Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
特異点の空に、白み始めた朝の光が差し込んでいた。
赤黒く濁っていた雲の隙間から覗く、わずかな青空。清冽な朝の冷気が、夜露に濡れた森の木々を揺らしている。
「……」
ヴァルナ・クロスは一人、静かにテントを出て朝の空気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
体内を巡る呪力が、静かに、しかし確実に熱を帯びて脈打っている。
(今日が、この特異点における最後の戦いになる)
その事実を噛み締めるように、彼の瞳に、微かな、しかし確かな『闘志』が灯る。
敵の本拠地、オルレアン。そこには、数多のサーヴァントを従える竜の魔女と、伝説に名高き最強の幻獣――邪竜ファヴニールが待ち構えている。
「おはようございます、ヴァルナくん」
背後から、澄んだ声がかけられた。
振り返ると、すでに鎧に身を包み、聖なる旗を手に持ったジャンヌ・ダルクが立っている。
「ああ、おはよう」
ヴァルナが短く返すと、彼女は柔らかな、それでいて芯の通った笑みを浮かべた。
彼女を縛り付けていた存在論的な迷いや、己の運命に対する暗い影は、もはや微塵も残っていない。前を向き、ただひたすらに次なる目標――自身の影たる『竜の魔女』との決着を見据える、揺るぎない聖女の顔がそこにあった。
「先輩、おはようございます。……いよいよですね」
隣には、マシュ・キリエライトが巨大な盾を背負って立っている。
初めての特異点決戦を前にして、その顔には隠しきれない緊張が滲んでいる。だが、彼女の瞳の奥には、決して引かないという強い光が宿っていた。
「ああ」
ヴァルナは静かに頷く。
ほどなくして、ジークフリート、エリザベート、清姫のサーヴァント陣も合流し、火を落とした野営地の中心で、彼らは一つの円陣を組んだ。
『おはようみんな! 昨日はゆっくり休めたかな?』
ヴァルナの腕の通信機から、ドクター・ロマンの声が響く。
『カルデアの観測でも、敵の魔力反応がオルレアンに一極集中しているのが確認できている。……ここが正念場だ』
「そこへ攻め入るための戦術だが……下手に戦力を分散させて城へ潜入するより、正面突破でいく。向こうもこちらの接近はすでに感知し、警戒を強めているだろう。小細工は無用だ」
『そうだね。城に張り巡らされた魔力網を見る限り、隠密行動はほぼ不可能に近い。正面から各個撃破し、最終的な核となる竜の魔女を叩く。……それが一番確実なルートだ』
ロマンの同意を得て、ヴァルナは周囲の面々を見渡した。
「そのためにも、まずは敵戦力の確認と、こちらの手札の割り振りを行う。ドクター、まとめてくれ」
『了解。まず、敵の黒幕と思われる「竜の魔女」――黒いジャンヌ・ダルクだね』
その名が出た瞬間、ジャンヌの顔が微かに強張った。
『彼女は、おそらく聖杯の力そのものを用いて竜を操る術を持っている。以前の戦闘データを見る限り、英霊としては極めて厄介な部類だ。規格外の魔力放出と、圧倒的な憎悪の炎。』
「ええ。以前、彼女の宝具を真正面から受けましたが……」
マシュが、その時の絶望的な熱量を思い出すように頷いた。
「あの圧倒的な復讐の意志、憎悪の質量は、並大抵のものではありません」
『それに加えて、彼女が聖杯によって呼び出した「狂化サーヴァント」の数々だ。すでに複数を討伐しているが、敵が城にまだどれほどの英霊を抱えているのか、正確な数が把握できていない。……つまり、臨機応変に立ち回る必要がある』
ロマンの報告を受け、ヴァルナは腕を組んだ。
「ある程度、流れは決めるが、敵戦力が不透明な以上、こちらの役割を固めすぎるのは危険だ。その場その場で、適宜最適化を判断する」
彼は視線を、ツンとすましているピンク色の少女へと向けた。
「……確定している敵は、アサシン・カーミラだな」
ビクッ、と。
エリザベートの顔が、目に見えて強張る。
「……そいつは、私がやるわ」
普段の騒がしい様子を一切消し去り、低い声で立候補した。
「そいつだけは……絶対に譲れない。アタシが、落とし前をつける」
強い意志を込めてヴァルナを真っ直ぐに見つめるエリザベート。
「役に立つならいい、好きにしろ」
「なっ……!?」
ヴァルナは淡々と、極めて合理的な計算だけを口にする。
「カーミラが出てきた場合、お前がその足止め……いや、討伐を引き受けてくれるというのであれば、こちらとしては手間の削減になる。文句はない」
「も、もうちょっと言い方ってものがあるでしょ! 子犬のくせに!」
エリザベートが噛み付くが、ヴァルナは完全に無視して次の議題へと移る。
「次に……最難関と思われる脅威。邪竜ファヴニールだ」
サーヴァントの枠を優に超える、規格外の幻想種。それがどれほどの絶望を振り撒く存在なのか、ここにいる全員が理解している。
「――ファヴニールには、無論俺が出る」
静寂を切り裂くように、一歩前に出たのはジークフリートだ。
背に負った大剣を鳴らし、彼は極めて強く断言する。
「俺はそのための『竜殺し』だ。この命に代えても、必ず奴の心臓を穿つ」
「……」
ヴァルナは、彼を静かに見据えた。
「敗北は疑っていない。だが、勝算は? 一日休んで回復したとはいえ、お前が負っていた傷は、そんな生易しいものではない」
冷徹な事実確認。
指揮官として、盤面の不確定要素をなくすための問いかけだ。
「……あぁ、そうだな」
ジークフリートは、深く頷く。
「強敵であることは事実だ。百パーセント勝つと断言することは、難しいだろう」
その言葉は、自信のなさから来るものではない。
彼が生前相対したその竜の恐ろしさを、誰よりも身をもって知っているからこその、重みのある状況把握だ。強者を強者と正しく認識し、決して侮らない。それが竜殺したる彼の在り方。
ヴァルナの眼には、ドス黒い闘志が満ちている。『今日の戦い、絶対に勝つ』という、揺るぎない意志。
そして何より、ジークフリートの力を疑うような様子は、一ミリも存在しない。ただ純粋に、彼という最強の鉾をどう使うか、戦術的な確認を淡々と行っている。
(……なんという圧だ)
ジークフリートの胸の奥で、戦士としての血が熱く滾る。
マスターからの、極限の信頼の形。であれば、サーヴァントとして、騎士として、これに応えないわけにはいかない。
「だが」
ジークフリートは自嘲でも諦めでもなく、自信に満ちた笑みを軽く浮かべた。
「勝つさ。君からの信頼に、必ず応えてみせよう」
マスターからの強烈な視線を真っ向から受け止めながら、竜殺しの英雄は静かに、しかし絶対の勝利を誓った。
「……よし、分かった」
ヴァルナは満足げに小さく頷き、自身の結論を口にする。
「では、俺はお前の『サポート』に入る」
「マスターが、俺の?」
「ああ。その力を、十全に発揮させるためにな。見る限り、あの邪竜には知性を感じる。ただ力任せに突っ込んでも、容易く剣は届かないだろう」
ヴァルナは自身の拳を見つめ、チリ、と青黒い呪力を這わせた。
「お前の剣を当てるために、俺が道を切り開こう」
「――でしたら、私も!」
その決定を聞いた瞬間、マシュが慌てたように一歩前に出て立候補した。
「私も、先輩たちのサポートに入ります! 邪竜の攻撃は、私が防ぎ――」
「いや。お前はジャンヌに付け」
だが、ヴァルナはその申し出をバッサリと、一秒のラグもなく制する。
「こちらは、俺とジークフリートの二人で問題ない」
「ですが……!」
マシュが珍しく食い下がろうとする。彼女の瞳には、色濃い不安が浮かんでいた。
それは、マスターであるヴァルナをあの強大な竜の前に立たせることへの不安か。それとも、自分が彼から引き離されてしまうことへの、言葉にできない寂しさゆえの不安か。
ヴァルナは、そんなマシュの心境の機微など全く察することなく、ただ純粋な戦術的合理性だけを告げる。
「実際、あの竜は強い。お前のあの強固な盾があれば、俺も大いに安心できるだろう」
「……でしたら!」
「だが、こちらの戦力は限られている。一点に戦力を集中させることはできない」
マシュの盾の価値を誰よりも高く評価しているからこそ、彼は『竜の魔女』の元へ、彼女を配置するのだ。
「では、代わりにわたくしがお守りいたしますわ!!」
すかさず、清姫が扇子を翻してヴァルナの腕にすり寄ってきた。
「わたくしめの愛の炎で、邪竜ごと――」
「お前もだ」
ヴァルナは、すり寄る清姫の額を無造作に押し返し、一切の感情を交えずに切り捨てた。
「何度も言うが、戦力を集中させることはできない」
ヴァルナは周囲を見渡し、指揮官としての冷徹な指示を飛ばす。
「清姫。お前は、城内に潜んでいるであろう『未知の英霊』の相手をしてもらう。おそらく、カーミラだけではないはずだ。他にも戦力はいると見ていい。そちらの対処を任せたい」
「……むぅぅ」
不服そうに頬を膨らませた清姫だったが、ヴァルナからの直接の『命令』である以上、引き下がった。
「状況が状況ですし、仕方ありませんわね……。ですが、終わりましたら必ずわたくしの元へ戻ってきてくださいませ?」
ひどく残念そうに、恨みがましい視線を送ってくる。
そして、ヴァルナは最後にジャンヌへと向き直った。
「ジャンヌ。お前は、竜の魔女を直接叩く。……それでいいな」
「はい。問題ありません」
ジャンヌは自らの旗槍を強く握り締め、青い瞳に確固たる決意の炎を灯して頷いた。
「彼女は、私が……私が、終わらせます」
「よし。マシュ」
「は、はい!」
「お前はジャンヌのサポートだ。向こうについて、彼女を守れ。……それが、この盤面における最善手だ」
ヴァルナの、揺るぎない結論。
「……分かりました」
彼にここまで言われてしまえば、食い下がるわけにはいかない。それが戦術的に最も正しい配置であると、彼女の理性も理解している。
彼女は自身の役割の重さを自覚し、深く頷いた。
これにて、作戦はまとまった。
オルレアン城への正面突破。そして、各々の役割。
竜の魔女には、ジャンヌ・ダルクとマシュ・キリエライト。
カーミラには、エリザベート・バートリー。
未知の遊撃戦力への対処に、清姫。
そして――邪竜ファヴニールへは、ヴァルナ・クロスとジークフリート。
「作戦決行まで、残り数時間だ。各々、最終準備を整えろ」
ヴァルナが、静かに、しかし絶対的な威圧感を持って場を締めくくる。
「……ここからが、本当の戦いだ」
*
作戦会議が終わり、出発までの数十分。
一行は各々、目前に迫った決戦へ向けて最終準備に取り掛かっていた。
ジークフリートは倒木に腰掛け、黙々と大剣の柄を布で拭い、ジャンヌは水筒に水を満たしている。エリザベートと清姫も、これからの激戦に向けて自身の魔力を静かに練り上げていた。
誰もが言葉少なに、死線へ向かうための『儀式』をこなしている。
そんな中。
マシュ・キリエライトは一人、野営地の外れに立ち、朝靄の向こう――数十キロ先にあるはずのオルレアンの方角を、じっと見つめていた。
数時間後には、あそこへ突入し、血みどろの殺し合いが始まる。
彼女の手に握られた巨大な盾は、カルデアの技術の結晶であり、彼女自身の誓いの形だ。だが、その盾を握る彼女の指先は、ごく微かにだが、震えていた。
恐怖からではない。彼女の心の中を占めているのは、これからの戦いへの不安ではなく、過ぎ去った『過去』への引っ掛かり。
(私は……どうしてこんなに)
彼女は、自身の内側に生まれた正体不明の感覚に、ひどく戸惑っていた。
「……どうかしたか」
不意に。
背後から、足音一つ立てずに接近してきたヴァルナが声をかける。
「ひゃっ!? せ、先輩……」
「何か、不安があるのか」
ヴァルナは彼女の隣に立ち、同じようにオルレアンの方角へ視線を向けながら問いかけた。
「これからの戦闘について、何か思うところがあるなら聞いておくが」
彼の言葉は淡々としているが、出撃前の兵士のメンタルケアとしては正しい行いだろう。
だが、マシュは小さく首を横に振る。
「いいえ、そういうわけではないのです。これからの作戦に、不満や不安はありません」
マシュは一度言葉を切り、自身の胸元をギュッと握り締めた。
「ただ……少し、昨日のことを思い返していました」
「昨日?」
ヴァルナが不思議そうに問い返す。
昨日といえば、ワイバーンの大群との戦闘や、聖女マルタ、吸血鬼カーミラ、そして串刺し公ヴラド三世との死闘があった。振り返るべき要素はいくらでもある。
「……今、するお話ではないかもしれませんが」
マシュは俯き加減で、恐る恐る彼を見上げた。
「ほんの少しだけ、聞いていただいてもよろしいですか?」
「あぁ」
ヴァルナは急かすことなく、短い言葉で続きを促す。
マシュは、自身の内側に湧き上がっている感情をどう言語化すべきか、慎重に言葉を選びながら、一つ一つゆっくりと口に出し始めた。
「昨日の……マリーさんと、アマデウスさんについてです」
「それが?」
ヴァルナの返しは、相変わらずフラットだ。そこに死者を悼む感傷はない。彼にとって、二人の消滅はすでに確定した『過去のデータ』であり、今はもう処理済みの事項でしかない。
マシュも、そんな彼の気質をある程度は理解している。
「お二人が亡くなったことは、とても悲しいことです。……ですが、あの激戦の中で、他に選択肢はなかった。『最善』だったのだと、理解しています」
彼女は、カルデアの施設内で与えられた知識と論理を総動員して、昨日の出来事を処理しようとしていた。
「だから……後悔なんて、生まれるはずがないのに」
マシュの瞳が、微かに揺れる。
「正しい選択だったのに、悔やむなんて、変な話です。人は、後悔しないために『最善』を選ぶはず。そして私たちは、あの状況で最善を尽くした」
論理的に考えれば、悔やむ要素などどこにもない。
カルデアで培養され、知識としてしか世界を知らなかった彼女にとって、『正しい計算式』から導き出された答えは、常に絶対の真理であるはずだ。
「その結果であれば……悔やむことなど、あるはずがないのに。私の中に、どうしようもないモヤモヤした気持ちが生まれているんです」
マシュは困惑したように、自身の胸を強く叩いた。
「この感情が、私には分かりません。分からないなりに、考えてみました。それでも、答えが出ない。……何もかもが初めてで……自分の感情の扱い方が、分からないんです」
論理では割り切れない、喪失感。理不尽な死への抗議。最善を尽くしてもこぼれ落ちてしまう命に対する、無力感と後悔。
純粋すぎるがゆえに、計算式の枠に収まらない『非効率な感情』のノイズに、彼女はひどく混乱していた。
「……」
ヴァルナは、そんなマシュの痛々しいほどの吐露を、静かに聞き遂げる。
彼女の在り方、そして抱えている矛盾を見て、彼は自身の内側で一つの分析を下す。
(小さく、まとまりすぎているな)
それが、彼から見た、マシュ・キリエライトという少女への評価だった。
カルデアという無菌室で育ち、自由を得たばかりの彼女。外の世界の理不尽さも、理屈の通じない人間の醜さも美しさも、何も知らない白紙の少女。
だからこそ、自身の内側に生まれた『論理で割り切れない
計算外のエラーに直面し、立ち止まってしまう不器用な生き方。
(……自由奔放に生きている俺とは、えらい違いだ)
ヴァルナは内心で、自分の姿と彼女を比較し、微かに、本当にごく微かにだが、口元を綻ばせた。
それは呆れでも嘲笑でもなく。彼の美意識の奥底に触れる、ある種の『微笑ましさ』に近いもの。
「お前は、自由を得たばかりだ」
ヴァルナは、戸惑うマシュに向き合い、平坦な声で告げた。
「だからこそ、その計算外の感情に戸惑いを覚えているのだろう」
「……そう、かもしれません」
マシュは俯き、寂しそうに微笑む。
「私はずっと、カルデアの施設の中で育ちましたから。外の世界のことも、自分の感情の揺れ動きも、まだよく分かっていない未熟な人間です」
自己評価の低い彼女の言葉を聞きながら、ヴァルナの脳裏に、ふと『一人の狂人』の顔が過った。
――かつて、自身が怪物か人間かと思い悩み、立ち止まっていた時。
自分を拾ったあの常識外れの男は、己の快楽を肯定し、生き方の核を与えてくれた。
翻って、目の前の少女はどうだ。
彼女は今、人間としての『非効率な感情』を獲得し、悩み、立ち止まっている。
「……であれば、お前はもっと『自分』を知らなくてはならない」
「え……? 自分を、ですか?」
唐突な言葉に、マシュが顔を上げる。
「ああ。マシュ・キリエライトという人間は、データベース上の存在でもなく、ただの計算機でもない。……今、ここで確かに生きている人間だ」
ヴァルナは、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「俺がここで、『生き方』や『死生観』について持論を展開し、お前を導くことはできる。だが……それでは少しな」
彼は腕を組み、冷徹に自己分析を口にする。
「俺は、サンプルケースとしては『特殊』すぎる。俺の感情の回路や生き方をそのままお前に当てはめても、あまり参考にはならないだろう」
自分の在り方は、極端なエゴイズムと快楽原則で構成された異端のそれだ。白紙の彼女に、そんな強烈すぎる色を強制的に塗りたくるような真似は、彼自身の『美意識』に反する。
「確か……十六歳。稼働年数はそれくらいだと、以前にそう言っていたな」
「あ……はい。肉体の年齢としては、そうなります」
「お前は、まだ子供だ」
ヴァルナは、自身の過去を棚に上げ、世間一般の常識を語り出した。
「本来であれば。それくらいの年齢なら、人と関わり、世界を知り、様々なものに触れる。そうやって価値観を育て、少しずつ一人の人間として育っていくものだろう。……まあ、俺も普通とは違う環境で育ったから、一般的な話でしかないが」
「……」
「だが、お前にはその経験がない。お前にとっての世界とは、カルデアという閉じた場所だけだった」
様々な経験を経て、悲しみを経て、人は成長し、巣立っていく。
それが、人間という種族の持つ真っ当なプロセスだ。
「お前にとって、この旅がその経験になるだろう」
ヴァルナの言葉は、相変わらず感情の起伏に乏しく、平熱のままだった。
だが、その言葉の裏にある、彼自身も無自覚な『特別な庇護欲』は、確かにマシュの胸へと届く。
「……これから、いろんなものを見て、いろんなものを感じる。そうやって……『お前』は、作られていく」
彼は、マシュの内側に生まれた「もやもやとした感情」の正体を、直接的に指摘することはしない。
悲しみ、後悔、無力感。それがどんなに非効率で苦しい感情であったとしても、それは彼女自身がこれから自分の足で歩き、見つけていくべきものだからだ。
「先輩……」
マシュの瞳から、不安の影が少しずつ薄れていく。
答えをもらったわけではない。だが、答えのない感情に戸惑う自分自身を、「それでいい」と肯定してもらえた気がした。
ヴァルナは、少しだけ視線を逸らし、独り言のように静かに呟いた。
「――人間は、生きているだけで楽しいらしいからな」
それは、かつて自分という怪物を肯定し、人間として生きる道を示してくれた枢機卿の言葉。
その言葉を、今度は彼が、外の世界に出たばかりの白紙の少女へと贈ったのだ。
「生きているだけで……楽しい……」
マシュは、その言葉を反芻するように唇を動かす。
理屈ではない、あまりにも純粋で、温かい肯定の言葉。
「……はい」
彼女は、少しだけ潤んだ瞳で、しかし今日一番の力強い笑顔を浮かべて、ヴァルナを見上げた。
「私、見つけてみせます。私が何を感じて、どう生きていくのか。……この旅の中で、必ず」
「そうか」
ヴァルナは短く応え、踵を返した。
「マスター! マシュ! 準備は整ったぞ!」
遠くから、ジークフリートの声が響く。ジャンヌたちもすでに武装を終え、こちらへ合流しようとしている。
「行くぞ。……敵の根城を、更地にする」
彼は、それ以上の感傷を切り捨て、極限の闘争が待つ戦場へと歩き出した。
その後ろ姿を追いかけるマシュの足取りには、もう一切の迷いはなかった。