Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
ピチャリ、と。
おぞましい腐臭を孕んだ泥濘が、冷たい石畳の上で崩れ落ちる。
「はぁ……っ、はぁっ……!」
「ふぅ……っ、く……」
広大な大広間を埋め尽くしていた異形の海魔たちは、今や一匹残らず黒いエーテルの塵と化し、虚空へ溶け落ちる。
その物量は尋常ではない。ジル・ド・レェが遺した魔導書から際限なく溢れ出す肉の波。それらを物理的にすり潰し、神聖な魔力で焼き切る作業は、宝具の激突直後であった二人の少女に過酷な消耗を強いていた。
マシュ・キリエライトは十字盾の柄を握りしめたまま片膝をつき、大きく肩で息をしている。全身に刻まれた火傷がひりつき、筋繊維が熱を帯びて悲鳴を上げている。
「マシュさん……大丈夫、ですか?」
「はい……問題ありません」
気力を振り絞り、マシュは再び重い盾を持ち上げる。
二人の視線の先、崩落した瓦礫の奥には、城の最深部へと続く暗い回廊が口を開けていた。致命傷を負い、血を吐きながら逃れた竜の魔女が向かった道である。
(早く、追わなくては……!)
ジャンヌの胸を焦燥が叩く。
自身の虚構性を突きつけられ、存在の崩壊に怯えながらも、なお憎悪の炎に縋ろうとしていた悲しき反転体。このまま見過ごせば、彼女はさらなる狂気に呑まれるか、霊基ごと更に変質するだろう。引導を渡すのは、自分自身の役目だ。
『――二人とも、聞こえるかい』
その時、マシュの腕の通信機からロマニ・アーキマンの声が届いた。
声のトーンは、いつもと変わらぬ穏やかなもの。
「はい、ドクター。大広間の敵性反応はすべて沈黙させました。これより、逃走したターゲットの追跡に移行します」
『ああ、よくやってくれた。本当に、お疲れ様。……そのまま、最深部へ向かってくれ』
簡潔な報告に対し、ロマンは労いと共に次なる指示を出す。
だが。
「……ドクター?」
マシュの優れた聴覚は、通信越しに響く『僅かな異音』を聞き逃さなかった。
ロマンの背後、カルデア管制室の奥から、複数の職員たちがひどく慌てふためき、悲鳴に近い声を上げているのが微かに拾えたのだ。
『バイタルが……!』
『反応ロスト……急激な低下……!』
『どうなってるの!?映像は……通信は回復しないの!?』
最後の一声は、明らかにオルガマリー所長の、ヒステリックな焦燥に満ちた叫び。
ドクン、と。マシュの心臓が冷たく跳ねる。
「ドクター。……何か、あったんですか?」
問いかける声が、微かに震える。
カルデア側での異常事態。それも、所長があれほど取り乱す理由はなにか。
『え?ああ、いや、何でもないさ! 大したことじゃない。ちょっとこっちの計器にエラーが出てね。所長が神経質になってるだけだよ』
ロマンはあっけらかんとした声で誤魔化した。
だが、その明るい声の裏で彼自身がどれほどの感情を必死に押し殺しているか、マシュには痛いほどに伝わってくる。
――カルデア管制室。
コンソールの前に立つロマンの額からは滝のような冷や汗が流れ落ち、握りしめた拳は血の気を失い白く染まっていた。
(右腕の反応が、消失した……!)
モニターに映し出されているのは、絶望的なバイタルデータ。
ヴァルナ・クロスの右腕に装着されていた通信デバイスの信号が、突如として途絶えた。
音声も視覚情報もすべてがロストし、残されているのは肉体から発せられるバイタルのみ。そしてその数値は現在、常人であればとうにショック死している『
何が起きているのか、カルデアからは全く分からない。
映像がない以上、状況分析すら不可能だ。
胃が捩れるような不安が全身を支配する。だが、彼はカルデアの指揮官だ。
特異点修復の要であるジャンヌと、その護衛として死線を潜るマシュ。彼女たちに今、この不確定な絶望を悟らせるわけにはいかない。指揮の崩壊は、特異点の崩壊に直結する。
『……今は目の前の本命をどうにかすることだけを考えてくれ。ターゲットは城の最深部にいるはずだ。頼んだよ、マシュ、ジャンヌ!』
「…………」
マシュは、腕の通信機を静かに見つめた。
ドクターは嘘をついている。先輩の命に関わる事態が起きている。
その確信が、胸を冷たい手で締め上げる。今すぐにでもこの城を飛び出し、市街地へと駆けつけたい。衝動が足の筋肉を無意識に収縮させる。
(先輩……)
マシュの脳裏に、あの冷たくも穏やかな、男の硝子の瞳が蘇る。
――お前がどうしたいかは、お前が選べ。俺の戦いのために、お前が無理をする必要はない。
彼は、決して他者に依存しない。善意でも悪意でもなく、ただ己の軸に従って、最適な行動を淡々と選び取る。
彼が外で戦うことを選んだのなら。そして、自分にこの城の攻略を任せたのなら。
自分が今成すべきことは、不安に駆られて任務を放り出すことではない。自分の意志で、この城の奥にいる竜の魔女を討つことだ。あの人が、必ず生還すると、誰よりも強く信じ抜くことだ。
「……行きましょう、ジャンヌさん」
マシュが顔を上げる。
その瞳から先ほどの動揺は完全に消え去り、鋼のように硬く、澄み切った覚悟の光が宿っていた。
「ええ。私たちの、為すべきことを」
ジャンヌもまた深く頷き、二人は並んで暗い回廊へと足を踏み入れる。
*
コツ、コツ、コツ。
重いブーツの足音が、薄暗い回廊に反響する。
城の最深部。玉座の間よりもさらに奥に位置する、巨大な円形の広間。
広間の最奥。一段高くなった祭壇のような場所で、彼女は待ち構えていた。
「――あら。案外、早かったわね」
血に濡れた旗槍を杖のように突き立て、ジャンヌ・オルタが片側の口角を歪めて嗤う。
漆黒の鎧の胸部は大きく陥没し、息をするたびに口の端から細い血の糸がこぼれ落ちている。誰の目にも明らかな致命傷。立っていることすら不思議なほど、霊基は崩壊寸前だ。
だが、彼女の周囲にはいつの間にか呼び寄せられた数体の巨大なワイバーンが、主を守る肉の壁となって翼を広げている。
いかなる妥協も、撤退も許されない。
特異点の中心核における最終決戦の空気が、張り詰めた弦のように限界まで引き絞られた。
*
盤面は、何の前触れもなく唐突にひっくり返された。
あまりにも理不尽で、無慈悲な『裏切り』によって。
――グヂュッ
「……ガ、ハッ……ぐ、ぁ……?」
大量の血液を口から溢れさせながら、クリームヒルトが、ひどく困惑したように自身の肉体へと視線を落とす。
見下ろした先からは――真っ白な、一本の腕が生えている。
彼女の腹部を、背後から無惨にも貫通するように。
「おお、何と嘆かわしい。悲願のため、我々の刃としてただ振るわれれば良かったものを」
クリームヒルトの背後から、ひどく大仰で、芝居がかった声が響く。
そこに立っていたのは、両手を恭しく広げ、首を振るキャスター、ジル・ド・レェ。
「愛憎に狂うあまり、あろうことか我らが聖女の足枷になるとは……これだから、人の情というものは浅ましい」
彼は顔色一つ変えず、彼女の腹を貫通させた右腕を、ズルリと引き抜く。
「あ、アァァ……ッ!」
腹部に風穴を空けられたクリームヒルトが、大量の血を撒き散らしながらその場に崩れ落ちる。
ジルの関心はすでに彼女には向いていない。彼の血まみれの右手には、黄金に輝く美しい『欠片』が握られていた。
聖杯。
狂化の呪詛をもってしても、ジークフリートへの憎悪を抑え込めず完全に制御不能となっていた
「大人しく狂い果てていればよかったものを。……城のジャンヌが押されている以上、これ以上あなたという不出来な駒に固執している暇はないのですよ」
ジルは黄金の欠片を愛おしそうに撫でながら、足元で血の海に沈むクリームヒルトを見下ろし、心底ゴミを見るような目で吐き捨てた。
「クリームヒルトォォォォッ!!」
妻が背後から貫かれた光景を目の当たりにし、ジークフリートが血を吐くような絶叫を上げて地を蹴る。
だが、腹部を穿たれ倒れ伏していたクリームヒルトは、まだ事切れてはいなかった。
聖杯を抜かれ、魔力供給が途絶え、さらには致命的な臓器欠損。それでも彼女は、根底にある狂おしいほど純粋な『執着』のみで、肺に溜まった血をむせ返りながら強引に上体を起こす。
「ア゛……ア、アァ……! 私ノ、わたしのジークフリート……!」
それはもはや、言葉ではない。気管を血で詰まらせながら発せられる、死にゆく怨念の産声。
「誰ニ許サレテ、私ノ……触レ、タァァァッ!!」
膝をついた状態のまま。振り返り様、残された全魔力を込めた漆黒の魔剣を、背後に立つジルの首めがけて全力で振りかぶった。
「おっと」
――しかし。ジルは小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、余裕を持ってその一撃をヒラリと躱す。
「実に生き汚い。美しくありませんねぇ」
這いつくばる彼女の姿は、彼から見れば不愉快なノイズでしかない。
ジークフリートが、妻へトドメを刺そうとするジルの動きを止めるべく、渾身の力で踏み込もうとした。
「やらせないッ!!」
まさに、倒れる彼女を庇おうとした、その瞬間。
――異常が起きた。
ゴオォォォォォォォォォォォォッッ!!!!
上空から、あり得ないほどの巨大な突風と、空気を焼き焦がすような凄まじい衝撃波が吹き荒れる。
「……なんだ、これは!?」
ジークフリートが咄嗟に顔を覆い、ジルもまた、不快そうに目を細めて上空を見上げる。
そして、その場にいた全員が、空に広がっていた『想像を絶する光景』に息を呑んだ。
数秒前まで、圧倒的な熱量で特異点の空を支配し、極大のブレスを放出していた神代の邪竜、ファヴニール。
その巨大な半身が、文字通り「消し飛んで」いたのだ。
海が割れるように真っ二つに両断された竜の残骸が、眩い陽光の中にサラサラと塵となって溶けていく。
「……馬鹿な」
ジルの口から、素の驚愕が漏れ出る。
邪竜が、一介の人間ごときに。それも一撃のもとに消し炭にされたというのか。
驚愕していたのはジークフリートも同じ。彼の言動から途方もない切り札を隠し持っていることは察していたが、まさか単身で完全に撃破するとは。
(……不味い)
ジル・ド・レェの胸中に、ドス黒い焦りが渦を巻いた。
ファヴニールの消滅。これにより、彼の内側にあった余裕が一気に削り取られる。城内ではジャンヌが防戦一方のはずだ。
それでも――と、ジルは自らの手に握られた黄金の盃を強く握り締める。
こちらにはまだ聖杯がある。
「ならば……神の威光に泥を塗る冒涜を見せて差し上げましょう!」
焦りを覆い隠すように、彼は喉の奥で高笑いを響かせた。
まずは、この場にいる目障りな虫ケラどもをすべて消し炭にし、その後に急いでジャンヌの元へ戻る。
「さあ、貪り食いなさい!ア゛アアーーーーーッハハハハハハハハァ!!」
聖杯という規格外の魔力炉心を得た、キャスターの宝具の完全解放。
『螺湮城教本(プレラーティーズ・スペルブック)』。
ボコボコと沸き立つ泥の底から、無数の海魔の群れが、文字通りの『軍隊』として一斉に顕現した。
波のように押し寄せる異形の群れ。ジークフリートは、それを切り払おうとバルムンクに魔力を込めるが――。
――ジル・ド・レェの指揮は悪辣を極めていた。
海魔の波は、目の前のジークフリートも、そして倒れ伏しているクリームヒルトも。すべてを平等に飲み込み、殺し尽くす軌道を描く。
「――ッ!!」
四方八方から、無数の触手が鞭のようにしなり、倒れ伏すクリームヒルトへと殺到する。
ジークフリートは、己に迫る攻撃の迎撃を一切放棄した。
大地を砕く踏み込みで、妻の元へと一直線に駆ける。彼女を飲み込まんと押し寄せる海魔の濁流に対し、竜殺しはバルムンクを逆袈裟に振り抜いた。
黄昏の剣気が爆ぜ、分厚い肉の壁を放射状に吹き飛ばす。
聖杯を炉心とする魔導書の物量は、英雄の武すら呑み込む理不尽そのものだ。
斬り裂いた死骸の雨を潜り抜け、次なる群れが無限に湧き上がる。全方位から視界を埋め尽くす、粘着質な狂気の檻。
ついには剣の軌道が追いつかない。完全に死角となる真上から、槍のように硬化した数本の触手が、妻の心臓目掛けて無慈悲に突き下ろされた。
(間に合わない――!)
ならば。彼は迷うことなく、その身を妻へと投げ出す。
彼女の細い身体を両腕で強く抱き込み、その上に覆い被さる。竜の血を浴びたいかなる刃も通さぬ英雄が持つ、唯一にして絶対の『弱点』。
自らの背中を、無防備に晒して。
――ドスッ!!
「ガ、ハッ……!!」
鋭利な槍のように硬化した海魔の触手の一本が、ジークフリートの『背中』を深々と貫いた。
竜の血を浴び、いかなる刃も通さないはずの彼が持つ、唯一にして絶対の弱点。そこを的確に貫かれ、彼の口から大量の血が噴き出す。
「アッハハハハハハッ! 喜劇だ!実に滑稽な喜劇です!!」
ジルが高らかに嗤う。
次の一手で、この竜殺しと、用済みの女を完全に削り取ることができる。彼は、そのまま楽にしてやると言わんばかりに、使い魔たちにトドメの命令を下した。
血を吐きながらも、ジークフリートはクリームヒルトを腕の中に抱き込み、致命傷の体を引きずりつつも守ろうと動く。
「……ここまで、か……すまない……」
無数の海魔の触手が、彼らの命を刈り取らんと迫る。
――その数秒前。
ギリギリの死線において、それは『間に合った』。
――ズッッッッドォォォォォォォォォォンッッ!!!!
ジークフリートたちに迫っていた海魔の群れが、突如として放たれた莫大な衝撃波によって、跡形もなく吹き飛ばされた。
「……!?」
ジルが驚愕に目を見開く。
立ち込める粉塵と、蒸発した海魔の体液の奥から、一人の男が静かに歩み出てくる。
ヴァルナ・クロス。
その姿は、凄惨を極めていた。
邪竜の極大ブレスを真っ向から受けた代償。肉体は全身が黒焦げになり、そして何より――『両腕』が、肩の付け根から無惨に欠損している。
「その肉塊のような体で、まだ動くというのですか……?」
その姿を驚愕のままに見つめる。
ジルの内側を、憎悪よりも先に別の感情――純粋な畏怖と困惑が支配する。
全身ボロボロの、完全な重傷。常人であればとうにショック死しているであろうその姿で、男は真っ直ぐに、ひどく静かな瞳でこちらを見下ろしていた。
「マ、スター……」
顔を上げたジークフリートが、掠れた声で彼の名を呼ぶ。
「……遅くなったか」
ヴァルナもまた、短く応えた。声帯が焼けているのか、その響きはひどく錆びついている。
そんな状態でなお、彼の思考は極めてクリアだ。
視界に映る状況を、一瞬で正しく把握する。
目の前に立つ、見知らぬキャスター。その手には聖杯が握られ、周囲には無数の怪物が量産されている。
聖杯を持ち、怪物を量産している男。
――敵だ。
それさえ分かれば、いい。
――殺す
「死に損ないが。……そのような状態で、何を――」
次の瞬間。
目の前の男の姿が、かき消える。
「なっ!?」
そして気づけば。男の顔が、ジルの眼前にまで迫っていた。
両腕のない男の、唯一にして絶対の攻撃手段。足元の空間に超高密度の呪力を一点集中させ、それを爆発させることで空間そのものを蹴り飛ばすような『超加速』。
腕がないなら、どうするか。
そんなものは、彼にとって思考するまでもないこと。
――ガブリ、と。
「ガ、ァァァァァァァァァァッ!?」
キャスターの絶叫が、市街地に木霊した。
ヴァルナは、ジルの無防備な首筋へ向けて、自身の牙を肉食獣のように深々と突き立てたのだ。
「な、何だこれは!? 私の内に、がぁぁ……ッ!」
ただ噛みついたのではない。
彼の体内から常時生成されている、どす黒い『怨泥』。それが、牙を通して、泥のようにジルの頸動脈から直接内部へと流し込まれていく。
呪いの奔流が血管を駆け巡る激痛に、ジルは狂乱する。
すぐさま魔導書を操作し、残存していた海魔の巨大な触手を用いて、首に食らいついているヴァルナの腹部を容赦なく貫く。そのまま強引に引き剥がし、石畳へと激しく叩きつけた。
「ぐ、ふあ……っ、がぁ……」
鈍い音と共に地面に叩きつけられ、さらに触手で縫い留められたヴァルナの口から、どす黒い血が吐き出される。ただでさえ死に体の状態で、さらなる致命的なダメージ。
しかし。
ジルの首筋を見上げるその男の瞳は――全く、死んでいなかった。
痛みも、絶望も、恐怖も、そこには一切存在しない。
ただひたすらに、純度の高い冷たい光だけが、ジルの存在を射抜いている。
「くぅ……ッ!」
たまらず片膝をつく。
苦悶の息が漏れる。首筋から流し込まれた『何か』が、痛みが引くどころか、自身の霊基の奥底まで泥のように浸食していくような強烈な違和感と破壊をもたらしていた。
そして、彼にとって致命的な問題がもう一つ。
ジャンヌ・オルタ。
城の最深部にいるはずの彼女の気配が、弱々しく減衰しているのを、ジルは確かに感じ取る。
「くぅ……時間が、惜しい」
眼前の、底知れない異常性を持つ男。聖杯を手にした自分でさえ、このまま付き合えば首を食いちぎられかねないという本能的な悪寒。
ジルは忌々しげにヴァルナを睨みつけると、目の前の敵の殲滅を即座に後回しにする決断をした。
「……ええ、ええ! 今行きますよ、私のジャンヌ……!」
己の半身とも言えるジャンヌ・ダルクの救出へと向かうべく、狂信者はその場から泥のように姿を消した。