Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【十節】水辺の鉄拳と、影を背負う豪拳

 

 夜風が、二人の間に漂う血の臭いを連れ去っていく。

 満天の星空の下、泉のほとりで、白髪の呪術師と狂化された聖女が、互いに完全に言葉を失ったまま、ただジリジリと間合いを測り合っていた。

 

 ヴァルナ・クロスは、独自の構えのまま、瞳を一切動かさずに目の前の女性を見据えている。

 

 その脳内では、極めて冷徹な戦闘計算が狂気的な速度で繰り返されていた。

 

(……隙がない。純粋な筋力の出力、肉体の耐久値、そのどれもが英霊として一級品。だが何より、あの無駄を完全に削ぎ落とした、圧倒的に洗練された格闘技術――ステゴロの能力が異常に高い)

 

 ツ、と鼻血が滴り、地面の苔を赤く染める。

 

 先ほど顔面の中央に喰らった、あのノーモーションの右ストレート。もしも激突の瞬間、顔面に呪力を極限まで集中させていなければ、今頃自分の頭蓋は破壊されていただろう。

 

(気を引き締め直す必要があるな。……下手をすれば、万が一ということもある)

 

 静かに呼吸を整える。彼の内側から、底なしの負の感情が、黒く淀んだ「呪力」となって溢れ出し、肉体の表面をパチバチと火花を散らす被膜となって覆っていく。

 対する聖女マルタは、十字の杖など一顧だにせず、腰を深く落とし、ボクサーさながらの両拳を顔の前に掲げる喧嘩殺法の構えを取っていた。狂化の呪いで濁った瞳の奥に、獣のような獰猛な闘争本能がギラギラと輝く。

 

 周囲の音が完全に消えた。

 

 

 ――ドンッ!!

 

 大気が爆ぜる音。地面の土が爆発したように四方に飛び散り、ヴァルナの長身が一瞬でマルタの目の前へと肉薄した。

 

「はぁぁぁぁぁッ!!」

 

 普段の寡黙さが嘘のような、腹の底から絞り出したヴァルナの雄叫び。呪力を限界まで上乗せした右拳が、大気を引き裂きながらマルタの顔面へと放たれた。

 

「オラァァァァァァッ!!」

 

 マルタもまた、聖女とは思えない野太い咆哮を上げ、逃げるどころか自らの右拳を真っ直ぐに突き出す。

 

 

 ――ドゴォォォォォォォォンッ!!

 

 拳と拳が、真正面から完全に衝突する。

 

 激突の瞬間、周囲の空気が振動し、凄まじい衝撃波が広がる。二人の周囲にあった大樹が、その風圧だけでバキバキと音を立てて引きちぎられ、吹き飛んでいった。

 

「な、何なんだあれは!? 本当に魔術師と英霊の戦いなのかい、あれは!?」

 

 少し離れた場所で、タラスクの暴走を抑えていたアマデウスが、飛んできた木々の破片をマントで払いながら驚愕の声を上げる。

 

「マシュさん、危ないわ! これ以上、二人の戦いに近づいては!」

「は、はい……! ですが、マスターが」

 

 

 激突した拳を引き、二人はそこから、肉眼では捉えきれない超高速の肉弾戦へと突入する。

 

 

 ドカッ! バキィッ! ズドォン!!

 

 互いの肉体を削り合う、無慈悲な打撃の応酬。

 

 ヴァルナの拳が放たれ、マルタがそれを紙一重で躱し、空いた脇腹へ容赦のない左フックを叩き込む。ヴァルナは呪力でそれを相殺するが、打撃の風圧だけで背後の泉の水面が大きく割れる。

 

(力強い……! これが、本当に神に祈りを捧げる聖女か!?)

 

 ヴァルナは内心で激しく舌を巻いていた。

 

 予想の何倍、何十倍も強い。彼の体に纏わせた呪力の密度をさらに引き上げなければ、一撃喰らうたびに骨をへし折られる。

 

 それは、ただの力任せの暴力ではない。

 

 ヤコブ、モーセ、そしてマルタへと、遥か古き時代から脈々と受け継がれてきた神聖なる格闘法――極まれば大天使にさえ勝利し、伝承においては一万二千の天使を率いる『破壊の天使』をすら素手で撲殺したとされる、人類史において最も古く、最も過激な、絶対的な格闘技術。

 

 

 その真髄が今、目の前で体現されていた。

 

「ハァァァァァァァッ!!」

 

 マルタの、腰の入った強烈な回し蹴りが、側頭部を狙って炸裂する。気合の入った彼女の声と共に放たれたその足の軌道を、ヴァルナは咄嗟に両腕を胸の前でクロスさせて防御した。

 

 

 メリッ……!

 

「くっ……!?」

 

 ヴァルナの口から、微かな苦悶の声が漏れる。防御したはずの両腕の骨から、ミシミシと嫌な音が鳴り響いた。

 

(おかしい……。確かに打撃そのものが強いが、それだけじゃない。この感覚……俺の呪力による防御を、抜いてきている?)

 

 呪力は、人間の「感情」から生まれる、ドロドロとした負のエネルギーだ。

 

 対して、目の前のマルタが放っているのは、信仰から生まれる精神と肉体の絶対性。彼女の肉体から滲み出る圧倒的な『神性』と、全身から溢れ出す聖なる魔力の光。

 

 その光は、過程をほとんど踏まずに「結果」だけを周囲に発生させる厄介な性質を持っていた。そのため、回避や通常の呪力防御が極めて難しく、意味を成さない。

 

(呪いに対して、圧倒的に相性が悪いな……!)

 

 さらに、ここは泉のほとり。野営地として選ばれたこの場所には、豊かな水が満ちていた。

 その「水辺」をマルタの霊基が認識した瞬間、その身体能力がさらに一段階、跳ね上がる。呪力を込めて押し込もうとすればするほど、彼女はそれを上回る怪力で押し返してくるのだ。

 

「ノッてきたぁぁぁぁぁッ!!」

 

 狂化の呪いによってリミッターが完全に外れたマルタが、楽しげに叫ぶ。

 

 直後、彼女の凄まじい踏み込みからの右ストレートが、ヴァルナの呪力防御を突き破り、彼の腹部へと深く突き刺さった。

 

 

 ドッバァァンッ!!

 

「ガハッ……!?」

 

 ヴァルナの口から鮮血が飛び散る。そのまま体が数メートル地面を滑るように後退した。

 

 狂化されてなお、全く鈍ることのない戦闘能力。それどころか、理性が消し飛んだことで、その破壊の格闘術はさらに凶暴性を増している。

 

(……天敵だな、これは)

 

 ヴァルナは腹部を押さえ、血を拭いながらそう結論付けた。

 

 真っ向から呪力強化だけでやり合うのは不利だ。だからといって、ここで下手に式神を召喚すれば、あの聖なる拳によって、調伏した式神が一撃で粉砕される危険性がある。敗北した式神は永久に失われる。彼にとって、ここで手札を失うわけにはいかなかった。

 

 レイスとして展開することも考えたが目の前の聖女相手に、そんな小細工は無意味だろう。即座にその手段も破棄する。

 

(ならば……やることは一つだ)

 

 静かに息を吸い、自らの思考を完全に切り替えた。

 

 彼が選択したのは、

 

 スウッ……と、ヴァルナの肉体を覆っていたバチバチとした黒い呪力の火花が消え、代わりに、彼の身体の表面に、目に見えないほど薄く、しかし強固な「膜」が張り巡らされた。

 

「……? なんだか、不気味な雰囲気を纏い始めたわね!」

 

 マルタは目の前の男の周囲に漂う、魔術や神秘の干渉を一切寄せ付けない異様な空気感を察知した。だが、彼女はそれを恐れるどころか、ニカッと獰猛な笑みを浮かべて再び一直線に突っ込んでくる。

 

「ラァァァァァァァッ!!」

 

 放たれる、マルタの必殺の右ストレート。

 

 しかし、ヴァルナはその拳が自らの「膜」に触れた瞬間、彼女の拳に宿っていた聖なるエネルギーが、一瞬にして『中和』され、霧散していくのを感じ取った。

 

(――今だ)

 

 展延によって相手の聖なる力を打ち消し、同時に自身の身体能力を限界まで引き上げる。

 

 ヴァルナはマルタの右拳を、首をわずかに傾けるだけの最小限の動作で躱すと、空いた彼女の顎の下へと、強烈なお返しのアッパーカットを叩き込んだ。

 

 ズガァァァンッ!!

 

「ぶはっ!?」

 

 マルタの口から鮮血が舞う。顎を打ち抜かれ、脳を揺らされたはずの彼女だったが、その動きは全く止まらない。

 

「あははっ! やるじゃない、アンタァ!!」

 

 血を吐きながらも、彼女は狂ったように笑い、そのままの勢いで強烈なローキックを叩き込んでくる。ヴァルナはそれに合わせる形で自らも拳を突き出す。

 

 

 バチバチバチバチバチッ!!

 

 激しく交錯する拳と脚。

 

 領域展延によって聖なる光を中和されたマルタと、術式を封じられた代わりに展延のバフで身体能力を高めたヴァルナ。二人の戦闘は、さらに激しさを増し、口数の多いマルタの叫び声が夜の森に響き渡る。

 

 互いに、肉体を極限まで痛めつけ合いながらも。

 

 二人の口元は、いつの間にか、ほんのわずかに楽しげに、歪な弧を描いて綻んでいた。

 

 自身とやり合える強者と出会えた白髪の男と、狂化の呪いの中で己の全力をぶつけ合える敵を見出した聖女。二人の歪な闘争は、戦場の狂気の中で、奇妙な純粋さを帯び始める。

 

 

 ――その時。

 

 遠くの森の奥から、凄まじい熱風と爆音が響いてきた。

 

 

 ゴオォォォォォォォォッ!!

 

 赤黒い炎が夜空を焦がしている。タラスクが、マシュたちの防衛線を突破せんと、狂ったように炎を撒き散らしているのだ。

 

(向こうも、向こうで大変そうだ……)

 

 ヴァルナの視界の端に、マシュが歯を食いしばり、背後のマリーやアマデウスへの被害を出さないために、盾を地面に突き立てて必死に炎の奔流を防いでいる姿が映った。

 

「よそ見していいのかしら!? 」

 

 一瞬の視線のブレを見逃さず、マルタの、全身の体重を乗せた強烈な蹴りがヴァルナの顔面へと迫る。

 

 

 ――ガギィィィィン!!

 

「なっ……!?」

 

 マルタの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。

 

 彼女の蹴りは、ヴァルナの両腕を強固に交差させた『クロスアーム・ブロック』によって、完全に受け止められていた。完全に死角からの、決まったと思ったタイミングの一撃だったはずだ。

 

「……な、んで防げるのよ!?」

「慣れた」

「……生意気ねッ!!」

 

 マルタはムッとしたように顔を歪めると、蹴りを防がれたことで体勢を崩すかと思われた瞬間、空中で器用に一回転。遠心力を利用したもう片方の足での強烈な『上段後ろ回し蹴り』を、ヴァルナの脳天へと叩き込んできた。

 

(――これを受けるのは、まずいか)

 

 即座に危険を察知し、防ぐのではなく、バックステップで大きく後ろへと跳躍してその一撃を躱す。

 

 ドスン、と後ろの地面に着地した瞬間、彼はその反動をそのまま利用し、バネのように前方に一瞬で突進。体勢の戻りきっていないマルタの胸元へ、目にも留まらぬ速さで拳を叩き込んだ。

 

 

 ――ガギィィィッ!!

 

 しかし、マルタもまた、瞬時に胸の前で腕をクロスさせ、ヴァルナの拳を真正面から防ぎきってみせた。

 

 

 ……こいつ、本当に強い

 

 火花を散らす至近距離で、二人の内心の評価が、完全に一致した。

 

 

 一瞬、意識が下方に向く。

 

 契約のパスを通じて、遠くで戦うマシュの、微かな苦痛の息遣いがヴァルナの脳内に伝わってくる気がした。タラスクの猛攻を防ぎ続け、限界が近づいている。

 

(……少し、遊びすぎたか)

 

 胸の奥底にくすぶっていた戦闘の熱を、冷水を浴びせるようにして一瞬で冷ます。

 

 楽しかった。純粋に、これほどの拳でのインファイトを繰り広げられたのはいつ以来だろうか。だが、自分はカルデアのマスターだ。こんな場所で、私情で戦いを楽しんでいる場合ではない。

 

 

 ヴァルナは、ピタリと動きを止めた。

 

「……? なによ、急に立ち止まって。諦めたわけじゃないでしょうねぇ?」

 

 聖女マルタは、急に戦闘の意思を引いたような目の前の男に、不審そうな疑問符を浮かべた。

 

 ヴァルナの手はだらりと下がったままで、次の攻撃に備える構えを取る様子すら一切ない。

 

「なめてんの……!? だったら、そのままブチ抜いてあげるわよ!」

 

 マルタはそれを自身の侮辱と受け取ったのか、一直線に爆発的な速度で接近してきた。

 

 

 最高速度でぶち抜く。

 

「ハァァァァァァァァァァァッ!!」

 

 月明かりが照らす森の泉。

 

 迫り来る死の鉄拳を前に、ヴァルナは自らの肉体に貼っていた展延の「膜」を、ふっと完全に解除した。

 

(……え?)

 

 猛烈な速度で突進していたマルタは、その異変を肌で感じ取る。

 

 先ほどまで自分の聖なる魔力を中和し、彼の身体能力を底上げしていた不可視の鎧。それが今、完全に消失したのだ。

 

(なぜ……解いた? 諦めた? それとも、何か別の狙いが――)

 

 一瞬の間に複数の思考がマルタの脳裏をよぎる。

 

 だが、狂化の呪いと、闘争の熱に浮かされた彼女は、湧き上がる疑問を「どうでもいい」と力ずくで振り払った。どんな小細工を弄そうと、この距離、この速度なら、自らの拳が彼の頭蓋を粉砕する方が早い。

 

「ハァァァァァァァッ!!」

 

 マルタは全身の捻りを乗せた右の凶拳を、無防備となったヴァルナの顔面目掛けて一直線に突き出した。

 

 

 だが。

 

 急停止したヴァルナの両手は、彼女の拳が届く前、一瞬だけ、奇妙な形に組まれる。

 

(印……?)

 

 彼の唇が微かに動く。だが、熱風と自らの叫び声にかき消され、マルタの耳にはその言葉は届かない。

 

 

 直後。

 

 ヴァルナの足元に広がる黒い影が、水面のように大きく波打った。

 

 

 ――ボチャンッ。

 

 それは、何か途方もなく巨大で重い物体を、深い水底へと落とし込んだような、ひどく鈍く、異質な音。

 

 そして、止まっていたヴァルナが、迎撃のモーションへと入る。

 

「…………フンッッッ!!」

 

 マルタの必殺の右ストレート。

 

 それを、ヴァルナは回避することなく、自らの『左腕』を盾にするようにして正面から受け止めた。

 

 

 ――メキィィィィィィィィッ!!!

 

 肉が弾け、骨が砕け散る、絶望的な不協和音が夜の森に響き渡る。

 

 狂化された聖女の、水辺の恩恵を受けた一撃。それを呪力防御なしに受け、そして流したのだ。ヴァルナの左腕は肘から先が完全にへし折れ、有り得ない方向へとグロテスクに曲がり切る。

 

(左腕を、完全に捨てた……!?)

 

 驚愕するマルタ。

 

 ヴァルナの狙いは、防御の放棄による「リソースの極限集中」。左腕を守るための呪力を一切合切切り捨て、その全エネルギーを、次に放つ『右腕』の一撃のみに注ぎ込んだのだ。

 

 限界まで引き絞られたヴァルナの右腕が、マルタの胸元へと迫る。

 

「ハァァァァアッ!!」

 

 マルタは即座に反応し、空いていた左腕を胸の前に回して防御姿勢を取った。

 

(……遅い!)

 

 マルタは目を見開く。

 

 確かに鋭い一撃だが、先ほどまでの神速のインファイトに比べれば、明らかにモーションが遅い。これならば、自身の左腕で弾き落とすか、最悪でも致命傷は避けられる。彼女の優れた動体視力と闘争本能が、そう確信した。

 

 

 だが。

 

 ヴァルナの右拳が、防御に回したマルタの左腕に触れた、その瞬間だった。

 

 

 ――有り得ない現象が起きる。

 

「……は?」

 

 重い。

 

 今まで打ち合ってきたどんな打撃とも違う。

 

 それは「鋭い」や「強い」という格闘技の次元ではない。まるで、全速力で突っ込んできた数十トンの巨大な鉄塊と正面衝突したかのような、圧倒的で、理不尽な『物理的質量』が、その右拳一つに凝縮されていた。

 

 

 

 ズドォォォォォォォォォォンッ!!!

 

「が、ぁ……ッ!?」

 

 防御など、全くの無意味。

 

 マルタの左腕の骨は激突の瞬間に粉微塵に粉砕され、そのままの勢いでヴァルナの右拳が彼女の胸部を深く、残酷なまでに抉り込んだ。

 

 

 凄まじい衝撃波が円状に弾け飛ぶ。

 

 圧倒的な質量をモロに受けたマルタの身体は、まるで大砲の弾のように吹き飛ばされた。

 

 

 バキバキバキバキッ!!

 

 何本もの大樹の幹を身体でへし折りながら、彼女は数十メートル後方――炎を撒き散らして暴れていたタラスクの巨体のすぐ傍まで吹き飛び、最後の大樹に激突してようやく停止する。

 

「ガハッ……! あ、ゴァ……ッ!!」

 

 マルタの口から、内臓の破片の混じった大量の血が滝のように吐き出された。

 

(いっ、たい……なに、が……)

 

 薄れゆく意識の中で、彼女は自身の胸元を見下ろす。霊基が致命的な損傷を受け、金色の魔力粒子が傷口から激しく漏れ出しているのが見える。

 

 強い拳ではなかった。ただ異常なまでに『重い拳』だった。物理的な質量が、人間のそれとは根本的に違っていたのだ。

 

 狂化の熱が冷め、彼女の濁っていた瞳に、本来の理知的な聖女の光が戻り始める。

 

(……ここまで、ね……)

 

 ゴホッ、と血を吐きながら顔を上げると。

 

 いつの間にか、彼女の目の前には、あの白髪の男が静かに立っていた。

 

 彼の左腕は完全にへし折れ、だらりと力なく垂れ下がっている。

 

 

 だが、その硝子のような瞳には痛みの色など微塵もなく、ただ冷徹に、死にゆく敗者を見下ろしていた。

 遠くでマシュたちに向かって暴れ狂っていたタラスクも、主の致命傷を察知したのか、ピタリと動きを止めて悲しげな唸り声を上げている。

 

「……終わりだな」

「えぇ……わた、しの……敗北ね……」

 

 腹部に致命的な風穴を空けられたマルタは、大樹に寄りかかりながら、途切れ途切れの声で笑う。その顔には、狂化の苦しみから解放されたような、どこか清々しい安堵が浮かんでいた。

 

 月明かりが逆光となり、ヴァルナの表情はよく見えない。ただ、その感情の読めない冷徹な瞳だけが、彼女を真っ直ぐに射抜いている。

 

「何か、言い残すことはあるか」

 

 それは、死にゆく者への彼なりの最低限の敬意。

 

「そう、ね……」

 

 マルタは血まみれの唇を微かに動かし、最後の力を振り絞って、フランスの大地を救うための「希望」を口にした。

 

「リヨンに、行きなさい……。かつて、リヨンと……呼ばれた、その都市に……」

 

 彼女の身体の末端から、光の粒子となって崩壊が始まる。

 

「竜を倒すのは……聖女でも、姫でもなく……『竜殺し』と……相場が、決まっているもの……」

「……竜殺し」

「ええ……そこに、竜殺しジークフリートが……」

 

 言葉の途中で。

 

 水辺の聖女の肉体は、夜の森を照らす無数の光の粒子へと還り、空へと溶けるように消滅した。

 主を失ったタラスクもまた、静かに目を閉じ、彼女の後を追うように光となって世界から退去していく。

 

 後に残されたのは、戦いの爪痕が深く刻まれた荒れ果てた森と、静寂だけ。

 

 ヴァルナは、折れた左腕から滴る血を気にする様子もなく、空へと昇っていく金色の光の輝きを、しばらくの間、ただ黙って見つめ続けていた。

 

 

 その瞳の奥で、彼が何を思っていたのか。

 

 それは、誰にも分からない。

 

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