Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード)   作:りー037

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【二十八節】最適の果て、盤上を制す死闘、されど愛は終わらず

 

 ふっと。

 特異点の空を支配していた巨大な絶望が、文字通り、陽炎のように大気の中へと溶けて消えた。

 

 神代の邪竜、ファヴニール。

 その規格外の巨体を構成していた魔力と肉の残骸が、退魔の剣が放った理不尽なまでの極光によって完全に塵と化し、虚空へ散っていく。

 直後、恐慌状態に陥って逃げ惑うワイバーンの群れの隙間から、眩いほどの日の光が、焦土と化したオルレアンの市街地へと真っ直ぐに差し込んだ。

 

 その光を全身に浴びながら、ヴァルナ・クロスは空を落ちていく。

 

 両腕は、ない。

 竜の吐息の熱量を中和なしに生身で受け止めた代償。影の義手は蒸発し、左の生身の腕は肩の根元から炭化して吹き飛んだ。顔の皮膚は爛れ、胸部から足先にかけても、直視に堪えないほどの凄惨な火傷に覆われている。

 一歩間違えば、死亡していてもおかしくない、完全な致死の領域。

 

 だが、彼の口元には、歪で、しかしどこまでも純粋な笑みが浮かんでいた。

 

(……あぁ)

 

 それは、一つの途方もなく高い山を、ついに登りきったような感覚。

 

 長い道だった。果てしない道だった。

 自らの肉体を削り、防壁を捨て、極限の死の淵を綱渡りしながら適応の法輪を回し続けた。その緻密で狂気的なまでの演算と選択の果てに、彼は己が定めた場所へと、ついに辿り着いたのだ。

 

 歓喜とも、安堵ともつかない、ただ、己の快楽をこの上なく満たしてくれる絶対的な『充足感』が、彼の薄れゆく意識の底を温かく満たしていく。

 

 体を動かそうと思えば、まだ動かせる。呪力を完全に使い切ったわけではない。影絵を結ぶ手がなくとも、空中で体勢を立て直すことくらいは、彼をもってすれば容易いことだ。

 

 だが、彼はそうしなかった。

 今はただ、この極上の充足感に身を任せていたかった。重力に引かれ、風を切って落ちていくこの浮遊感すらも、今の彼にとっては心地の良い余韻の一部。

 

 ふと横に視線を向ける。

 そこには、彼の死線を感知して顕現した異戒の神将が、主である彼に寄り添うようにして、同じく虚空を落下していた。

 頭上の法輪を静かに回す、最強の式神。

 ヴァルナは、血に濡れた顔で笑いかける。

 

 

 ――ガコン、と。

 

 魔虚羅が、それに答えるように法輪を鳴らし、異形の面持ちで、僅かに笑い返してくれたような気がした。

 むろん、ただの気のせいだ。この式神にそのような人間めいた感情はない。だが、彼とこの式神の間にある、共に極限の死線を越えたという事実だけが、ただ確かなものとしてそこにあった。

 なんだかんだ、楽しい一時だった。あの息の詰まるような熱量も、死の恐怖すらも置き去りにするような極限の攻防も。

 すべてが、渇きを潤すに足る闘争だった。

 

 そのまま、心地よい闇の中へ意識を閉じようとする。

 

 

 ――ドォォンッ!!

 

 彼の余韻を乱暴に遮るように、鈍い衝撃音が響き、全身の骨を軋ませるほどの激しい振動が体を揺らした。

 

 地面に、到達したのだ。

 

 ゆっくりと目を開ける。

 視界いっぱいに広がったのは、魔虚羅の白く巨大な胸板。

 ヴァルナは、魔虚羅の太い腕の中に横抱きにされる形で、着地していた。主の損壊した肉体をこれ以上傷つけぬための、完璧な保護。

 

「……ぐ、ばッ」

 

 だが、着地の僅かな衝撃にすら耐えきれず、ヴァルナの体が大きく跳ねる。

 直後、肺に溜まっていた血液が、思い切り口から吐き出された。

 

 控えめに言って、重傷。

 改めて自身の状態をスキャンする。今この現在も、肉体の隅々、毛細血管の先まで緻密に呪力を循環させ続けなければ、即座に臓器が機能停止して死に至るのではないかというほどに、肉体はボロボロだった。

 

(ここで、気を失うのは……不味い、な)

 

 熱で気道が焼かれているせいだろうか。思考がひどく鈍く、声すらも正しく出ない。

 

「……が、は」

 

 乾いた咳を漏らしながら、ヴァルナは僅かな呪力の波長で、魔虚羅へ「下ろせ」と指示を出した。

 式神は主の意を汲み、瓦礫の積もった地面へ、彼をそっと横たわらせる。

 

(強敵、だったな……)

 

 焼け焦げた視界で、青く澄み渡っていく空を見上げる。

 後先のことを完全に忘れ、現在のみに集中していた彼だったが、地面に背をつけたことで、徐々に頭が「現実」へと引き戻されていく。

 

 

 ――そうだ。今は、任務の途中だ。

 自分はカルデアのマスターとして、この特異点を修正しに来ている。マシュも、ジャンヌも城で戦い続けている。

 

 現在を正しく把握したことで、あれほど彼を満たしていた高揚感や達成感のようなものが、潮が引くように徐々に薄れていく。

 代わりに押し寄せてきたのは、莫大な疲労と、生命維持の限界を告げる猛烈な睡魔だった。

 

 

 思考が、まとまらない。

 意識が、水底へ引き摺り込まれるように揺れる。

 

 ぐらりと。

 上体を起こそうとしたヴァルナの体が支えを失い、うつ伏せに倒れ伏した。

 

(いや、だめだ……)

 

 十種影法術の核であり、絶対に破壊されてはならない式神を外部に出した状態で、術者である自分が気を失うなど言語道断。それは余りにも隙が大きすぎる。

 

 ヴァルナは薄れゆく意識の中で、術式を解除した。

 彼の意志に呼応し、魔虚羅の巨大な肉体がどろりと黒い影へ変質し、役割を終えた最強の式神は、ヴァルナの足元に伸びる影の底へと静かに還っていく。

 

 それを見届け、彼は再び重く目を閉じる。

 もう限界だ。意識が完全にブラックアウトする、寸前。

 

 

 ――ゾリッ。

 

 背筋を、氷のような悪寒が撫で上げた。

 

(……?)

 

 閉ざしかけた彼の知覚が、ある一点から放たれる「異質な魔力」を、確かに感知する。

 

 死闘を繰り広げているはずの、ジークフリートのものでもない。

 彼に憎悪を向け、極大の魔力を練り上げていた、あの女のものでもない。

 

 第三者からの、介入。

 

(なに、が……)

 

 得体の知れない、おぞましい魔力のうねり。

 それが、突如として爆発的に膨れ上がった。

 

 完全に落ちかけていた意識の底から、ヴァルナは残された気力を強引に振り絞る。

 

(起きろ……!)

 

 血液の代わりに、高濃度の呪力を直接脳髄へと叩き込む。

 黒閃を発生させるときのような、極限の呪力衝突。それを自らの脳内で『パチリ』と弾けさせ、脳細胞に直接スパークを起こすことで、失いかけた意識を無理やり、強制的に覚醒させた。

 

 ビクンッ、とヴァルナの体が跳ねる。

 血走った両目を見開き、ひび割れた大地に這いつくばったまま、彼はその異質な魔力が放たれた方向――ジークフリートたちのいる戦場へと、顔を向ける。

 

 そして、彼はそれを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 ジークフリートが、上空の炎へ向けかけていた視線を完全に切り、再び妻と向き合ったその瞬間。

 

『――されど、愛は終わらず(ニーベルンゲン・リーベ)

 

 宝具の真名を紡ぐ悲痛な叫びが、地上の闇を切り裂いた。

 

 クリームヒルトの第二宝具が、ついに発動する。

 魔剣へと急速に収束されていく、恩讐の炎。

 暗く、重く、底なしに淀んだ魔力の総量に、ジークフリートは息を呑んだ。

 

 絶望的なまでの魔力が、漆黒の刃へと吸い込まれていく。

 それは単に、彼女自身の感情の高ぶりに呼応して高まっているだけではない。

 

 

 第一宝具『血染めの婚宴(ブラッド・ニーベルンゲン)』。

 

 それは生前の彼女の記憶、エッツェル王宮での凄惨な「血の婚宴」を概念として再現する結界宝具であった。

 宝具の発動と同時に、周囲一帯は燃え盛る炎に包まれた宴の会場へと書き換えられる。そこは現実から完全に切り離された、「復讐劇」を完遂させるためだけの舞台。結界内へ取り込まれた者はすべて宴の招待客として扱われ、舞台が終幕を迎えるまで容易に脱出することはできない。

 

 結界は、敵を直接攻撃することを目的としたものではない。

 結界内で流された血、交わされた殺意、抱かれた憎悪、絶望、悲嘆――この戦場で生じたあらゆる負の感情を吸収・蓄積し、それらをすべて己の魔力へと変換する「儀式場」としての機能を持つ。

 

 つまり、この第一宝具は復讐の舞台を整えるための「序幕」に過ぎない。

 真価は、蓄積されたすべての感情をクリームヒルトの霊基へ還元し、第二宝具を発動したこの瞬間にこそ発揮される。

 

「ハァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 彼女の咆哮が空気を激しく揺らす。

 魔剣に収束される魔力が、ついに臨界へと達しようとしていた。

 

 ジークフリートは、大剣バルムンクの柄を強く握り直す。

 自分自身が、彼女に勝つための唯一の方法。

 それは宝具のチャージが完了する前に飛び出し、一刀のもとクリームヒルトを斬り伏せ、その発動を強制破断させること。

 

 彼は発動を止めるべく、剣を構え、前へと踏み出そうとした。

 

 

 だが。

 燃え盛る炎の向こう側、彼女の顔を見て――彼は、踏み出そうとした足を止めた。

 

 その理由は、言うまでもない。

 

 アヴェンジャーとして顕現した彼女。憎しみを撒き散らし、周囲を破壊する彼女。

 自分自身に複雑な感情を持っていることは、痛いほど理解している。だが、その感情は決して、単なる「憎しみ」だけで構成されているわけではない。

 

 歪みに歪み、底知れぬ憎悪に濡れている。

 さらに言えば、彼女の霊基がここまでおぞましく変質しているのは、おそらく彼女自身の内的要因だけではないだろう。

 

 その憎しみの裏のさらに奥底にある根源的な感情を、彼は正しく把握した。

 

 クリームヒルトの復讐。

 その出発点は、ただ純粋な「愛」と「喪失」。

 

 憎しみから始まったものではない。

 それは、彼自身が誰よりも理解している。

 

 

 

 『されど、愛は終わらず(ニーベルンゲン・リーベ)』。

 

 それは、復讐の果てに残された、決して失われることのなかった「愛」を具現化するための決戦宝具。

 ただの憎悪によって放たれる一撃ではない。憎しみすらも飲み込み、それでもなお最後まで消えることのなかった愛こそが、真の力となる。

 

 放たれようとしている一撃は、「クリームヒルトという英霊の生涯そのもの」を極限まで凝縮した、魂の重さ。

 この宝具は、『血染めの婚宴』によって完成する終幕の一撃であり、クリームヒルトが最後まで抱き続けた「愛」という答えそのものなのだ。

 

 ジークフリートは、その呪いのように重く、熱い魔力に込められた感情の向きを、正面から受け止めた。

 

 

 ――避けてはならない。拒んでは、ならない

 

 受け止めなくてはならない。

 彼女の愛と憎しみのすべてを、自分にしか出来ない方法で。

 

 彼の胸の奥底に、じんわりとした熱い想いが宿る。

 

 宝具のチャージが、終わった。

 極大の光を纏い、彼女がこちらへ向かって飛び出してくる。

 

(生前からそうだった。君は、本当に強い人だ)

 

 だが、俺は君のその強さに、ずっと甘えていたようだ。

 ジークフリートは、内心で静かに悟る。

 

「――クリームヒルト」

 

 優しく、温かく。

 まるで日常の些細な出来事を語りかけるように、彼は彼女の名を呟く。

 

「ジークフリートォォォォォォォォォォッッ!!」

 

 涙を流し、絶叫と共に彼女が迫ってくる。

 

 彼は、一切の殺意を捨てた。

 ただただ、その重すぎる想いのすべてを受け入れるように、黄金の柄を両手で握り、剣を構える。

 

 剣という形を通して、すれ違い続けた互いの想いが、ようやく正面からぶつかろうとしていた。

 

 

 だが。

 

 ――それが、叶うことはない。

 

 

 ――グヂュッ。

 

 

 唐突に。

 肉を思い切り抉るような、酷く生々しく、湿った音が、燃え盛る結界の中に響き渡る。

 

「……ガ、ハッ……ぐ、ぁ……?」

 

 大量の吐血。

 おびただしい血液を口から溢れさせながら、クリームヒルトが、ひどく困惑したように自身の肉体へと視線を落とす。

 

 彼女の視線の先。

 下を見ると、そこからは――真っ白な、一本の腕が生えていた。

 

 彼女の腹部を、背後から無惨にも貫通して。

 

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