最後の突撃になるだろう、とレダは思った。
そう思った途端、迷いは身心から消え失せる。残っている法力のすべてを右の拳へ流し込む。これまでのように脚に割いて駆けることはしない。一歩で跳び、あの顔の高さまで一息に届き、額に嵌まった第三の眼を打ち砕く──ただそれだけを考えた。考えることを一つに絞ると、心は不思議なほど静かになるものだ。
床を踏み抜いた次の瞬間、レダの体は宙にあった。群がる蛇の壁も、砲弾のように虚空を突っ切るレダの身に触れた途端にパチンと弾け飛ぶ。
緑褐色の巨体がみるみる迫る。
三つの眼がレダを捉えると、六本指の両手が胸の前で交差された。レダが満身に充溢させる絶殺の気配を決して軽んじてはいない証左だ。万全の体勢で受け止める気なのだ。
──初撃で守りを崩し、次撃で奴の核を破砕する。
レダの目論見は、中途までは完璧に履行された。
極度に圧縮された法力を宿した聖拳は音を置き去りにし、轟音と共にジャーヒルの双腕を爆散させ、
堪らず膝を突いたジャーヒルにレダは──。
◆
ぎりり、と。
レダは膂力でも法力でもない何かを強く握り込んだ。
それに名は無いが、ある者には決意、またある者には覚悟、はたまた別の者にとっては捨て身だの自棄だのと様々な呼ばれ方をする。
その恐るべき暴威たるや。
相対するジャーヒルには、あたかも空間が軋んで渦を巻き、眼前の女の拳へと収束していくかのように見えたことだろう。
だが、その技巧の技の字も見当たらないただの渾身の一撃は、ついぞ放たれることはなかった。
なぜなら──
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・
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「猊下ァ──ー!」
警告の怒号と同時、レダは自身の背にどろりと灼熱するものを感得した。その熱が命そのものであると理解したのは、一拍遅れてからだった。
振り絞りかけていた力が霧散する。練り上げた法力は拳から零れ落ち、膝から力が抜けた。頽れかかる体を、背後の何かが串刺しのまま支えている。否──支えているのではない。獲物を逃さぬよう、縫い止めているのだ。
振り向けた視界の端に映ったのは見慣れた白い鎧。首を失ったアーク・ロードの亡骸だ。
思い当たる節はひとつしかない。突入の際に突き破ったあの蛇の壁だ。奴はあの中に亡骸を埋めて伏せておいたのである。レダが通り抜けた後の破孔から死体は這い出し、首の断面から生えた三本の蛇に傀儡のごとく操られ、初撃にすべてを注いで足を止めた法皇の背へ音もなく忍び寄っていた。双腕ごと初撃を受けて見せたのも、獲物の意識を正面へ縫い付けておくための餌に過ぎなかった。警告の怒号に反応して半身を捻ったのが、僅かに急所を逸らしたらしい。逸れてこれだ。
生涯を懸けて主を護るはずだった臣下の腕に、護られるべき主が刺し貫かれている。誰の腕だったのか、と考えかけて、レダはやめた。名を思い出せば、拳が鈍る。金色の六つの眼が嘲弄うようにレダの横顔を覗き込んでいた。
体を捩じるなり、レダは背後の亡骸へ拳を叩き込んだ。聖印の刻まれた鎧ごと胴が砕け、白い破片が飛散する。胸から突き出ていた腕も二撃目で付け根から粉砕した。が──抜けきらない。折れた断片が胸郭の内側に居座って、呼吸のたび、ぎしりと軋む。
見上げれば、膝を突いていた巨体が緩慢に起き上がりつつあった。爆散したはずの双腕の断面からは夥しい蛇が溢れ出し、縒り合わさり、編み上がって、既に新たな腕の形を取り戻し始めている。神経の寸断も腕の喪失も、この化生にとっては数呼吸ぶんの不調でしかないらしい。
──しくじった。
体勢の崩れたレダを見下ろすジャーヒルが、両の手を組んだ。上から叩き潰すつもりだ。今のレダには受けきれない。霧散した法力を再び巡らせるには、少々時間が要る。
だが、ジャーヒルは鉄槌を振り下ろす前に吹き飛んだ。
「ぶふふ……儂はこれでも人のつもりだったのですがね」
豚鬼の英雄、サー・イェリコ・グロッケン。巨躯を吹き飛ばした張本人である。
しかし、その姿は常のものではなかった。
筋骨隆々というよりは肥満体に近い印象を与える体躯が、なんと普段より一回りも膨れ上がっている。無論、脂肪の仕業ではない。灼けた鉄のような皮膚が全身を覆い、両の目は血走り、さながら炎の魔神めいた様相を呈している。
だがこれこそが、豚鬼族の真の姿といえよう。
彼らの肉体は、根幹を成す筋肉層と、いざという時のために力を蓄える脂肪層とに分かたれている。理由は単純、恐るべき燃費の悪さゆえだ。
長所たる膨大な筋肉は、駆動させるだけで途方もない糧を食う。日常はまだよい。しかし外敵に襲われたとなれば、戦うにせよ逃げるにせよ全身の筋肉を一斉に目覚めさせねばならない。その刹那、脂肪層に蓄えられた糧のことごとくが筋肉へと注ぎ込まれる。出力は極めて短時間ながら、小型の竜種にも比肩するとされる。
後先を考えぬ全力稼働ともなれば、城壁すら破りかねぬ膂力を発揮するという。もっとも、そんな真似をすれば数分と保たず身動きを失い、彼らは餓死する。焚けば死ぬ火を、豚鬼は腹に抱えて生きているのだ。
「グ、グロッケン殿……」
「法皇猊下、お下がりください。息を整え、法力を巡らせ直すことですな。時は──多少なら稼ぎます」
振り向きもせずにグロッケンは言った。灼けた皮膚から陽炎のような熱気が立ち昇り、闘技場の腐臭を焦がしている。
「その火はあなたの命を──」
「ブフゥ。ご案じ召さるな。まだ半分も焚いてはおりませんわい。……とはいえ」
血走った小さな眼が、闘技場の端で身を起こす巨体を睨んだ。
「長話の暇もなさそうですな。まあ丁度良い」
・
・
この時グロッケンの胸中にあったのは、どれだけの命をどれだけ費やせば目的を達成できるかという、冷徹極まる打算であった。探索者とは畢竟このようなものなのだ。戦闘でも探索でも、彼らは彼らなりの目標を持つ。そしてその達成に対して極めてプラグマティックな判断を下す。
「ブフゥ……まずは溜める。時を稼ぐぞ、三人死ね」
グロッケンがそう言うと、まるで影のようにぬらりと三つの影が現れた。猟犬である。(※第52話:The most powerful saint in Canaan③参照)
三人のうちの一人が一歩前へ出た。
ゆらり、ゆらりとした歩様はまるで酔っ払っているかのようだ。
ジャーヒルの三つの眼がその酔歩を追う。
しかし──。
眼が捉えていたはずの位置から男が掻き消える。次の刹那には巨体の懐、その次には肩口、更には編みかけの右腕の断面。都度、短刀の閃きが走り、編まれかけの蛇の束がぼとぼとと削ぎ落とされていく。
幻術ではない。ましてや魔法でもない。
酔歩は眼の追随を狂わせるための歩法、消失は全身の関節を同時に撓めて放つ瞬発、分身と見えたのは外套の裏に縫い込まれた鏡片の悪戯である。種を明かせばそれだけの、がしかしそのひとつひとつに数十年の研鑽が漬け込まれた純然たる技であった。
二人目が動く。
こちらは走りもしない。蛇の死骸を被って闘技場を転がり、汚泥に紛れる襤褸切れのように死角から死角へと流れていく。額の眼がようやくそれを見出した刹那、男は口中の革袋を噛み破り火口へ息を吹いた。
ごう、と炎が膨れた。
油と発火粉──理屈だけなら大道芸の火吹きと同じである。芸人と違うのはその火線が寸分違わずジャーヒルの左の眼を舐めたことだ。眼球の表面で脂が爆ぜ、巨体が仰け反り、歌に初めて悲鳴じみた音が混じった。
化生は困惑していた。
無理からぬことだ。奴の知る人間とは、斬れば死に掴めば潰れ火など噽かぬ柔い獲物のはずなのだ。それがどうだ。眼前の三匹ときたら捉えられず見出せずあまつさえこちらの眼を焼いてくる。
だが──種の割れた手品は二度目から色褪せる。
三度目の消失その出際を、編み上がったばかりの右腕が薙いだ。酔歩の男が胴から二つになって落ちる。断末魔はなかった。落ちながら男は懐の陶瓶を握り潰しており骸を呑もうと殺到した蛇どもは触れた端から泡を噴いて痙攣した。己の骸ひとつ罠として使い切ったのである。
二人目は火を吹いた姿勢のまま横合いから奔った大蛇に胸を貫かれた。革袋の油に引火して男は松明と化したが、燃えながらなお膝を折らず、その身を巨体の足元の蛇溜まりへ自ら投げ込んだ。寄生できる骸を残さず、あわよくば延焼させる。そういう死に方まで恐らくは平時から仕込んであったのだ。
そして三人目が、死んだばかりの男と寸分違わぬ酔歩で揺れ始めた。
同じ歩様。同じ消失。同じ鏡片の残像。屠ったはずの獲物が再び眼前で舞い出したのだから化生の混乱は極まった。三つの眼が忙しなく明滅し、蛇の群れは既に事切れた骸へ無駄な牙を突き立てる。個の貌を捨て互いの技をそっくり写し合う──それが猟犬の流儀であった。誰が死んでも誰かが同じ犬として続きを舞えるように。
その三人目がふいにぴたりと止まった。
止まるなり伸び上がった大蛇が男を頭から呑む。勝ち誇るように牙が鳴り──直後蛇の胴が内側から膨れ破裂した。呑まれる寸前に男が両腕へ抱え込んでいたのは仲間の形見の陶瓶と残る発火粉のすべてであった。
都合三つの命が費えた。
ジャーヒルの左の眼は白濁して塞がり、編み直したばかりの右腕は千々に削がれた。そして何より──化生の意識はこの数十呼吸のあいだ闘技場の隅に蹲る豚鬼から完全に引き剥がされていた。無論眼とていずれは編み直されよう。だがその「いずれ」までの時こそが三人の欲したものだった。
猟犬とはそういう連中だ。
吠えず誇らず、囮となれば骨も残さない。