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石段の角を踏み抜くたび、右の膝頭がきしりと軋む。
肺胞の奥が細かく裂け、熱した鉄粉を吸い込み続けているような痛みが喉の粘膜を焼いた。第六層の空洞を出てからどれほどの刻が流れたのか判然としない。
それでもケイセルカットは地上へ向けて足を動かし続けていた。
とはいえ、この階層を単身で駆け抜けるなど彼の階梯を考えるならば自殺行為に等しいのだが──
何も出ない。
暗がりに潜んでいるであろう異形の気配はなく、仕掛けられた罠の類もあらかた作動し終えた後のように沈黙していた。通路を満たしていたはずの血生臭い風もすっかりひいている。湿った大気が皮膚を撫でるだけで、獲物の肉を値踏みする殺意の視線はどこからも絡みついてこない。
本来向けるべき注意先がなくなれば、人間は益体もない事を考えるものだ。
ケイセルカットもまた、今更考えても仕方ない──いや、少なくとも今考えるべきではない事をグジグジと考えていた。
なぜ、自分だったのか。
死はもちろん恐ろしい。しかし仲間たちと共に戦い、そして死んで逝くというのは探索者としてはある意味上等な死に方とも言える。それがどうだ、この体たらくときたら。
自分は探索者として云々というより、男として、いや、人間としてどうなんだという思いがふつふつと湧いてくる。
事の次第を伝令するために生き延びるというのは大事な役目だと理屈では分かっているのだが、ケイセルカットにも矜持というものがある。
彼らが死んで、なぜ自分のような半端者が生き残っているのかという自責が止められない。
◆
第四層への連絡坑道へ差し掛かったとき、前方の闇から低く濁った唸り声が漏れ聞こえてきた。
喉の奥を震わせる獣の呼気だ。
ケイセルカットは反射的に身を屈め、崩落した角材の割れ目へと滑り込んだ。柄を抱え込み、乱れる呼吸を押し殺す。
角を曲がって姿を現したのは、虎頭の獣人であった。
虎の頭部を筋骨逞しい首の上に載せた異形だ。元はといえばケイセルカットと同じ探索者だったのだが、迷宮の魔気に当てられ、獣性と狂気に完全に呑み込まれた成れの果てである。獣人特有の瞬発力と鋼鉄をも引き裂く爪牙は脅威といっていい。少なくともケイセルカットがサシで勝てる相手ではない。
だが遭遇した以上、隠密の技術だけを頼りにやり過ごす以外に道はない。見つかれば、いまの身体では数呼吸と保たずに肉片へと解体されるだろう。
だが、獣人の歩みには敵意の尖りが欠片もなかった。
獲物を捜索する風もなく濡れた鼻先を警戒に動かすこともない。両腕を脱力させ、足元をふらふらと引きずりながら重い夢遊病の人形のように歩いている。
黄色い眼球の焦点は合っておらず、ただ虚ろに前を見据えているだけであった。
獣人は角材のすぐ脇を通り過ぎる。
ケイセルカットの放つ汗と血の臭気にも目もくれず地上への登坂路に背を向け、ただひたすらに下層へ向かう階段の先へと吸い込まれていく。
見送る背中に粟立つような悪寒が走った。
それからも、同様のすれ違いが幾度となく続く。
腐肉を垂らした屍人も大蜘蛛の群れも壁面を這い回る大百足も、まるで定められた宿命に急かされるように一筋の列をなして迷宮の底へと降りていくではないか。
深淵の最奥で一体何が目覚めようとしているのか。
迷宮そのものが巨大な胃袋となり、巣食うすべての魔を手繰り寄せ、貪り喰らおうとしているのではないか。
そんな不気味な想像が頭をよぎる。
◆
ケイセルカットは恐れを振り払うように地表へと急いだ。
第三層の坑道を抜け、第二層の荒野を横断し、第一層の薄暗回廊を這うように進む。
巨大な石門の隙間から滑り出た瞬間、白く霞む外気が視界を埋めた。
地上だ。
肺が張り裂けんばかりの息を吐き出し、ようやく生還を果たしたのだと全身の筋肉から力が抜けていく。
だが、安堵は数呼吸と保たなかった。
鼻腔を満たしたのはむせ返るような死肉の腐臭であり、視界を塞ぐ乳白色の濃霧だ。広場を隙間なく覆い尽くす霧の奥から、無数の足音が擦れ合って響いてくるではないか!
顔を上げたケイセルカットの前に、おびただしい人影が揺らめいていた。
白濁した眼球を剥き出しにし、ぼろ切れのような衣服を纏った屍人の群れだ。衛兵は? 探索者たちは? 街を守るべき者たちは一体どこへ行ってしまったのだろうか。ケイセルカットは慌てて周囲へ注意を向けるがしかし、何も感じ取れない。剣戟の音も、悲鳴も、何も──。
既にアヴァロンは陥ちてしまったというのか。
愕然とするケイセルカットに、屍人共が近づいてくる。万全の態勢であれば、斥候の足捌きで容易にいなせる鈍重な死者たちにすぎないが──
しかし深層から不眠不休で駆けてきた肉体は限界の境界線を越えている。杖にしていた槍の柄は指から滑り落ち、泥のように重い四肢は一寸たりとも前へ進まない。
じりじりと包囲が縮まり、濁った爪が眼前に迫った。
万事休すだ。
しかし──。
ゆらり、ゆらり、ひらり、と。
爪が振り下ろされる寸前、視界の端を紅い影が横切った。
見れば、蝶だ。
しかしただの蝶ではない。
揺らめく真紅の炎そのものが、優雅に翅を広げて羽ばたいている。
一羽、また一羽。
白い霧の帳を破り、何十もの火の蝶が広場の上空へと舞い降りてきた。そんな美しく燃える蝶が、火粉をまき散らしながら屍人の額や肩口へふわりと触れるやいなや──。
紅蓮の火焔が爆発的に燃え広がった。断末魔を上げる暇すら与えられず、屍人たちの肉体は瞬く間に炭化して白い灰へと崩れ落ちる。
唖然としているケイセルカットだが、すぐに表情を引き締めた。前方からかつん、かつんと冷ややかな靴音が近づいてきたからだ。
ややあって、霧の狭間から現れた者は──。
「探索者ね? ふん、薄汚い恰好をしていますこと。迷宮都市では物乞いが合法なのかしら? そのような卑しき行為、カナンでは厳しく取り締まっていますのよ、まあ文化レベルの差を考えれば仕方ないのかもしれないのでしょうけれど」
声の主は金糸の刺繍が施された豪奢な法衣を纏う美女であった。冷涼な美貌に隠そうともしない侮蔑の笑みを浮かべている。隣には大柄の騎士らしき者も立っている。立ち位置からして、女に付き従う従者であろう。
「ヒュレイア様、この者には手当が必要に思えます」
男の声は低く、野太かった。
「せ、聖騎士……?」
ケイセルカットのつぶやきに、ヒュレイアと呼ばれた女は屠殺前の豚を見るような視線を向けて軽く頷いた。
「オツムは正気の様ね。サンドロス、癒し手を呼んできなさいな」
サンドロスと呼ばれた騎士は「は」と短く首肯して駆け出していく。
ケイセルカットは事態の推移についていけず、ぽかんとするばかりだ。そんな彼にヒュレイアはハァと大きくため息をついた。