ダンジョン仕草   作:埴輪庭

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第65話:暗き滅びの影

 ◆◆◆

 

 神とは何であったか。

 

 まあ色々な説があるわけだが、絶対の他者であるというのが一応の解になる。問題はその先だ。

 

 絶対の他者であるとして、神は()()できるのか。善き神と悪しき神という分類は成立するのか。したとして、慈悲の神と破滅の神という二項対立に果たしてどれほどの意味があるのか。

 

 結論から言えば、人間の側には大いに意味がある。

 

 蟻が人間を「巨大な靴の神」と「パン屑の神」に分類したところで、見下ろす側の人間にとっては知ったことではない。だが──蟻にとっては一族の存亡に関わる重大事だ。靴の神に踏まれれば全滅し、パン屑の神に加護を貰えれば冬を越せる。蟻にとってこの分類は切実を極めるだろう。

 

 同様に、脆弱な人間どもは神を切り分けてきた。光の神、闇の神、豊穣の神、死の神、火の神、その他諸々。

 

 だが切り分けたとて所詮それは自己満足にすぎない。人ごとき虫けらに神を選ぶ権利などないのだから。

 

 祈りとは差出人の都合だけで投函される宛先不明の手紙だ。天に向かって絶叫したところで、それを拾い上げるのが慈悲深い何かなのか、あるいは狂い果てた化け物なのかを、手紙を出した側が指定する手立てなど存在しないのである。

 

 魔術師が精霊を喚び出すのとは根本からして異なる。精霊喚起には真名があり、代価の相場があり、術式という名の厳格な契約書が存在する。双方が署名捺印した上で貸し借りを行う、極めて真っ当な商行為だ。だが神にこれは通じない。名を呼んだところで振り向く義務などなく、契約書を差し出したところで読んでやる義理すらない。人間が百の命を並べ立てたところで、神から見れば蟻が百匹分のフェロモンを撒き散らした程度の刺激──せいぜい、足元が少しばかり騒がしいと感じる程度なのだ。

 

 ゆえに、神域への「喚びかけ」とは叫びではなく匂いに近い。

 

 焚き火の煙が虚空へと立ち昇るように、祈りの残り香が帳の向こうへ染み出していく。その匂いに鼻先を向ける気まぐれなナニカがいれば来るし、いなければ来ない。

 

 ここで大事なのは匂いには明確に「質」が存在するという事だ。

 

 温かな寝床で天寿を全うした凡百の魂など、神の側から見ればただの薄味に過ぎない。超常の存在が好むのは、もっと甘く重い匂いだ。例えば──死地においてなお退かなかった豚鬼の熱き魂、全存在をサイコロの出目に賭けて嗤った男の生血、笑みを残し逝った聖騎士の矜持、そして半生を迷宮の汚泥に費やした老いぼれの業──。

 

 これら極上の魂が同時に弾け飛んだ時、立ち昇る匂いの濃度は臨界を超える。例えばだが、死と魂の回収を司る類の神などはこの手の臭気に極めて敏い。

 

 ◆◆◆

 

 音が消えた。

 

 蛇どもの粘ついたざわめきも、脈動する肉壁の低音も、ジャーヒルの奇怪な讃美歌も──空洞を満たしていた一切の音響が、喉首を締め上げられたかのように途絶した。次いで匂いが消えた。鼻を突く胆汁と腐肉の悪臭が嘘八百のように失せ、鼻腔は完全な空白に侵食される。そして、温度が消えた。冷気でも熱気でもない。

 

 感覚の絶対零度──。

 

 レダの両の掌に凝縮されていた極光が虚空へ立ち昇る。

 

 それに応えるように、闘技場の天井の闇から一つの影が降りてきた。

 

 一言でいえばそれは石碑のようなものであった。もしくは墓石だ。

 

 大きな大きな墓石である。

 

 そこから、呼び声が放たれた。

 

 ──来たれ。

 

 と。

 

 ジャーヒルの放つ声が浅瀬で小魚を誘う毛針なら、この呼び声は海そのものを根こそぎ吸い上げる深海の渦潮だ。

 

 蛇の群れが狂ったように蠢いた。

 

 碑へと向かって土石流のように雪崩を打つ。蛇どもはジャーヒルの手足である以前に、かつてこの魔の甘言に釣られて堕ちた魂の成れの果てに過ぎない。より巨大な捕食者が口を開けた瞬間、餌袋をぶら下げた者に尻尾を振る野良犬と何ら変わらぬ即物的な習性で、新たな主へと群がったのだ。

 

 ジャーヒルの第三の眼が大きく見開かれた。

 

 人間の必死の抗戦など路傍の塵芥ほどにも意に介さなかった化け物の眼球に、初めて明白な──恐慌の色が滲む。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ジャーヒルが鳴いた。

 

 攻撃でも威嚇でもない。それはより巨大な捕食者の前に引きずり出された小動物が漏らす、本能的な恐怖の絶叫であった。

 

 数千、数万の蛇が渦を巻いて碑の表面へと突っ込んでいく。触れた端から黒ずみ、石肌に塗りこめられていく。ジャーヒル本体もまた無事ではいられない。その緑の巨体が急速に萎縮していくではないか。

 

 吸われていく。

 

 吸い込まれていく。

 

 迷宮の闇よりなお昏い、その黒々とした石肌へと。

 

 抵抗などできようはずもない。かの者は集め、収める者──の物質界に投影した影なのだから。 その御名を、ḥāshir(ハーシェル)という。 この世界のみならず、あらゆる世界を創り給うた六神が一柱だ。

 

 生きとし生ける者の魂を捕え、集め、完全なる死を賜ることで三千世界すべての生死のバランスを保つ役を担う暗滅の神である。




エルミナージュに出てくる深淵アパーシャ Lv94のことではありません
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