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深く傷つき、態勢を崩した魔神を見ても君の心には欠片の油断もない。弱気を見たなら、なお強く打ち据えろ──ライカードではそれを惨心と呼ぶ。
無惨!
残忍!
無情!
ライカード魂が殺意の黒い焔となって、君の両の目に揺らめいた。
─
真なる言葉によって紡がれた『小炎』の青い煌めきが君の両拳を覆うやいなや、音をも置き去りにした正拳突きが四発、魔神の正中線上に叩き込まれた。
囁く者ジャーヒルでさえもこれを受けた時には苦痛と恐怖の絶叫をあげたものだが、しかし──。
君は目を見開き、瞬時に全身からありとあらゆる力を抜く。同時に、恐るべき蠍の尾が君の腰部を薙ぎ払った。まともに受ければ君の堅牢な防御をも貫き、相応の傷を負ったであろうダイナミックでシャープな一撃だ。
「お兄さぁん!」
キャリエルが悲痛な声をあげる。ルクレツィアは治癒を放つ準備をしたが──。宙空でくるりと転回した君は、何事もなかったかの様に着地した。
基本的にライカードの者は受けよりも攻めを得意とする者が多い。理由は攻撃は最大の防御という思想が根強いからだ。殺られる前に殺ることは最大の護身──そう考える者は非常に多い。
しかし当然、全員が全員そんな脳筋思考なわけではなかった。例えば君などは、特定の思想に囚われる事なく様々な技術を柔軟に取り入れた変幻自在の闘法を得意としている。まあライカードではそんな君をミーハーだとあざける者もいないではないのだが……。
ともあれ、肉体を硬化させて抗うのは初心者のやることだ。打撃が触れる刹那に全身の骨節から一切の力を抜き去り、羽毛のごとく自ら衝撃の方向へ吹き飛ぶことで破壊の威力を推進力へとすり替えて逃がす。硬い樫の木は嵐でへし折れるが、宙を漂う綿毛を槌で叩き割ることはできない。
『鉄身』を用いた超重量級の一撃を放つ金剛体( 「第4話:奇襲鏖殺」参照)とは真逆の思想によって編まれたこの
「主様! ご無事ですか!?」
駆け寄ってくるルクレツィアに頷きを返した君は、ゆるりと静かに立ち上がった。ライカードにおいて、
鋼の板金鎧を着込んだ重戦士も革鎧の斥候も身軽な散兵も、異なる装備や体術を持つ者が敵対者の攻撃に対しどれほどの確率で生還できるかを把握しなければ、兵站の割り当てや寺院への蘇生費用の見積もりすら成り立たないからである。そこで定められたのが十の等級から始まる防護基準であった。
加算されるほど強靭とみなす素朴な尺度と異なり、ライカードのそれは文字通りの等級に基づいている。街を行く平民の普段着や無防備な裸体を「第十等級(一〇)」とし防具を重ねたり身体操法を鍛えたり、はたまた術式の加護を得るごとに等級は九や八へ繰り下がり、ついには零を経て負の領域へと沈み込んでいく。
数字が減るほど安全基準が跳ね上がるこの逆算構造の本質は、敵の打撃が致命の有効打として肉体を損壊せしめる確率の指標という点にある。
鋼の甲冑で刃を跳ね返す堅牢な防御も身軽にかわす回避も先ほどの脱力も、兵員の損耗を防ぐという実利においてすべて等しく等級を繰り上げる技術として査定される。
等級が下がるほど被弾の不運は削ぎ落とされ、DO(-10)に達すれば装甲車と同等の頑強さを誇り、さらに負の深淵へ潜れば物理的な破壊という事象そのものが肉体を捉えられなくなる。
現在の君のアーマークラスはDOとXL(-100)の凡そ半ばという規格外の領域にありm生半可な爪牙ではかすり傷すらつかない。目の前で青銅の巨躯を軋ませる魔神シニストラもまた千年の神性によってその防護等級を底知れぬ暗がりへと沈めていた。
互いに有効打の成立を拒絶し合う泥沼の確率戦において、君は次なる一手に考えを巡らせる。
◆
魔神は警戒しているのか、次なる一手を打ってこない。
君は
そう、君は時間間隔をある程度まで引き延ばし、自身の行動を決定できる能力──いや、業がある。これは別にライカードの民特有の特殊技能などではなく、訓練した戦闘者ならだれでもできる事だ。さすがにその時間感覚の中を普通に動く事はできないが、思考を進める事は出来る。次にどんな手を打つのか、攻めか、守りか、あるいは撤退か──こういった判断を、少なくとも本人の主観においてある程度余裕をもって決められることがどれほどメリットがあるかは言うまでもないだろう。
君は考え、そして決断する。
次なる一手は──。
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水面を激しく爆ぜさせ、君とモーブが同時に左右へと躍り出た。
互いに警戒の視線を注がれている事実を逆手に取り、君は低く身を沈めて水流を撒き散らしながら魔神の左舷へ、モーブは長剣を斜めに構えて右舷の死角へと肉薄する。
正面下方に固定された二つの脅威に対し魔神は四枚の鷲翼を大きく広げ、サソリの尾を持ち上げて迎撃の構えをとった。表面上は単なる平押し──まんまと迎撃態勢を取られてしまったわけだが、
その背後でルクレツィアの法術がキャリエルを賦活。肉体から質量と重力の束縛が削ぎ落とされた彼女は強く踏み込み、美しい赤髪をなびかせて跳躍して見せた。
影が角柱の闇を縫って垂直に舞い上がる!
そうして魔神の視界から完全に消えたキャリエルは、落下の勢いそのままに──
魔神が天上の殺気に気づいて獅子の顎門を持ち上げた時には、すでに手遅れであった。隙間へと滑り込んだ刃が青銅の皮膜と頸動脈を切り裂き、骨の継ぎ目を断ち割ったのだ。
結句──魔神の巨大な頭部が、ころりと。
冷たい水面へと落ちていく次第となった。
この立体的な機動からの殺法は言うまでもなく中々に難易度が高く、それこそ命を預け合うほどに信頼している者たちでなければ成しえない高度な精神同調を必要とする。
しかし決まればほぼ必殺といってもいい。
特殊な耐性がない限り、おおよそ八割ほどの確率で敵対者の首をはねとばせるだろう。そうでなくても極めて深刻なダメージを与えることができる。まあそれほどの連携であるので当然疲労は激しく、連続での行使はできないが。
ともあれ、君たちはさしたる被害もなく、恐るべき魔神を葬り去る事に成功したのだ。
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◇◇◇
不思議な気分だった。
正直いって逃げ出したい。とても怖くて怖くてたまらない──なのに、お兄さんの目を見た瞬間、私はあの怖い怪物へ駆け出していた。自分が何をすればいいのかが分かる。そして、あの怪物が一番怖がっている事も何となく分かる。
なんだか水の底にいるみたい──私はそんな事を思った。
踏み出す足音も服が擦れる音すら消えてしまう、深い深い水の底にいるみたいな、そんな気分。暗くて、深くて──音だけがよく聞こえる。何もかもが遅く見えて、お兄さんたちが駆け出した時なんか私のほうが足が速いんじゃないかなんて思っちゃった。
私が何をしなきゃいけないか、何が出来るかは何となく分かる。お兄さんが何をしてほしがってるのか、まるで自分の事のように理解できる。お兄さんだけじゃない、モーブさんの心も、ルクの心もまるで、まるで──。
少しまてば、ほら、ルクが私に魔術をかけてくれた。
だから私は駆け出して、飛び上がって。
上から見るとあんなに怖かった怪物が全然怖くない。
まるで大きな人形みたい。
あ、
腕に力を込めたりもしなかった。強く握りしめる必要すらなく、ただ
私、上手く
何だか変なの。
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◆◆◆
ライカードに於いて、『転職』とは冒険者としての役割を変える事を意味するが、他にも生き方を変えるという意味もある。
人が生き方を変えるというのは難しい。
誰でも皆、これまで歩んできた道というものがあり、その道に肉も魂も馴染んでしまっているからだ。
しかし目の前で返り血に濡れた短剣を見つめている赤髪の少女は、まさにその困難極まる変容を成し遂げつつあった。
君が課した「トレーニング」──何百体もの上級悪魔を相手に繰り広げた狂気の連戦と、第八層の肉の回廊を突破する中で徹底的に叩き込んだ実戦調教によってである。
逃げるための足腰は死角へ回り込むための歩法へと作り替えられ、恐怖で竦む指先は一切の力みを捨てて関節の隙間へ刃を滑り込ませる脱力の切っ先へと研ぎ澄まされた。
だが何より大きいのは、命の果敢無さをしった事だ。
生きているモノは皆死ぬ。
死ぬ事は恐ろしい。
だからこれまで自分は死なないように生きてきた。
しかし、それは自分を殺そうとする者にとっても同じ事だと。
殺されたくないから殺そうとするのだと。
命とはすなわち、そういう想いの交錯の果てに失われたりするとてもとても弱くて柔らかいものなのではないか、と。
ならばきっと、
理屈ではない、魂での理解だ。
これを成した時、人は
そう、キャリエルは変わったのだ。
BUSINのAA 立体殺法ではありません