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大階段の終点に降り立った君たちを迎えたのは、血と内臓の腐臭に塗れた第八層とはまるで真逆の静寂だった。
湿り気を含んだ冷気が肌を刺す。
石造りの床は鏡のように平滑で、底が透けて見えるほどに澄んだ冷水が踝の深さまで一面に湛えられていた。
見上げるほどの高みに天井があり、そこから幾百もの巨大な角柱が整然と林立している。太古の巨人が築いた神殿を思わせる異様極まる広大な空間だ。
第八層を這い回っていた肉塊や筋繊維の汚泥は、この階層には一片たりとも存在しない。規則正しい柱の列は明らかに人の手が介入している事をうかがわせた。
「柱が……ぼんやりと光っているのでしょうか? いえ、でも……」
ルクレツィアがおぼつかない様子で言う。
確かに、と君は頷いた。
光源らしき光源は見当たらないのに、周囲を見渡すだけの視界が得られている。まあ迷宮では別に珍しい事ではないが。
水面を蹴立てて進む君の足音だけが、巨大な柱の間をどこまでも反響していく。
「……綺麗な場所ですわね」
背後で、ルクレツィアが小声で呟いた。
「けれど、うすら寒さも感じますわ。これらの柱はまるで──巨大な墓標の様にも見えます」」
モーブがくん、とわずかに鼻をひくつかせ、愁眉を寄せた。
「嫌な臭いがします。濡れた石の匂いの奥に、何かが焦げ付いたような煙が混じっているような……」
君は立ち止まることなく、頭の中に展開した立体地図へ新たな線を書き足しながら進む。この辺は君の、というより、ライカードの冒険者の特異的な能力だ。フシギな力とかではなく、立派な技術である。
君は脳内の地図を見て、巨大な石柱の配置には明確な規則性があることに気付いた。だがそれが何を意味するのかまではわからない。とりあえずは柱の間隔や床の傾斜、水流の偏りを記憶に留めつつ君は左手の柱沿いに歩を進めていく。
「お兄さん」
キャリエルが君の外套の裾を指先で引いた。
「あそこ、見て」
彼女が指し示した先──数本先の巨柱の根元に、水面から突き出た異物があった。
近づいて検分するまでもなく、
引き裂かれた白銀の甲冑。砕かれ、泥水に半ば沈んだ近衛騎士団の盾。そして何かに両断されたまま干からびた肉片の数々。
「これは、王国騎士団の──」
キャリエルの声がわずかに震える。
防具の破損を見るに、相当乱暴な殺り方をされたようだ。何に出会ってどう殺られたか本人に聞けば早いだろうと蘇生を考えたが、君はその考えをすぐには実行に移さなかった。君は確かに強力な蘇生の魔術を使えるが回数は九回までだ。それに蘇生の魔術と同じ階梯に有用な魔術もあることを考えると、大して戦力にもならなそうな者を蘇生するために貴重なストックを浪費するのはいかがなものかとも思われる。
とはいえ君の戒律は
情報収集の為にも一人くらいは、と手を伸ばしたところで君は気づいた。これらの残骸の魂が既に虚空へと霧散してしまっていることに。いわゆる
命の安いライカード冒険者でも小便を垂れ流して震えるほどに恐怖するものがある──それが
首を撥ねられようが胴を両断されようが、ライカードにおいて死など少し重い風邪のようなものに過ぎない。寺院の祭壇へ担ぎ込んで寄付金を積むか高位の司祭が祈りを捧げれば、翌日には酷い目に遭ったとぼやきながら酒場でエールを煽っているのが日常茶飯事であった。
だが、ロストは違う。
魂そのものが擦り潰され、輪廻の環から永遠に零れ落ちる絶対の虚無だ。寺院にどれほど黄金を積もうが神仏に泣きつこうが、失われた存在は二度と呼び戻せない。酒場の名簿からその名が冷淡に抹消され、残された仲間が黙って新しい前衛を雇い直すだけだ。
通常であれば蘇生に失敗して灰となり、その灰からの蘇生にすら失敗した果てに訪れる最終宣告。それが、この場に転がる騎士たちには初手から叩き込まれている。
一体どんな化け物と出会えば、灰になる猶予すら与えられず一撃で魂ごと刈り取られるというのか。
君は伸ばしかけた手を引っ込め、濡れた指先を払った。死者に聞く手立てが潰えた以上、この先で待つ「何か」と直接顔を合わせるしかない。
やがて神殿の空間がさらに一段と広がりを見せ始める。
立ち並ぶ柱の数が途切れ、円形の巨大な広間のような開けた場所へと辿り着いた。天井の闇はさらに高く、水深は膝下近くまで増している。
水底から突き上げるような衝撃が、澄んだ水を小刻みに震わせた。
「っ……!」
鋭い息の音が耳朶を打つ。
見れば、君の背後を進んでいたキャリエルがその場に縫い止められたように硬直していた。
顔から完全に血の気が引いている。琥珀色の瞳は極限まで見開かれ、褐色の肌が粟立っていた。小刻みに震える両手で双肩を抱き込み、喉の奥からヒュウと笛のような引き攣った呼気を漏らしている。
野生の獣が食物連鎖の頂点に座す天敵を前にした時に見せる、神経系の暴走に近い拒絶反応であった。
「キャリエル? どうしたのです、しっかりなさい!」
ルクレツィアが駆け寄り、彼女の肩を支えようとする。
だがキャリエルはその手を振り払うことすらできず、小刻みに顎を震わせながら広間の虚空を指差した。
「い、や……」
擦れた声が、濡れた唇からこぼれ落ちる。
「違う、これ魔物じゃない! あんなの、だめ!!……お兄さん逃げ、逃げようよう!!」
勘の鋭いキャリエルの感覚器官が、前方の虚空に孕まれる破滅の規模を正確に受信してしまったのだ。
直後、モーブが低く唸りながら抜刀した。
「……空気が、熱い。これはッ……!?」
水浸しの神殿を包んでいた氷の如き冷気が、瞬く間に掻き消えていく。
代わりに吹き込んできたのは焦熱の砂漠を思わせる熱風と、鼻腔を灼くオゾンの臭気。そして全身の皮膚を粟立たせるほどに濃密な、邪悪極まる殺意の気流であった。
大気が歪む。
広間の中央、何もないはずの虚空が陽炎のように揺らめき、光の屈折が狂い始めた。
柱の影が不自然に伸び、水底の波紋が逆流するように渦を巻く。
そして──空間そのものが引き裂かれるような重低音と共に、その『影』は忽然と現れた。
巨大であった。
天井の闇に届かんばかりの威容を誇るその魔神は、獅子の頭部に猛禽の如き四枚の巨翼を背負っていた。逞しい四肢には青銅の如き鱗が生え揃い、背後では猛毒を湛えたサソリの尾が鎌首をもたげるように蠢いている。
何よりも異様なのはその輪郭であった。
実体としてそこに在り猛烈な熱気と暴風を撒き散らしながら、身体の境界線は蜃気楼のように曖昧で、時折虚空の闇へ溶け崩れては再び編み直されていた。
半ば幻影のような存在──
かつて千年の昔に大災厄を以て世界を滅亡寸前まで追い込んだ大邪神の思念が、この迷宮の最深部に満ちる濃密な魔力を触媒として物質界にその影を落としたのだ。
本体は神々の力によって今も異界の深淵に固く封印されている。たとえ邪神の放つ幻影に過ぎぬとしても、そこから繰り出される暴力と熱風は目の前の現実を粉砕し得る質量を帯びていた。
まさに魔の中の魔、邪の中の邪!
この恐るべき獅子の魔神の名は──
「シ、
ルクレツィアが目を見開いて、震える様に呟いた。