Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【十一節】復讐の再定義と、朝露の口づけ、そして沈黙を強いる鉄槌

 

 ステンドグラスから差し込む冷たい昼の光が、玉座の間を薄暗く、そしてひどく歪な色合いで照らしている。

 

「……ッ、忌々しい……」

 

 

 玉座に深く腰掛けたジャンヌ・ダルク・オルタは、自身の腹部――あの黒衣の男から容赦のない打撃を叩き込まれた箇所に手を当て、苦々しく顔を歪めていた。

 

 ジル・ド・レェによる修復を受け、表面的には完全に治癒している。だが、内部の霊核は未だに悲鳴を上げているようだった。男の放つ『呪い』というドロドロとした正体不明の負のエネルギーが、未だに腹の奥底をじわじわと蝕んでくる。

 

(あの、感情のない瞳……)

 

 

 思い出すだけで、恐怖と怒りがごちゃ混ぜになったような不快感が胸を焼く。

 

「どうなさいました、私の聖女よ。まだお加減が?」

 

「……問題ないわ、ジル」

 

 

 心配そうに覗き込んでくるキャスター、ジル・ド・レェに対し、彼女は不機嫌に手で制した。

 

「それよりも……昨日、ライダーの霊基が消滅したわね」

 

「えぇ。聖女ともあろうものが、随分と呆気ないものです……」

 

「アイツには、追跡と監視だけを命じたはずよ。それなのに勝手に戦闘を始め、あまつさえ敗北し、消滅させられた」

 

 

 オルタは忌々しげに舌打ちをした。

 

「狂化の呪いをかけていたとはいえ、あの聖女。どこかに残っていた理性が、余計な真似を引き起こしたのでしょうね。……独断先行、何をやっているのかしら」

 

「所詮は偽りの狂気。真なる復讐の炎を宿さぬ者の末路など、その程度のものです」

 

 

 ジルが恭しく頭を垂れる。

 

 だが、とオルタは目を細めた。マルタの強さは本物だ。水辺の聖女が全力で戦ったにも関わらず、それを完全に葬り去ったとなれば、やはりあのカルデアのマスターと白い聖女の組み合わせは、決して油断ならない相手だ。

 

「……戦力を、集める必要があるわね」

 

 

 オルタは立ち上がり、玉座の傍らに立てかけてあった漆黒の旗を手に取った。

 

「周囲の街を蹂躙し、恐怖を振り撒くために散開させているサーヴァントたちに連絡を取りなさい。一度、この城へ呼び戻すのよ」

 

「御意のままに。……流石はジャンヌ、完璧なご判断です」

 

 

 ジルは両手を胸の前で組み、うっとりとした表情でオルタを見つめ返した。

 

「貴女こそが完璧な存在。貴女には、武運すらも不要。……どうか、存分にこの忌まわしき国を蹂躙してくださいませ!」

 

「……ねえ、ジル」

 

 

 復讐の化身と化した自分へ、過剰なまでの執着と肯定を向けてくる彼に対し疑問をぶつける。

 

「あなたは……どちらが正しいと思う?」

 

 

 その問いに対するジルの答えは、一秒の逡巡もなかった。

 

「無論、貴女に決まっているではありませんか!」

 

 

 ジルは両手を大きく広げ、狂気に満ちた瞳で高らかに演説を始めた。

 

「よろしいですか、ジャンヌ! 貴女はフランスのために剣を取り、血を流し、すべてを捧げた! にも関わらず、王は貴女を見捨て、司教は貴女を異端と断じ、民は貴女を罵りながら火刑台へと送った! 貴女を救わんとする存在など、あの場には誰一人としていなかったのです!」

 

「……ええ」

 

「この理不尽な諸行、原因は何か!? それはすなわち、神だ!!」

 

 

 ジルの声が、玉座の間にビリビリと響き渡る。

 

「すべてを捧げた聖女を見殺しにする。これは、我らが信じた神の『嘲り』に他ならず! 神が我々を裏切ったのなら、我々もまた神を否定する! ……神を憎み、国を憎む貴女こそが、ただ一つの真実なのです!!」

 

 

 彼の思想はどこまでも極端で、狂気に満ちている。

 

 だが、その歪な肯定こそが、今の彼女にとっての最高のカンフル剤だった。

 

「……そう。そうよね、ジル」

 

 

 オルタの瞳からドス黒い黄金の光が強く輝き始めた。

 

「……私が率いた兵士は去り、私が救うと渇望した民は逃げていった。王は私を裏切り、司教は神の名のもとに私を罰した。……つまり、私が間違えていたのよ。すべてが、間違っていたの」

 

「おお……ジャンヌ……!」

 

「私が信じた神が間違えていたのではない。私という存在を許容した、この国そのものが間違えていた。……であれば、その間違いは正さなくては。」

 

 

 復讐者の彼女は、その漆黒の炎を煮えたぎらせる。

 

 私が彼らに警告するという行為そのものが、決定的に、致命的に間違えていたのだから。

 

 

 

 

 

 ガンッ!!

 

 彼女は手にした漆黒の旗の石突きを、大理石の床に激しく叩きつけた。

 

「ジャンヌ。そう、思い詰めないでください」

 

 

 怒りに震える彼女をたしなめるように、ジルが一歩近づき、優しく彼女の顔を覗き込んだ。

 

「これは、ただの『天罰』です。貴女の復讐は、どうしようもなく正しい。貴女が救った国であれば、貴女が滅ぼす権利がある。……これはそれだけの話ではないですか。あくまでもシンプルな話であり、複雑な問題ではないのですよ」

 

「……ふふっ。そうね」

 

 

 オルタは、自嘲するように笑みをこぼした。

 

「ジル、あなたの言葉はいつも極端で狂っているけれど。……今回は、それがとても頼もしいわ」

 

 

 彼女はふと、玉座の間の足元――この城の深い地下へと続く階段の方角へと視線を落とした。

 

「そういえば……『例の彼女』はどうなったの?」

 

「ああ。あの、地下道へ幽閉している狂犬ですか」

 

 

 ジャンヌの問いに、ジルもまた顔をしかめた。

 

 おそらく連鎖召喚によって、この特異点に呼び出されたサーヴァント。

 

 彼女は、狂化の呪いをかけるまでもなく、最初から決定的に狂っており、周囲のすべてを焼き尽くそうとする暴れ馬だった。

 

 召喚された直後、サーヴァント総出で取り押さえ、さらに強力な狂化の呪いで強引に自我を縛り付けて、ようやく大人しくさせたのだ。

 

「思い出すだけで、頭が痛くなるわ……」

 

 

 オルタが、自身のこめかみを押さえる。

 

 パスが繋がった瞬間、あの女から流れ込んできた絶大な「憎しみ」。その怨念の質量は、オルタが抱くフランスへの怒りにすら勝るとも劣らない、霊基そのものを侵食してくるような圧倒的な怒りだった。

 

「今現在は、拘束して呪いをかけ、地下牢の最奥に押しとどめております。ですが……あの凄まじい怨念。いつ抜け出すか、分かったものではありません」

 

「飼い主の手すら噛み千切りかねない、本物の狂犬ね。……でも、だからこそ利用価値がある」

 

 

 

 オルタは冷たく言い放つ。

 

「上手く使えば、強力な戦力として、敵を排除するための最高の道具になる。とりあえず、絶対に逃げ出さないよう監視を続けなさい。慎重に立ち回らなくてはならないわ」

 

「御意」

 

 

 改めて、オルタは指示を出す。

 

 周囲の街に配置したサーヴァントたちを、この城に帰還させるように。

 

 

 

 

 

 

 ――その時だった。

 

「む……? こ、これは……」

 

 

 キャスター・ジルの顔が、突如として奇妙に歪んだ。何らかの異常事態を感知したように、周囲の魔力の流れを探る。

 

「何かありましたか、ジル?」

 

「……各地に派遣していたサーヴァントが、また一騎、倒されたようです。消滅の気配を感じました」

 

「なっ……誰が?」

 

「『ファントム・オブ・ジ・オペラ』ですな」

 

 

 ジルの報告に、オルタの瞳が険しくなる。

 

「場所はどこ?」

 

「かつて、貴女の命によって灰燼に帰した都市……リヨンです。おそらく、あのカルデアの勢力に捕捉されたのでしょう」

 

「リヨン……」

 

 

 オルタはギリッと奥歯を噛み締めた。

 

 またしても、だ。どこまで私の邪魔をすれば気が済むのか。

 

「あの時のような油断は、もうしない。……ファヴニールを向かわせなさい」

 

「畏まりました」

 

「私も……」

 

 

 私も行く、と言いかけて。

 

 ふと、オルタの脳裏に、感情の読めない瞳と、自分の腹部を抉り込んだ圧倒的な暴力の記憶がフラッシュバックした。

 

 

 

 ぞわり、と。

 

 自身の腹に、本物の痛みのような恐怖がじわじわと広がり、一瞬だけ言葉に詰まってしまう。

 

「――余が行こう」

 

 

 玉座の間の扉が開き、重厚な足音が響いた。

 

 現れたのは、身の丈を超える長大な槍を携えた、串刺し公・ヴラド三世だった。

 

「ヴラド……。あなたが、どういうつもり?」

 

 

 オルタの問いに対し、ヴラドは殺意に満ちた鋭い眼光を放った。

 

「以前、あの得体の知れない人間に侮られた。……王として、あの時の屈辱の借りを返さねばならん。あのマスターの首は、余の槍で串刺しにしてくれる」

 

 

 静かだが、確かな激怒を孕んだヴラドの言葉。

 

 オルタは少しだけ迷ったが、すぐに決断を下した。

 

「……ええ、分かりました。ファヴニールと共に敵を殲滅しなさい」

 

 

 彼女は冷徹な指揮官として、さらに指示を重ねる。

 

「念には念を入れるわ。カーミラと、サンソンも連れて行くように。サンソンは片腕を失っているにしろ、まだ使い物にはなるでしょう」

 

「承知した」

 

 

 彼女はもう、油断などしない。

 

 そう言って鋭く指示を飛ばしたオルタの背後で、玉座の影が禍々しく揺らめいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木漏れ日が、静かな朝の森に差し込んでいる。

 

 昨夜の凄惨な死闘と、大鉄甲竜が撒き散らした炎の爪痕は周囲の木々に生々しく残っていたが、カルデアの一行は短い休息を終え、次なる目的地へ向けて野営のテントを片付けている。

 

「では、出発しよう」

 

 

 荷物をまとめ終えたヴァルナが、いつものように抑揚のない声で告げる。

 

「玉犬」

 

 

 

 ぽこん、と。

 

 足元の影が泥のように沸き立ち、そこから二頭の立派な大型犬――白い毛並みを持つ『白』と、黒い毛並みを持つ『黒』が、元気よく飛び出してきた。

 

「わふっ!」「わおん!」

 

 

 二匹の式神は、ヴァルナの足元に擦り寄って嬉しそうに尻尾を振る。

 

「あら! まぁ、なんて可愛らしいのかしら!」

 

 

 初めて見る式神の姿に、マリー・アントワネットが目を輝かせて駆け寄った。

 

 彼女が恐る恐る白い犬の頭を撫でると、玉犬・白は気持ちよさそうに目を細め、喉をグルグルと鳴らす。黒の方も、アマデウスの足元にすり寄り、クンクンと匂いを嗅いでいた。

 

「……マスター、この子たちは?」

 

「俺の術式で使役している、式神だ」

 

 

 マリーの問いに、淡々と答える。

 

「嗅覚に優れている。この二匹を、周囲の警戒と索敵に当たらせる」

 

 

 ヴァルナが短く「行け」と命じると、玉犬たちは即座に遊びをやめ、鋭い猟犬の顔つきに変わって森の奥へと駆け出していった。

 

「もう行っちゃうのね。少し残念だわ」

 

「ふふっ。カルデアの魔術師というのは、あんな使い魔を喚べるんだね。君の戦い方はひどく暴力的だから、少し驚いたよ」

 

 

 アマデウスが面白そうに笑い、マリーも「本当にね!」と楽しげに微笑む。

 

『あー、あー。通信テスト。……聞こえてるわね、アンタたち』

 

 

 

 その時、カルデアからの通信が開いた。

 

 ホログラムウィンドウに映し出されたのは、ロマンではなく、カルデア所長のオルガマリーだ。

 

「所長。おはようございます」

 

 

 マシュが背筋を伸ばして挨拶をする。

 

「昨日と比べれば、少しは顔色がマシになったか」

 

 

 ヴァルナは歩き出しながら、相変わらずのぶっきらぼうな口調で所長を労った。彼なりの気遣いだったが、オルガマリーは眉を吊り上げる。

 

『私の心配より、自分の心配をしなさいよ! 昨日、私が寝てからまた戦闘があったらしいじゃない!』

 

 

 オルガマリーは、ホログラム越しにビシッとヴァルナを指差した。

 

『 記録映像を見たけど、腕の骨がボロボロじゃないの!』

 

「ああ。だが、すでに治癒してある。骨も肉も完全に繋がった。機能に何の問題もない」

 

 

 ヴァルナは、動かせるようになった左腕を軽く振って見せる。合理的かつ完璧な事後処理だ。

 

 だが、オルガマリーの怒りは収まらない。

 

『そういうことを言ってるんじゃないわよ! 痛覚はあるんでしょう!? 無茶してばかりで……っ! ちょっとは自分の体を大事にしなさい!』

 

「……最適解を選んだだけだ」

 

 

 心配ゆえの小言だと理解はしているが、ヴァルナには何故そこまで怒られるのかがいまいちピンときていない。彼は瞬かせながら、静かに小言を聞き流した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 玉犬たちが先行して周囲を警戒する中、一行は森を抜け、開けた街道を歩いていた。

 

「そういえば……昨日、あの狂化した聖女マルタ様が、言い残した言葉ですが」

 

 

 ジャンヌが、ふと昨夜の出来事を振り返る。

 

「ええ。『リヨンに向かいなさい。そこに竜殺しがいる』と」

 

「竜殺しの英雄……ドイツの叙事詩に語られる大英雄、ジークフリートのことだね」

 

 

 アマデウスが顎に手を当てて思考を巡らせる。

 

 上空を覆い尽くすほどのワイバーンの群れと、規格外の超質量を持つ邪竜ファヴニール。あの圧倒的な『竜』の気配に対抗するためには、竜という概念そのものを叩き斬る『竜殺し』の存在がどうしても必要になる。

 

『……もう少し歩いたところに、集落があるわ』

 

 

 カルデアで観測を続けているオルガマリーが、地図データを一行に共有する。

 

『大勢の生体反応がある。おそらく、周辺の街から逃げてきた難民のキャンプでしょう。何か情報が得られるかもしれないわね』

 

「ありがとうございます、所長」

 

 

 マシュがお礼を言い、一行は歩調を速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 集落が見えてきたところで、一行は一旦足を止めた。

 

 ジャンヌ・ダルクは、この特異点において「フランスを滅ぼしている竜の魔女」として全土に指名手配されているような状態。彼女がそのまま集落に入れば、大パニックになることは火を見るよりも明らかだった。

 

「……私は、ここで待機します」

 

「ええ。情報収集なら、私とアマデウスに任せてちょうだい!」

 

 

 マリーとアマデウスが難民たちから話を聞いてくることになり、ヴァルナ、マシュ、ジャンヌの三人は集落の外れの木陰で待機することになった。

 

 

 風が木々の葉を揺らす音だけが、静かに落ちる。

 

 遠くに見える集落からは、微かに人々のざわめきが漂ってくる。ジャンヌは太い幹に背を預けながら、その景色をどこか痛ましげに、それでいて愛おしむように見つめていた。

 

 

 

 

 カサッ、と。

 

 少し離れた草むらが揺れ、周囲を警戒させていた二頭の大型犬――『白』と『黒』が、軽い足取りで戻ってきた。

 

 二匹は真っ直ぐにヴァルナの元へ駆け寄ると、その足元でピタリと止まり、短く鼻を鳴らす。彼は無言のまましゃがみ込み、二匹の顎の下を軽く撫でた。式神を通じて伝わる微かな呪力の揺らぎを読み取り、周囲一帯に敵の気配がないことを静かに理解する。

 

 

 

 索敵の役目を終えた玉犬たちは、そのままヴァルナの傍らで香箱を作るように伏せ、ゆったりと休息の姿勢に入った。

 

 その横に、マシュが盾を置いて静かに腰を下ろす。

 

 

 彼女は、ごく自然な動作で手を伸ばし、足元で丸くなっている黒い犬の背中に触れる。

 

 式神でありながら、そこには確かな体温と、生き物特有の柔らかな息遣いがあった。彼女は何かを確かめるように、静かにその背を撫で続けている。

 

「……大人しいですね。とても温かい」

 

「ええ。立派な猟犬のようですが、随分と人に慣れているのですね」

 

 

 マシュの静かな声に、隣で見ていたジャンヌも穏やかに微笑んで頷く。

 

 凄惨な戦いが続くこの特異点において、ただ動物の毛並みに触れる時間は、張り詰めていた空気をわずかに緩ませていた。

 

 

 ヴァルナは、手頃な倒木に腰掛けたまま、その光景をじっと見つめる。

 

「……犬が、そんなに珍しいか?」

 

 

 責めるでもなく、呆れるでもない、ただ事実を問うだけの声。

 

 その言葉に、マシュは撫でる手をふと止め、顔を上げた。少しだけ照れくさそうに目を伏せ、それでも真っ直ぐに答える。

 

「はい。……私は物心ついた時から、ずっとカルデアの施設内で育ちましたから」

 

 

 その声には、悲観も卑下も混ざっていない。ただ、自分という人間の成り立ちをありのままに述べていた。

 

「こうして外の空気を吸うことも、本物の小動物と触れ合うような経験も……一度もなかったんです」

 

 

 無菌室のような閉鎖空間で、世界を知らずに生きてきた少女。

 

 その言葉を聞き、ヴァルナの脳裏に、かつて一度だけ見た『彼女の夢』の記憶がフラッシュバックした。

 

「そうだったな。……悪かった」

 

「ん……?」

 

 マシュは、きょとんとした顔で目を瞬かせる。

 

 だが、ヴァルナはそれ以上、言葉を重ねて説明するような真似はしなかった。

 

 

 

 本来ならば、索敵の任務を終えた式神は、呪力の消費を抑えるためにすぐさま影の中へ収納するのが彼にとっての当たり前の手順だ。

 

 しかし、彼は印を解くための手を動かさない。

 

 自身の足元で、不思議そうにしながらもマシュが再び玉犬の背を撫で始めるのを黙って許容し、彼女の気が済むまでそのままにしておく。

 

 言葉で飾ることも、態度に出すこともなく。ただ『式神をしまわずに残しておく』。そのほんの些細な行動だけが、彼なりの不器用な気遣いの形だった。

 

 

 木漏れ日の下、心地よい静寂が三人の間に流れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして。

 

 集落から、マリーがパタパタと小走りで戻ってきた。その後ろをアマデウスがやれやれといった様子で歩いてくる。

 

「戻りました! 情報を集めてきたわ!」

 

「ご苦労。それで、リヨンの街はどうなっている?」

 

 

 ヴァルナの問いに、マリーは少しだけ表情を曇らせた。

 

「結論から言うと……リヨンの街は、少し前に竜の魔女の軍勢によって完全に滅ぼされてしまったみたい。この集落にいる人たちは、そこから命からがら逃げてきた難民の方々なの」

 

「……やはり、そうでしたか」

 

 

 ジャンヌが神妙な面持ちで俯く。また一つ、自身の名を騙る者がフランスの街を灰にしたのだ。

 

「ええ。難民たちの話によると、かの街には『地獄からやってきたような怪物(サーヴァント)』たちが闊歩していたそうです」

 

 

 マリーは言葉を続ける。

 

「でもね、リヨンの街には『守り神』がいたんですって」

 

「守り神、ですか?」

 

「ええ。大きな剣を持った騎士様が、たった一人でワイバーンの群れやスケルトンたちを蹴散らし、民が逃げるための時間を稼いでくれたらしいわ」

 

『なら、間違いないね。その騎士が、例の竜殺しだ』

 

 

 通信機越しに、ロマンの声が弾んだ。

 

「ですが……その騎士様は、どうなったのでしょうか」 

 

 

 マシュが不安そうに問いかけると、アマデウスが首を横に振る。

 

「それが、分からないんだ。複数の異常な者たちが現れ、激しい戦闘になった後、騎士は行方不明になってしまったらしい。……そして、守り手を失ったリヨンも、完全に滅びてしまったと」

 

「そうでしたか……。生きていると良いのですが」

 

 

 マシュが俯き、空気が重くなる。

 

 希望である竜殺しは、すでに敵の手によって討ち取られてしまったのではないか。そんな不安が皆の脳裏をよぎる。

 

「……行ってみれば、分かるだろう」

 

 

 重い空気を切り裂くように、ヴァルナが淡々と、極めて平坦な声で告げた。

 

「竜殺しが本当に存在して、生きているのなら助け出す。すでに死んで存在しなかったとしても……俺たちのやるべきことは何も変わらない」

 

「先輩……」

 

「敵をすべて潰して、この特異点を修正する。それだけだ」

 

 

 余計な感情が一切混じっていない、絶対的な自信と冷徹な合理性に裏打ちされた力強い言葉。どんな絶望的な状況でも一切ブレないその姿勢に、不安を抱えていた一行の顔がハッと上がる。

 

「……ふふっ。ええ、ええ! マスターは、そうでなくっちゃ!」

 

 

 マリー・アントワネットが、感激したようにパァッと顔を輝かせた。

 

 彼女はドレスの裾を翻し、小柄な身体でぴょんぴょんと飛ぶようにして、長身のヴァルナの目の前へと近づく。

 

「少し、屈んでくださる?」

 

「……?」

 

 

 何だろうと不思議に思いながら、ヴァルナが素直に少しだけ身を屈める。

 

 

 

 

 

 チュッ、と。

 

 マリーの柔らかい唇が、ヴァルナの頬に軽く、可愛らしい音を立てて触れた。

 

「――っ!?」

 

 

 いきなりの行動に、ジャンヌとマシュが遅れて悲鳴のような声を上げる。

 

「どう!? よかった!?」

 

「…………なんだ、いきなり?」

 

 

 ヴァルナは一瞬だけ目を丸くし、純粋な疑問符を浮かべる。

 

「……先輩。頬が緩んでますよ」

 

 

 しかし、何故か横から、マシュがジト目で彼をたしなめてきた。

 

「やれやれ。マリアの悪い癖が出たな」

 

 

 アマデウスが、昔もこんなことがあったとばかりに、腹を抱えて笑っている。

 

「マ、マスター! ほら、シャキッとしてください、シャキッと!」

 

「いや、俺は別に……」

 

 

 マシュからポンポンと肩を叩かれ、ヴァルナは困惑した。

 

 彼は頬が緩んでいるわけでもなく、本当にいつも通りだ。心境としては「当たり屋に遭遇した」程度の認識でしかないのだが、なぜか周囲からは『だらしなく浮かれている』という扱いを受けている。

 

(解せない……)

 

 

 ヴァルナは、人間たちの複雑すぎる距離感に内心で首を傾げた。

 

「えー? みんなはしないの? ベーゼ」

 

 

 そんな周囲の混乱などどこ吹く風で、マリーは不思議そうに小首を傾げた。

 

「こう、胸の奥のハートが、ぐぐーーーっ! てなったら、自然としちゃうものでしょう? ねぇ、ジャンヌ!」

 

「し、しません! しませんよ、そんなことは!!」

 

 

 いきなり話を振られたジャンヌが、顔を真っ赤にして両手を激しく振る。

 

「そ、そういう神聖な行為は、誓いを立てた恋人同士だけがするべきだと……っ!!」

 

 

 動揺のあまり早口になるジャンヌ。彼女の視線が、キスされたヴァルナの頬をチラチラと落ち着きなく彷徨っている。

 

『……茶番はそこまでよッ!!』

 

 

 通信機から、オルガマリーの雷が落ちた。

 

『いつまでもお喋りしてないで、早く進みなさいよ! アンタたち、世界を救う旅の途中だって自覚あるの!?』

 

 

 しびれを切らしたような怒声。

 

 そして、その矛先は当然のようにヴァルナへと向けられる。

 

『あと、ヴァルナ! アンタもデレデレ浮かれてないで、さっさと動きなさい!!』

 

「……だから、俺は別に浮かれてなど……」

 

『言い訳は聞かないわよ!! 行きなさい!!』

 

 

 

 ブツッ、と通信が一方的に切られる。

 

 再三言うが、彼の表情は一ミリも変わっていない。感情の起伏が乏しい彼にとって、恋愛的な意味合いなど全く理解の外だ。

 

 それなのに、なぜか周囲からの当たりが異様に強い。

 

(……やはり、解せない)

 

 

 静かにため息をついて、滅びた都市リヨンへと向けて歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつてフランス有数の美しさを誇った商業都市リヨンは、もはや見る影もなかった。

 

 見渡す限りの瓦礫の山。焼け焦げた石造りの建物の残骸が墓標のように立ち並び、街全体が死の静寂と、鼻を突く血と腐敗の臭いに包み込まれている。

 

『――ザザッ……こちら、カルデア。ヴァルナ、聞こえる……ザァッ……』

 

 

「……通信の調子が悪いようです。完全に途絶してしまいました」

 

 

 竜の魔女が意図的に配置した結界か、あるいはこの地に充満する濃密な魔力が原因か。いずれにせよ、ここから先はカルデアからのバックアップなしで進むしかない。

 

「……この街もかなり広いな。手分けして探そう」

 

 

 ヴァルナは淡々と状況を判断し、足元の影に印を結んだ。

 

「白と黒は、索敵を続けろ。……マリーとアマデウスは右の区画を。俺とマシュ、ジャンヌは中央から奥へと進む」

 

「ええ、分かったわ。アマデウス、行きましょう!」

 

「……死臭の漂う街の散歩とはね。マリア、僕から離れないように」

 

 

 二手に分かれ、玉犬たちを先行させながら、ヴァルナたちは瓦礫の山へと足を踏み入れた。

 

 

 竜殺し・ジークフリートの痕跡を探して、死の街を歩く。

 

 だが、生存者の気配は全くない。あるのは、焼け焦げた骨と、不気味な静寂だけ。

 

 

 

 

 

 

 

 ――ズリッ……ズリッ……。

 

 やがて、瓦礫の奥から、何かを引きずるような不気味な足音が複数聞こえてきた。

 

「……やすらぎ。やすらぎを、望むか?」

 

 

 不意に、底冷えするような狂気を孕んだ男の声が、反響するように響き渡る。

 

「それは、あまりに愚かな言動だ。彼らの魂に揺らぎはなく……我らサーヴァントの確実性は、存在しない……」

 

 

 土煙の向こうから姿を現したのは、異形の仮面で顔の半分を隠した、黒い外套の男だった。

 

 そしてその背後には、虚ろな目をした何十体もの生ける屍(リビングデッド)が、操り人形のように付き従っている。

 

「サーヴァント……!? あなたは、何者ですか!」

 

「さよう。我はファントム・オブ・ジ・オペラ……」

 

 

 仮面の男――ファントムは、芝居がかった大げさな身振りで両手を広げ、狂ったように高笑いを上げた。

 

「さあさあ、さあ! ここは死者が眠る地獄の底! ああ、クリスティーヌ! 私の愛しいクリスティーヌ!! 彼女の歌声だけが、この惨めな魂を慰めるのだ!!」

 

 

 精神を直接削り取ってくるような、ひどく耳障りで狂気的な叫び声。

 

 リビングデッドたちが一斉に呻き声を上げ、ヴァルナたちへ向かって這い寄ってくる。

 

「……君たちは、どうする?」

 

 

 ファントムが、鋭い鉤爪の備わった手をだらりと下げ、首を奇妙な角度に曲げてこちらを覗き込む。

 

「立ちふさがるのなら、潰すだけだ。……こい」

 

 

 その、ひどく冷徹で平坦な声が、開戦の合図となった。

 

「アアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 

 ファントムが獣のような絶叫を上げ、常人には視認不可能な爆発的速度で突撃してきた。両手の鋭利な鉤爪が、ヴァルナの肉体を引き裂かんと狂乱の軌道を描く。

 

「マシュ、盾」

 

「――はいっ!!」

 

 

 ヴァルナの意図を完全に理解したマシュが、凄まじい踏み込みで彼の前へと躍り出る。

 

 彼女は巨大な盾でヴァルナの身体を完全に隠蔽しながら、突っ込んできたファントムの鉤爪の連撃を、正面から完璧に受け止めた。

 

 

 

 

 

 ガキィィィィィンッ!!

 

 金属が激突する甲高い悲鳴。

 

 マシュはただ防ぐだけでなく、相手の力に合わせて盾を斜めに傾け、その攻撃の威力を外側へと強引に弾き飛ばす。

 

「チィッ……!?」

 

 

(……今だ)

 

 

 マシュの巨大な盾の背後――完全に敵から視認できない『死角』の中で、ヴァルナの手はすでに影絵の印を組み終えていた。

 

「大蛇」

 

 

 

 

 

 

 ズゴオォォォォォォンッ!!

 

 マシュの足元、盾の死角に伸びる影の中から、巨大な白蛇の式神が弾丸のような速度でニョロリと射出される。

 

「なっ……!?」

 

 

 空中で体勢を崩していたファントムには、盾の裏から突如として現れた巨獣に対応する術はない。

 

 最速の召喚によるカウンター。大蛇の巨大な顎が、ファントムの脇腹を無慈悲に深く抉り込んだ。

 

「グアアアアアアッ!?」

 

 

 ファントムの口から苦悶の叫びが上がる。

 

 血を撒き散らしながら、彼は大蛇の拘束から逃れるために、鉤爪で白蛇の鱗を切り裂き、無理やり上空へと高く跳躍した。

 

「……クッ!」

 

 

 ファントムは空中で体勢を立て直し、着地と同時に次なる一撃を放とうと地面を見下ろす。

 

 

 

 だが、その眼下では。

 

 『地面に落ちた彼自身の影』だけが、まるで独立した生き物のように蠢き、二つの手のような形状を作り出し、器用に別の印を結んでいた。

 

(影が、印を組んでいる……!?)

 

 

 影位相展開(シャドウ・フェイズ)による、術者のモーションを完全に省いた遠隔召喚。

 

「蝦蟇」

 

 

「シマッ――」

 

 

 空中の不安定な姿勢。回避など絶対に不可能。

 

 蝦蟇の口から射出された強靭な粘着質の舌が、空中のファントムの全身に幾重にも巻き付き、その身を完全に拘束した。

 

「ギィィィィッ! 離セ、離セェェェェッ!!」

 

 

 ファントムは狂ったように身をよじり、叫ぶ。

 

 身体が拘束されようと関係はない。彼にとって最大の武器は、その「声」そのものだ。声帯を震わせ、魔力を乗せて歌い上げることさえできれば、眼下の敵の脳を破壊し、狂気へ落とすことができる。

 

「こんなモノでは、私を止められない……! 歌え、我が天使! クリスティーヌ!! クリスティ――」

 

 

 

 

 

 ――その直後。

 

 

 ヴァルナの右脚が、天高く振り上げられていた。

 

 限界まで圧縮されたドス黒い呪力が、その踵にバチバチと火花を散らしながら収束している。

 

 

(な――)

 

 

 

 

 

 

 メキドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!!

 

 

「ガ、カハァッ……!?」

 

 

 一切の容赦のない重撃。

 

 ヴァルナの踵が、ファントムの口の中に深々とめり込む。顎の骨が完全に砕け散り、口内の歯という歯がすべてへし折られ、魔力を帯びた絶叫は、大量の血反吐と共に喉の奥へと強制的に押し戻された。

 

 

 物理的な声帯機構の完全破壊。

 

 これで、もう口を動かすことすらできない。魔力の歌など、発動する術がなくなった。

 

「耳障りな音を聞かせるな」

 

 

 そのまま地面へと叩き落とされたファントムを。

 

 着地したヴァルナは、見下すような冷たい視線で一瞥する。

 

「沈め」

 

 

 絶対的な暴力による「沈黙」を強いられた怪人は、折れた歯と血を口から溢れさせながら、白目を作って瓦礫の山へと完全に沈み込んだ。

 

 

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