Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
狂信のキャスターがこの場から逃走し、魔力の供給源が断たれたことで、市街地を埋め尽くそうとしていた無数の海魔たちは、ドロドロとした黒いヘドロへと変質して焦土に溶けていった。
夕闇が迫る廃墟に、再び静寂が降りてくる。
ズチュ、と。
ヴァルナを地面に縫い留めていた巨大な触手が、形を保てずに崩れ落ちる。
「……ッ、が」
解放されたヴァルナの口から、どす黒い血の塊が吐き出された。
彼の肉体は、控えめに言って「死体の出来損ない」という表現が相応しいだろう。両腕は肩の根元から完全に消失。ファヴニールのブレスによって全身の皮膚と筋肉の三割以上が炭化し、さらに腹部から背中にかけて、海魔の触手による致命的な貫通穴がぽっかりと空いている。
もはや、現代の医療技術はおろか、魔術の治癒すらも間に合わないであろう完全なる死の領域。
神経はとうに焼き切れ、脳は信号を絶え間なく発し続けている。
だが、男は。
腹筋と背筋、そして骨格の髄まで行き渡らせた『呪力』の推進力のみで、機械仕掛けの操り人形のように、ゆっくりと上体を起こしたのだ。
自らの血液の代わりに、濃密な呪いを全身の血管に循環させる。生存本能すらも己の意志でねじ伏せ、強制的に生命活動を維持するその様は、もはや人間という枠組みを完全に逸脱した怪物のそれである。
「……マスターッ! その体は……!」
百戦錬磨の英雄の瞳が、これ以上ないほどに揺らいでいる。彼から見れば、ヴァルナの命の灯火は今まさに吹き消される寸前の蝋燭に等しい。
「騒ぐな」
だが、ヴァルナの口から紡がれたのは、掠れながらも一切の感情を交えない、氷のように平坦な声だった。
「治す手段なら、ある。死にはしない。……それよりも、お前の方は動けるのか」
ヴァルナは自身の欠損など歯牙にもかけず、硝子の瞳でジークフリートの状態をスキャンする。
彼女を庇ったジークフリートの背中にも、海魔による生々しい貫通傷が穿たれていた。竜の血を浴びた概念装甲を無視したその一撃は、確実に竜殺しの霊核を深く傷つけている。
「……あぁ。俺の傷など、大した問題ではない」
ジークフリートは自らの傷を一瞥すらせず、ただ自らの腕の中――抱き抱えている女性の姿を、痛切な眼差しで見つめた。
「だが……」
彼の腕の中で力なく目を閉じている銀髪の女性。クリームヒルトの身体は、すでに足元から黄金の光の粒子となって、サラサラと虚空へ溶け出し始めている。
腹部を完全に穿たれ、魔力炉心であった聖杯を強引に引き抜かれた彼女の霊基は、もはや現界を維持できない限界点を迎えていたのだ。
「……知り合いか」
名前も、背景も知らない。だが、この血みどろの激戦の中で、彼女がジークフリートに対して向けていたあの果てしない憎悪と執着。それが浅い関係性の相手に向けられるものでないことくらい、彼の眼には明白だった。
ジークフリートは、腕の中で消えゆく彼女の頬を、壊れ物を扱うようにそっと撫でた。
「妻だ」
「……なるほど。復讐姫か」
脳内で、インデックス化された伝承のピースがカチリと噛み合う。
愛する夫を暗殺され、その復讐のために血の海を築き上げた狂気の王妃。あの異常な出力と殺意の出処がどこにあるのか、論理的な裏付けが完了した。
「……すまない、マスター」
不意に、ジークフリートが深く頭を垂れる。
それは、重傷を負わせたことへの謝罪ではない。
「何が」
「俺は、ここまでだ」
竜殺しは、心底申し訳なさそうな、しかし決して曲がることのない強靭な意志を宿した顔で、ヴァルナを見上げた。
「……彼女をもう、一人にはしないと。そう誓ったんだ」
特異点の修復。人理の救済。英雄としての輝かしい大義。
残された魔力をすべて振り絞れば、今からでも立ち上がり、マスターと共に城へ乗り込むことは可能だったかもしれない。
だが、彼はそのすべてを放棄し、己の消滅を受け入れてでも、腕の中のただ一人の女性に寄り添うことを選んだ。
世界を救う大英雄としての役目を、個人的な情で放り出す。それは英霊としては致命的な逸脱であり、マスターの戦力を削る許しがたい背信行為に他ならないと、彼はそう感じたのだ。
それは、生前のジークフリートであれば絶対に選ばないであろう選択。
「……」
ヴァルナは無言のまま、ジークフリートの瞳の奥を見た。
そこにあるのは、後悔から解放され、ようやく『一人の男』としてのエゴを選び取った人間の、確かな魂の輝き。
「……そうか」
ヴァルナは、責めるでもなく、引き留めるでもなく、ただ小さく息を吐いた。
彼にとって、個人のエゴイズムとは世界で最も尊重されるべきものだ。他者のために己をすり減らす英雄の在り方よりも、自分の意志で愛する者のために破滅を選ぶその姿の方が、彼という怪物の哲学にはよほど美しく映る。
「……気に病む必要はない」
踵を返し、遥か遠く、黒雲の奥にそびえ立つオルレアン城へと身体を向けた。
「竜は落ちた。道は開かれている。……後は、俺が城を責め落とすだけだ」
ジークフリートの役目は、ファヴニールを討ち果たす盤面を作るための『矛』。その役割はすでに完遂されている。ここから先の障害は、己の暴力だけで十分に蹂躙できる。
だから、お前はもう己の望むままにしろ。
二度目の生だ。生前、選ばなかった選択をしてもいいだろう。
それは彼なりの、最大限の肯定であった。
両腕のない肩を揺らし、ヴァルナの足元に莫大な呪力が圧縮されていく。
跳躍の寸前。彼は顔だけをわずかに後ろへ向け、血に塗れた口元を微かに吊り上げた。
「……ジークフリート」
「……」
「お前との共闘は、極上の時間だった」
ジークフリートは少しだけ目を見張り、そして、憑き物が落ちたような穏やかな笑みを返す。
「あぁ。……俺もだ。武運を、マスター」
ドンッ!! という地響きと共に、ヴァルナの姿が空の彼方へと消える。
舞い上がる土煙の中、後には、互いに寄り添う二人だけが残された。
*
夕闇が迫る廃墟。
戦闘の喧騒は完全に遠ざかり、世界からすべての音が消え去ったかのような静寂が、二人を包み込んでいた。
「……ジーク、フリート……」
微かな、本当に微かな声。
ジークフリートの胸の中で、クリームヒルトがゆっくりと瞳を開いた。
魔力炉心を失い、意識が朦朧とする中で、彼女の視界に映ったのは、自分をしっかりと抱きしめる夫の、ひどく優しく、そして悲しげな顔。
「……ここにいる。俺は、どこにも行かない」
彼女の冷たくなっていく頬を、彼のごつごつとした大きな手が、愛おしむように包み込む。
その確かな温もりに触れた瞬間、クリームヒルトの胸の奥底で渦巻いていた、黒い泥のような怨念と憎悪が、嘘のように溶けて消えていった。
彼が憎かったわけではない。
ただ、彼に生きていてほしかった。彼と共に、笑い合っていたかった。
彼が世界のために命を投げ出し、自分を置いて逝ってしまった事実が、どうしようもなく寂しくて、狂おしいほどに悲しかっただけなのだ。
「……ごめん、なさい……。私……あなたを……あんなに……」
「謝らないでくれ。君をこんな姿にしてしまったのは、他でもない俺だ」
ジークフリートは、彼女の涙を親指でそっと拭った。
英雄としての『正しさ』を追求するあまり、一番近くにいたはずの彼女の心を顧みることができなかった。その取り返しのつかない愚かさを、彼は今度こそ、真正面から受け止める。
真剣な、一切の嘘偽りがない、彼自身の魂からの誓い。
「これからは……ずっと、一緒だ」
その言葉が、彼女の心の一番深い場所へと、じんわりと染み渡っていく。
生前、ひどく辛く、残酷な離別を経験した。愛するがゆえに狂い、血の海に沈んだ。
だというのに、最後の最後に、彼からこんなにも温かく、真っ直ぐな言葉をもらえるなんて。
こんなに、幸せでいいのだろうか。
クリームヒルトの胸の中に、生前からずっと持ち続けていた、暖かな『純愛』の光が満ち溢れていく。
痛む身体を無理に動かし、彼女は震える両腕を、ゆっくりとジークフリートの首へと回した。
「……ええ。ええ……ずっと。ずっと、一緒に……」
彼の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくりながら、彼女は愛しい熱に包まれる。
下半身から崩れ始めていた光の粒子が、二人を包み込むように舞い上がった。
ジークフリートの霊基もまた、役割を終え、彼女に寄り添うように黄金の光へと還元されていく。
二つの光の粒子が、空中で優しく混ざり合い、一つの輝きとなって天へと昇っていく。
焦土と化した世界に、そこだけが切り取られたような、ひどく緩やかで、どこまでも暖かな時間が過ぎていった。
*
瓦礫の山を越え、ヴァルナ・クロスはオルレアン城へと向かって歩みを進めていた。
両腕はなく、ファヴニールの極大の息吹を真っ向から受けた全身の皮膚は広範囲にわたって炭化している。剥き出しになった筋繊維が空気に触れ、生々しい異臭を放つ。およそ生命活動を維持していること自体が物理法則への反逆のような有様で、彼は血の混じった足跡を焦土に刻み続ける。
城の内部では、今この瞬間も激しい戦闘が繰り広げられているはずだ。
マシュ・キリエライト。
外の世界を知ったばかりの少女。
彼女であれば、あの竜の魔女を相手取っても容易には崩れないだろう。彼自身が直接教え込んだ、徹底して無駄を削ぎ落とした防衛格闘は、生半可な英霊のステータスを凌駕する。
そう確信してはいるものの、彼の脳裏には盾を構える彼女の姿が、僅かなノイズとして明滅していた。
(……やれやれ)
ヴァルナは、自身の内側に生じたその「思考の偏り」を、ひどく冷徹に切り捨てる。
彼女に対する微かな庇護欲は、確かに彼自身の美意識に根ざしたものだ。だが、腕すら持たない今の自分の惨状で、他者の心配などしている場合ではない。
(城の戦いに介入する前に、このポンコツになった肉体をどうにかするのが先決だ)
現在の彼は、自身の体内から湧き出る呪力を循環させ、強制的に肉体を動かしているに過ぎない。細胞は死滅に向かい、視界は赤くぼやけ、一歩踏み出すたびに脳がシャットダウンを要求してくる。限界は、とうの昔に越えていた。
彼は立ち止まり、深く、濁った息を吐き出して術式の構築を開始する。
自身の肉体を回復させるために必要な式神は、他でもない『円鹿』。
だが、この状況において、致命的な問題が一つ存在している。
円鹿が放つ反転術式――その「アウトプット」の効率では、完全に喪失した腕をゼロから生やすことはできないのだ。
自己の肉体内で完結する治癒に比べ、外部へ放出した正のエネルギーを他者の肉体へ定着させるプロセスは、どうしても変換にロスが生じ、治癒効率が半分以下に落ちてしまう。
千切れた腕がそこに転がっていれば、断面を繋ぎ合わせるだけで済んだ。
しかし、右の腕は切り落とされ行方不明、左の生身の腕に至っては炭化し、空中の塵と消え去った。
――ならば……他者治癒ではなく、自己治癒のプロセスに強制的に書き換えるしかない
アウトプットではなく、インプット。
円鹿を外部に顕現させるのではなく、自分自身の内側に展開し、自らの肉体と式神の情報を直接掛け合わせる『融合』のプロセス。
術師の肉体へ式神の能力を内在化させるこの秘奥を以てすれば、円鹿の反転術式はヴァルナ自身の「自己治癒能力」として機能する。
だが、それは同時に極めて危険な綱渡りを意味していた。
自らの肉体と式神の情報を混ぜ合わせる。少しでも術式の制御を誤れば、肉体が内側から破綻し、文字通り自壊するだろう。極限の集中と緻密な呪力操作が要求されるその作業を、彼はこの脳髄が焼き切れそうなボロボロの状態で実行しなければならない。
頭が割れるように痛い。泥のような倦怠感が全身を苛む。
それでも。やらなければ、この地獄は終わらない。
ヴァルナは、霞む視界とまとまらない思考を、強靭な意思で無理やりにひとまとめにする。
焦点を合わせ、自身の肉体の状態を極めて客観的に、まるで他人のモルモットを観察するように見下ろした。
(まずは、この焼け焦げたゴミを削り落とすところからだな)
火傷の治癒は、通常の切り傷や刺傷とは根本的にアプローチが異なる。
熱によって炭化した細胞――
両腕の切断面。顔の右半面。胸部から腹部にかけての広範囲。
そこにこびりついた炭化組織を、綺麗に抉り取らなければ、まともな腕など生えてはこない。
現代医療で言うところの「
(……面倒だが、やるか)
ヴァルナは、残された呪力を刃のように鋭く圧縮し、自身の両肩の断面へと向けようとした。
その時である。
彼の優れた感覚が、瓦礫の山に隠れた『異常な脈動』を拾い上げた。
ドクン、ドクン、ドクン……。
静まり返った焦土に、不気味なまでに力強く、そして膨大なエネルギーを内包した「何か」が躍動していた。
ヴァルナは自身の切除作業を中断し、虚ろな瞳をその脈動の源へと向ける。
足を引きずりながら瓦礫を越えると、そこには、赤黒い血だまりの中で脈打つ、巨大な肉塊が転がっていた。
(……まだ、生きているのか)
細胞だけが独立した生命体のように、ドクドクと特異点の空気を吸い込んで魔力を生成し続けている。神代の幻想が持つ、生命力という言葉すら生ぬるい異常な執着。
その理解不能な肉塊を見下ろし、ヴァルナ・クロスの瞳に、ひどく純度の高い「興味」の色が灯る。
ただの回復を行うつもりだった。失った腕を取り戻し、城へ向かうつもりだった。
だが、彼の軸が、ここで激しく方向転換を起こす。
それは、呪術師としての果てしない探求心。リスク計算を完全に度外視した、純粋な好奇心。
――面白そうだ。
ヴァルナは口元に歪な笑みを浮かべ、両腕のない肩を前に屈めるようにして、その脈打つ巨大な臓器へと、自らの顔を近づけていった。
*
オルレアン城、最深部・玉座の間。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ!」
ジャンヌ・オルタの荒い呼吸が、冷たい石壁に虚しく響いていた。
頼みの綱であった狂犬は逃げ去り、無敵を誇った邪竜は消え去った。
そして今、彼女の目の前には、満身創痍でありながらも決して刃を下ろそうとしない二人の少女――マシュ・キリエライトとジャンヌ・ダルクが、完全に彼女を壁際へと追い詰めている。
「……もう、終わりにしましょう」
ジャンヌが旗槍を突きつけ、静かに、しかし断固たる宣告を下す。
「終わり……? 私が? この私が、終わるですって……?」
オルタは血を吐きながら、虚勢を張るように嗤った。だが、その声はひどく震え、陥没した胸部からは金色の霊子が絶え間なく漏れ出している。
もはや一歩を踏み出す力すら残されていない。自身の虚構性を暴かれ、拠り所であった憎悪すらも色褪せかけている。
敗北。完全なる、死。
竜の魔女が、その絶望に完全に呑み込まれようとした、まさにその瞬間だった。
「――いいえ。終わらせませんとも。我らが聖女の悲願が、このような偽善者どもの前で潰えることなど、あってはならないのです」
玉座の間の暗がりから、ひどく大仰で、ねっとりとした狂気に満ちた声が滑り出てきた。
「ジル……!」
オルタが、縋るようにその名を手繰り寄せる。
闇の中から姿を現したのは、キャスター、ジル・ド・レェ。
だが、その姿は異様だった。彼の首筋から顔の半分にかけて、どす黒い『泥』のような呪いが深く浸食し、皮膚が爛れ、眼球が赤黒く濁っている。
ヴァルナによって直接噛み付かれ、流し込まれた『怨泥』。それが彼の霊基を内側から腐らせ、致命的な崩壊をもたらしているのだ。
ゴボッ、とジルの口から黒い泥が吐き出される。
すでに正気などどこにもない。破滅の淵に立ちながら、彼は両手で恭しく、黄金に輝く『聖杯』を高く掲げた。
「おお……ジャンヌ!私の、美しきジャンヌ!」
ジルは、自身の肉体が腐り落ちていく激痛など全く感じていないかのように、狂喜の笑みを浮かべて彼女の傍へと歩み寄る。
「我らは、まだ負けてはいない。神の定めた理不尽を、この杯に満ちる絶望で塗り替えましょう!」
ジルの手の中で、黄金の聖杯が底知れない魔力の光を放ち、薄暗い玉座の間を不気味に照らし出す。
呪いに侵され狂笑する狂信者と、記憶なき憎悪に縋る竜の魔女。
破滅の淵に立つ二人の影が、聖杯の放つ絶対的な光に照らされ、一つのおぞましい絶望となって玉座の壁に重なり合った。
「さあ、見せてあげましょう!! 我らが愛と復讐の、真の結末を!!」
最奥の玉座に、再び特大の絶望が満ちていく。
特異点の決着は、まだ終わっていなかった。