◆
「いつまで待っても猊下は戻ってきませんし。街はといえば不潔な屍人がこうもうじゃうじゃと。いい加減うんざりしていたところですわ」
ヒュレイアは指先に蝶をとまらせて、物憂げな表情でそ
そのうちの一羽がふわりと降りてきて、ケイセルカットの前髪に留まる。思わず首をすくめたが、髪の焦げる匂いはしない。翅の縁で豆粒ほどの炎がちろちろ揺れているきりで、額に熱も来なかった。石畳のそこかしこに焼け焦げた屍人の残骸が転がっているところを見ると、燃やす相手はちゃんと選んでいるらしい。
ほどなく、霧の奥から具足の擦れる音がふたつ近づいてきた。
息を切らしたサンドロスと、もう一人。
癒し手は女の聖騎士であった。兜を小脇に抱え、汗で額に貼りついた髪を払いもせずにケイセルカットの前へ膝をつく。右の膝頭に手をかざして短い聖句を唱えると、骨の奥できしんでいた何かがすうっと引いていった。喉を焼いていた鉄粉の痛みも、もう跡形もない。恐る恐る膝を曲げてみると、皿の奥で砂を噛むような音がしなくなっていた。
「膝の皿にひびが入っていました。よくこれで歩いてきましたね」
女騎士は呆れたように言い、立ち上がってヒュレイアに一礼する。
「さて」
ヒュレイアが法衣の袖を払う。
「話してもらいましょうか。あなたはたった一人で迷宮から出てきたわけですけれど。猊下はどうなりましたの? まあ──余り良い報告は期待できなさそうね」
ケイセルカットは話した。
歌が聴こえて仲間が化け物に変わったところから始まり、第四層で法皇の軍に拾われ、第六層の空洞まで同道したこと。戦況が崩れかけた刹那に後ろから首筋を打たれ、目を覚ました時には誰もいなかったこと。
死体すらなかったのだ。あれだけいた聖騎士も、名の通った上級探索者たちも、煤と血の跡だけを残してきれいに消えていた。
お前さんはそこで寝てな、起きたら自分の仕事をするこったな──ザンクードの枯れた声がはっきりと耳に残っている。
「随分と運のよろしいこと」
明らかに侮蔑しているような声色だったが、ケイセルカットは何も言い返せない。
「……生きて、地上へ伝えなさい、と。猊下はそれだけ仰って、それで」
話を聞いてもヒュレイアは眉ひとつ動かさなかった。
「そう。まあ相打ちならば上等でしょう。それに大主教なら六人もおりますもの、カナンが困ることなど何もありませんわ」
幾らなんでもそんな言い方はないんじゃないかと言おうとしたとき、ケイセルカットの頭の上で、蝶が一羽ぱちりと弾けた。
続けてもう一羽。前髪に留まっていたのが急に翅を煽って舞い上がり、隣の一羽とぶつかって、二羽まとめて火の粉になった。残りは輪を崩してばらばらに飛び、炎の色が薄くなったり濃くなったりを繰り返している。見上げれば、霧の向こうの屋根の上でも小さな火がいくつも瞬いていた。
前髪の先が一房、ちりちりと縮れて焦げ臭い煙を上げる。
ヒュレイアがハァと溜息をつくが、ケイセルカットは言い返す気もなくなってしまった。
・
・
・
大主教ヒュレイアがこの死都にいる理由は無論レダの差配である。
アヴァロンへ発つ前、レダはヒュレイアにひとつの命を残していた。便りが途絶えたなら後詰めを率いてアヴァロンへ入れ、その際はオルセイン王オームを必ず伴え、というものだ。迷宮最深部の扉は、王家の血をもってしか開かない。レダは自分が倒れた後のことを考えていた。
「ああそうだ、聖女ルクレツィアの一行は見なかったかしら。銀髪の、目つきのクソ生意気な女なのですけれど。多分、黒いローブを羽織った魔術師の男も一緒のはずですわ」
「い、いえ……」
「……そう。まあ、あの男が潜っているのなら、望みがないわけでもありませんわね」
ヒュレイアはなぜか厭そうな顔で吐き捨てる様に言う。サンドロスもなんだか具合が悪そうだ。胸甲の真ん中をしきりにさすっている様を、ケイセルカットは怪訝そうに見た。が、どちらも続きを話す気はないらしい。
「あれを御覧なさい」
ヒュレイアが顎で霧の奥を指した。目を凝らすと、灰色の向こうにぼうっと滲んだ明かりがふたつある。ひとつは大通りの先の低いところ、もうひとつはずっと高く、城の尖塔があるはずのあたりに浮いていた。
「陥落寸前ではありますけれどね」
探索者ギルドには受付嬢のハノンが中級以下の探索者をかき集めて立て籠もり、王城ではオームが騎士や衛兵の生き残りをまとめ上げているらしい。
「受付嬢風情がまともに指揮を執っているのだからたいしたものですわ。おっと、今のは皮肉ではありませんわよ」
「ほ、他の国に救援を求めたりはしないのですか?」
ケイセルカットが問うと、ヒュレイアは「はっ!」と鼻で笑いながら答える。
「そんな事とうに考えつきましたわよ。しかし──どういう原理かは知りませんけれど、この街から出ることができないのです。行けども行けども、堂々巡りの様に同じ場所へ戻ってきてしまう──入ってくるときは、ずいぶん素直に通してくれた霧でしたのに。わたくしの
ケイセルカットは大門のあるはずの方角へ目をやった。灰色がどこまでも同じ濃さで塗り込められているばかりで、遠いのか近いのかも見当がつかない。
「さ、お話は終わり。さっさと立ちなさい。あなたの仕事はまだ半分残っていますのよ。陛下にも同じ話をしていただきます」