第五階層【血渇円堂】は闘技場を模して作られたフロアであるらしく、他の階層のように迷宮然としていない。罠も無ければ魔物もおらず、探索者を惑わすように壁が配置されているという事もない。
これだけ聞けば小休止にうってつけの階層であるし、実際、第六階層攻略の拠点としてここを利用する探索者パーティも多い。
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だが、『風渡り』の異名を持つ神聖国の騎士、モーブはやや表情を顰めた。
流れる風に厭なモノを感じたのだ。
悪臭が漂っているとかそういう事ではない。風そのものに何らかの悪意が宿っており、その悪意を孕んだ風が静かに、陰湿にこちらを眺めている様な気がする。あるいは、以前この場で戦ったエリゴス・ハスラーを贄として彼方の時空より現れた悍ましき怪物、その残滓が風に混ぜ込まれているのではないか。
モーブは感じた事をそのまま君に告げた。
君は暫時目を閉じ、その場に流れる風から何か感じ取れるものがないかと意識を集中する。
だが、残念ながら君は風との親和性が無い様で、そもそも風が流れているのかどうかさえ分からなかった。
「モーブは幼少の頃、風の精霊の
と、ルクレツィアが言う。
風の精霊の
「その年生まれてくる子らの、1000人に1人は……といった所でしょうか」
君は内心、余り珍しくはないな、ととても失礼な事を考えた。
勿論君は『善(GOOD)』なので、そんな事はおくびにも出さない。
だが、君の内心はある意味で仕方がないものだ。1000分の1程度ではとてもとても。
ライカードでも、ルクレツィアが言う所の
だがその希少性は文字通りけた違いで、ライカードでもっとも才能に溢れていた者(ボーナスポイント60)を参考に、同程度の者が再び現れる確率は、ライカード王国神秘算学研究所の調べによる所ではなんと6400万分の1である。
1000分の1だとライカードでいう所の『逸脱人』(ボーナスポイント30~34)級だ。これは凄いには凄いが、飛び上がって驚くほどではない。
ちなみに君は『優人』(ボーナスポイント15~19)と言った所で、その希少性はせいぜい20分の1だ。才能だけで言うならばモーブに劣る。
しかし君の強さは、積み重ねてきた己の骸と、積み重ねてきた敵の骸に依って成るものであり、才能に胡坐をかいてきたわけではない。
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結局君はモーブの勘を受け入れ、さっさとその場を離れて第六階層へ向かう事にした。
予感だとか直感だとか勘だとか、君はそういったものを軽視しない。まあ君に限らず、ライカードの探索者というものは大体がそうなのだが。
ライカード流の探索作法とはこうだ。例えば初見の迷宮探索。ただ只管勘だけで進み倒し、詰まったらその時はじめて頭を使う。並みいる障害は可能な限り力で解決し、オツムを使わねばならない場面は余り好きではない。
そんな君なので、仲間が厭な予感がするというのならさっさとその場を離れるというのは、至極当然の結論ではあった。
◇
階下から仄かに立ち昇ってくる悪臭に、ルクレツィアはその形の良い眉を僅かに顰めた。
沼地の階層には良い印象がない。まあ印象云々を言ってしまうと、このアヴァロン大迷宮自体に良い印象はないのだが。
ただ、この迷宮あってこそ自分はこの人と巡り逢えたのだと思うと、このアヴァロンという地に来たこと自体は良かったことなのかもしれない、などと思ってしまう。
ルクレツィアは一度死に、そして蘇ってから信仰というものが分からなくなってしまった。神は存在するのか。するとしたらなぜあの様な邪悪な存在を現世に留め置かれるのか。なぜ神に仕える自分達があのような目に遭わねばならないのか。
ルクレツィアは自身の変容を何となく覚えている。それは非常に不気味で、恐ろしいものだった。
朝起きると手の指が一本増えていることに気付き、さらに翌朝、手の指が更にもう一本増え、その日の夕暮れ、身を清めた際に腹部で人間の目玉が瞼をあけてこちらを見つめているのを見つけ、就寝前には右脚の皮膚がずるりと剥けて赤々とした肉が丸見えになっている。変容がどの様なものかイメージするとしたら、このようなものだろう。
自分が人間ではなくなっていく、そのような悍ましい肉体の変化を、どこか他人事の様にして見つめている。例えるならばそんな感じであった。
だが、そんないつか自分が自分ではなくなってしまうという底冷えのする確信は、彼女が主と仰ぐ青年の鉄拳によって叩き潰された。
§
わたくしたちに必要なものは神なのか。
神である、と以前のわたくしならば答えていたでしょう。しかし今はそれが誤りだったと分かります。あの闇に囚われ、自分という存在が少しずつ喰われていくことを経験すれば、誰だってわかる事です。
では必要なものは何なのか。それは光。希望です。
それを見つめてさえいれば心は穏やかに、未来の安寧を信じる事ができる。たとえ闇に堕ちかけていようと、最後には救ってくださる。そう信じられる存在。
この無限の闇のような迷宮に挑むのならば、神では余りに心細すぎます。
希望の光、希望の炎。それがあの方であるとわたくしは気付きました。
わたくしはこの全身と全霊を、我が君に捧げます。
◆
ある意味でトラウマの地であるこの階層を前にして、ルクレツィアは一歩も引かない覚悟であった。
君はそんなルクレツィアの決意はよくわからないが、取り合えず必要な事をする。
──『浮遊』
君たちの足は僅かに持ち上がり、宙に浮き上がった。
そして君はモーブへ指示をする。背に風を送れ、と。
スイー、と君たちは滑る様に第六階層を進んでいく。手強い沼地の魔物も、君たちが音も無く移動してしまうので奇襲をかけようがなかった。
勿論魔物との遭遇がなかったわけではないのだが、君の豪脚が唸ると文字通りの木っ端微塵となって吹き飛ばされてしまう。
キャリエルはぼんやりと突っ立っており、ルクレツィアも特にやる事がない。モーブはそよそよと風を生んでいるだけで、労務とさえ言えない単純な作業だ。君は先頭で腕を組み、たまに襲い掛かってくる魔物を蹴り潰している。
沼地の階層はルクレツィア達が苦労して進んでいった階層だが、君が同行すればまあこの様なものであった。