Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
深い森に囲まれた泉のほとりは、外の世界で燃え盛る戦火が嘘であるかのように、静かで透明な空気に包まれていた。
木々の隙間から覗く満天の星が、波の立たない泉の水面を鏡のように照らし出している。
一人、夜空を見上げていたヴァルナ・クロスは、背後の草むらが微かに擦れる音を耳にし、振り返ることなく静かに息を吐く。
それが誰なのかは、足音の重さ、微細な魔力の揺らぎ、そして純度の高い魂の気配で、完全に知覚できている。
「……不用心ですよ、ヴァルナ殿」
静かな、だがどこかホッとするような少女の声が、夜風に乗って届いた。
「 ジャンヌか」
ヴァルナがゆっくりと振り返ると、そこには、鎧を外し、質素な村娘のような平服を着たジャンヌ・ダルクが立っていた。
透き通るような金髪が夜風に揺れ、青い瞳が星明かりを反射して柔らかく輝いている。
「何かあったのか。眠れないとか、そういうやつか?」
「いえ、そういうわけではなく……その、マリーとのお話に少し熱が入りすぎまして」
ジャンヌは困ったように苦笑いを浮かべ、自身の頬を指で掻いた。
「女子トークとやらで、なんだか色々と矛先がこちらに向かってきたので……恥ずかしくなって、少し逃げてきてしまいました」
「女子トーク。……なるほど」
ヴァルナは小さく頷いたものの、その言葉の意味についてはよく分かっていない。だが、追求するほどのことでもないだろうと判断し、そのまま視線を星空へと戻した。
「あの……お隣、座ってもいいですか?」
「ああ、構わない」
ヴァルナが短く許可を出すと、ジャンヌは「失礼します」と一礼し、彼が座っている手頃な岩の、少しだけ間を空けた隣へと腰掛けた。
二人の間に、静かな夜の空気が流れる。
「マシュはどうだ? 特に問題はないか?」
ふと思い出したように口にする。
「はい、とても楽しそうでしたよ。おそらく、今もマリー様と、恋愛トークに花を咲かせていることでしょう」
「恋愛トーク?」
片眉が、わずかにピクリと動く。
「あまり、恋だの愛だの語っているうちの後輩の姿が、想像できないが」
「ふふっ。マリーに一方的に質問攻めにされて、真っ赤になっている姿が想像できますね」
「……まあ、それもいいんだろう」
ヴァルナは目を細め、静かに息を吐き出した。
「アイツのカルデアでの境遇を考えると、ああいう年相応の交流は、得難い経験になる」
「……」
その言葉に込められた、感情の起伏はないものの、確かな「後輩への情」を察し、ジャンヌは微かに口元を綻ばせる。
「なんだか……お兄さんのようですね」
「俺に兄弟はいなかったけどな」
ヴァルナはあっさりと否定する。
「そんな風に振る舞おうとした奴は、いままで何人かいたが」
孤立しがちだった彼を気にかけて世話を焼こうとした先輩たちの顔が、一瞬だけ脳裏を過る。だが、その記憶もまた、今の彼にとってはただの「情報」の一つに過ぎないが。
「逆に……ヴァルナ殿は、一人で何をなさっていたんですか?」
ジャンヌが、首を傾げて問い返す。
「特に理由はない。……ただ少し、星を眺めていた」
彼は再び、夜空に瞬く星々を見上げる。
「このような澄んだ空は、初めてだからな」
特異点という歪んだ世界であっても、近代化される前の、純粋な自然が残る15世紀の空は、彼が知る現代のヨーロッパの空よりも遥かに深く、鮮明だった。
「……とても、綺麗ですね」
「お前からしたら、見慣れた景色だろう。」
「確かに、そうですね」
ジャンヌは目を細め、星の光を愛おしむように見つめる。
「ですが、生前は……かなり余裕がなかったので。こうして、ゆっくりと空を眺めるような機会も、ほとんどなかったのだと、今になって気がつきました」
ヴァルナは、そんな彼女の横顔を、音もなく覗き見る。
彼女の表情は、この美しいフランスの自然への深い慈しみに満ちている。
だからこそ、そんな愛するフランスの大地と民たちが、無惨に傷つけられているこの現状への「憂い」も、同時に抱えているのだろう。大切だからこそ、それが壊された時の悲しみは深い。
だが。
ヴァルナの瞳は、彼女の横顔に、それとはまた違う、深い不安の渦が巻き起こっていることを見逃さなかった。
「……先ほどは、マリー・アントワネットからの追求から逃げてきたと語っていたが」
平坦な、しかし核心を抉る鋭い声が、夜の静寂を切り裂く。
「それだけじゃないな」
「――っ」
ジャンヌの表情が歪み、弾かれたようにこちらを振り、その瞳を見つめる。
互いの視線、至近距離交差。
ヴァルナの感情の動かない、すべてを見透かすような瞳。ジャンヌの青い瞳が、痛みを隠しきれないように微かに揺れた。
「……あの、黒い復讐者のことか」
ヴァルナが核心を口にすると、ジャンヌは観念したようにふっと息を吐き、自嘲気味に小さく笑った。
「敵いませんね……。マスターの、その観察眼の鋭さ。それとも、私が不甲斐ない顔をしているからでしょうか」
彼女は再び顔を伏せ、膝の上で自身の両手をきつく握り締めた。
「……分からないんです」
ポツリ、と。
夜の泉に、彼女の震える本音が零れ落ちる。
「分からない? 何が」
「彼女の……『もう一人の私』の、復讐心についてです」
『この国を地獄に変え、私を裏切った者たちを、一人残らず滅ぼし尽くす。灰になるまで焼き尽くし、すべてを無に還す。……それが、私の、私たちの出した答えでしょう!?』
ジャンヌの脳裏に、瓦礫の上で見下ろしてきためジャンヌ・オルタの、あの呪詛のような言葉が鮮明に蘇る。
「彼女は、自分を『私のもう一つの可能性』だと言いました。現実から目を背けているだけ、心の奥底に封じ込めた真実の叫びなのだと」
ジャンヌの声が、苦痛に軋む。
「竜の魔女は、私と合わせ鏡のような存在だと。……最初は、もう一人の自分が召喚され、誰かの魔術か宝具によって無理やり操られているのではないか、その可能性も考えていたんです」
でも、と。彼女は唇を強く噛んだ。
「間近で見て、肌で感じて、思い知らされました。……あの復讐心は、紛れもない『本物』であると」
あれほどの絶大な憎悪の質量は、誰かに操作されて発生するものではない。魂の底から湧き上がる、純粋で絶対的な感情の発露だった。
「だからこそ、分からないのです」
ジャンヌは、縋るようにヴァルナを見つめた。
「私の中には、フランスを憎むなどという感情は、これっぽっちもないはずなのに。……もしかしたら、私の魂の奥底にも、あのような凄まじい憎悪の種が眠っているのでしょうか」
火刑台の炎。人々からの罵声。石を投げられた記憶。
生前、本当に自分は、彼らを恨まなかったのか。
「それとも、あの絶対的な復讐心を持っている彼女こそが『本物』のジャンヌ・ダルクであって……すべてを許し、受け入れた気になっている私の方が、『偽物』なのではないかと」
「……」
「私は……私を、信じられない」
彼女は顔を伏せ、自身の存在意義すらも見失いかけた、脆く哀れな少女として、そう告白した。
夜風が、二人の間を通り抜ける。
救国の聖女が抱える、あまりにも深く、人間らしい苦悩。
「……本物か、偽物か。それは、そんなに大事なことか?」
「え……?」
彼女の視線の先には、いつも通りの、感情の起伏が読み取れない硝子のような瞳が浮かんでいる。
「どうした?」
「い、いえ……」
ジャンヌは驚きで言葉に詰まる。
これほどの深刻な悩みを打ち明けたというのに、彼からの返答は、あまりにも常軌を逸して『平熱』だったからだ。
「お前が言っている『本物か偽物か』、そんなものを考えるのは、根本的に意味がない」
ヴァルナは腕を組み、ただの事実を述べるように淡々と続ける。
「『本物か偽物か』というその問いは、完全に『過去』に向いているものだ」
「過去、ですか?」
「ああ」
ヴァルナは静かに頷く。
「どこから生まれたのか。誰が先だったのか。オリジナルはどちらなのか。……それはすべて、発生源(オリジン)を確認するための、過去の検索でしかない」
彼の言葉には、一切の慰めが含まれていない。
ただ、世界の理を解き明かすような、冷徹な論理の構築。
「だが、人間という存在は、過去だけで決まるわけじゃないだろう」
彼は、自らの内に確固たるものとして存在する『価値基準』を語り始める。
「そうだな……例えばの話をしよう」
ヴァルナは組んでいた腕を解き、少しだけ身を乗り出す。
「仮に、完全に同じ記憶、同じ人格、同じ価値観を持って生まれた二人の人間がいたとする。オリジナルのクローンのような存在だ。……だが、その二人が物理的に別々の場所に存在し、別々の世界を歩き始めた瞬間から、彼らから見える景色は全く異なるものになる」
右に曲がるか、左に曲がるか。
誰と出会うか。
何を失い、何を得るか。
「そういう些細な経験の積み重ねで、二人は全く別の人間へと変わっていく。……人生は選択の連続だとよく言うからな。その分岐点は、日常の中に数え切れないほど存在している」
彼は静かに立ち上がる。
そして、岩に座ったまま彼を見上げるジャンヌの正面へと向かい、彼女と目線を合わせるように、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「……極端な話、オリジナルであったとしても、昨日の自分と今日の自分は『違う人間』だ」
至近距離で交差する視線。
ヴァルナの瞳には、一切の揺らぎがない。
「十年前の自分の細胞は、肉体にはほとんど残っていない、考え方だって変わっている。それでも、人は『自分は自分だ』と思える」
彼の言葉が、ジャンヌの心の奥底に、静かに、しかし確かな重さを持って響いていく。
「であるのならば、同じ出発点を持っていても、別の人生を歩み始めた時点で、その人間もまた、独立した一人の別の個体だ」
「……」
「だから――」
ヴァルナ・クロスは、自身の魂の根底にある、絶対的な『在り方』を。
目の前で揺らぐ不完全な聖女へと、どこまでも真っ直ぐに。
「『君は本物か偽物か』ではなく。
『君は、君として何を選ぶのか』。……そちらの方が、ずっと重要だろう」
夜風が止み、泉の水面がシンと静まり返る。
しゃがみ込み、至近距離で目線を合わせてくるヴァルナ・クロスの言葉に、ジャンヌ・ダルクは息を呑んだ。
「私は、私として……」
「出会ってまだ数日しか経っていないが」
ヴァルナは、ただ真っ直ぐに彼女を見つめ返す。
「ジャンヌ・ダルクという人間は、過去の自分の立ち位置を確認しなくては強くあれないような、そんな脆い女じゃない」
そこに同情はなく。慰めようという意志はなく。
彼はただ、自分が見たままの事実と、自身の生き方、その根底にある『在り方』を、言葉という形で出力し、そのまま彼女へとぶつけるだけ。
「君は、君であるというだけで、どうしようもなく、正しい」
「……っ」
瞳と瞳が再度、交差する。
彼の視線は、どこまでも透き通った、残酷なほどの真っ直ぐさ。
自覚はないが、他者からの評価や感情に振り回されず、ただ己の信じるルールに殉じようとするその『どうしようもない真っ直ぐさ』は、根源的な部分でひどく似通っている。同族、と言ってもいい。
安っぽい気遣いなどではない。
だからこそ、彼のその冷徹で確固たる生き方の真実を垣間見て、ジャンヌの胸の奥底に、凍りついていた血を溶かすような温かな熱が広がっていく。
過去がどうあれ、オリジナルが誰であれ。
自分が今、フランスの地を歩き、仲間と共に戦うことを「選んだ」のであれば、その意志に偽りはない。
「……ふふっ」
彼女はゆっくりと岩から立ち上がる。ヴァルナもまた、それに合わせて静かに立ち上がった。
二人は夜風を浴びながら、揃って満天の星空を見上げる。
「ありがとうございます、ヴァルナ殿」
「いや。俺は何もしていないが」
相変わらずの素っ気ない返答に、ジャンヌは再び笑う。
その表情には、先ほどまで彼女を縛り付けていた悩みや、自己否定の影はもう微塵も残っていない
頭上を覆う雲ひとつない夜空のように、晴れやかで、清冽な表情。
月明かりに照らされた彼女の微笑みは、燃え盛る戦場を駆ける聖女の姿とは違う、一人の少女としての美しさを湛えていた。
(……清浄で、純度が高い。全く、ブレがないな)
ヴァルナは、外見の造作ではなく、彼女の魂が放つその強固で美しい内面を、静かに再確認した。
すると、星空を見上げていたジャンヌがこちらを振り返り、少しだけ迷うように口を開く。
「……あの、機会があれば。またこうして、一緒に星を眺めませんか?」
それは、戦いが終わった後の平穏を願う、ささやかな誘い。
だが、ヴァルナはそんな情緒をあっさりと切り捨てる。
「そんな余裕があればな」
「もう。約束ですよ?」
ぶっきらぼうな彼に対し、ジャンヌは悪戯っぽく微笑み返す。
「そろそろ戻りましょう。あまり夜更かししすぎると、明日の戦いに差し支えますし、何より体に悪いですから」
「これくらいは問題ない。俺は慣れている」
「それでも、です。行きましょう」
そう言って、ジャンヌが前を歩き出す。
ヴァルナはその後ろ姿を眺めながら、ふと違和感を覚えた。
戦場で見せる、あの大人びた凜とした印象。どこか一歩引いたような強い聖女としての顔。
だが、今の彼女の足取りや口調は、ひどく年相応の少女のように感じられる。
(……こちらが、本来の素なんだろうか)
思考を巡らせる。
ジャンヌ・ダルクがルーアンの広場で火刑に処されたのは、たしか十九歳の時だ。
(十九歳。なら、俺よりも少し下か。……であるのなら、これくらいの振る舞いが妥当か)
彼は脳内で処理したその計算式を、悪気もなくポロッと口に出す。
「お前、たしか十九で死んだんだったな。なら、年下か。……今の落ち着きのなさが、本来の年齢相応ということなのか?」
「なっ!?」
前を歩いていたジャンヌがピタッと足を止め、勢いよく振り返る。その頬は朱に染まり、青い瞳が抗議の光を放っている。
「じゅ、十九って……! 女性に向かって、年齢や死因の話題をそんな無神経に口にするのは失礼ですよ、ヴァルナ殿!」
「そうか? ただの記録されたデータ上の事実だろ」
ぷんぷんと怒るジャンヌに対し、ヴァルナは全く意に介さず聞き流す。
同時に、「こんなやり取り、前にもあったな」という既視感が過ぎた。
「まったく、ヴァルナ殿は……デリカシーというものが決定的に欠如しています」
「それより」
ヴァルナはジャンヌの抗議を遮り、話題を変える。
「『ヴァルナ殿』というのは、もうやめないか。堅苦しいし、俺はそういう敬称にあまり慣れていない」
「えっ? じゃ、じゃあ……何と呼べば?」
「いや、そのままでいいだろ」
「そのままで……ヴァルナ、くん?」
ジャンヌが、少し恐る恐る、様子を伺うように名前を呼んだ。
「ああ。それでいい」
「……分かりました。ヴァルナくん」
どこか面映ゆいような、新しい関係性の構築。
彼らは森の木々を抜け、ランタンの光が漏れるテントの周辺へと近づいていく。
「もう大丈夫そうか」
「はい」
彼女の顔にもう迷いはなく、明日へのやる気に満ち溢れていた。あの黒いジャンヌに対して、自身の在り方を持って向き合う覚悟が決まったのだろう。
「私はただ、自分の在り方を貫くだけです。……私が正しいと、肯定してくれましたので!」
ジャンヌはヴァルナを見つめ、力強く頷く。
「たとえあの復讐者が私自身であったとしても。彼女が『本物』であり、私が後から作られた『偽物』であったとしても。……私は私ですから」
「……そうか」
ヴァルナは短く応え、ふと、遠くの森の暗がりを見るように視線を外す。
「まあ、彼女がお前『自身』かは分からないがな」
ボソリと呟かれたその言葉に、ジャンヌが驚いて足を止めた。
「え?」
どういうことだろうか。
ジャンヌ・オルタの正体が分かったというのか。彼女の瞳が、強い疑問を湛えてヴァルナを射抜く。
その視線を受け止め、立ち止まり、静かに口を開いた。
「俺は、他者の『魂』を知覚することができる。こうやって、瞳を向けることでな」
「魂を……」
「ああ。過去に、事件に巻き込まれてな。それ以来、魂の輪郭が視覚や感覚として読み取れるようになった」
ヨーロッパを放浪していた時代、交戦した忌まわしい記憶。彼にとって深い意味はないが。
「あの竜の魔女の復讐心、底なしの憎しみは、間違いなく本物だった。……そして、元々は君と同じ『ルーラー』として召喚されたであろう、霊基の痕跡も確認できた」
「なら、やはり彼女は私……」
「だが」
ヴァルナはジャンヌの言葉を遮り、冷徹な分析結果を告げる。
「何らかの要因で、完全な復讐者(アヴェンジャー)としての霊基へと変質している。……おそらくあれは、内側で自然発生した感情だけじゃない。もっと違う、別の誰かの『強烈な恩讐』の影響を受けているように見えた」
彼が街でオルタの剣と打ち合った至近距離で、一瞬だけ感じ取った、極めて歪で哀れな魂の形。
「つまり、あの竜の魔女は、別存在からの憎しみによって魂の形を歪められているということになる」
「別の、誰かの……」
「確定じゃない。至近距離で一瞬、残滓を感じただけだからな。それが具体的に何者なのかは分からないが。……ただ一つ言えることは――」
ヴァルナが、核心となる結論を紡ごうとした。
――その瞬間だった。
『――先輩ッ!!』
ヴァルナの脳内に、マシュからの切迫した念話が叩き込まれた。
「!」
『敵です! 凄まじい速度で、こちらの野営地に接近中!! サーヴァント反応が――』
夜の静寂が、一瞬にして凍りつく。
星空の美しさも、穏やかな対話の余韻も、何者かが放つ凶悪な魔力の暴風によって完全に吹き飛ばされた。
「……ジャンヌ。話は終わりだ」
ヴァルナの硝子のような瞳が、戦場のそれへと一瞬で切り替わる。
「武器を取れ。……来るぞ」
深い森の奥、暗闇の彼方から。
木々をなぎ倒し、大地を揺らすような凶暴な足音が、彼らの拠点へと猛烈な速度で迫ってきていた。