Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
それは、文字通り「空から降ってきた理不尽」。
特異点の重く濁った空気を物理的に引き裂き、一条の流星のごとく下層市街地へと飛来した禍々しき魔力の奔流。
凝縮された異常なまでの熱量。それが一直線に狙いを定めたのは、竜殺しの大剣を構えていたジークフリート、ただ一人であった。
「ジーク、フリーィィィィィィィィィトォォォォォォォォォッ!!!!」
耳をつんざくような、鼓膜の奥を直接引っ掻き回すような絶叫。
怒り、絶望、悲哀、そして泥のように重く底なしの「愛憎」。およそ人間の抱え得るあらゆる負の感情をごった煮にして、極限まで濃縮したかのような怨嗟の咆哮が、戦場に響き渡った。
「――!!」
ジークフリートの顔が、驚愕に硬直する。百戦錬磨の英雄であり、いかなる強敵を前にしても決して揺らぐことのなかった彼の瞳孔が、その光の中心にある「姿」を視認した瞬間、信じられないものを見るように限界まで見開かれた。
刹那。
飛来する魔力の中心点と、地上で身構えるジークフリートとの距離が「ゼロ」になる。
周囲の石造りの家屋が、衝撃波だけで吹き飛んだ。
特異点の地殻そのものが悲鳴を上げたかのような凄絶な金属音。空から降ってきた漆黒の魔剣と、それを反射的に防御の体勢で受け止めたジークフリートのバルムンクが激突し、二人の足元にあった分厚い石畳が、まるで隕石が衝突したかのような巨大なクレーターを形成して陥没した。
舞い上がる濃厚な粉塵と、魔力の衝突によって発生するバチバチという紫電の火花。
その火花の向こう側で、ジークフリートの剣を真上から押し込んでいたのは、黒い喪服のようなドレスに身を包んだ、ウェーブの銀髪を持つ一人の女性であった。
「あ、ああ……」
ジークフリートの口から、掠れた、声が漏れる。
忘れるはずがない。彼の魂の奥底に永遠に刻み込まれた、愛する人の姿。
かつて彼が命を賭して守り、そして彼自身の死によって決定的な絶望へと叩き落としてしまった女性。復讐の妻がそこにいた。
「なぜ、君が――」
彼の言葉が最後まで紡がれることはない。
「あァァァァァァァァァァァァァッ!!」
クリームヒルトの、血を吐くような咆哮が、ジークフリートの疑問も悲哀もすべてを暴力的に掻き消した。
彼女の全身から噴き上がる魔力は、異常の一言に尽きる。
もともとバーサーカーとしての適性を持って召喚された彼女であったが、現在の彼女から放たれる気配は、狂化という枠組みすらも逸脱している。
竜の魔女であるジャンヌ・オルタによって召喚され、契約のパスを繋がれたこと。それが決定的な引き金となっていた。オルタの持つ「復讐者」としての怨念と、クリームヒルトの霊基の根底に眠る夫への愛憎が互いに影響を与え合い、致命的な変質を引き起こしていたのである。
今の彼女は、ただ理性を失って暴れるだけのバーサーカーではない。明確な殺意と、世界そのものを呪うような怨念を形にした存在――アベンジャーとしてのクラスへと変貌を遂げていた。
ギギギギギギギッ!!
バルムンクと漆黒の魔剣が鍔迫り合い、激しい火花がジークフリートの顔を照らす。
強力な耐久と筋力を誇るジークフリート。その彼が、あろうことか上から押し込んでくる細身の女性の剣の圧力の前に、ジリ、ジリと後退を余儀なくされていた。
「ぐぅっ……! クリーム、ヒルト……ッ!」
圧倒的な魔力出力。一撃でサーヴァントそのものを霊核ごと消し飛ばしかねないほどの重く、理不尽な斬撃。彼女の瞳には、かつての愛情の面影は微塵もなく、ただジークフリートという存在そのものを八つ裂きにし、世界から消去せんとする純粋で濃厚な憎悪だけが渦巻いている。
この地獄絵図のような夫婦の激突を、少し離れた位置から観察する。
荒れ狂う暴力的な波動。
目の前の存在は、狂化を加味してもなお、あり得ないほどの魔力量と出力を誇っていた。
(……通常のサーヴァントと比べ、出力が異常だな)
突如として乱入してきた女。ジークフリートの狼狽した反応と、彼女がジークフリートにのみ向けている異常な執着を見るに、二人が生前からの知り合いであり、かつ何らかの致命的な因縁――深い関係性を持っていることは明白だろう。
強大なファヴニールと殺し合い、その極限の戦闘の最中に、予期せぬノイズが割り込んできた。
しかも、最悪なことに、彼女の背後では怒り狂ったファヴニールが身を起こし、その巨大な顎から再び蒼い炎を漏らし始めている。
(……これは、まずいか)
前衛のメイン火力であるジークフリートが、あの女に完全に釘付けにされている。
竜の対処という巨大なタスクがある上に、超抜級の魔力を持ったサーヴァントがもう一人増えた。状況としては、控えめに言って最悪に近い。
(あの魔力の奔流……バーサーカーというよりは、怨念を煮詰めたアベンジャーのそれに近い。面倒なことになった)
迷いはない。彼にとって、あの女とジークフリートの因縁など考慮に値しない。今の最優先事項は、ファヴニールを解体するための布陣を立て直すことだ。
―――ならば、やるべきことは一つ。
(邪魔なノイズを、即座に退場させる)
ドンッ!! と、ヴァルナの足元で石畳が粉々に砕け散った。
肉体の全細胞へ、莫大な呪力を一気に流し込む。サーヴァントの敏捷性すら置き去りにするほどの、理不尽なまでの加速。
彼の姿は視界からブレて消え、次の瞬間には、鍔迫り合いをしているクリームヒルトの完全に無防備な「背後」へと回り込んでいた。
音もなく、殺気すらも完全に断ち切った、暗殺者のような完璧な挙動。
その右手には、極限まで圧縮された呪力と、その上をコーティングするように影が渦巻いている。狙うは、彼女の首から上――霊核を司る「脳」の一撃破壊。どれだけ魔力出力が高かろうと、頭部を物理的に粉砕されればサーヴァントは形を保てない。
「……!」
クリームヒルトの肩が、ピクリと動く。
ヴァルナの気配を察知したのではない。彼女の中にある「ジークフリートへの執着」と、それを邪魔しようとする外部要因への無差別な「敵意」が、本能的な防衛反応を引き起こしたのだ。
「邪魔を、するなぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
凄まじい絶叫と共に、クリームヒルトは目の前のジークフリートを弾き飛ばす。竜殺しの巨体が、ボールのように後方へと吹き飛ばされた。
そして彼女は、全く減速することなく、その反動を利用してコマのように背後へと振り返る。
その瞬間、彼女の全身を覆っていた黒い魔力が、爆発的に――文字通り、何かの限界を突破したかのように、一段階上の次元へと上昇した。
瞳が、わずかに見開かれる。
(……なんだ、この跳ね上がりは)
先ほどまでの彼女の出力も十分に脅威だった。だが、今のこの一瞬の出力上昇は、理論上の数値を完全に無視している。
振り返り様。下段から上段へとしゃくり上げるような、漆黒の魔剣による一閃。
呪力による絶対的な防御すらも紙切れのように切り裂く、純粋な魔力の暴力。
ズバァァァァァァァァンッッ!!!!
空気が裂け、世界が真二つに割れたかのような錯覚。
直後。
ヴァルナの右腕が、肘の少し上から綺麗に切断され、血飛沫を引きながら宙を舞った。
「……なにッ」
自身から切り離され、空を飛んでいく右腕を視界の端に捉えながら分析する。
(……強化の上から、持っていかれた。ただでさえ高い出力が、憎悪というトリガーで限界を超え、跳ね上がったのか?)
彼の脳裏に、かつて特異点Fで対峙したサーヴァントの記憶がフラッシュバックする。
漆黒の鎧を纏い、無限の魔力を有して蹂躙する、オルタナティブのセイバー。あの時に感じた、理屈の通じない圧倒的な「理不尽さ」。
目の前の女から放たれる圧力は、それに勝るとも劣らない。突然現れたイレギュラーにしては、あまりにも盤面を壊す力が強すぎる。
「死ねェェェェェェェェェッ!!」
腕を切り落とし、血飛沫を浴びたクリームヒルトは、狂乱の笑みを浮かべながら、片腕となったヴァルナへ向けてさらに突進してきた。
振りかぶられる漆黒の魔剣。
彼は、宙を舞って落下してくる「自分自身の切断された右腕」に向かって、左足を鋭く振り抜く。
ドスッ!!
強烈な回し蹴りが、自分自身の千切れた右腕にクリーンヒットする。
呪力が込められたその腕は、砲弾のような速度で弾き飛ばされ、突進してくるクリームヒルトの「顔面」へと直撃した。
「がッ!?」
肉と肉が激突する生々しい音。
全く予想外の軌道から飛んできた切断腕が顔面に張り付き、生温かい血飛沫がクリームヒルトの視界を完全に塞いだ。
理不尽なまでの出力を持つアベンジャーであっても、この「自らの腕を蹴り飛ばして目眩しにする」という常軌を逸したカウンターには対応しきれず、一瞬だけその動きが硬直する。
そのコンマ数秒の隙を見逃さない。
影絵を結ぶことはせず、自らの足元に広がる影に左足を沈み込ませ、影の位相を利用して後方へと滑るように大きく距離を取った。
ズザザザザッ! と、数十メートルの距離を一瞬で稼ぎ、切断面からの出血を呪力で強引に止血する。
(……この圧力。間違いなくあのセイバーに比肩する)
彼は冷静に失った右腕の感覚を切り捨てながら、戦況を俯瞰した。
顔面に直撃した腕を振り払い、クリームヒルトが再び獣のような咆哮を上げる。
だが、彼女の矛先はヴァルナには向かなかった。目眩しから立ち直った彼女の視界に、瓦礫から立ち上がるジークフリートの姿が映ったから。
「ジーク、ジークフリーィィィィィィトォォォッ!!」
彼女はヴァルナへの興味を完全に失い、一直線に夫へと向かって突撃を再開する。
迎え撃つジークフリートは、悲痛な表情のままバルムンクを構える。
そして。
この混沌とした三つ巴の戦場において、最も強大で、最も厄介な「存在」が、この状況を静かに睥睨していた。
――ズゥゥゥゥン……。
地響きと共に、巨大な影がヴァルナの頭上を覆う。
邪竜ファヴニール。
翼を裂かれ、側腹部に痛手を負わされた巨竜は、知性を伴った爬虫類の瞳で、戦況の推移を冷徹に見極めていた。
目障りだった竜殺しの男(ジークフリート)は、突然現れた黒い女に釘付けになっている。そして、自分の翼を裂いた憎き白髪の男は、片腕を失って孤立している。
ファヴニールは、これを完全な「好機」と判断した。
特異点最強の邪竜と、怨念の化身たる復讐者。両者に同盟関係は存在せず、意思の疎通すら図れない暴威と狂気。だが今、この戦場においてのみ、明確な「利害の一致」による絶望の構図が完成する。
クリームヒルトはただひたすらに夫であるジークフリートを狙い、ファヴニールは己にとって最も厄介な「竜殺し」をその女に押し付けた。そして、自身の翼を裂き、痛みを与えた目障りな隻腕の男へ、全殺意を向けたのだ。
「ゴルアァァァァァァァァァァァァッ!!」
怒りと殺意を乗せた咆哮と共に、ファヴニールが巨大な顎を無造作に開いた。
魔力のチャージなどない。肺腑に溜め込んでいた残り火を、ただ吐き捨てるようなノーモーションの放射。
だが、真なる竜が放つそれは、低出力であろうと人間にとっては絶望の熱量だった。
ゴォォォォォォォォッ!!!
蒼い炎の帯が、直線的に地を這い、ヴァルナとジークフリートたちの間に巨大な「壁」となって立ち塞がる。
石畳が瞬時にドロドロのマグマへと溶解し、超高温の熱波が周囲の酸素を根こそぎ奪い去る。攻撃を目的としたブレスではない。これは明確な『分断』だ。
厄介な竜殺しを自分から遠ざけ、同時に目の前の白髪の男を完全に孤立させるための、知性ある獣の戦術。
(……竜殺しを遠ざけようとしているのか)
炎の壁の向こう側からは、ジークフリートとクリームヒルトが打ち合う悲鳴のような剣戟の音が響き続けている。向こうも致命的に苦戦している。この炎の壁を越えて、彼が竜の討伐に復帰する未来は現実的ではない。
当初の作戦は、完全に破綻した。
目の前の巨大な竜を打倒するために用意された「切り札」。それこそがジークフリートという存在だった。
ファヴニールが纏う神代の神秘と、その圧倒的な耐久力。攻撃力に目が行きがちだが、あの要塞のような装甲を突破するには、生半可な威力では傷一つつけられない。故に「竜殺し」という概念そのものを叩きつけるバルムンクが必須だったのだ。それが、最も確実で安全な最適解。
だが、その要となる男は今、身内のイレギュラーによって完全に封じられている。
目の前には、炎の壁によって退路を断ち、闘争心を剥き出しにして唸りを上げる真なる竜。
逃げ回り、時間稼ぎをするのが定石だ。十種影法術の機動力を以てすれば、竜の気を引きながら味方の復帰を待つことは不可能ではない。
しかし――知性ある災害は、彼にそんな猶予を与えない。
ズンッと。
地殻が跳ね上がったかのような振動。
炎の壁を背にして逃げ場を失ったヴァルナへ向けて、ファヴニールが『純粋な質量による突進』を開始した。
山が動いているような錯覚。竜の巨体がアスファルトも石畳もすべてを粉砕しながら迫り来る。
ブレスのような面制圧ではない。ただ「巨大で、重く、速い」というだけの、物理法則そのものを武器にした暴力の津波。
即座に反応した。
ヴァルナは、足元に莫大な呪力を集中させ、それを爆発させることによる超絶技巧の
ドンッ!
石畳が砕け、彼の肉体は砲弾のように横方向へと射出され、竜の巨大な頭部による直撃から間一髪で逃れる。
「……くっ」
直撃こそ避けた。だが、その巨体から振るわれる一撃は、ただ通り過ぎるだけで圧倒的な破壊力をもたらす。
竜の突進が巻き起こした暴風と衝撃波が、回避行動を取って空中にいたヴァルナの肉体を、容赦なく吹き飛ばした。
凄まじい風圧に耐え、空中で体勢を立て直そうと身を捻った瞬間。彼の身体が、予想していた軌道から微かに傾く。
(――ああ、そうか。右腕がないんだったな)
片腕を失ったことによる重心の狂い。
呪力で強引に止血はしたが、肉体のバランスは確実に崩れている。平時なら絶対に犯さないような僅かな誤差。そのペナルティの重さが、この死線において強烈な絶望感となって突き刺さる。
だが、ヴァルナ・クロスという男の精神構造は、どこまでも異質にできている。
着地と同時に大きく滑りながら、彼は炎の壁の隙間からジークフリートの方へ視線を向けた。
いや、視覚に頼るまでもない。彼の耳には、絶望の進行度を測る「音」が届いている。
ガァァァン! ギィィィン……!
竜殺しの大剣と、漆黒の魔剣が打ち合う音。最初こそ互角の響きを持っていたその金属音は、今や完全にジークフリート側が押し込まれ、悲鳴のような重く鈍い音へと変質していた。アベンジャーと化した妻の異常な出力に、ジークフリートは防戦一方だ。
そして正面。
突進の勢いを殺し、再び身を起こしたファヴニールの巨大な爬虫類の瞳が、ゆっくりとヴァルナを捉える。
圧倒的な視座の逆転。
常に人間を一段高い場所から「外側」として眺めてきた孤高の呪術師が、今、神代の暴力から「確実に踏み潰す極小の虫ケラ」として見下ろされている。その瞳に、知性ある竜の明確な侮蔑が宿っていた。
ヴァルナの頬を、一筋の冷たいものが伝う。
(……なんだ?)
それは、圧倒的な神秘と質量を前にした、生物としての本能的な恐怖。
絶対的な死の重圧を前にして、ほんの僅かに流した汗。
(……いや、気のせいだな)
彼は内心でそう結論付け、微かに顔を振った。
恐怖などない。焦燥もない。あるはずがない。
彼の中にある一本の軸が、その冷や汗を、生物としての恐怖を、瞬時に別の熱量へと変換し、理性を焼き切るほどの温度で沸騰し始めた。
竜殺しを待つ時間も、余裕もない。
であれば。であるのならば。
(俺がここで、撃破する)
純粋な殺意に呼応するように、どす黒い呪力が彼自身の内側から際限なく溢れ返る。
見下ろしてくる極大の竜。失った右腕。破綻した盤面。
そのすべてが、最高難度の蹂躙という「極上の快楽」のスパイスとして彼の精神を満たしていく。
(――殺す)
目の前の災害を前に、彼は一つの狂気的な決意を固める。
この圧倒的な障害を踏破し、あの分厚い装甲を突破するためには何が必要か。
彼は、目前の不可能を可能にするための手段を、すでに脳内で確立させていた。
右腕の喪失など意に介さず、残された左手だけで影に触れ、静かに、しかし絶対的な意志のもとで術式を発動させる。
次の瞬間、彼の背後の虚空に、黄金の法輪が重く、しかし鮮烈に顕現した。
――ガコンッ
世界そのものを噛み合わせるような歯車の音が、響き渡る。
「……適応の時間だ」
吐き捨てられた静かな一言が、炎と暴風吹き荒れる、特異点の空気を鋭く切り裂いた。
実行する。
感情の揺れない怪物の魂が、今、極限の死闘という快楽に染まり上がる。
*
鼓膜を破るような轟音と共に、白亜の城の地下層から外壁をぶち破って飛び出した『何か』が、彼方の市街地へと消えていく。
後に残されたのは、崩落した分厚い石壁の残骸と、もうもうと舞い上がる真っ白な粉塵。そして、完全に理解の範疇を超えた事象を前に、文字通り凍りついたような静寂だけだった。
「……は?」
玉座の階段に倒れ伏したまま、ジャンヌ・オルタは空いた巨大な大穴をただ呆然と見つめている。
自身の防衛戦力として、眼前の目障りな女二人を八つ裂きにするための『切り札』として解き放ったはずの狂犬。それが、あろうことか主である自分に目もくれず、命令を完全に無視して城を破壊し、外へと突撃していったのだ。
(まさか、ここまで短絡的な行動に出るなんて……ッ!)
己の切り札が盤面から消滅した。その予測不能の事態に対する激しい動揺が、オルタの脳髄をかき乱す。
しかし、その精神的な焦燥を上書きするように、彼女の肉体へ致命的な『現実』が牙を剥いた。
「ガ、アァァァァァッ……!!」
突如、オルタの心臓部から腹部にかけて、内臓を素手で握り潰されるような凄絶な激痛が走る。
幻痛ではない。今、彼女の肉体を苛んでいるのは、先ほど真っ向から宝具の炎を突き破り、隕石のように激突してきたマシュ・キリエライトの鋼の盾による『物理的な後遺症』。
強固な漆黒の鎧は中心から無惨にひしゃげ、ひび割れた肋骨が肺を圧迫している。呼吸をするたびに口の中に鉄の味が広がり、霊基の接続そのものが明滅するように不安定に軋んでいた。
屈辱と激痛に顔を歪めながら、オルタは血まみれの旗槍を杖にして、強引に立ち上がろうと身体を捩る。
だが。
「――ここまでです」
粉塵をかき分け、瓦礫を踏み越えて、二人の少女が真っ直ぐにこちらを見据えていた。
全身に無数の火傷を負い、息を荒げながらも、決してその巨大な盾を下ろそうとしないマシュ。
そして、その傍らで静かに、しかし絶対の決意を込めて白銀の旗を構えるジャンヌ・ダルク。
相手方も、突如城をぶち抜いて飛んでいった異常な魔力反応には動揺しているはずだ。
だというのに、彼女たちの瞳は一瞬たりとも自分から逸れてはいなかった。確実にここで竜の魔女を討ち果たす。その強靭な意志の光が、満身創痍の二人の眼差しに宿っている。
(クッ……見下ろすなッ!)
オルタは残された魔力を振り絞り、憎悪の炎を再点火しようとした。
『――おお、ジャンヌ。真なる聖女よ』
城の深奥から戦況を監視していた彼からの、切実な進言。
『一度、撤退しましょう。アレが制御を離れた今、このままでは貴女の尊き霊基が失われてしまう。一度体制を立て直し、傷を癒した上で、再びあの偽善者どもを迎え撃つのです』
「……ッ、撤退、ですって……!?」
オルタはギリッと奥歯を噛み締めた。
逃げるのか。この私が。あの白々しい偽物と、その腰巾着のような盾の小娘から、背を向けて逃げ出せと言うのか。
自身の虚構性を誰よりも理解しているからこそ、彼女の肥大化したエゴは「敗北」や「逃走」を極端に拒絶する。
だが、それは正しい。それは最も合理的で、冷酷な事実だった。
今のオルタの霊基は限界に近い。これ以上戦闘を継続すれば、マシュのあの異常なまでの執念と、ジャンヌの神聖な一撃の前に、確実に消滅させられる。
「……ええ、ええ。分かっているわ。でも……」
オルタは血を吐きながら、脳内でジルに毒づく。
(私は今、まともに歩くことすら億劫な致命傷を負っているのよ。どうやって……!)
『――問題はありません』
念話越しであるにも関わらず、ジル・ド・レェが大仰に両手を広げ、恭しく一礼する仕草がはっきりと幻視できた。
彼の声には、愛する者を守るという絶対の使命感と、世界そのものを冒涜するような深い悦が入り混じる。
『私が、貴女の往く道を塞ぐすべての障害を、泥の底へと沈めてご覧に入れましょう』
突如、虚空より現れた魔力反応。
オルレアン城の玉座の間――その広大な空間の『温度』が、急激に低下した。
「……!? マシュさん、警戒を!」
「はい……何かが、来ます!」
崩落した瓦礫の山を避け、オルタとの距離を詰めようとしていたジャンヌとマシュが、同時に足を止め、背中合わせに近い体勢で全方位への警戒を強める。
肌を刺すような悪寒。それは魔力の高まりという次元を超えた、空間そのものの異界化であった。
ボフンッ、と。
玉座の間の中央、ジャンヌたちとオルタの中間地点の虚空に、黒い靄のようなものが渦を巻く。
その靄の中から、一冊の「本」が静かに顕現した。
それは、人間の皮膚を剥いで装丁されたかのような、おぞましくも滑らかな質感を持つ魔導書であった。
表紙には蠢くような肉の脈動があり、ページが勝手にパラパラと捲れるたびに、深海の底から響いてくるような、名状しがたい何万もの囁き声が大気を汚染していく。
宝具『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』。
魔導書そのものが、独立した大魔術・儀礼呪法を代行する規格外の宝具。ジル・ド・レェという英霊の狂気を煮詰めたようなその本が、自律的に水魔を召喚する
『おおおおおおお……神よ、我らの祈りを見よ! 我らの愛を見よォォォォッ!!』
姿なきジルの絶叫が、空間そのものから響き渡る。
直後、玉座の間の床を覆っていた美しい大理石が、どす黒く濁った泥水のように変質した。
ブクブク、ブクブクブクッ……!!
沸騰する泥の海から、無数の異形が這い出してくる。
「な……これは……!」
ジャンヌが思わず絶句する。
ぬめりを帯びた赤黒い触手、巨大な一つ目、鋭い牙がびっしりと並んだ吸盤。海洋生物の死骸を強引に縫い合わせたような、生理的嫌悪を極限まで煽る海魔の群れが、床から、壁から、崩落した天井の影から、文字通り「無限」に湧き出し始めたのだ。
「キシャアァァァァァッ!!」
産声を上げた数十匹の海魔が、即座に最も強い光を放つジャンヌと、その隣にいるマシュへと向かって一斉に飛びかかった。
「させません……ッ!」
マシュが巨大な十字盾を前面に構え、迫り来る触手の群れを弾き飛ばす。
ドチャッ!! という粘り気のある破裂音と共に海魔の肉が弾け飛び、腐臭を放つ体液が周囲に撒き散らされる。
だが、倒しても倒しても、魔導書のページが捲れるたびに、その三倍の数の海魔が泥の中から這い出してくる。
「は、ははははっ……!」
そのおぞましい狂気の防壁の向こう側で、ジャンヌ・オルタが喉の奥で嗤った。
「流石は私のジル……最高の目隠しじゃない」
彼女は血まみれの腹部を押さえながら、ゆっくりと踵を返した。
眼前の二人に向けられていた執念を、今はただ「生き延びる」ことへと向ける。
「覚えていなさい。そして盾の女。次こそは必ず……その手足を消し炭にして、絶望の中で泣き叫ばせてあげるわ……!」
呪詛のような捨て台詞を残し、ジャンヌ・オルタは玉座の奥、城の深部へと続く暗闇の回廊へと姿を消す。
「待って……!」
ジャンヌが旗を突き出し、逃げゆくオルタの背中を追おうと一歩踏み出した。
だが、その行く手を塞ぐように、玉座ほどの大きさまで肥大化した巨大な海魔が、数十本の触手を鞭のようにしならせて立ちはだかる。
「ジャンヌさん、深追いは危険です! この数は……尋常ではありません!」
マシュが盾でジャンヌを庇いながら、周囲を完全に包囲している数百匹の海魔の群れを睨みつける。
息を乱し、全身の筋肉が悲鳴を上げている。先ほどのオルタとの宝具激突による疲労とダメージは、確実にマシュの肉体を蝕んでいた。
(……外へ、大きな魔力反応が飛び去っていきました。おそらく、先輩たちが戦っている市街地の方へ)
マシュの脳裏を、遠くで戦うヴァルナの姿がよぎる。
予測不能の事態。突然のイレギュラー。この城から放たれた何かが、確実に外の戦局を狂わせている。すぐにでも駆けつけて、彼の盾として、共に戦わなければならないという焦燥が胸を焦がす。
だが、彼女は首を強く横に振った。
(いいえ。先輩なら……あの人なら、どんな理不尽が襲いかかってこようと、蹂躙してみせる。)
マスターが教えてくれた。自分の意志で立ち、自分のために戦えと。
ならば、今自分がここで成すべきことは何か。
外の戦場に気を取られることではない。先輩が外の脅威を解体する間に、自分たちに課せられた役割――この城の内部の脅威を完全に沈黙させ、特異点修復の要であるジャンヌ・ダルクの背中を死守することだ。
「マシュさん……大丈夫ですか?」
背中を預け合うジャンヌが、心配そうに声をかけてくる。
血と汗に塗れた顔を上げ、かつてないほどに澄み切った瞳で前を見据えた。
「はい。問題ありません、ジャンヌさん」
彼女は大きく深呼吸をし、自らの内側に眠る魔力を、再び巨大な鋼の盾へと注ぎ込む。
「まずは……この空間を埋め尽くす怪物を、一匹残らず排除します!」
「ええ……行きましょう!」
城の深部へと逃れた竜の魔女。狂気を撒き散らす魔導書。
そして、無限に湧き出す醜悪な海魔の群れに対し、二人の聖女は再び武器を構え、総力戦の渦中へとその身を投じていった。
アベンジャー、クリームヒルト出現。
特異点攻略のための試練が、追加されましたとさ……
次は別の視点いきます。