Fate/Strange Order : 冠位影法録(シャドウ・レコード) 作:りー037
鼓膜を破るほどの絶叫とともに、玉座の間を吹き飛ばす圧倒的な魔力の嵐が吹き荒れた。
空っぽになった虚無の器へ、万能の願望機である聖杯がズブズブと沈み込み、統合される。
無限に湧き出す漆黒の魔力が、彼女を中心に竜巻となって荒れ狂う。
『二人とも、退避――ザザッ、ザァァァァァァァッ!!』
通信機から飛んだロマニ・アーキマンの警告は、空間を歪ませるほどの魔力干渉によって、耳障りなノイズの砂嵐へと掻き消された。
「くぅぅッ……!」
マシュ・キリエライトが咄嗟にジャンヌ・ダルクの前に躍り出る。巨大な十字盾を構え、全身の筋肉と魔術回路を限界まで軋ませて、凄まじい爆風を正面から受け止めた。
城の堅牢な石壁に亀裂が走り、ステンドグラスが粉々に砕け散る。
やがて、鼓膜を圧迫していた暴風が、嘘のように静まった。
濛々と立ち込める粉塵の奥。
二人が油断なく視線を向ける先で、竜の魔女は静かに佇んでいた。
彼女の足元には、己を創り出した狂信者、ジル・ド・レェが転がっている。
だが、彼女の薄暗い瞳は、その死体にも、盾を構えるマシュやジャンヌにも、何の感情も向けていなかった。
ただ、底なしの『虚無』だけが、彼女の顔に張り付いている。
「……やめなさい。これ以上戦う必要はないはずです」
ジャンヌが、悲痛な声で呼びかける。
復讐の根拠はすでに失われた。これ以上、自分自身を傷つける必要などどこにもないのだと。
だが。
「……黙りなさい」
返ってきたのは、感情の抜け落ちた、ひどく冷たい声。
「私には、これしかないのよ」
ジャンヌ・オルタの瞳の奥で、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた感情の残骸が、一つの極めて冷徹な結論へと収束していく。
自分が何者でもない、ただの造られた偽物であるという事実。それに耐えられるほど、彼女の自我は強靭ではない。何かに縋らなければ、自らの手で自らの精神を粉々に砕いてしまう。
――私には、与えられた
存在意義の欠如。
だからこそ彼女は、己の正気を完全に放棄し、アヴェンジャーとしての在り方を、模造の『オーダー』として自らの魂に再設定した。
フランスに復讐し、すべてを壊す。その機械的な目的だけを、空っぽの器に満たす。
「ハァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
それは、怒りではなく、自らの魂を駆動させるための無機質な排気音。
絶叫と共に、彼女が地を蹴った。
――速い。
マシュの優れた動体視力すらも、その初速を完全には捉えきれなかった。
聖杯の莫大なバックアップによって引き起こされた、物理法則を無視した超加速。その速度だけで言えば、ヴァルナの平時の最高速すらも凌駕する、圧倒的な最速の暴力。
周囲の意識を置き去りにし、一瞬でジャンヌの眼前にまで肉薄した。
すべてをすり潰し、壊す。その絶対的な殺意を乗せた呪いの旗槍が、ジャンヌの首を刎ね飛ばさんと真横に薙ぎ払われる。
「――させないッ!!」
だが、マシュがそれに食らいついた。
二人の間に滑り込み、十字盾の面を絶妙な角度で傾けてその一撃を受ける。ただ防ぐだけではない。威力を
しかし。
「邪魔よ」
冷ややかな声と共に、マシュの技術ごと、その腕の骨を粉砕しかねないほどの理不尽なパワーが叩き込まれた。
「きゃぁッ!?」
技など意味をなさない。圧倒的な暴力。
マシュの身体はボールのように大きくサイドへと弾き飛ばされ、城の分厚い石壁に激突してようやく止まった。
「ぐぅッ……!」
「マシュさんッ!!」
ジャンヌが悲鳴のように叫ぶ。
だが、戦場においてその一瞬の隙は致命的だった。
「よそ見してる場合?」
耳元で、死神の囁きが響く。
振り返るよりも早く、黒い怨炎を纏った旗槍の突きが、ジャンヌの心臓目掛けて放たれた。
「くぅッ!」
ジャンヌは咄嗟に自身の旗を盾にして、その刺突を受け止める。
激しい鍔迫り合い。聖杯の魔力が乗ったその炎は、ただ近づくだけでジャンヌの霊基をチリチリと溶かし始めるほどの異常な熱量を放っていた。
拮抗は、わずか一秒で崩れる。
オルタは手首を返し、ジャンヌの旗を上空へと強引に弾き飛ばした。ガラ空きになった腹部へ、一切の容赦なく、拳を深々と叩き込む。
「ガ、ハッ……!」
霊核を激しく揺さぶる重い一撃。ジャンヌの身体がくの字に折れ曲がり、後方へと無惨に吹き飛ばされて石畳を転がる。
「こんなもの?」
上から見下ろす竜の魔女。その姿は、まさしく手が付けられない理不尽な災害そのものであった。
彼女が、倒れ伏すジャンヌへトドメを刺そうと一歩を踏み出す。
「はぁぁぁぁッ!!」
気力を振り絞った絶叫と共に、先ほど壁に叩きつけられたマシュが、サイドから重戦車のように突進してきた。
盾の巨大な質量と、自身の体重を十全に乗せた、上段からの強烈な叩きつけ。
「――遅い」
オルタは、その渾身の一撃を正面から受けることはしない。
半身を引いてマシュの突進を躱すと同時に、旗槍の『腹』を使って盾の側面を滑らせるように受け流す。姿勢が崩れ、完全に無防備となったマシュの脇腹へ、的確に拳をめり込ませた。
「あ、ぐ……ッ」
空中で完全に体勢を崩し、マシュは石畳へと激しく倒れ込む。
肺の奥からすべての空気が強制的に吐き出され、酸素が取り込めない。全身の骨が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅する。
苦しい。
目の前に立つ、聖杯という魔力炉心を宿した絶望。どうすれば、これを超えられるというのか。彼女の魔力は、時間経過と共に、さらに爆発的に膨れ上がっているのだ。
(立ち上がらなければ……。このままではいけないッ)
マシュは激痛を無視し、自分自身の心に薪をくべ、意志の炎を燃え上がらせる。
震える腕で盾を杖代わりにして、彼女はどうにか膝を立て、血の混じった荒い息を吐きながら立ち上がった。
だが、その決死の抵抗を前にしても、ジャンヌ・オルタの瞳に感情が灯ることはない。
「あら、まだやるの? 随分と、しぶといわね」
その声も、瞳も、寒気を覚えるほどに冷たい。
こちらを、路傍に転がるただの石ころを見下ろすような、完全なる無関心。
最初に対面した時に見せていた姿など微塵もない。今の彼女が纏っているのは、ただ機械的に眼前の対象を処理しようとする、底冷えのするような絶対零度の殺意だった。
つまらなそうにマシュを一瞥し、そして、先ほどの一撃からまだ立ち上がれずにいる自分と同じ顔の聖女へと、その冷酷な視線を落とす。
――もう、終わりにしよう。
そう言わんばかりに、竜の魔女の足元で、破滅的な魔力が渦を巻き始めた。
玉座の間の石畳がドロドロに溶け出し、大気が陽炎のように歪む。
それは、ただの炎ではない。彼女の空っぽの器に注ぎ込まれた聖杯の魔力が、フランスに対する純粋な『憎悪』という概念に変換され、物理的な破壊力を持って顕現しようとしていた。
『逃げてくれ!!ダメだ、今の彼女の出力は異常すぎる!直撃すれば、完全に蒸発するッ!!』
ノイズ混じりの通信機から、ロマンの悲痛な絶叫が玉座の間に響き渡る。
防御など不可能。特異点の中心核に蓄積されたすべての絶望を束ねた、純度百パーセントの呪いの炎。
だが、マシュ・キリエライトの足は一歩も後ろへ下がらない。
(……私が退けば、後ろのジャンヌさんが消滅してしまう……!)
砕けかけた骨に鞭を打ち、マシュは巨大な盾を前面へと突き立てる。
圧倒的な熱量に皮膚が焼け焦げようとも、彼女はその場から一歩も動かず、盾の裏でジャンヌを完全に庇う位置へと身を置いた。
竜の魔女として降臨したジャンヌ・オルタが、呪いの旗槍を高く掲げる。
虚無であったはずの彼女の瞳に、破滅的な炎の光が反射した。
「全ての邪悪を此処に……!」
紡がれるのは、世界を呪い殺すための絶望の詩。
「剣は憎悪、竜は復讐、炎は応報!刺し貫くは、何もかも――!!」
旗槍が、マシュたちへ向けて無慈悲に振り下ろされる。
「『
放たれたのは、巨大な火竜そのものであった。
城の壁を消し飛ばし、大気を喰らい尽くしながら迫り来る黒き業火の津波。視界のすべてが憎悪の炎に塗りつぶされ、マシュは盾の柄を握りしめながら、死の熱風に目を閉じた。
だが。
一秒が経過しても、二秒が経過しても。マシュの肉体が炎に焼却されることはなかった。
「……え?」
恐る恐る目を開けたマシュの視界。
盾のさらに前、押し寄せる業火の津波と自分たちの間に――いつの間にか、『一人の男』が立ち塞がっていた。
「せん、ぱい……?」
マシュの口から、掠れた声が漏れる。
彼は、全身にどす黒い呪いを纏い、マシュたちを庇うようにして、背中でその極大の炎を真正面から受け止めていた。
ジリジリと、呪いと炎がぶつかり合い、互いの概念を削り合う不気味な音が玉座の間に響き渡る。
「……チッ」
炎の奥、揺らめく業火越しにその男の姿を視認した瞬間。
ジャンヌ・オルタの瞳に張り付いていた、あの機械的で底冷えのする『虚無』が、音を立てて粉々に砕け散る。
思い出す。
あの見下すような硝子のような瞳。自分の誇りも、竜の魔女としての威厳も、すべてをただの物理的な暴力で無惨に蹂躙し、踏み躙った男の顔。
「ガァァァァァァァァァァァァァッ!!」
プログラムされた復讐ではない。彼女自身の、抑えきれない屈辱と殺意。その感情の爆発に呼応するように、宝具の炎がさらに勢いを増し、ヴァルナを焼き殺さんと牙を剥く。
(……これは、強烈な熱量だな)
だが、業火の中心に立つヴァルナの思考は、どこまでも冷静だ。
聖杯のバックアップを受けた憎悪の炎。呪いによる防御を挟んでなお、自身の指先や皮膚がチリチリと焼け焦げていくのを確かな痛覚として感じ取る。
(だが――あの邪竜の吐息には及ばない)
ヴァルナは、己の両腕を静かに胸の前へと交差させる。
視覚的な形状は、以前と何一つ変わらない「普通の人間の腕」である。だが、そこから放たれる気配は異常だった。周囲の空間がギシギシと悲鳴を上げるほどの禍々しい呪力密度。神代の残滓すら孕んだその腕は、見た目こそ人間でありながら、本質は完全に異なる物へと変貌を遂げている。
彼は、迫り来る炎を前にして、その両手で極めて滑らかに『影絵』を結ぶ。
「――『満象』」
男の背後に広がった影が、玉座の間の壁面を埋め尽くすほどに巨大に膨れ上がる。
そして、影の中から顕現したのは、巨大なアメリカゾウの成体すらも凌駕する、圧倒的な質量を持った『象』の式神であった。
パオォォォォォォォォォォォォンッ!!
空気を震わせる咆哮と共に、満象が長い鼻を高く持ち上げる。
――出力最大
ヴァルナの冷徹な声が、炎の轟音を切り裂いて玉座の間に響いた。
狙うのは、目の前から押し寄せる憎悪、そのすべて。
「――放て」
次の瞬間。
満象の鼻から、規格外の圧力を伴った『大洪水』が激しく噴出された。
それは、もはや水の質量兵器。
百万ガロンにも及ぶ重い水塊が、濁流となって玉座の間を蹂躙する。
「な……ッ!?」
ジャンヌ・オルタが驚愕に目を見開く。
彼女が放った宝具の炎と、ヴァルナの呼び出した大洪水が、玉座の中央で正面から激突した。
バチバチバチッ! と鼓膜を破るほどの凄まじい水蒸気爆発が巻き起こる。
勝敗は一瞬で決した。
呪いの大洪水が、業火を強引に圧し潰し、飲み込み、一気に玉座の最奥までを丸ごと洗い流していく。
「あ、あああああああッ!!」
炎を掻き消され、そのまま濁流の直撃を受けたオルタの身体が、抗う術もなく背後の壁へと激しく叩きつけられる。
城の壁が崩落し、水飛沫と大量の瓦礫が一帯ををめちゃくちゃに破壊し尽くした。
やがて、洪水が引き、濃密な水蒸気が晴れていく。
「……遅くなったな」
水浸しになった玉座の間に、ヴァルナ・クロスが静かに立っていた。
その禍々しい呪いを放つ両腕を下ろし、彼は肩越しに、背後で盾を構えたまま呆然としている少女へと、わずかに視線を向けた。