Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
「……き、れい」
肺から漏れ出たのは、声とも呼べない微かな空気の震えだった。
ガラスのように焼け焦げ、抉り取られたクレーターの中心。仰向けに倒れ伏す清姫の網膜に、どこまでも高く、澄み切った特異点の青空が映り込んでいた。
神代の狩人を焼き尽くした代償は、彼女自身の存在そのもの。
燃え盛る業火を己の魂から引き出し続けた肉体は、すでに足先からボロボロと炭化して崩れ落ちている。肉を裂く矢の激痛と、霊基が内側から焼却されていく絶望的な苦痛。常の英霊であればとうの昔に意識を手放し、光の粒子となって霧散しているはずの損壊率。
それでも彼女の胸の内を満たしていたのは、苦悶ではなく、全てを出し切ったという途方もない『爽快感』であった。
いつ消滅してもおかしくない限界の淵で、彼女はただ己の狂気と気合のみを楔にして、この現世に自身の魂を縛り付けていた。
――自分を迎えに来てくれるであろう、愛しい人を待つために。
だが、限界はすでに喉元を過ぎている。
己の想いがどれほど強靭であろうと、格上の英霊の宝具を真っ向から受け、命を燃料に燃やし尽くした事実は覆らない。彼女の霊核は砂の城のように崩壊を始めていた。
確かな消滅を実感しながらも、彼女の胸の内にある不思議なほどの清々しさ。
――全てを出し切った。後悔などない。悔いなど、ひとつも――。
そこまで考えかけ、彼女は内心で小さく首を横に振った。死を目前にした美しき嘘で、自分を誤魔化す必要などない。
(……本当は、お会いしたかった)
消滅の予感を前にして、清姫は己の内に嘘偽りのない本音をこぼす。
死の淵で、あの方の姿を目に焼き付けたかった。
腕の中で看取っていただきたかった。
身を粉にして尽くした自分を、ただ一言、褒めてほしかった。
叶わぬ願いへの口惜しさが、炭化した胸の奥をチリチリと焦がす。
諦めとともに彼女は静かに瞼を閉じようとして――
「――ずいぶんとボロボロになったな。……俺も人のことは言えないが」
――その声を聞いた。
清姫が弾かれたように目を開く。
そこに立っていたのは、狂乱の脳内が創り出した甘い幻影ではない。
本物の彼が、そこにいた。
「安珍、さま……ッ!!」
清姫の瞳が、狂おしいほどの歓喜に輝く。
その瞬間、崩壊し始めていた彼女の霊基の消滅が、執念によってピタリと停止した。否、止まったように見えているだけだ。限界を超えた魂が、最後の一瞬だけ奇跡のように明滅を維持しているに過ぎない。
「清姫」
彼が自身の名を呼んだ。ただそれだけで、彼女の胸は張り裂けんばかりに躍る。
立ち上がらなければ。愛しい人の前で、這いつくばっているわけにはいかない。
清姫は無理やりに腕に力を込め、身を起こそうとする。
しかし、限界を迎えた身体は言うことを聞かない。
中途半端に浮いた身体がバランスを崩し、再び硬い大地へと叩きつけられそうになる。
――ふっ、と。
倒れ込む彼女の背中と後頭部を、彼が身を屈めて両腕でしっかりと抱き留めた。
「無理をするな」
耳元で囁かれる、低い声。
清姫は、自分を支える彼の『腕』の感触に、微かな違和感と、そして圧倒的な歓喜を覚える。
彼女の背を抱くその腕からは、かつて彼が纏っていたものとは異なる、強大で異質な呪いの波動が放たれていたのだ。
(ああ……安珍様から、わたくしと同じような、愛おしい熱を感じます……)
清姫は、自分を支える腕から伝わるその「竜の気配」に、魂の奥底で深いシンパシーを覚えた。
愛する人が、どこか自分と似た存在へと近づいてくれている。彼女の狂気は、その未知の変質すらも「二人の魂の結びつき」と解釈し、至上の幸福へと変換していく。
「消滅の間際に……わたくしに、会いに来てくださったのですね」
「そうだな。……お前が、全て終わったら戻ってくるようにと、そう言ったんだろう」
ヴァルナは、感情の読めない顔のまま、静かにそう答えた。
彼女の妄想に付き合う気などないはずの男が、その事実だけは律儀に肯定する。口元には、微かな微笑みすら浮かんでいるように見える。
その言葉だけで、清姫の魂は完全に救済された。
だからこそ、ここで消滅しなければならない己の運命に対する、耐え難い『口惜しさ』が再燃する。
「戦いの後……結婚するというお約束。果たせず、申し訳ありません……」
「……うん、あぁ」
こいつは、何を言っているんだ。
内心で極めて冷徹に疑問符を浮かべながらも、ヴァルナはバーサーカーの論理を深く思考することを早々に放棄し、適当な相槌を打つ。
「マスター! 最後に、キスをしていただけませんか」
「……なぜ」
「わたくしのスキルに、『焔色の接吻』というものがありまして。していただけるのでしたら、あらゆる呪い、障害を撥ね退け、『スーパー清姫ちゃん』になることも吝かではありません! 気合で復活できるかもしれませんし!」
おどけたような、明るい声。
だが、ヴァルナの「魂を観測する眼」は、そのふざけた提案の裏にある、彼女の痛々しいほどの献身を見抜いていた。
彼女は、異物を取り込んで呪いに蝕まれているヴァルナの痛みを、キスという行為を通じて自らが引き受け、少しでも彼の重荷を軽くしようとしていたのだ。
なにか、私情のようなものも見えるが。
「まあ、代償としてマスターの将来が、お婿さん確定になりますが!」
「そうか。――断る」
ヴァルナは、一秒のラグもなく、氷のように冷たく即答した。
己が負った呪いは、己の選択の結果だ。他者に肩代わりさせるなど、彼が許すはずもない。
「……そうですか。残念です」
清姫は、寂しげに、けれど彼のその一切揺るがない在り方に安堵したように、ふわりと笑った。
「……ありがとうございます、マスター」
唐突な礼の言葉。
ヴァルナは訝しげに眉を寄せる。キスを拒絶したというのに、何に対する感謝なのか。心当たりがいくつか脳裏を過るが、彼の思考の先を行くように、清姫は静かに答えを口にする。
「ここに来てくれたこと。……こうして、わたくしのために、時間を使ってくれていること」
彼女は、血に濡れた美しい顔で彼を見上げる。
狂気に呑まれているはずの彼女の瞳は、今この瞬間だけは、誰よりも鮮明に「ヴァルナ・クロス」という男の本質を捉えていた。
「本当は、今すぐにでも戦場へ行きたい。……先へと進みたいと、そう思っているのでしょう?」
「……」
ヴァルナの瞳が、微かに見開かれる。
「マスターが、マシュさんに対して……他の方々以上の感情を向けていることは、わかっていました」
彼女の言う通りだ。
彼にとって、マシュ・キリエライトという少女は自身の美意識と快楽の交差点にいる「特別な存在」である。彼女を案じているのならば、本来は一秒でも早く城へ駆けつけるべきだろう。
にもかかわらず。
彼は、自らが「ハズレ」と評価し、用済みとなったはずのバーサーカーの最期を看取るために、足を止めた。
彼にとって、極めて非合理的な時間の浪費。
だが、その『無駄』な行動こそが、彼が清姫という一人の英霊の戦いに対して払った、最高純度の敬意であり、純粋な感謝の現れに他ならない。
彼が自分に向けてくれた、理屈ではない不器用な優しさ。
それに気づいた清姫の胸の奥から、彼への愛おしさが津波のように溢れ出しそうになる。
だが、そんな大好きな彼だからこそ。
彼女は、この溢れる想いに、そっと優しく蓋をした。
「あまり時間をかけさせても、申し訳ありませんので。……最後に」
彼女の身体を構成していたエーテルが、光の粒子となって凄まじい勢いで空へ溶け出す。
もう、限界の砂時計は落ちきった。
清姫は、最後の一瞬まで彼に満面の笑みを向けたまま、高らかに宣言する。
「またの機会に、お会いしましょう!! わたくしとあなたは、絶対に巡り合う運命なのですから!」
彼女の純粋すぎる愛は、死という概念すらもただの通過点へと塗り替える。
「楽しみにしております! あなた様に巡り会う、その日まで!!」
言い終えた瞬間、清姫の身体は弾けるように無数の光の粒子となり、澄み渡る特異点の青空へと吸い込まれて消滅した。
後には、主を失った焼け焦げた扇子と、乾いた風だけが残される。
「……不穏な呪いを残して消えたな」
空になった両腕を見下ろし、ヴァルナは極めて淡々とした声で独りごちた。
だが、その声色に嫌悪感はない。
「それも、良いか」
天に昇っていくその金色の光を、数秒だけ静かに眺める。
そして彼は、己の内側にある不要な感傷を綺麗に切り捨てると、踵を返し、最後の決戦が待つオルレアン城へと向けて、爆発的な脚力で駆け出した。
今日は二話投稿しました!
純愛系はここでお仕舞い。次の話から最終戦へ続きます!!