Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
特異点の最奥、オルレアン城・玉座の間。
死の淵に追い詰められた竜の魔女と、引導を渡すべく旗槍を構えるジャンヌ・ダルク。張り詰めた決着の空気を、吐き気を催すほどの濃密な腐臭と、黄金の極光が強引に切り裂いた。
「おお……ジャンヌ! 私の、美しきジャンヌ!」
玉座の暗がりから歩み出てきた男の姿は、まさしく異様の一言であった。
キャスター、ジル・ド・レェ。首筋から流し込まれた『呪い』によって肉体の半分がドロドロに腐り落ち、一歩踏み出すたびに黒い血肉が石畳にこぼれ落ちている。
だが、彼の顔に痛みの色は一切ない。その爛れた眼球は、ただひたすらに倒れ伏すジャンヌだけを恍惚と見つめ、狂喜の笑みを浮かべていた。
「我らは、まだ負けてはいません。神の定めた理不尽を、この杯に満ちる絶望で塗り替えましょう!」
彼の手の中で、規格外の魔力結晶――『聖杯』が底知れない光を放っている。
呪いに侵され狂笑する狂信者と、記憶なき憎悪に縋る竜の魔女。破滅の淵に立つ二人の影が、聖杯の放つ絶対的な光に照らされ、一つのおぞましい絶望となって玉座の壁に重なり合った。
『マシュ、ジャンヌ!警戒してくれ!キャスターの手元から、測定不能なレベルの魔力炉心を検知した!……聖杯だ!』
通信機から、ロマニ・アーキマンの緊迫した叫びが響く。
マシュは即座に巨大な十字盾を前面に構え、その全身の筋肉を硬直させた。
「ジル……」
「おぉ、何という痛ましいお姿に……」
ジルは大仰な身振りで彼女を背後へ庇い、芝居がかった声で優しく囁く。
「ええ、ええ。すべて、この私にお任せください」
腐肉を落としながら愛を語るその狂気に、マシュが戦慄の声を漏らす。
「ジル……やはり、貴方でしたか」
だが、その傍らに立つジャンヌ・ダルクの澄んだ瞳は、一切の揺らぎを見せなかった。
毅然とした態度で、彼女は目の前の男を真っ直ぐに見据える。
「おやおや」
胸に手を当てて恭しく、ひどく仰々しい仕草で一礼をした。
「まさか、ここまで乗り込んでこられるとは。さすがはジャンヌ、感服いたしました」
それでも、ジャンヌの眼差しは冷徹なまでに厳しいままだ。
その視線に射抜かれた瞬間。ジルの大仰な態度は掻き消え、口から黒い泥を撒き散らしながら、突然火のついたように狂乱し始めた。
「だが、聖女よ!どうしてなのでしょうか なぜ私の邪魔をするのですか!!」
石畳を強く踏み鳴らし、血走った眼で喚き散らす。
「私の世界に入り込み、あらゆるものを踏みにじり、あまつさえジャンヌ・ダルクを殺そうとするなど!」
その絶叫に対し、ジャンヌは静かに、しかし絶対的な重さを持った声で告げた。
「……言うまでもありません。すでに結論は出ていますが、あえて問いましょう」
彼女は、ジルの背後で息も絶え絶えになっている『もう一人の自分』を見据える。
「彼女は、本当に『私』なのですか?」
それは、すでに確定した真実の答え合わせ。
ジル・ド・レェの双眸が見開かれる。
「なんと、なんと、なんと、なんと!なんという暴言!」
彼は髪を掻き毟り、怒り狂ったように吼えた。
「聖女として怒りを抱きましょう!絶望しましょう!この彼女こそ、紛れもなく本物であり、ジャンヌ・ダルクの秘めたる闇の側面そのものなのです!」
唾を飛ばして事実を捻じ曲げようとする男に、ジャンヌは虚実を貫く剣のように言葉を突き刺した。
「聖杯を用いて、この特異点を作ったのは竜の魔女ではありません。……貴方ですね」
手元で黄金の光を放つ聖杯。
その事実の提示に、盾を構えていたマシュがハッと息を呑む。
困惑していたのは、マシュだけではない。
「どういう、こと……?」
この場で最も心を乱していたのは、他ならぬジャンヌ・オルタであった。
彼女は自身のルーツを「ジャンヌ・ダルクの側面」であると信じて疑わなかった。だからこそ、神を憎み、フランスへの復讐を果たすべく猛威を振るうことができた。
だが今、己の存在を支えていたメッキが音を立てて剥がれ落ちようとしている。
「そもそも、竜の魔女は英霊の座に決して存在しないサーヴァントです。貴方との問答で、確信に変わりました」
ジャンヌは、己の偽物へ向けて、残酷なまでの真実を告げる。
「私の別側面でない以上、そう結論付ける他ありません。彼女はいったい何者なのか。そのルーツはどこにあるのか。――それはすなわち、その聖杯に他ならないと」
包み隠されてきた嘘が、ついに白日の下に晒された。
その宣告は、城の最奥の空気を凍りつかせるほどに重く響き渡る。
「何を、言っているの……わからない……私が……私は……」
オルタの薄暗い瞳が、激しく揺れ動く。
彼女の精神に、致命的な亀裂が走った。
私はジャンヌ・ダルクではないのか。この私を突き動かしている激しい憎悪は。
「ジル……嘘よね? 私は、ジャンヌ・ダルクだと……」
すがりつくようなその声は、今にも千切れそうに弱々しかった。
だが。
ジル・ド・レェは、悲痛な彼女の問いかけに対し、あっけらかんとため息をつく。
「……恐れ入りました」
観念したように肩をすくめ、後ろの彼女を一瞥してから、再びジャンヌへと向き直る。
そして、両手を大仰に広げ、高らかに真実を叫んだ。
「その通り! 竜の魔女こそが、我が願望!!」
『まさか……ジャンヌ・ダルクが聖杯を所持して暴走していたのではなく……!』
通信越しに響くロマンの戦慄を引き継ぐように、ジャンヌが静かに言葉を続ける。
「貴方は、私を作ったのですね。その聖杯を使って」
「私は貴方を蘇らせようと願ったのです、心から!」
ジルは、自身の狂気を微塵も恥じることなく、熱に浮かされたように語る。
「しかし、その願いは拒絶されました。万能の願望機でありながら!だが、私の願いなど貴方以外にはない。ならば、私が創造する!私が信じる聖女を、私が焦がれた貴方を!そうして創り上げたのが彼女なのです!」
自らの最高傑作を自慢するように、彼は背後のオルタを指し示した。
「そう……それを、彼女は知らなかったのですね」
ジャンヌは、哀れみすら浮かべた瞳で目を伏せる。
「だから、話していて所々食い違っていた」
ガタン、と。
ジャンヌ・オルタの中で、何かが完全に崩落する音がした。
己が何者でもなかったという事実。
フランスを憎んでいたこの黒い感情すらも、自分のものではなく、目の前の狂信者によって勝手に設定された
憎悪の炎が消え失せ、彼女の魂はただの空っぽの容れ物へと転落した。
だが、ジルはその彼女の精神の崩壊に全く気づかない。いや、彼の狂った瞳には、偶像しか映っていないのだ。
「ええ!ですが、何の問題もありません!彼女は私の願望そのものなのですから!」
ジルは爛れた顔に極上の笑みを浮かべ、両手を天へと掲げた。
「彼女さえいれば……ジャンヌ!貴方と私で、この国に復讐を果たして――」
――ズチュ。
極めて無機質で、生々しい肉の潰れる音が、玉座の間に響いた。
彼の言葉は、そこで途切れることとなる。
「…………?」
ジルは、自身の胸から生えた『それ』を、信じられないものを見るような目で見下ろした。
鋭く研ぎ澄まされた、呪いの旗槍の切っ先。
「ジャン、ヌ……?」
彼がゆっくりと背後を振り返る。
そこには、旗槍を握りしめたまま彼を背後から深々と貫いている、ジャンヌ・オルタの姿があった。
怒りでも、悲しみでもない。
彼女の顔には一切の感情がなく、その薄暗い瞳は光を失い、もはや何も映していなかった。まるで、操作する糸が切断されただけの操り人形が、ただ物理的な質量としてそこに在るかのような、完全なる虚無。
ドサリと、肉体が崩れ落ちる。
その手からこぼれ落ちた黄金の杯が、宙を舞い――まるで磁石に吸い寄せられるように、空っぽになったオルタの胸の中へとズブズブと統合されていく。
そして。
底なしの虚無と、万能の魔力結晶が結びついたことにより、彼女の霊基から圧倒的な暴走を引き起こす漆黒の魔力が吹き荒れた。
ゴオォォォォォォォォォォッッ!!!!
玉座の間を吹き飛ばすほどの、おぞましい魔力の暴風。
すべてを失い、何者でもなくなった竜の魔女が、世界を終わらせる巨大な災害となって、真の絶望の産声を上げた。