Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
ふっと。
特異点の空を支配していた巨大な絶望が、文字通り、陽炎のように大気の中へと溶けて消えた。
神代の邪竜、ファヴニール。
その規格外の巨体を構成していた魔力と肉の残骸が、退魔の剣が放った理不尽なまでの極光によって完全に塵と化し、虚空へ散っていく。
直後、恐慌状態に陥って逃げ惑うワイバーンの群れの隙間から、眩いほどの日の光が、焦土と化したオルレアンの市街地へと真っ直ぐに差し込んだ。
その光を全身に浴びながら、ヴァルナ・クロスは空を落ちていく。
両腕は、ない。
竜の吐息の熱量を中和なしに生身で受け止めた代償。影の義手は蒸発し、左の生身の腕は肩の根元から炭化して吹き飛んだ。顔の皮膚は爛れ、胸部から足先にかけても、直視に堪えないほどの凄惨な火傷に覆われている。
一歩間違えば、死亡していてもおかしくない、完全な致死の領域。
だが、彼の口元には、歪で、しかしどこまでも純粋な笑みが浮かんでいた。
(……あぁ)
それは、一つの途方もなく高い山を、ついに登りきったような感覚。
長い道だった。果てしない道だった。
自らの肉体を削り、防壁を捨て、極限の死の淵を綱渡りしながら適応の法輪を回し続けた。その緻密で狂気的なまでの演算と選択の果てに、彼は己が定めた場所へと、ついに辿り着いたのだ。
歓喜とも、安堵ともつかない、ただ、己の快楽をこの上なく満たしてくれる絶対的な『充足感』が、彼の薄れゆく意識の底を温かく満たしていく。
体を動かそうと思えば、まだ動かせる。呪力を完全に使い切ったわけではない。影絵を結ぶ手がなくとも、空中で体勢を立て直すことくらいは、彼をもってすれば容易いことだ。
だが、彼はそうしなかった。
今はただ、この極上の充足感に身を任せていたかった。重力に引かれ、風を切って落ちていくこの浮遊感すらも、今の彼にとっては心地の良い余韻の一部。
ふと横に視線を向ける。
そこには、彼の死線を感知して顕現した異戒の神将が、主である彼に寄り添うようにして、同じく虚空を落下していた。
頭上の法輪を静かに回す、最強の式神。
ヴァルナは、血に濡れた顔で笑いかける。
――ガコン、と。
魔虚羅が、それに答えるように法輪を鳴らし、異形の面持ちで、僅かに笑い返してくれたような気がした。
むろん、ただの気のせいだ。この式神にそのような人間めいた感情はない。だが、彼とこの式神の間にある、共に極限の死線を越えたという事実だけが、ただ確かなものとしてそこにあった。
なんだかんだ、楽しい一時だった。あの息の詰まるような熱量も、死の恐怖すらも置き去りにするような極限の攻防も。
すべてが、渇きを潤すに足る闘争だった。
そのまま、心地よい闇の中へ意識を閉じようとする。
――ドォォンッ!!
彼の余韻を乱暴に遮るように、鈍い衝撃音が響き、全身の骨を軋ませるほどの激しい振動が体を揺らした。
地面に、到達したのだ。
ゆっくりと目を開ける。
視界いっぱいに広がったのは、魔虚羅の白く巨大な胸板。
ヴァルナは、魔虚羅の太い腕の中に横抱きにされる形で、着地していた。主の損壊した肉体をこれ以上傷つけぬための、完璧な保護。
「……ぐ、ばッ」
だが、着地の僅かな衝撃にすら耐えきれず、ヴァルナの体が大きく跳ねる。
直後、肺に溜まっていた血液が、思い切り口から吐き出された。
控えめに言って、重傷。
改めて自身の状態をスキャンする。今この現在も、肉体の隅々、毛細血管の先まで緻密に呪力を循環させ続けなければ、即座に臓器が機能停止して死に至るのではないかというほどに、肉体はボロボロだった。
(ここで、気を失うのは……不味い、な)
熱で気道が焼かれているせいだろうか。思考がひどく鈍く、声すらも正しく出ない。
「……が、は」
乾いた咳を漏らしながら、ヴァルナは僅かな呪力の波長で、魔虚羅へ「下ろせ」と指示を出した。
式神は主の意を汲み、瓦礫の積もった地面へ、彼をそっと横たわらせる。
(強敵、だったな……)
焼け焦げた視界で、青く澄み渡っていく空を見上げる。
後先のことを完全に忘れ、現在のみに集中していた彼だったが、地面に背をつけたことで、徐々に頭が「現実」へと引き戻されていく。
――そうだ。今は、任務の途中だ。
自分はカルデアのマスターとして、この特異点を修正しに来ている。マシュも、ジャンヌも城で戦い続けている。
現在を正しく把握したことで、あれほど彼を満たしていた高揚感や達成感のようなものが、潮が引くように徐々に薄れていく。
代わりに押し寄せてきたのは、莫大な疲労と、生命維持の限界を告げる猛烈な睡魔だった。
思考が、まとまらない。
意識が、水底へ引き摺り込まれるように揺れる。
ぐらりと。
上体を起こそうとしたヴァルナの体が支えを失い、うつ伏せに倒れ伏した。
(いや、だめだ……)
十種影法術の核であり、絶対に破壊されてはならない式神を外部に出した状態で、術者である自分が気を失うなど言語道断。それは余りにも隙が大きすぎる。
ヴァルナは薄れゆく意識の中で、術式を解除した。
彼の意志に呼応し、魔虚羅の巨大な肉体がどろりと黒い影へ変質し、役割を終えた最強の式神は、ヴァルナの足元に伸びる影の底へと静かに還っていく。
それを見届け、彼は再び重く目を閉じる。
もう限界だ。意識が完全にブラックアウトする、寸前。
――ゾリッ。
背筋を、氷のような悪寒が撫で上げた。
(……?)
閉ざしかけた彼の知覚が、ある一点から放たれる「異質な魔力」を、確かに感知する。
死闘を繰り広げているはずの、ジークフリートのものでもない。
彼に憎悪を向け、極大の魔力を練り上げていた、あの女のものでもない。
第三者からの、介入。
(なに、が……)
得体の知れない、おぞましい魔力のうねり。
それが、突如として爆発的に膨れ上がった。
完全に落ちかけていた意識の底から、ヴァルナは残された気力を強引に振り絞る。
(起きろ……!)
血液の代わりに、高濃度の呪力を直接脳髄へと叩き込む。
黒閃を発生させるときのような、極限の呪力衝突。それを自らの脳内で『パチリ』と弾けさせ、脳細胞に直接スパークを起こすことで、失いかけた意識を無理やり、強制的に覚醒させた。
ビクンッ、とヴァルナの体が跳ねる。
血走った両目を見開き、ひび割れた大地に這いつくばったまま、彼はその異質な魔力が放たれた方向――ジークフリートたちのいる戦場へと、顔を向ける。
そして、彼はそれを見た。
*
ジークフリートが、上空の炎へ向けかけていた視線を完全に切り、再び妻と向き合ったその瞬間。
『――
宝具の真名を紡ぐ悲痛な叫びが、地上の闇を切り裂いた。
クリームヒルトの第二宝具が、ついに発動する。
魔剣へと急速に収束されていく、恩讐の炎。
暗く、重く、底なしに淀んだ魔力の総量に、ジークフリートは息を呑んだ。
絶望的なまでの魔力が、漆黒の刃へと吸い込まれていく。
それは単に、彼女自身の感情の高ぶりに呼応して高まっているだけではない。
第一宝具『
それは生前の彼女の記憶、エッツェル王宮での凄惨な「血の婚宴」を概念として再現する結界宝具であった。
宝具の発動と同時に、周囲一帯は燃え盛る炎に包まれた宴の会場へと書き換えられる。そこは現実から完全に切り離された、「復讐劇」を完遂させるためだけの舞台。結界内へ取り込まれた者はすべて宴の招待客として扱われ、舞台が終幕を迎えるまで容易に脱出することはできない。
結界は、敵を直接攻撃することを目的としたものではない。
結界内で流された血、交わされた殺意、抱かれた憎悪、絶望、悲嘆――この戦場で生じたあらゆる負の感情を吸収・蓄積し、それらをすべて己の魔力へと変換する「儀式場」としての機能を持つ。
つまり、この第一宝具は復讐の舞台を整えるための「序幕」に過ぎない。
真価は、蓄積されたすべての感情をクリームヒルトの霊基へ還元し、第二宝具を発動したこの瞬間にこそ発揮される。
「ハァァァァァァァァァァッッ!!」
彼女の咆哮が空気を激しく揺らす。
魔剣に収束される魔力が、ついに臨界へと達しようとしていた。
ジークフリートは、大剣バルムンクの柄を強く握り直す。
自分自身が、彼女に勝つための唯一の方法。
それは宝具のチャージが完了する前に飛び出し、一刀のもとクリームヒルトを斬り伏せ、その発動を強制破断させること。
彼は発動を止めるべく、剣を構え、前へと踏み出そうとした。
だが。
燃え盛る炎の向こう側、彼女の顔を見て――彼は、踏み出そうとした足を止めた。
その理由は、言うまでもない。
アヴェンジャーとして顕現した彼女。憎しみを撒き散らし、周囲を破壊する彼女。
自分自身に複雑な感情を持っていることは、痛いほど理解している。だが、その感情は決して、単なる「憎しみ」だけで構成されているわけではない。
歪みに歪み、底知れぬ憎悪に濡れている。
さらに言えば、彼女の霊基がここまでおぞましく変質しているのは、おそらく彼女自身の内的要因だけではないだろう。
その憎しみの裏のさらに奥底にある根源的な感情を、彼は正しく把握した。
クリームヒルトの復讐。
その出発点は、ただ純粋な「愛」と「喪失」。
憎しみから始まったものではない。
それは、彼自身が誰よりも理解している。
『
それは、復讐の果てに残された、決して失われることのなかった「愛」を具現化するための決戦宝具。
ただの憎悪によって放たれる一撃ではない。憎しみすらも飲み込み、それでもなお最後まで消えることのなかった愛こそが、真の力となる。
放たれようとしている一撃は、「クリームヒルトという英霊の生涯そのもの」を極限まで凝縮した、魂の重さ。
この宝具は、『血染めの婚宴』によって完成する終幕の一撃であり、クリームヒルトが最後まで抱き続けた「愛」という答えそのものなのだ。
ジークフリートは、その呪いのように重く、熱い魔力に込められた感情の向きを、正面から受け止めた。
――避けてはならない。拒んでは、ならない
受け止めなくてはならない。
彼女の愛と憎しみのすべてを、自分にしか出来ない方法で。
彼の胸の奥底に、じんわりとした熱い想いが宿る。
宝具のチャージが、終わった。
極大の光を纏い、彼女がこちらへ向かって飛び出してくる。
(生前からそうだった。君は、本当に強い人だ)
だが、俺は君のその強さに、ずっと甘えていたようだ。
ジークフリートは、内心で静かに悟る。
「――クリームヒルト」
優しく、温かく。
まるで日常の些細な出来事を語りかけるように、彼は彼女の名を呟く。
「ジークフリートォォォォォォォォォォッッ!!」
涙を流し、絶叫と共に彼女が迫ってくる。
彼は、一切の殺意を捨てた。
ただただ、その重すぎる想いのすべてを受け入れるように、黄金の柄を両手で握り、剣を構える。
剣という形を通して、すれ違い続けた互いの想いが、ようやく正面からぶつかろうとしていた。
だが。
――それが、叶うことはない。
――グヂュッ。
唐突に。
肉を思い切り抉るような、酷く生々しく、湿った音が、燃え盛る結界の中に響き渡る。
「……ガ、ハッ……ぐ、ぁ……?」
大量の吐血。
おびただしい血液を口から溢れさせながら、クリームヒルトが、ひどく困惑したように自身の肉体へと視線を落とす。
彼女の視線の先。
下を見ると、そこからは――真っ白な、一本の腕が生えていた。
彼女の腹部を、背後から無惨にも貫通して。