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神の影が去った後、空洞には冷え切った石の匂いだけが淀んでいた。
空洞を埋め尽くしていた無数の白い長虫も、空気を腐らせていた胆汁の臭気も、黒々とした墓石の如き影が虚空へ溶け崩れると共に跡形もなく消え失せている。
残ったのは、綺麗サッパリと掃除された石畳の広間だけだ。
大悪の尖兵にして暗黒の大母たるジャーヒル──その巨体がどこへ消えたのかなど、考えるまでもない。三千世界の魂を刈り集める暗き破滅を齎す神の胃袋へと、数万の蛇諸共、端から貪り食われたのだ。文字通り、塵芥の一つすら残さず啜り上げられたのである。
そして。
その神を呼び寄せるための極上の薪となった者たち──豚鬼のギルドマスター、命をサイコロの目に張ったチンピラ、誇り高く散った聖騎士ども、迷宮の汚泥をすすり続けた老いぼれの荷物番──彼らの亡骸すら、この場には欠片も残されていなかった。
肉体も、骨も、流した血飛沫も、魂の輪郭すらも、支払うべき対価として余さず炉に投げ込まれたのだ。後悔も未練も、神にとっては燃焼効率を高めるための油に過ぎなかったらしい。
だが。
広間の中心、乾ききった床の上に、ぽつねんと取り残された影があった。
法皇レダである。
死んではいない。だが生きていると呼ぶのも躊躇われる有様であった。
法衣は幾重にも引き裂かれてボロ雑巾と化している。両掌は神の影を呼び寄せた際の反動で炭化し、指の形すら崩れ落ちていた。
なぜレダだけが薪にならずに残ったのか。
神が彼女の敬虔な信仰に免じて命を拾ってやった──などという奇麗事ではなく、単純にその肉体性能の高さゆえに、完全な崩壊から免れたに過ぎない。
いずれにせよ、レダは呼吸をしていた。細く、途切れ途切れの、今にも消え入りそうな命の残滓を繋ぎ止めている。
カサリ、と崩れた瓦礫が擦れ合う音が、静まり返った空洞に小さく響いた。
石材の狭間から、這い出てきたのは一人の男だ。
後頭部に残る鈍い痛みに顔を歪め、煤と脂汗に塗れた顔を痙攣させている。ブルーソニア隊の斥候、ケイセルカットであった。
戦況が破綻しかけたその刹那、背後にいた老いた荷物番──ザンクードに首筋を容赦なく打ち据えられ、意識を刈り取られたのだ。お前さんはそこで寝てな。起きたら自分の仕事をするこったな、と言われ、瓦礫の隙間へと無造作に押し込まれたからこそ彼は生き残った。神の収奪は横暴にみえるが、あくまで契約の一環である。進んで薪になるという意思がなければ契約は成らないのだ。それをザンクードが知っていたかどうかは今はもう誰にも分からない事だが。
ケイセルカットは激しい頭痛に耐えながら恐る恐る歩みを進め、やがて床に転がるレダの姿を認めると、喉をからからに鳴らしながら駆け寄った。
「げ、猊下……? 法皇猊下ッ!?」
呼びかけに応えはない。
ただ、胸の傷口から黒ずんだ血が、ことことと不吉な音を立てて泡立っているばかりだ。傷を塞ぐべき法力は一滴たりとも残っておらず、常人であれば疾風の如くショック死していてもおかしくない致命傷であった。
「嘘だろ……全滅なのかよ。みんな、いなくなっちまったのか……」
百二十を超えた聖騎士団も、名を馳せた上級探索者たちも、誰一人としていない。
残されたのは、虫の息の法皇と、腰の抜けた斥候が一匹。
生き残ってしまったという事実が、重たい塊となって少年の肩に圧し掛かる。
「あ、ああ……どうすりゃいいんだ、俺は……」
泣き言を漏らすケイセルカットの手元で、レダの瞼が僅かに震えた。
瞳の奥に宿る意識は濁り、焦点を結んではいない。それでもその唇が、血泡を噛み砕きながら、微かな空気を漏らした。
「……生きて、地上へ伝えなさい……」
言葉はそこで途切れた。
レダの首が力なく傾ぎ、どさりと倒れ伏す。
慌てて近寄るが、レダは既に事切れていた。
・
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◆
迷宮の底は、常に誰かの悪意と血糊で湿っている。
第八層を抜けた先、第九層へと続く大階段の踊り場で、君は不意に立ち止まった。
先刻、迷宮の全域を揺るがした巨大な気配の残滓が、ようやく引いていくのを肌身で感じ取ったからだ。
「お兄さん、さっきの気配……なんだったのかな」
キャリエルが額の汗を拭いながら、怪訝そうに眉をひそめて君を見上げる。君は首を横に振り、些事だと告げた。
キャリエルは口を尖らせたが、君の落ち着き払った態度を見て、僅かに強張っていた肩の力を抜いたようだ。危険の予兆に敏感なこの斥候娘は、時として余計な深淵まで感知しすぎる悪癖がある。探索において、知りすぎることは死に直結する毒だ。
「いいえ、主様。あれは決して尋常のモノではありませんでしたわ」
生真面目な声で口を挟んできたのはルクレツィアだ。その端正な顔立ちには、隠しようもない緊張が張り付いている。
君はルクレツィアの懸念を鼻で笑う。尋常のモノが迷宮にいては興ざめだったからだ。大悪魔、神、魔王──あるいは悪の大魔導士。まあなんでもいいが、迷宮にはそれくらいいて貰わないと、君としては困る。
もしいなかったら──磨けないではないか。
「な、何をでしょうか……」
ずいっと一歩踏み出し、近づいてくる君にルクレツィアは目に怯えを浮かべた。そんな彼女の肩を掴み、君は顔を近づけて言うのだ。
血と、肉と、魂を!
と。
爛々と目を光らせる君は明らかに興奮していた。
そうだ、君は興奮している。
狂いつつある。
目覚めつつある。
先ほどの気配は君をして警戒心を呼び起こされるレベルのものだった。少なくとも、全身と全霊を懸けて戦う必要がある相手だ。そういった相手に、君のみならず、ライカードの冒険者はとても
なにしろ、ライカードの人間ときたら強くなる事が大好きだからだ。
ライカードの住人にとって、迷宮とは世界を救うための戦場でもなければ、神話の秘宝を求めるロマンの地でもない。己の肉体と魂を、ただひたすらに研ぎ澄まし、階梯の頂へと押し上げるための、極めて都合の良い巨大な鍛錬場に過ぎなかった。
神? 大悪? 魔王?
結構なことではないか。強大な敵が現れたと聞けば、王国の探索者どもは恐怖に震えるどころか、涎を垂らしながら武器の手入れを始めるのだ。「そいつを屠れば、一体どれほどの糧が得られるのか」「何十、何百の階梯を一気に駆け上がれるのか」──酒場に響くのは常にその手の話題ばかりであった。
時間あたりの殺戮効率。
より多くの経験を、より短い時間で、より安全に貪り食うための工夫。
そのためならば、彼らは喜んで数週間も同じ石室に立て籠もり、扉の向こうから湧き出る悪霊の群れを朝から晩まで機械のように叩き潰し続ける。仲間が首を刎ねられれば寺院へ担ぎ込んで蘇生させ、灰になればもう一度拝み倒し、運悪く存在が消滅すれば、酒場で新しい人員を補充してまた同じ部屋へと潜っていくのだ。
倫理もへったくれもあったものではない。だが、その狂気じみた徹底ぶりこそが、ライカードという国を迷宮探索の頂点へと押し上げた原動力であった。
「……お兄さん? なんか、すごく嫌な顔をしてるんだけど」
キャリエルが短剣を握り直しながら、引きつった笑みを浮かべて後ずさりする。
「……まさか、先ほどの気配の主、戦うおつもりでは……?」
ルクレツィアが恐る恐る問う。
戦う?
これから大悪をぶち殺しにいこうという時に、寄り道をするつもりはない君であったが。
あの規模の存在を仕留めた時、己の魂がどれほどの高みへ跳ね上がるかを考えてみると──。
「ひっ……! 完全に目がイッちゃってるじゃん……!」
悲鳴を上げるキャリエルの前で、前方の暗がりからずるりと重い足音が響いてきた。
第九層へと続く闇から這い上がってきたのは、異様な巨躯を誇る巨人だ。ただの巨人ではない。
その体躯を構成しているのは、土でも石でもなく、文字通りの生々しい死肉の山であった。
迷宮で斃れた無数の探索者や魔獣の骸を切り刻み、太い鋼線と鞣し革の糸で強引に縫い合わせた継ぎ接ぎの肉塊。青白く腐敗しかけた兵士の胴に、剛毛の生えた大鬼の剛腕が縫い付けられ、黄色く死蝋化した脂肪と、黒ずんだ血糊が筋繊維の隙間からどろりと滴り落ちている。全身から立ち込めるのは防腐薬と胆汁が混ざり合った、鼻腔を麻痺させるほどの猛烈な死臭だ。
頭部にはかつて人間であった数人分の顔面が無秩序に貼り合わされ、焦点の合わぬ濁った眼球がそれぞれ勝手気ままに回転しては、裂けた唇から濁った呻き声を撒き散らしている。
悍ましい、などという形容では到底追いつかない。
そして何より厄介なのは、その生物としての理を外れた耐久力であった。
痛覚という概念そのものが存在せず、刃で肉を削ごうが、槍で臓腑を抉ろうが、傷口から吹き出す筋繊維が蠢いて瞬時に傷口を塞いでしまう。生半可な武器の打撃など分厚い肉と脂肪に吸い込まれて骨にすら届かず、並大抵の術で焼いたところで、表面の肉が焦げて悪臭を放つだけで内部の魔力炉を刺激し、かえって凶暴性を増す始末なのだ。
丸太のような太い腕を一振りすれば、重装鎧に身を包んだ戦士すら鎧ごと圧搾されてミンチへと変わる。通常の探索者パーティであれば、この巨躯の足音が聞こえた瞬間に全速力での後退を選ぶべき、歩く屠殺場そのものであった。
「ひっ……! ちょ、ちょっと、あれ、全身が人間の手足で縫い合わされてるじゃん……!」
キャリエルが引きつった笑みを浮かべ、短剣を構えたまま後ずさりする。
「な、なんという冒涜……! あれほどの呪悪に満ちた巨躯、神殿の大神官が数十名がかりで結界を張り、何日も祈祷を重ねてようやく浄化できるかどうかの代物ですわ!」
ルクレツィアもまた、顔から血の気を失わせながら必死に印を結び直していた。
とはいえ普段の君であれば、この化け物もキャリエルらの糧となるよう
だが──今の君は違う。
すっかりライカードの血が騒いでしまった君の口から洩れた言葉はすなわち──
──『
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『灰塵』はライカードに於ける信仰系の魔術としては第六階梯──つまり上から二番目にあたる極めて高度な魔術である。
効果は不死者への極めて強力な干渉。
本来この世界に存在する物質には、時間の経過と共に崩壊し、均一な無へと還ろうとする自然の摂理が働いている。生きた肉体がその理に抗えるのは、内に宿る生命が常に形を保ち、絶えず修復を繰り返しているからだ。
だが不死者はそうもいかない。
死してなお動く肉体とは、本来ならば土へと還るべき骸に、邪悪な意思や外部からの魔力を無理やりに注ぎ込み、腐敗と崩壊の時計を強引に止めているだけの紛い物に過ぎないのだ。
ゆえに『灰塵』の術式が成す仕事は極めてシンプルである。
その肉体に無理やり結びつけられた偽りの生命線を、神聖なる言霊によって断ち切り、止まっていた崩壊の針を一気に先へと進めるのだ。
なお、生者に対してこの術をいくら放ったところでびくともしない。生命の秩序が確立されている健康な肉体には、崩壊を促す足掛かりがそもそも存在しないからだ。ライカードの新米司祭が、敵の戦士や盗賊に向けてこれを撃ち放ち、「不発だ!」と頭を抱えて返り討ちに遭うのは、探索者ギルドにおける定番の笑い話の一つであった。ちなみにライカードでは高位の魔術が使えるからといってベテランになれたりはしない。というか、スペルキャスターはありとあらゆる魔術が扱えるようになって初めて一人前として認められるきらいがある。
ともあれ、そんな『灰塵』も相手が不死者であれば話は別だ。術が成立した瞬間、巨人の肉を繋ぎ止めていた継ぎ目の糸がほどけるように、全身の細胞から水分と粘性が一斉に失われていくではないか。
ややあって──。
カサリ、と。
乾いた砂が擦れ合うような音と共に、恐るべき不死の巨人はその場にただの灰色の粉末となって崩れ落ちた。風が吹けば飛び散るような、文字通りの灰と塵の山。
即死である。
君だからこその威力と言えるだろう。
『灰塵』を覚えたてのひよっこでは、精々が指先をちょっと灰にする程度が関の山だ。
しかし君が使えばこうなる。君の本領は剣にも拳にもなく、他ならぬ魔術にこそあるのだからこれくらいは出来て当然ではあった。