Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【二十六節】血染めの婚宴と、怨念の魔剣、見据える先は誰が為か

 

 特異点最強の邪竜ファヴニールが放った超高熱のブレスは石造りの市街地を容易く融解させ、天を衝くほどの巨大な「炎の壁」を作り出していた。

 その絶望的なまでの熱量を前に、竜殺しの英雄たるジークフリートの端正な顔が、微かに歪む。

 

(……分断、されたか)

 

 炎の向こう側には、彼のマスターであるヴァルナ・クロスがただ一人、あの神代の暴力と対峙しているはずだ。

 どれほど規格外の戦闘力と精神構造を持つマスターであろうと、相手は竜種。竜殺しの概念を持つ自分が相対しなければ、決定的なダメージを通すことは極めて困難な相手だ。

 

 

 ――ガガガガガァァァァァァンッ!!

 

「くっ……!」

 

 だが、彼にそれを憂う猶予など、一秒たりとも与えられていなかった。

 思考を物理的に叩き割るような、常軌を逸した重い一撃。ジークフリートは両手で握りしめた愛剣バルムンクを盾にして、その凶刃を辛うじて受け止める。

 剣と剣が衝突した瞬間、火花どころか、どす黒い魔力の衝撃波が周囲の瓦礫を粉砕して吹き飛ばした。

 

「アァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」

 

 視界の先。

 そこにいるのは、悲痛な叫び声を上げながら、両目から血の涙を流す復讐鬼(アベンジャー)

 かつて彼が誰よりも愛し、そして誰よりも深く傷つけてしまった最愛の妻、クリームヒルトであった。

 

「クリーム、ヒルト……!」

「死ね……死ねッ! 貴方のその忌まわしいヒロイックな首を、私がこの手で叩き斬ってあげるわァッ!!」

 

 彼女の抱く悲哀は、今や純粋でどす黒い「殺意の暴走」へと煮詰まっていた。

 

 

 ズガンッ!  ドゴォォォンッ!!

 

 彼女が振るう怨念の魔剣が、嵐のような連撃となってジークフリートへ襲い掛かる。

 

 それは、異常な光景だった。

 ジークフリートの肉体は、『悪竜の血鎧(アーマー・オブ・ファヴニール)』によって守られている。物理攻撃や魔術を完全に無効化する、鉄壁の概念装甲。

 だが今、クリームヒルトがただ感情に任せて振り下ろすだけの剣撃を前に、その無敵の鎧がミシミシと悲鳴を上げて軋み、ジークフリートの肩や腕から、じわりと鮮血が滲み出していたのだ。

 

(なんだ、この魔力放出は……!?)

 

 ジークフリートは戦慄した。

 英霊としての基本スペックで言えば、彼の方が圧倒的に上であるはず。しかし、目の前の妻から放たれる魔力は、一介のサーヴァントの枠を完全に凌駕し、無尽蔵に膨れ上がり続けている。

 

 原因不明の出力異常。彼女の内部にある底知れない「何か」が、彼女の霊基を無理やり暴走させ、災害レベルの出力を持たせている。

 

「ガァァァァッ!!どうしたのよ!防いでばかりいないで、私を殺しなさいよッ!!」

「……俺は、君を斬るわけにはいかない」

 

 ジークフリートは反撃を行わず、己の装甲が削り取られる激痛に耐えながら、ひたすらに彼女の凶刃を捌き続ける。

 だが、その防戦一方の姿勢すらも、今のクリームヒルトにとっては許しがたい逆鱗だった。

 

 ガキンッ!!  と重い金属音が響き、両者の剣が鍔迫り合いの形で拮抗する。

 至近距離。顔と顔が触れ合うほどの距離で、血の涙を流す妻の瞳が、ジークフリートを睨みつけた。

 

 その時。

 ジークフリートの視線が、ほんの僅かに――たった一瞬だけ、クリームヒルトの肩越しに、炎の壁の向こう側へと向けられた。

 

(マスターは……無事か。いや、なんとかこの場を凌いで、竜の討伐へ合流しなければ……)

 

 それは、英雄としての矜持。

 自分がどれほどの絶境に立たされようと、マスターの安否を気遣い、己の果たすべき役割を全うしようとする、あまりにも正しく、あまりにも高潔な「英雄的思考」。

 

 しかし。

 その視線のズレを、クリームヒルトが見逃すはずがない。

 

「…………は?」

 

 クリームヒルトの動きが、ピタリと止まった。

 彼女の全身から立ち昇っていた黒い魔力が、一瞬にして凍りついたように静まり返る。

 見開かれた彼女の瞳の奥で、何かが決定的に、そして致命的に「壊れる」音がした。

 

「……また。また、そうやって」

 

 ギリッ、と。彼女の奥歯が砕けるほど強く噛み締められる。

 私は今、全存在を懸けて、全感情を懸けて、全身の血を沸騰させて、アナタを殺そうとしているのに。

 アナタへの愛と、アナタへの絶望のすべてを、この剣に乗せて叩きつけているのに。

 

「どうして……どうして私を見ないのよォォォォォッ!!」

 

 鼓膜を破るような、悲痛で、荒々しい絶叫が戦場に轟いた。

 

「私だけを見て!今、ここで、私に殺されかけているのに、どうしてまだ他の誰かのために戦おうとするの!?どうしてまだ、英雄であろうとするのよッ!!」

 

 それが、彼女の根源的な絶望だった。

 かつて彼が、誰かのためにあっさりと自己犠牲を選び、自分を置いて死んでしまったあの日の記憶。

 どんなに彼を想っていても、どんなに彼を愛していても、彼はいつだって「世界」や「他者」のために背を向けていく。そのどうしようもない英雄としての在り方が、彼女の魂を八つ裂きにしていた。

 

 悲痛な妻の叫びを前に、ジークフリートはハッと息を呑み、再び視線を彼女へ戻した。

 ボロボロと血の涙を流し、世界の一切を呪うように歪んだ彼女の顔。

 英雄としての自分の在り方が、結果として彼女をここまで醜く、狂おしいアベンジャーへと変貌させてしまった。その事実を突きつけられ、ジークフリートの胸に、底なしの罪悪感が込み上げる。

 

 

 そして、彼は。

 絶対に言ってはならない、最悪の言葉を口にしてしまった。

 

「……すまない。全て俺の責任だ」

 

 それは、罪を認める言葉。

 彼女の憎しみと罰を、己の身一つで受け入れようとする――どこまでも傲慢で、自己犠牲に満ちた「英雄としての謝罪」。

 

「――――」

 

 クリームヒルトの喉から、声が消えた。

 

 虚無。

 彼女の瞳から理性の光が完全に消失し、代わりに、泥のように黒く赤い「怨念」が限界を超えて溢れ出した。

 

 

 ゴボァァァァァァァァァァァァッッ!!!!

 

 彼女の足元から、尋常ではない質量の魔力が間欠泉のように噴き上がり、天を焦がす。

 それはもう、一人のサーヴァントが放つ闘気などではない。特異点の法則すらもねじ曲げる、一つの災害の顕現だった。

 

「あ、ああ、あああああああァァァァァァァァァァァッッッ!!!!!」

 

 言葉にならない獣のような咆哮と共に、クリームヒルトが魔剣を上段へと振りかぶる。

 

 ジークフリートへの想い。英雄性への憎悪。そして、決して届かない狂愛。

 その全てを極限まで煮詰めた絶望の予兆が、今、オルレアンの戦場を完全に呑み込む。

 

 

 ――それは、世界が「裏返る」現象だった。

 クリームヒルトの足元から噴き上がったどす黒い魔力の泥が、オルレアンの石畳を瞬時に呑み込み、周囲の空間そのものを侵食していく。

 

「ぐ、ぐぅ、ガァァァァァァァァァァァァッッッ!!!!!」

 

 血の涙を流すアベンジャーの咆哮と共に、世界が上書きされた。

 

 燃え盛っていた市街地の風景が、まるで安っぽい書き割りのように剥がれ落ちる。その下から現れたのは、赤黒い絨毯が敷き詰められ、無数の燭台が不気味な炎を揺らす、中世の巨大な城館――かつて彼女が、夫を殺した者たちへ凄惨な復讐を果たした「フン族の宮廷」の幻影であった。

 

 

 宝具『血染めの婚宴(ブラッド・ニーベルンゲン)』。

 

 怨念と憎悪を物理的な結界として具現化する。

 ジークフリートは、周囲の空気が一変したのを肌で感じ取った。

 鼻腔を突くのは、鉄錆のような強烈な血の匂い。肌を刺すのは、呼吸すら困難になるほどの高密度の呪詛。

 

 そして何より――音が、完全に消えていた。

 

(……外部との断絶、か)

 

 ファヴニールが炎を吐く轟音も、瓦礫が崩れる音も、そして特異点最強の竜と相対しているはずのマスターの気配すらも、この空間からは完全に遮断されていた。

 

 空間が切り取られ、完全に分かたれたのだと悟る。

 これでは、マスターのサポートに向かうことは物理的に不可能だ。竜を討ち果たすという本来の「役割」から、ジークフリートは強制的に引き剥がされた。

 

「アハッ……あはははははははははははッ!!」

 

 血と炎に彩られた宮廷の玉座。

 その前に立つクリームヒルトが、狂気に満ちた歪な歓喜の声を上げる。

 彼女の全身から立ち昇る魔力は、先ほどまでの市街地での戦闘時とは比べ物にならないほど膨れ上がっている。この結界内部において、流血や憎悪、絶望はすべて彼女の力へと変換され、第二宝具である怨念の魔剣の威力を極限まで底上げするのだ。

 

「これで、誰も邪魔できない。誰も介入できない。外の音も聞こえない!」

 

 彼女は両手を広げ、ボロボロと血の涙を零しながら、この世の全てを手に入れた乙女のように笑った。

 

「貴方はもう、私から目を逸らすことはできないわ。どこかの誰かを見ることも、助けることもできない。ここで永遠に、私だけを。……ジークフリートッッッ!!!」

 

 

 ズダンッ!!

 

 床の赤い絨毯が千切れ飛び、クリームヒルトの体が弾丸のように発射された。

 凄まじい推進力。一瞬にしてジークフリートの間合いへと踏み込んだ彼女は、極限まで魔力が充填され、肥大化した漆黒の魔剣を横薙ぎに振り抜く。

 

 

 ――ギィィィィィィンッッ!!

 

「……ぐっ、おおおおっ!」

 

 ジークフリートは大剣バルムンクを縦に構え、その一撃を正面から受け止めた。

 だが、衝撃が違う。先ほどまでの「ただの暴走」とは一線を画す、空間そのものを断ち割るような絶大な質量。

 衝撃波だけで城館の柱が数本圧し折られ、天井からバラバラと瓦礫が降り注ぐ。

 ジークフリートの足が、分厚い石の床を削りながら数メートル後方へ押し込まれた。

 

「どうしたの!?  防ぐだけ!?  まだ私に剣を向ける気はないの!?」

「……ッ!」

「貴方のそういうところが、その傲慢な自己犠牲が、私を狂わせたのよ!!」

 

 

 ガァァン!  ドガァァァァンッ!!

 

 クリームヒルトの猛攻は止まらない。縦、横、斜め。一切の剣術の理を無視した、ただひたすらに重く、速く、殺意に満ちた連撃。

 一撃打ち合うたびに、ジークフリートの鎧が悲鳴を上げる。無敵であるはずの概念装甲が、怨念という名の純粋な暴力によってミシミシと削り取られ、彼の腕から、肩から、胸から、じわりじわりと鮮血が噴き出し始めた。

 彼女の宝具であるこの結界は、流れた血をさらなる魔力へと変換する。ジークフリートが傷つけば傷つくほど、クリームヒルトの刃はより重く、より鋭く研ぎ澄まされていくという地獄の螺旋。

 

(……この、ままでは)

 

 血を流し、防戦一方のまま後退を余儀なくされながら、ジークフリートは静かに思考していた。

 自分が剣を振るえば、愛する妻を傷つけてしまう。かつて彼女を残して死んだ自分が、これ以上彼女を傷つける権利などない。彼女の怒りと憎しみを、ただこの身で受け止めることが、唯一の贖罪なのだと。

 

 

 それが、先ほどまでの彼の英雄としての「傲慢な思い上がり」だった。

 

 だが、目の前の存在を直視しろ。

 血の涙を流し、己の霊基が焼き切れるほどの出力を無理やり引き出し、ただ世界と夫を呪うためだけに剣を振るう、哀れで狂おしいアベンジャー。

 彼女は今、自らの怨念と聖杯の力によって、自滅すら免れない一つの巨大な「災害」と化している。

 自分がこのまま殴られ続けて死ねば、彼女の気が済むのか? 違う。夫を殺し終えた彼女は、その行き場のない莫大な魔力と怨念を持て余し、確実に魂まで燃え尽きて消滅するだろう。 

 

 マスターの援護は、もうできない。

 自分が果たすべき「役割」は、特異点の竜を討つことでも、世界を救うことでもなくなった。

 

(……すまない、マスター……)

 

 ジークフリートは、バルムンクの柄を握る両手に、ギリッ……と限界まで力を込めた。

 

 

 ――今の俺の役割は、目の前の「妻」を、全力で止めることだ

 

 妻への贖罪。英雄としての在り方。その全てを、一度捨てる。

 ただ一人の男として、暴走する愛する女を力ずくでねじ伏せる。

 

「……クリームヒルト」

 

 

 ガキンッ!!

 

 次に振り下ろされた魔剣を、ジークフリートはただ防ぐのではなく、強引に「弾き返した」。

 反動で大きく体勢を崩したクリームヒルトの瞳が、驚愕に見開かれる。

 

「俺はもう、目を逸らさない。誰の元へも行かない。一人にはさせない」

「あ……」

「お前の絶望も、その狂気も、全て俺がこの剣で受け止める。――来いッ、クリームヒルト!!」

 

 

 ドゴォォォンッ!!

 

 ジークフリートが、反撃の第一歩を踏み出した。

 大剣バルムンクが空気を裂き、黄昏の魔力を帯びてクリームヒルトへと迫る。

 それは、英雄としての手加減など一切ない、竜殺しとしての全力の剣撃。

 

「ア、アァァァァァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 クリームヒルトは一瞬の怯みの後、顔を真っ赤に染め上げ、歓喜とも絶望ともつかない凄絶な叫び声を上げて魔剣を振りかぶった。

 

 

 ――ガァァァァァァァァァァァンッッ!!!!

 

 血染めの宮廷の中央で、黄金の剣気と漆黒の怨念が、ついに真正面から激突した。

 空間が歪み、世界が悲鳴を上げるほどのすさまじい魔力の衝突。

 

 

 もはや言葉はいらない。

 外の世界も、マスターの安否も、特異点の行方すらも関係ない。

 閉ざされた地獄の底で、夫と妻の、永遠に続くかと思われる凄惨で愛に満ちた死闘が、真の意味で開始された。

 

 

 

 

 

 

 熱が、視界を歪ませていた。

 肺に吸い込む空気すらもが凶器となるような超高熱の領域。周囲の建造物はただそこにあるだけで発火し、崩れ落ちていく。

 その焦熱の地獄の中央で、ヴァルナ・クロスは静かに自身の「右肩の先」を見下ろした。

 

 ない。

 自身の右腕が、肩の付け根から綺麗に消失している。

 

(……できれば回収したかったが)

 

 炎の海を見渡すが、見当たらない。この異常な熱量だ、すでに骨の髄まで炭化し、灰となって消え去っている可能性が高い。探すだけ無駄な時間と労力だった。

 

「仕方がないか」

 

 彼はひどく淡白な声で独りごちると、残された左手で自身の足元の影へ干渉する。

 

影位相展開(シャドウ・フェイズ)』。

 

 どす黒い影が這い上がり、失われた右肩の断面へと絡みつく。影は蠢きながら物質としての質量を獲得し、やがて五本の指を備えた「物理干渉可能な影の義手」へと変容した。

 

 

 ズチュッ……!

 

 呪力を通して、無理やり切断された神経細胞と影を接続する。脳の髄を直接焼かれるような強烈な痛みが全身を駆け抜けた。

 

 心許ない強度ではあるが、これで両手による影絵は結べる。

 目の前の「災害」を解体するための、最低限の準備は整った。

 

 

 ――ガァンッ。

 

 ヴァルナの背後の空間に、黄金に輝く『法輪』が異質な存在感を放っている。

 十種影法術が誇る最凶の式神。その能力の根幹たる適応のプロセスのみを術者自身が肩代わりする、極めて特異な運用法。

 

「…………グルゥゥゥゥッッ」

 

 その黄金の法輪が空気を震わせた瞬間、眼窩に聳え立つ巨大な竜の反応は、劇的なものであった。

 知性の低いワイバーンであれば、ただ目の前の餌に向かって吠えるだけだろう。だが、ファヴニールは神代を生き抜いた竜種。その圧倒的な知性は、ヴァルナの背後に浮かんだ法輪が「決定的に良くないもの」であると、本能と直感で即座に理解する。

 

 

 ギィィィィィィィィンッッ!!

 

 大気が悲鳴を上げる。巨大な竜がアゴを大きく開き、世界を灰燼に帰すための絶対的な熱量――ブレスのチャージが始まった。

 空間の魔力がごっそりと竜の口腔へと吸い込まれ、極大の絶望が凝縮されていく。

 

 次の瞬間、ヴァルナは地を蹴った。

 

 ドンッ!!  と、音置き去りにする神速の踏み込み。

 影に潜ってやり過ごせば、彼自身が無傷で生き残ることは容易い。だが、彼はあえてブレスを「撃たせる前にキャンセルさせる」という最も危険な選択を取った。

 

 なぜか。

 炎の壁によって分断されたすぐ真後ろの区画に、ジークフリートがいるからだ。

 あの広範囲かつ規格外の質量を持つブレスを放たれれば、ジークフリートまで巻き込まれる可能性がある。

 

(ファヴニールも、これまでの攻防でダメージは蓄積している)

 

 ヴァルナの脳内で、恐るべき速度の演算が回る。

 特に、ジークフリートのバルムンクによる一撃は確実に竜の核を揺るがしていた。肉体の修復に魔力を回している影響か、初手で見せたブレスに比べて、チャージにかかる時間が「数秒」だけ長い。

 

 間に合う。

 拳に莫大な呪力を込め、竜の無防備な顎下へと狙いを定める。あと一歩。あと数メートルで届く――。

 

 だが。

 ファヴニールは、ただの巨大な的ではなかった。

 

「……ッ!」

 

 竜の黄金の瞳が、突進してくるヴァルナを冷酷に見下ろしている。

 

 学習したのだ。

 自分がブレスのチャージを完了するまでの時間と、目の前の矮小な人間が到達するまでの速度。その二つの変数を本能で計算した神代の竜は、ブレスのチャージを「意図的にキャンセル」した。

 そして、空いた口の代わりに、質量という名の圧倒的な暴力――巨大な尾による横薙ぎの一撃を、ヴァルナの死角から叩き込んだ。

 

(読まれたか……!)

 

 ヴァルナは一瞬の動揺を即座に抑え込み、足元に呪力を極限まで集中させて爆発させる。

 

 急停止。そして後方への緊急回避。

 だが、竜の体躯はデカすぎる。間に合わない。

 

 

 ――ドッゴォォォォォォォォォォンッッ!!!!

 

 巨大な質量が、ヴァルナの肉体を真横から打ち据えた。

 咄嗟に呪力による防御を全身に張り巡らせたものの、特異点最強の竜が放つ物理攻撃は、現代の人間が受け止めていい次元の出力ではない。

 鋼鉄の塊で撥ね飛ばされたような絶大な衝撃。強制的に、空の彼方へと打ち上げられる。

 

「が、あッ……!」

 

 痛みを噛み殺すような、くぐもった声が漏れた。

 肋骨が数本砕け、内臓の一部が致命的に損傷した感覚。空中で体勢を崩しながら、ヴァルナの口から大量の血液がぶちまけられ、赤い軌跡となって宙を舞う。

 人間の肉体など、竜の前にあっては紙切れに等しい。呪力の防御がほんの少しでも緩めば、上半身と下半身が泣き別れになっていたはずだ。

 

 

 しかし。

 宙を舞い、血を吐きながらも、ヴァルナの表情に「絶望」の色は一切ない。

 

(やはり強い。圧倒的と言ってもいい)

 

 極上のフルコースを味わう直前のような、静かで、確かな「悦び」。

 この神代の竜に勝つには、もはや小手先の戦術は通用しない。

 空を飛びながら、彼の脳内では一瞬のうちに無数のシミュレーションが破棄されていく。

 

 

 式神を掛け合わせて火力を出す?駄目だ。呼吸するだけで魔力を無尽蔵に生成する竜に対して、呪力総量に限界がある自分ではジリ貧になる。削り切る前にこちらが削り殺される。

 

 ならば、『領域展開』か?

 

 いや、それもリスクが大きすぎる。あのような超質量――神代の幻想そのものを、結界内に閉じ込めた経験はない。もし外殻を閉じれば、逆にこちらの逃げ道を完全に塞ぐ「死の檻」になりかねない。

 無尽の影で満たされた彼の領域は、一見すると底知れず広大にみえるが、実際はそうではない。むしろ外郭の巨大さに反比例し、結界内部の空間そのものはひどく狭小なのだ。

 

 それは他でもない、彼という人間の心の在り方のせいだろう。他者との境界を明確に引き、決して同化せず、孤高のまま自己完結している。彼の心象風景は、果てしなく暗く、そして冷徹なまでに締め切られている。

 

 閉ざされた聖堂。

 影に沈む祭壇。

 

 そんな閉鎖空間にあの規格外の熱量を放り込めばどうなるか。さらに、これほどの神秘の濃度を持つ存在が引き起こす、空間周囲の軋み。テクスチャの凄まじい歪みの中で、領域の要である「必中効果」がまともに機能する保証もない。

 

(やはり、対抗手段は魔虚羅のみ。……だが)

 

 

 ――ガコンッ。

 

 背後の法輪が、カチリと回転する音を立てた。

 影の奥底に潜む最強の式神へ、竜の攻撃データが送られていくのを感じる。

 彼が魔虚羅を完全顕現させず、法輪だけを出して「適応の肩代わり」を選んだ理由。

 それは、この式神こそが十種影法術の核であり、心臓だからだ。

 初手から完全顕現させるには、セイバーオルタの聖剣がそうであったように、この竜の暴力は「適応前に屠り去る」だけの理不尽な威力を秘めすぎている。

 

 だからこそ、彼は自らの脆弱な肉体を晒してでも、法輪の適応を自分自身で回すという最も困難で苦痛に満ちた道を選んだ。

 

(面倒だ。だが、極上だ)

 

 落下し始める視界の中。

 

『――鵺』

 

 バサァァァッ!  と、骸骨面を持った怪鳥が、落下するマスターの背中をガシリと掴んで飛翔する。

 強引な捕縛の衝撃で、再びヴァルナの口からゴボリと血が溢れた。鵺から心配そうな、悲鳴に似た鳴き声が伝わってくるが、彼は影の右手でその頭を軽く撫でる。

 

「問題ない」

 

 続けて、再び影絵を結ぶ。

 

『――円鹿』

 

 鹿の頭部だけが部分顕現する。

 巨大な角が淡い白光を放ち、ヴァルナの肉体へと『反転術式』のエネルギーが注ぎ込まれる。砕けた肋骨が繋がり、破裂した内臓が急速に再生していく。

 

 その間にも、地上ではファヴニールが空にいるヴァルナを見上げ、再び巨大なアゴを開いていた。

 

 二度目のブレスのチャージ。

 

「撃て」

 

 冷徹な命令。

 彼を掴んで飛翔していた鵺が、その翼に極限まで圧縮した電撃を纏わせ、放電を撃ち放った。

 

 

 ――バリバリバリバリドゴォォォォォォンッッ!!

 

 大口を開けていた竜の口腔内へ、特大の雷撃が直撃する。

 ギャァァァァァァッ!と、ファヴニールが口から黒煙を吹いて悲痛な叫び声を上げた。

 

(……さて、次の一手は)

 

 呼吸を整えながら次の展開を構築しようと動く。

 

 

 ピリッ、と。

 

 ヴァルナの肌を、かつてない悪寒が撫でた。

 背後から、尋常ではない数の魔力反応。

 

(……気付かなかった。目の前の竜に、集中しすぎたか)

 

 彼は視線を巡らせる。

 右腕と共に通信機は吹き飛ばされている。カルデアからのオペレートも、周囲の状況を俯瞰する手段も、今の彼にはない。

 目視できる距離にまで、ソレらはすでに接近していた。

 

 空を黒く埋め尽くすほどの、大群。

 それは、別の街に配置されていたであろう、無数のワイバーンの軍勢であった。

 竜の魔女が、市街地での戦闘の膠着を感じ取り、呼び戻したのか。あるいは、ファヴニールの咆哮に呼応して集まってきたのか。

 

 いずれにせよ、最悪のタイミングだった。

 ファヴニール一頭だけでも、死の淵を歩くような綱渡りの演算が必要な極限の盤面。そこへ、ジークフリートとの連携も断たれ、カルデアとの通信も不能の孤立無援の状態で、千を数える軍勢が現着した。

 

「…………マジか」

 

 ヴァルナ・クロスは、空中でその圧倒的な絶望を前にして、顔を歪めた。

 

「ハッ……」

 

 呪術師の口から、歪な笑みと呼気が漏れる。

 戦況は最悪。生存確率は絶望的。

 

 人間と怪物の境界線に立つ男は、空を覆う絶望の軍勢と神代の竜を見下ろし、狂気めいた静けさでさらなる死闘の深淵へと足を踏み入れていった。

 

 

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