! 先ほどは絶体絶命のところを助けていただき、本当にありがとうございます。お二人がいなければ、無事に離脱することはできませんでした」
マシュの誠実な感謝の言葉。
マリーはふわりとドレスの裾を揺らしてマシュに近づくと、その手を優しく握り締めた。
「気にしなくていいわ。女の子のピンチを助けるのは当然のことでしょう? それに、貴女のあの盾……とっても綺麗で、立派だったわ」
「っ……ありがとうございます」
マリーの底抜けに優しく、肯定に満ちた言葉に、マシュは照れ笑いを浮かべる。
「……それで」
和やかな空気を断ち切るように、ヴァルナが平坦な声で口を開いた。
彼の瞳が、マリーと、その後ろで気怠げに立っている男を真っ直ぐに見据える。
「助けてもらった恩義はあるが、事情を聞かせてもらいたい。その魔力波長……ただの人間ではないな。サーヴァントに見えるが」
「お察しの通り、僕たちはサーヴァントさ。正規のマスターを持たない、いわゆる『はぐれ』ってやつだね」
アマデウスが、やれやれと肩をすくめて答える。
「それより、君たちのことだが――」
「ノン! ダメよ、アマデウス」
アマデウスが言葉を続けようとした瞬間、マリーがビシッと人差し指を突きつけて彼を制止した。
「自己紹介もせずにお話しを進めるなんて、マナー違反だわ。まずは私たちから名乗るのが筋というものでしょう?」
「……はいはい。君がそう言うなら、逆らう気はないよ」
アマデウスはため息をつきつつも、どこか楽しげに一歩後ろへ下がった。
マリーはコホンと小さく咳払いをし、再び優雅なカーテシーを披露した。
「改めまして。私はマリー・アントワネット。クラスはライダーとして現界しているわ。今はマスターのいない、はぐれサーヴァントよ」
ライダー、マリー・アントワネット。フランス革命において断頭台の露と消えた、悲劇の王妃。
カルデアでインプットされた歴史の知識と、目の前で微笑むあまりにも可憐な少女の姿が、マシュの中で上手く結びつかない。だが、彼女の放つ高貴な輝きは、間違いなく本物の「王妃」のそれだった。
「で、僕がキャスターのアマデウス。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトさ。見ての通り、音楽を愛するしがない天才だ。よろしく頼むよ」
続いて、ヴァルナとマシュも自身の名を名乗る。
「俺はヴァルナ・クロス。カルデアのマスターだ」
「マシュ・キリエライトです。クラスはシールダー……今は、先輩のサーヴァントとして同行しています」
「ヴァルナさんに、マシュさんね。ええ、覚えたわ!」
マリーは嬉しそうに手を打ち合わせると、今度は視線を、彼らの後ろで控えめに立っている金髪の少女へと向けた。
「…… もしかして、貴女は……!」
見つめられた少女は、少し緊張した面持ちで一歩前へ出ると、自身の胸に手を当てて名乗った。
「私は、ジャンヌ・ダルク……ルーラーのサーヴァントとして召喚されました。ですが、今は極めて不完全な状態で……」
「ああ、やっぱり! ジャンヌ・ダルク! フランスの救済の聖女様!」
マリーはジャンヌの言葉を待たずに駆け寄り、その両手をとって目を輝かせた。
「生前から、ずっとお会いしてみたかったの! 貴女がいてくれたからこそ、私の愛するフランスは救われた。貴女は、私の……ううん、フランスのすべての人々にとっての英雄よ!」
王妃からの、手放しの、そして心からの称賛。
しかし、ジャンヌは自身の過去と、先ほどの街での光景が脳裏を過り、痛ましそうに目を伏せた。
「……いえ。私は、貴女のような気高い方に手放しで称えられるような、そんな立派な聖女ではありません」
ジャンヌの声は、微かに震えている。
「私はただ、旗を掲げて戦場を駆けただけの村娘です。多くの血を流し、最後には何も救えずに燃やされた……。今の私には、人々を導くような資格など……」
「いいえ、そんなことはないわ」
マリーは、自らを卑下するジャンヌの手を、さらに強く、温かく包み込んだ。
その青い瞳には、一切の揺るぎない肯定の光が宿っている。
「貴女自身がそう思っていたとしても……貴女の生き方、そしてその結果を、私たちは知っている」
マリーの声は、優しく、しかし確かな力強さを持って森に響いた。
「だからこそ、皆が貴女を称え、憧れ、決して忘れない。……あのオルレアンの奇跡の存在を。貴女は間違いなく、私たちの聖女よ」
「あ……」
マリーの真っ直ぐな言葉が、ジャンヌの心の奥底にこびりついていた氷を、温かく溶かしていく。
自分が信じられず、魔女と呼ばれ、反転体の暴走に打ちのめされそうになっていた彼女を、フランスの王妃が「奇跡だ」と全肯定してくれたのだ。
「……ありがとうございます、マリー様」
ジャンヌは、嬉しさと恥ずかしさが入り混じったように身をよじり、微笑んだ。
「さて」
少女たちの尊い交流を、冷や水を浴びせるような平坦な声がぶった斬る。
「感動の対面もいいが、そろそろ本題に入ろう。あまり時間もない」
彼は空気など一切読まず、あるいは読む必要性を感じていない様子で、マリーの目の前へとズイッと歩み寄る。
「あらあら、ごめんなさいね。ジャンヌ・ダルクに会えて、つい舞い上がってしまって」
マリーは軽く謝罪しつつ、不思議そうに首を傾げた。
だが、ヴァルナは言葉を返す代わりに、マリーの顔をじっと見つめ始める。
瞬き一つせず、彼女の瞳の奥を――いや、彼女の魂の輪郭そのものを、舐め回すように観察していく。
(……先ほどまで相手にしていた狂化英霊の泥のような魂とは、真逆の構造だ)
ヴァルナの脳内で、極めて解剖学的な分析が進む。
(清浄で、どこまでも真っ直ぐな魂の形。生前の悲劇的な結末をすべて受け入れた上で、なお他者を愛そうとする自己犠牲の構造。……なるほど、これが「王妃」の霊基か。少し不安定な部分も見受けられるが、筋の通った見事な生き方だ)
「……ふふっ」
そんなヴァルナの常軌を逸した「観察」に対し、マリーは嫌がるどころか、楽しそうにコロコロと笑い声を上げた。
「そんなにも熱い視線を向けられると、少し照れてしまうわ。貴方、なかなか情熱的な殿方なのね」
「そうか。悪いな」
あっさりと謝罪し、次いで隣にいたアマデウスへとターゲットを変更した。
スッ、と流れるような動作でアマデウスに接近し、今度は彼の顔を穴が開くほどに見つめ始める。
(音楽という概念を魔術の極致にまで昇華させた術式。……どういう構造をしていれば、音の羅列で吸血鬼の霊基を縛れる? 術式の基盤はどこだ。回路の配置は?)
「ヒィッ!?」
ヴァルナの、一切の感情がない、純粋な「解剖対象」を見るような視線に、アマデウスが本能的な悪寒を感じて後退りする。
「な、なんだい今度は僕かい!? 悪いけど、男に見つめられる趣味はないし、君のその目はちょっと……マジでヤバい奴の目をしてるんだけど!?」
「マスターっ!!」
そこへ、マシュが慌てて割って入り、ヴァルナを掴んでズルズルと引き剥がす。
「すみません、お二人とも! これは先輩なりの……その、親愛の表現というか、ただの観察癖なんです! 決して危害を加えるつもりはないので……!」
マシュが必死にヴァルナを背中に隠しながらペコペコと頭を下げる。
その光景に、マリーは「あらそうなの? 変わっているのね」と口元を抑えてフフッと笑い、アマデウスは「よかったわね、アマデウス」といわれ「全然よくないよ!」と嫌な顔をして反論した。
張り詰めていた戦場の空気が、彼らの独特のペースによって完全に日常のそれへと塗り替えられている。
「……とりあえず、現状の説明をしよう。ドクター、繋がっているな」
マシュの後ろからひょっこりと顔を出したヴァルナが、通信端末を起動する。
『ああ、聞いているよ。やれやれ、相変わらず君のペースは独特だね』
ロマンの苦笑い混じりの声が響き、そこから、はぐれサーヴァントであるマリーとアマデウスに向けた「特異点と人理焼却」についてのざっくりとした説明が開始された。
カルデアという機関の目的。未来からのレイシフト。このフランスが何者かによって歴史を歪められ、人類史が燃やされようとしていること。
「なるほどね……。どうりで、この国のレイラインが無茶苦茶に乱れているわけだ」
説明を聞き終えたアマデウスが、顎に手を当てて納得したように頷く。
「私たちも、召喚されてからずっと、この悲鳴を上げるフランスの大地をどうにかできないかと動いていたの。……でも、私たちだけでは戦力が足りなくて」
マリーが、少しだけ悔しそうに目を伏せた。
「だからこそ、お前たちの力が必要だ」
極めて合理的な、だが確かな信頼を込めた声で協力を要請する。
「俺たちの目的は、特異点の原因であるジャンヌ・オルタの撃破と、聖杯の回収。お前たちと目的は一致しているはずだ。……手を貸せ」
「ええ、もちろんよ! 喜んで協力させてもらうわ!」
マリーは即座に、太陽のような笑顔で快諾した。
「待って、マリー。僕たちはあくまで――」
「アマデウスも、もちろん手伝ってくれるわよね?」
「……はぁ、君がそう言うなら僕に拒否権はないよ。やれやれ、厄介事に巻き込まれた」
マリーの有無を言わさぬ笑顔に圧され、アマデウスも渋々と、しかしどこか嬉しそうに同盟を承諾した。
こうして、救国の聖女に加え、フランスの王妃と天才音楽家という強力な戦力がカルデア陣営へと加わったのだ。
「交渉成立だ。……このまま森を抜け、安全な開けた場所を探す。今日はそこでキャンプだ」
*
ヴァルナの指示により、一行はさらに森の奥深くへと進み、やがて視界が開けた美しい泉のほとりへと辿り着いた。
陽の光が泉の水面をキラキラと反射させ、外の狂気的な世界が嘘のような、穏やかな空間。
「ここなら、魔獣の気配もないし、拠点としては最適ですね」
マシュが周囲を警戒しながら頷く。
一行が腰を下ろして休息の準備を始めようとした時。
『みんな、お疲れ様! 空間座標の固定が安定したから、こちらから支援物資を送るよ!』
通信機から、レオナルド・ダ・ヴィンチの明るい声が響く。
直後、空中の空間が魔術的に歪み、ドサドサッ! と大量の箱やカプセルが泉のほとりに転がり落ちてきた。
「わぁっ! なにこれ、すごいわ! 何もない空間から箱が降ってきた!?」
マリーが目を輝かせ、通信機から投影されているダ・ヴィンチのホログラム映像に釘付けになる。
「ふふん、驚いたかい王妃様! 万能の天才ダ・ヴィンチちゃん特製の、携帯用魔術テントと、栄養満点の食料セットさ!」
ホログラムのダ・ヴィンチが得意げに解説する。
「面白い……。魔術的圧縮と展開の技術か。野宿のストレスが大幅に軽減されるな」
「感謝してくれたまえよ、新人マスター君。……で、その見返りと言っては何だが」
ダ・ヴィンチのホログラムが、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「カルデアに帰還したら、君の細胞をほんの少し……そうだな、髪の毛数本か、採血程度でいいから提供してくれないかい? 君のその未知のエネルギー『呪力』と、式神を内包する肉体の構造が、どうにも気になって夜も眠れないんだよ」
「ああ、採血程度でいいなら構わないぞ」
ヴァルナが全く警戒心ゼロで即答した、その瞬間。
『ちょっとダ・ヴィンチ!!』
通信の向こう側で、オルガマリーの激怒する声が響き渡った。
『貴重なカルデアのマスターを実験動物みたいに扱わないでって、何度言えば分かるのよ!! アンタもアンタよ! ホイホイと自分の身体を差し出すんじゃない。少しは警戒しなさい!!』
「……? 減るものでもないだろう」
『そういう問題じゃないの!! はぁ……本当に、目を離すと何をしでかすか分からない連中ばかりね……!』
通信越しに響く所長の頭痛を堪えるような声に、マシュが苦笑いを浮かべ、マリーとアマデウスが面白そうにくすくすと笑う。
「ふふ、カルデアってとっても賑やかで素敵な場所なのね。……それじゃあ、私たちもテントの準備を手伝うわ」
マリーが腕まくりをして立ち上がる。
サーヴァントは基本的に睡眠を必要としないが、マリーやアマデウスのような比較的近代の英霊は、人間としての生活感が色濃く残っているため、野宿よりも屋根のある場所で休むことを好む傾向にあった。
「テントは複数あるみたいですね。では、男性用と女性用で分けましょう。マスターとアマデウスさんはあちらで、私たちはこっちのテントでどうですか?」
「了解した」
マシュの提案に従い、男女に分かれてテントの設営と野営の準備に取り掛かる。
地獄のような特異点において、奇跡のように訪れた束の間の平穏。
木漏れ日が降り注ぐ泉のほとりで、それぞれの静かな夜が始まろうとしていた。
ダ・ヴィンチが送ってきた携帯用テントは、外見からは想像もつかないほど内部の空間拡張が施されており、成人女性三人が手足を伸ばして寝転がっても十分に余るほどの広さと快適さを誇っていた。
携帯食料による簡素な夕食を済ませ、ランタンの温かな光が灯る女性用テントの内部。
「んーっ、ふかふかね! 野宿になるかと思っていたけれど、カルデアの魔術って本当に素晴らしいわ!」
マリー・アントワネットが、楽しそうに足をパタパタと揺らした。
その隣では、鎧を脱いで軽装になったジャンヌ・ダルクが、少し緊張した面持ちで膝を揃えて座っている。マシュ・キリエライトもまた、壁際で、ほっと息をついていた。
「さてさて。せっかく女の子が三人集まったんだもの。すぐに寝てしまうのはもったいないわ」
マリーが身を起こし、キラキラと目を輝かせながら二人を見た。
「フランスの夜は長いのよ。もっといっぱい、お話をしましょう? 今のフランスのこと、貴女たちのこと……そうだわ!」
マリーは両手をポンッと打ち合わせ、満面の笑みを浮かべた。
「女子会といえば、やっぱりこれよね。ねえ、恋について、お話ししましょう!」
「こ、恋……!?」
ジャンヌがビクッと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にして口元を覆った。
「えっ、ええと……! 申し訳ありません、マリー様。私、そういった経験は一切なく……恋というものがどういうものか、よく知らないのです」
「私もです」
マシュもまた、申し訳なさそうに同調した。
「まぁ、もったいない!」
マリーは残念そうに頬を膨らませた。
「人生の十割を損しているわ。愛すること、愛されること。それは人が生きる上で、一番美しくて、一番尊いものなのに。……なら、今からでも恋をしましょう! もちろん、私がアドバイスしてあげるわ!」
「あ、アドバイス……。ですが、そういうマリー様は、その……」
ジャンヌがタジタジになりながらも、逆に興味津々といった様子で身を乗り出した。
「私? ええ、もちろんあるわよ!」
マリーは自慢げに胸を張り、そして少しだけ遠くを見るような、優しい瞳になった。
「七歳の頃ね、ウィーンの宮殿で、ある男の子が私にプロポーズしてくれたの。『大きくなったら、僕のお嫁さんにしてあげる!』って。……ふふっ、きっとあれが、私の初恋だったのだと思うわ」
「七歳で、プロポーズ……! あ、あの、もしかしてその男の子というのは」
マシュの問いに、マリーは楽しそうにウインクをした。
「ええ、あっちのテントで寝ている、ちょっと口の悪い天才音楽家さんよ」
「アマデウスさんが……」
マシュとジャンヌは顔を見合わせ、驚きに目を丸くした。
「それから、十四歳の頃。私はフランスに嫁ぎ……結婚した王に恋をしたわ。優しくて、不器用で、本当に素敵な人だった」
「十四歳……」
ジャンヌは、その若すぎる年齢での結婚という重責に、改めて感嘆のため息を漏らした。
王族としての政略結婚。フランス革命という悲劇の結末を知っていながらも、マリーの瞳に映る過去の記憶には、微塵も後悔や恨みは存在していない。あるのはただ、愛した人たちへの純粋な慈愛だけ。
「もしも、あのまま平和な日々が続いていれば……なんて、考えることもあるけれど。でも、私は私の人生を愛しているわ」
マリーはふわりと微笑み、ジャンヌに視線を向けた。
「ジャンヌはどうだったの? 恋ではなくても、貴女の愛した記憶はどんなものだった?」
「私、ですか」
ジャンヌは少し恥ずかしそうに頬を掻き、自身の過去を思い起こした。
「私はそのくらいの歳、男女なんて関係なく、ただ村の畑を駆け回って遊んでいました。泥だらけになって、転んで、家族に怒られて……」
「まぁ! とっても楽しそうで、羨ましい生き方だわ!」
「ふふ、そうですね。確かにあの日々は……恋や愛のような熱烈なものはなくとも、とても穏やかで、素晴らしい日々でした」
戦場に立つ前の、ただの村娘としての幸福な記憶。
その話を、マシュは自分の膝を抱えながら、とても羨ましそうに聞いていた。
自分にはない、時間。
少しだけ寂しさを感じたマシュだったが、その時、マリーの悪戯っぽい視線が彼女を捉えた。
「で・も・ね? 過去のお話も素敵だけれど、大切なのは今よ。マシュさんは、恋人はいらっしゃらないのよね? では、好きな方などはどうかしら?」
「えっ!?」
「例えば……あの、マスターさんとか」
ズバリと核心を突かれ、マシュの顔がボンッ! と音を立てるように茹で上がった。
「そ、そそ、そんな! 先輩とはそういう関係ではありません!!」
あ
両手をぶんぶんと振り回し、猛烈な勢いで捲し立てる。
「そもそも、出会ってまだ数日しか経っていないんです! 確かに私の命を救ってくれて、諦めかけていた私を『生きろ』と肯定してくれた、絶対的に信頼できる恩人であり……背中を預けられる、尊敬するマスターです! でも、あの人は距離感が明らかにおかしいというか、人の顔を至近距離で覗き込んで『魂の構造が』とか言い出しますし、そもそも恋愛感情というものが欠落しているような気がして……っ!」
「あらあら」
マリーは口元を抑え、可笑しくてたまらないといった様子で笑った。
「恋に時間は関係ないのではなくて? それに、貴女の瞳……彼のお話をしている時、とってもキラキラしているわよ」
「うぅ……っ」
マシュはシーツに顔をうずめ、耳まで真っ赤にしてしまった。
その初々しい反応に、ジャンヌも思わずクスリと笑みをこぼす。
絶望の特異点の夜。
燃え盛る戦場を駆け抜けた少女たちは、束の間の平穏の中で、ただの女の子としての笑顔を咲かせていた。
*
男性用テントの中では、アマデウスがすでにいびきをかいて眠りこけている。
だが、ヴァルナは一人、テントを抜け出し、泉のほとりに転がっている手頃な岩の上に腰を下ろしていた。
特に理由はない。ただ、テントの魔術的な空気よりも、外の風に当たりたかっただけだ。
彼は腕を組み、夜空に浮かぶ冷たい月を、静かに見上げる。
周囲の微かな魔力の揺らぎ、風の音、虫の音。そのすべてを、彼は観測し、情報として処理していく。
『――一人で何やってるのよ』
不意に、腕の通信端末から、少しノイズの混じった声が響いた。
カルデア管制室、オルガマリー・アニムスフィア。
「朝からずっと元気だな。時間の概念を忘れたか?」
『元気なわけないでしょ。こっちは特異点のレイラインの解析に、明日のルートの安全確認に、送った物資の経費計算に……やることが山積みなんだから』
「そうか」
通信機越しであっても、彼の異常な知覚能力は、オルガマリーの声に乗る『波長』を正確に読み取っている。
極度の疲労。ストレス。そして、彼女が一人で背負い込んでいる重圧。
「……そろそろ休んだらどうだ。働き詰めだろう」
『なっ……アンタに言われる筋合いはないわよ! 私が指揮官なんだから、私が休んだら誰がアンタたちをナビゲートするのよ。これくらい、問題ないわ』
強がる声。だが、その強がりの裏にある脆さを、ヴァルナは透かして見る。
「……俺たち貴重な戦力が削られたら評価が下がって困る、と言っていたな」
『い、言ったわよ。それがどうしたのよ』
「困るのは、こちらも同じだ」
ヴァルナの言葉は、相変わらず抑揚がなく、ぶっきらぼうだった。
「お前が倒れれば、盤面(ナビゲート)が崩れる。俺の戦術計算に狂いが生じる」
『……っ』
「ほどほどにしておけ」
それは、彼特有の冷徹な合理性に基づいた言葉。
『……っ、生意気ね。ただの新人マスターのくせに』
オルガマリーの声が、ほんの少しだけ、震える。
『分かったわよ。キリのいいところで、少しだけ仮眠をとるわ。……アンタが明日、変な方向に突っ走らないように、監視する体力を温存しておかなきゃいけないしね』
「ああ。それがいい」
『……アナタも、早く寝なさいよ。明日も激戦になるんだから』
プツン、と。
最後に気遣うような言葉を残し、通信が切れた。
再び訪れた、泉のほとりの静寂。
ヴァルナは腕を組んだまま、一つだけ息を吐き出す。
カルデアという見知らぬ組織。特異点という狂った世界。
彼はこれまで、誰かと肩を並べることも、誰かに背中を預けることも、誰かの体調を式に組み込むことも、必要としなかった。
だが今、彼の背後にあるテントには、彼を守ると誓った盾の少女がいる。
空の彼方には、不器用に気を張る指揮官がいる。
「……悪くはないな」
彼の口から、ポツリと、本当に微かな呟きがこぼれ落ちた。
彼自身の感情の起伏は、相変わらず乏しい。
だが、冷たい夜風の中で星空を見上げる彼の横顔は、今までに見せたどの瞬間よりも、確かに『人間らしい』温度を帯びていた。