Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【九節】復讐者の歪な玉座と、星月夜に狂乱する鉄甲の竜騎兵

 

 血と脂の焦げるむせ返るような臭いだけが充満する、死の静寂に包まれた街路。

 

 瓦礫の上に倒れ伏したジャンヌ・ダルク・オルタは、自身の視界から遠ざかっていく影たちを、血走った黄金の瞳でただ追い続けていた。

 

 

 深い森の奥へと、己に決定的な屈辱と絶望を突きつけた者たちが消えていく。

 

 腹部を貫くような激痛。あの黒衣の男に、一切の容赦なく二度も蹴り飛ばされた箇所から、霊基がひび割れて金色の魔力が漏れ出している。息を吸うたびに臓腑が焼け焦げるように痛み、口からは黒い血の混じった荒い呼吸が漏れ続けた。

 

 

 だが、肉体の痛みなど、彼女の魂を苛む『屈辱』に比べれば些末なものに過ぎない。

 

(この私が……。神に裏切られた復讐の体現者である、この私が……ッ!!)

 

 

 ギリッ、と奥歯が砕けそうなほどに強く噛み締める。

 

 

 戦場を悪魔のように蹂躙し尽くした、あの男。

 

 自らの命を削って放った憎悪の炎を、正面から弾き返した盾。

 

 そして、地に這いつくばる自分を、哀れむような瞳で見つめてきたあの『白き偽善者』。

 

 

 圧倒的な戦力差があったはずだ。神話の英霊を従え、自分は絶対的な強者として彼らを泥のように踏みにじるはずだったのだ。

 

 それが、たった一人の異端の術師が振るう暴力によって、自慢の軍勢は瞬く間に瓦解させられた。

 

 何よりも彼女の精神を抉るのは、あの男の目。

 

 

 

 一切の感情が読めない、冷徹な瞳。

 

 あの眼差しに射抜かれた瞬間、自分の魂の奥底までがただの標本のように「解析」され、値踏みされていた事実に、全身の毛が逆立つような底知れぬ『恐怖』が背筋を這い上がってくる。

 

 

「……ッ、ガァ……ッ!!」

 

 

 彼女は、その恐怖を無理やりに押し殺すように、自身の胸を強く掻き毟る。

 

 自分が偽物であるはずがない。私は竜の魔女だ。火刑台の炎に焼かれた怨念の集合体。世界に復讐を果たすまで、決して立ち止まることなど許されない。

 

 

 

 

 

 

 頭上の空が、不自然なほどに暗転した。

 

 空を覆っていた分厚い煙を強引に引き裂き、巨大な影が街を見下ろす。

 

 大気を震わせる地鳴りのような咆哮。爆風を撒き散らしながら降下してきたのは、空を真っ黒に染め上げるほどのワイバーンの群れと、それを従える規格外の超質量――『邪竜ファヴニール』。

 

 

 凄まじい暴風が、ただでさえ崩壊していた廃墟をさらに吹き飛ばす。

 

「おお、おお……! 私の聖女よ! 私のジャンヌ!!」

 

 

 着地した邪竜の背から、狂喜乱舞する男が飛び降りてきた。

 

 

 キャスター、ジル・ド・レェ。

 

「一体、誰が! 誰が貴女をこんな目に遭わせたのですか!! ああ、痛ましくて見ていられない……!!!」

 

 

 過保護で、狂気的で、どこまでも歪な愛。

 

 だが、今のオルタにとって、彼からのその過剰なまでの肯定だけが、崩れかけた己の精神を繋ぎ止めるための『唯一の拠り所』だった。

 

「……ジル」

 

 

 彼に名を呼び、その腕に支えられることで、先ほどまで彼女の霊基を冷たく蝕んでいた恐怖が薄れ、代わりに燃え上がるような『殺意』が心の中心にドス黒く居座り始める。

 

「私を、こんな無様な姿にした者たちがいるわ。……あの男と、忌々しい白の偽善者よ」

 

 

 オルタは血反吐を吐き出しながら、ジルの腕の中で憎しみを込めて告げた。

 

「……貴女を傷つける者は、すべて火の海に沈めなくては!」

 

 

 ジルはオルタを助け起こし、その歪んだ瞳に復讐の炎を猛烈に燃え上がらせた。

 

「いいですか、ジャンヌ。貴女は何も間違っていません。人々に裏切られ、火刑台の炎に焼かれた悲しみを背負う、貴女こそが『本物のジャンヌ・ダルク』であり、神に裏切られた復讐の権化なのです。……全て、貴女の尊い憎悪の前には、いずれ等しく灰となる運命なのですから!」

 

「……ええ、そうね。私は、竜の魔女……本物の、復讐者」

 

 

 ジルの絶対的な肯定を受け、オルタは自身を縛り付けるように漆黒の旗を握り直す。

 

「次こそは、私の軍勢とファヴニールの炎で、あの男の冷たい瞳を絶望に染め上げてあげる。……見ていなさい。跡形もなく消し去ってやるわ」

 

 

 二人の共鳴。恐怖に揺らいでいた復讐の玉座が、再び憎悪の業火によって強固に再建されていく。

 

「……いいでしょう。まずは、散り散りになった駒を回収せねばなりません」

 

 

 

 ジルは冷酷に戦場を見渡した。

 

 オルタは、生き残った吸血鬼の二人へ鋭い声で呼び寄せた。

 

「ヴラド、カーミラ! まだ動けるのなら、あの二騎を回収しなさい!」

 

 

 主の命令に、ヴラドとカーミラが瓦礫の陰から姿を現す。

 

 彼らもまた、アマデウスの音楽による魔術的拘束からようやく解放されたばかりであり、屈辱に顔を歪めていた。

 

「……チッ」

 

 

 

 ヴラドは吐き捨てるように舌を打ち、瓦礫の下から、犬の式神に半身を噛み砕かれ、片腕を失ってボロボロになったサンソンの肉体を引きずり出してきた。

 

「この首切り役人は、まだ霊核は残っているようだな。息がある」

 

「……このセイバーは、完全に霊核が破壊されているわ。もう崩壊が始まっているわね」

 

 

 カーミラが、ヴァルナの貫手によって胸に致命の風穴を空けられ、金色の魔力粒子となって消えかかっているデオンを見下ろして冷ややかに告げた。

 

「サンソンは、ジル、あなたが修復して再利用しなさい。魔力供給を繋げばまだ盾くらいにはなるわ」

 

「お任せを」

 

「デオンは……完全に消滅する前に、竜に食わせてエネルギーとして有効活用しなさい」

 

 

 死にかけとはいえ、サーヴァントは高純度の魔力の塊だ。それを邪竜の餌として消費する。

 

「おお……なんと合理的で、冷酷な判断! それこそが、神への復讐者にふさわしいお姿です!」

 

 

 ジルは、オルタのその非情な采配に狂喜し、両手を天に掲げて歓喜の声を上げた。

 

 

 戦力を再編し、一度拠点へと帰還する。

 

 体制を立て直し、次こそは確実にあの男と、あの白い自分を叩きのめす。

 

(拠点に隔離している、『あの子』の力も使えば……絶対に……)

 

 

「――話は終わったかしら。ずいぶん、派手にやられたわね」

 

 

 背後から、呆れたような女の声が響いた。

 

 オルタが振り返ると、邪竜ファヴニールと共に降下してきていた「もう一人のサーヴァント」が、腕を組んでこちらを見下ろしていた。

 

 

 

 ライダー、マルタ。

 

 彼女の瞳もまた、狂化の呪いによって薄暗く濁っている。だが、その言葉の端々には、元来の気の強さと、地に這いつくばる主への明らかな呆れの色が滲み出ていた。

 

「五騎も従えておいて、あんな少人数にボロボロにされるなんて。……竜の魔女とやらも、地に落ちたものね」

 

「……黙りなさい」

 

 

 オルタはふらつきながらも立ち上がり、マルタを憎悪の瞳で睨み据えながら、命令を飛ばした。

 

「ライダー。あの者たちを追いなさい。……あなたの馬なら、追いつけるはずよ」

 

「追ってどうするの? 私一人で首を獲ってこいって?」

 

「戦う必要はないわ」

 

 

 

 オルタは、冷徹に告げた。

 

「あくまで、情報収集よ。奴らがどこに拠点を構え、どう動くのか……位置を特定し、監視しなさい」

 

「……了解。使い走りってわけね」

 

 

 マルタは短く答え、タラスクの手綱を引いた。

 

 タラスクが低い唸り声を上げ、その巨大な質量からは想像もつかないほどの速度で、ヴァルナたちが消えた森の方角へと進行を開始した。

 

「これで、問題はないわね」

 

 

 オルタは、マルタの背中を見送りながら、小さく息を吐く。

 

「一旦拠点へ戻り、体制を立て直すわ。……そして、あの愚かな私を、あの白髪のマスターごと、必ず叩きのめす」

 

 

 灰色の空の下。

 

 竜の魔女のドス黒い決意が、ラ・シャリテの焦土に呪いのように染み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深い森に囲まれた野営地の束の間の平穏は、突如として発生した大地の鳴動によって無惨に引き裂かれた。

 

 

 

 

 

 ズズンッ……ズズンッ……!!

 

 遠くから近づいてくる、規格外の質量が大地を無造作に踏み砕く音。

 

 それに伴い、樹齢数百年の大樹が次々とへし折られ、悲鳴のような木擦れの音を立てて倒れていく。

 

「な、なんだい!? 地震か、それとも敵襲か!」

 

 

 男性用テントの中でいびきをかいていたアマデウスが、弾かれたように飛び出してきた。

 

「前方の森より、巨大な魔力反応が猛スピードで接近中! これは……竜種です!」

 

 

 すでに臨戦態勢に入っていたマシュが、巨大な十字盾を構え、土煙が上がる森の奥を険しい表情で見据えている。

 

 

 

 

 そして。

 

 鬱蒼と茂る森の暗がりを強引にこじ開けるようにして、巨大な亀のような甲羅を持つ異形のドラゴンが、その圧倒的な威容を現した。

 

 

 その恐るべき竜の背には、一人の女性が優雅に腰を下ろしている。

 

 月明かりに照らされたその姿は、間違いなく神に仕える清らかな聖女のそれであったが、彼女の瞳はドス黒い狂化の呪いによって薄暗く濁りきっている。

 

「こんにちは、皆様。……寂しい夜ね」

 

「あなたは……一体、何者ですか?」

 

 

 マシュが、圧倒的な威圧感を放つ竜とその上の女性を警戒しながら、震える声で問う。

 

「何者か? そうね……私は何者なのかしら」

 

 

 女性は自身の問いに答えるように、どこか遠くを見るような、ひどく寂しげな表情を浮かべた。

 

「……もはや、それすらも分からなくなってしまったわ」

 

「……貴女の瞳、とても悲しそうね」

 

 

 マシュの背後から歩み出たマリーが、王妃としての気高さと慈愛を込めた声で、竜の上の聖女へと語りかける。

 

「鎖に縛られて、内側でひどく苦しんでいるように見えるわ。……貴女をこんな風に狂わせたのは、あの子なの?」

 

「……ええ。私は、あなたたちの監視の役割を与えられただけ」

 

 

 マリーの優しい問いかけに、女性はタラスクの硬質な甲羅を撫でながら、苦しげに息を吐いた。

 

「やれやれ。この魔力波長、完全に狂化に呑まれかけているじゃないか」

 

 

 アマデウスが、やれやれと肩をすくめる。

 

「音楽でも聴かせて、そのガチガチに固まった頭をほぐしてやりたいところだけど……君の足元にいるそのデカい亀が、僕の演奏を静かに聴いてくれそうにないね」

 

 

『みんな、気をつけて!!』

 

 

 カルデアの管制室から、ロマンの切迫した通信が響き渡る。

 

『彼女の霊基データを確認した! クラスはライダー。狂化スキルに深く侵食されている! 完全に自我を失いかけているんだ!』

 

 

「……そちらの言う通りよ、顔の見えないあなた」

 

 

 女性は、通信機の存在を正確に認識しているかのように、空を見上げて静かに肯定した。

 

「私は今、理性が消し飛び、凶暴化している。……今も、貴女たちを八つ裂きにしたいという悍ましい衝動を抑えるのに、必死なの」

 

「であれば、なぜ……なぜ、わざわざ私たちの前に姿を現したのですか! 監視が目的ならば、森に潜んでいればよかったはずです!」

 

 

 わざわざ名乗りを出てきたということは、彼女の中にまだ戦いを避ける意志があるのではないか。そんな一縷の望みをかけての問いだ。

 

「……最後に残った理性が。あなたたちを『試すべきだ』と、そう囁いているの」

 

 

 彼女はタラスクの手綱を引き、眼下で震えるマシュたちを、圧倒的なプレッシャーで見下ろした。

 

「あなたたちの前に立ちはだかる竜の魔女、究極の竜に騎乗する災厄。……私ごときを倒せなければ、この先の地獄を乗り越えることなどできないのだと。神の代理として、示さなくてはならない」

 

 

 彼女は静かに、しかし、世界そのものを震わせるような威圧感を持って名乗った。

 

「我が名は、マルタ」

 

 

 高らかな名乗り。

 

 それに応えるように、大鉄甲竜タラスクが鼓膜を破るような凄まじい咆哮を上げた。

 

『気をつけるんだ、みんな!! 彼女はかつて、凶悪な竜種を『祈り』だけで屈服させた聖女だ! あのドラゴン、油断すれば一瞬で焼き払われるぞ!!』

 

 

 竜の魔力咆哮が空間を歪め、カルデアからの通信がノイズと共に物理的に遮断される。

 

「やりなさい、タラスク」

 

 

 

 狂化された聖女の、冷徹な命令。

 

 タラスクの巨大な口が大きく開かれ、喉の奥が太陽のようにオレンジ色に発光し始めた。周囲の魔力が凄まじい勢いで吸い込まれ、超高熱のブレスのチャージが開始される。

 

(まずい……このままでは、ここら一帯が跡形もなく焼き払われる!)

 

 

 マシュは一瞬で戦況の絶望さを理解し、背後の仲間たちへ鋭く指示を飛ばした。

 

「マリーさん、アマデウスさん! 私の盾で防ぎますので、後ろへ下がって!!」

 

 

 力強く大地を踏みしめ、盾を構えて前へ出る。

 

 タラスクの口から、すべてを灰燼に帰すブレスが放たれる、まさにその寸前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ヒュンッ!!

 

 マシュの横を、黒い『影』が、超高速で駆け抜けた。

 

 

 

 

 

 ヴァルナ・クロス。

 

 森の外れでジャンヌと対話していた彼は、マシュからの念話による警告を受けた瞬間、足首に限界まで呪力を圧縮し、神速の踏み込みでこの場へと帰還した。

 

 

 彼は周囲の状況を一瞬で俯瞰し、完全に理解する。

 

 敵は、巨大なドラゴンとその上に乗る女。

 

 そして、そのドラゴンが今、広域殲滅攻撃のモーション(チャージ)に入っている。

 

「マスターッ!?」

 

 

 マシュの緊迫した声を置き去りにし、ヴァルナは一切の躊躇なく、ブレスを溜め込んでいるタラスクの巨大な顎の下へと潜り込んだ。

 

(どんなに強力な広域攻撃だろうが、撃たせる前に封殺すればいい)

 

 

 極めてシンプルで、冷徹な合理性。

 

 ヴァルナの右腕の筋肉が異常なまでに膨張し、青黒い呪力がバチバチと火花を散らしながら一点に極限圧縮される。

 

 竜の顎の関節、チャージの基点となる急所を正確に捉え――下から上へ、大地を抉るようなアッパーカットを全力で叩き込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!

 

 

 物理法則を無視した、暴力的すぎる破壊力。

 

 タラスクの数十トンはあろうかという巨体が、ヴァルナの突き上げの衝撃だけで「ドスッ」と軽く上空へ浮き上がった。

 

 極限まで圧縮された呪力が竜の脳髄を直接揺らし、魔力回路に強制的なシステムエラーを引き起こす。放たれる寸前だった超高熱のブレスは、喉の奥で物理的に押し潰されるようにして霧散した。

 

「ッ!?」

 

 

 その信じられない衝撃に、タラスクの背に乗っていたマルタがバランスを崩し、宙を舞って竜の後方へと飛び退き、着地する。

 

 ズゴォン! とタラスクが仰向けにひっくり返り、地響きと共に土煙が舞い上がった。

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 

 

 

 

 

 その直後。

 

 遅れて森を駆け抜けてきたジャンヌ・ダルクが、息を切らして合流した。

 

「……間に合ったか」

 

 

「随分やるじゃない」

 

 

 

 土煙が晴れた向こう側。

 

 無傷で着地したマルタが、ドレスの汚れを払いながら、ヴァルナを真っ直ぐに見据えた。

 

 その瞳には、彼がこの特異点を解消しうる器か否かを判断するような、鋭い光が宿っている。

 

「……誰だ? お前は」

 

 

 ヴァルナは感情の読めない瞳で、彼女をじっくりと観察しながら問う。

 

「あなたが、あの子を完封したマスターね。」

 

 

 マルタは彼の質問には直接答えず、杖を構え直した。

 

「……襲ってくるなら。殺すが、問題はないな?」

 

「あら、好戦的ね?」

 

 

 マルタの口元が、わずかに好戦的な弧を描く。

 

「タラスク、起き上がりなさい。この不躾な旅人に、聖なる洗礼を授けてあげる」

 

 

 ヴァルナの呪力アッパーによってひっくり返っていたタラスクが、怒りの咆哮を上げながら重々しく身を起こし、完全な戦闘態勢へと移行する。

 

(こんな形状のモンスターは初めてだな。でかい亀……いや、竜か?)

 

 

 ヴァルナが静かに呪力を練り直していると、マシュが彼の横に並び立った。

 

「マスター! 彼女は聖女マルタ。まごうことなき、ドラゴンライダーです!」

 

「強敵だな」

 

 

 即座に盤面を計算し、サーヴァントたちへ鋭い指示を飛ばす。

 

「ドラゴンの相手をしろ。……俺は、あの女をやる」

 

 

 その極端な指示に、アマデウスが眉間を押さえて抗議する。

 

「ちょっと待ってくれ! あのデカいドラゴンを僕たちに押し付けるつもりか!? 僕たちはまだ連携もろくに取れていないんだぞ!」

 

「倒す必要はない。足止めだけでいい」

 

 

 ヴァルナは一切の表情を変えずに、合理的な戦術を語る。

 

「核となるあの女さえ潰せば、竜の制御は乱れる。合理的だろ。……マシュ、お前の盾が戦略の要だ。攻撃はしなくていい、竜の注意を引きつつ、うまく立ち回れ」

 

「アマデウス、文句を言わないの」

 

 

 マリーが、不満げなアマデウスの背中をポンッと叩き、太陽のような笑顔を向けた。

 

「私たちも頑張りましょう? マシュさん、貴女の立派な盾が頼りよ!」

 

「はいっ、了解しました!!」

 

 

 

 ヴァルナは、マルタの位置を正確に把握した。

 

 彼女はタラスクの巨体の背後、完全に死角に隠れるように位置取っている。

 

 

 彼にとっては、そんな障害物は何の問題にもならない。足元の影に、文字通り水面のように沈み込む。

 

「!?」

 

 

 マルタが、一瞬だけ目を見開く。

 

 

 だが、驚いている暇はない。

 

 ヴァルナは影の中――暗黒の回廊を文字通り「泳ぎ」、マルタの背後に伸びる彼女自身の影から、音もなく飛び出した。

 

 

 

 完全な死角からの、超高速の奇襲。

 

(……殺る)

 

 

 ヴァルナは無言のまま、彼女の首を刈り取るために、鋭利な刃と化した手刀を振り抜いた。

 

 

 

 だが。

 

 聖女の闘争本能は、狂化によってさらに研ぎ澄まされている。

 

 マルタは咄嗟に振り返り、手にしていた十字の杖を盾のように振りかざす。

 

 

 それすらも、想定内。

 

 彼は手刀の軌道を一瞬でずらし、頭を下げて最小の動作で杖の防御を回避すると、そのまま杖の柄を掴み取り、下から蹴り上げて彼女の手から上空へと吹き飛ばす。

 

 

 武器を喪失し、完全に無防備となった聖女。

 

(決める)

 

 

 勝利を確信し、ヴァルナは踏み込む。

 

 奪った杖の代わりに、再び手刀を彼女の細い首筋へと突き立てようと動いた。

 

 

 

 

 ――しかし。

 

 その瞬間、ヴァルナの合理的な計算式は、完全に破綻した。

 

 

 杖を失ったマルタは、怯むどころか、手刀をギリギリのタイミングで首の皮一枚で躱し。

 

 体勢が崩れたはずのその瞬間、信じられないほどの滑らかな体重移動で――。

 

 ヴァルナの顔面の中央目掛けて、一切の予備動作がない、完璧な『カウンターの右ストレート』を叩き込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 バコォォォンッ!!

 

 

「うぐぁ……ッ!?」

 

 

 

 鈍い破砕音。

 

 物理的な防御すら間に合わなかったその一撃に、ヴァルナの長身がズルズルと数メートル後方へと後退し、ブーツが地面に深い轍を刻む。

 

 視界が揺れ、鼻からツツーッと赤い血が垂れ落ちる。

 

 

 彼は片手で顔を覆い、驚愕に目を見開いた。

 

 マルタは、自身の頬に掠った血を手の甲で乱暴に拭いながら、杖を失った両手で、見事なファイティングポーズを取っている。

 

「……いったいわねぇ。アンタ……」

 

 

 その言葉は、聖女としての気高さなど欠片もない、路地裏のヤンキーそのものだ。

 

「……聖女、マルタ、だったな」

 

 

 ヴァルナは、垂れた鼻血を無造作に拭い取る。

 

「君のことは知っている。有名な聖人だからな。……だが、まさか杖を失ってから『徒手空拳』でカウンターを合わせてくるとは」

 

 

 聖女が武器を失えば無力になる。

 

 そんな固定観念に囚われ、今の一撃で決めるつもりだった自分の『慢心』。その事実を、彼女の拳が冷酷に突きつけてきた。

 

 

 

 だが、不思議なことに。

 

 顔面を殴られたというのに、ヴァルナの胸の奥底からは、怒りではなく、奇妙な熱が沸き上がってきていた。

 

 感情の起伏が乏しい彼の瞳に、明確な『歓喜』の光が宿る。

 

「……面白い」

 

 

 ヴァルナの唇が、好戦的な弧を描いた。

 

「少し、本気でやらせてもらうぞ」

 

「なめんなっての」

 

 

 

 月明かりの下。

 

 異端の呪術師と、水辺の聖女が。

 

 魔術でも宝具でもなく、純粋な『暴力(ステゴロ)』による極限のインファイトを開始すべく、互いに深く踏み込んだ。

 

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