第1話 部屋の中の紛い物
最初の音で、涼葉はキーボードの上に指を止めた。
ご、と鈍い音だった。鍋を落としたのとは違う。それよりもう少し重い、何かが床に沈んだ響き。夜中の部屋では近すぎた。
ワンルームは静かだ。冷蔵庫の唸り。古いノートパソコンのファン。自分ひとりの部屋の音は、いつも同じはずだった。
もう一度鳴る。
近い。
キッチンじゃない。玄関でもない。狭い部屋なのに、位置がつかめない。涼葉は椅子から腰を浮かせたまま、耳を澄ました。続かない。
机の端のスマホを掴む。画面に自分の顔がうっすら映る。ひとつに縛った髪。目の下の薄い暗さ。二十六歳。部屋着。在宅だからと化粧も落とさず夜更かししていた女の顔だ。
泥棒、と思った。
思って、違うかもしれないとすぐに思い直す。
カーテンの下から足が見えていたからだ。
裸足だった。白い。小さい。女の子の足だった。
涼葉はしばらく動けなかった。警察、と頭で呼ぶ。通報、と言葉にしてみる。押せばいい。それだけなのに、親指が画面の上で止まる。
泥棒なら、押せた。
泥棒じゃないから、押せない。
女の子が部屋にいる、と説明しようとしただけで、自分の声の形が想像できない。説明できないことは、たぶん警察に来てもらっても説明できない。
「……誰」
返事はない。
カーテンの裾が少しだけ揺れた。窓は閉めた。帰ってから一度も開けていない。なのに動いた。
涼葉は足音を殺して近づいた。床が冷たい。ベッドの角を回ったところで、止まる。
「出てきて」
声が掠れた。
「ほんとに、やめて」
言い終わる前に、影がぱっと動いた。
涼葉は反射で後ろに飛ぶ。膝が机の脚にぶつかる。痛みが遅れて来た。その向こうで、明るい声が鳴った。
「はいはーい! そんなに怯えなくて大丈夫ですよ!」
カーテンが開く。
涼葉は、そこで一回、頭の中を空にした。
水色の髪。
作り物のような色。跳ねている。小柄。細い腕。少女だった。顔を見た瞬間、涼葉はそれを知っていた。
まのさば。
魔法少女ノ魔女裁判。
その中の、橘シェリー。
その顔で、少女はにこっと笑った。
「こんばんは! 夜中なので、おはようございますでもないですね!」
軽い。明るい。丁寧語なのに、人を食った調子。
それだけなら、まだコスプレで済んだ。
問題は、その手だった。
少女は片手でカーテンレールの端を握っていた。握っている、というより潰していた。金属が妙な角度にひしゃげている。
「……は?」
口から出たのは、それだけだった。
「おお、ご存じです?」
少女は嬉しそうに目を丸くする。
「橘シェリーですよ! 名探偵です!」
「いや……」
「話が早いですね!」
「早くない」
涼葉は思わず部屋を見回した。ユニットバス。玄関。ベッドの下。狭い部屋だ。カメラは見当たらない。こんな悪趣味なドッキリを仕掛ける知り合いもいない。
「何。配信? 誰かいる?」
「共犯者の確認です?」
少女はこてんと首を傾けた。
「大丈夫ですよ。私ひとりです!」
「大丈夫じゃない」
返したあとで、自分の声が少し大きいのに気づく。壁の薄い部屋だ。夜中だ。隣に聞こえるのは嫌だと思ったのに、目の前にあるものの方がもっと嫌だった。
似ている、では済まない。顔も、声も、立ち方も。けれどどこかが少しずつ違う。似すぎているせいで余計に、人間じゃないものを見ている気がした。
「……座って」
「はい!」
少女は返事だけやたらいい。ベッドの端に腰を下ろしかける。
ばき、と音がした。
ベッドの脚が一本、嫌な方向へ沈む。
沈黙。
「……壊れましたね!」
「見れば分かる!」
涼葉は思わず声を荒げた。少女がぴくっと肩を揺らす。隣人の苦情とか、管理会社とか、そういう単語が頭をよぎって、すぐどうでもよくなった。今それどころじゃない。
「動かないで」
「はい」
「勝手に触らないで」
「はい」
「ほんとに」
「はいはい!」
返事が軽い。軽いくせに、言われたとおりには止まる。
涼葉はスマホを握り直した。
通報すればいい。
それだけのはずが、押す前に画面がぼんやり暗くなる。親指が動かない。考えてしまうからだ。
警察が来るまでの時間。この子が大人しく待つか。待たない場合、この部屋で何が起きるか。壊れたベッドの脚。曲がったレール。同じ腕が自分にも届く距離にある。
来たあとのことも想像してしまう。水色の髪の少女を挟んで、自分が何をどう説明するのか。コスプレイヤーが不法侵入しましたと言えばいい。そこまでは言える。でも「カーテンレールを片手で潰しました」「ベッドを壊しました」と言った瞬間、どう聞こえるのか。疲れた在宅勤務の女が、夜中に変なことを言っているとしか。
押せない。
押せない自分に、余計に背筋が冷える。
「……あんた、何」
「橘シェリーです!」
「それ今やめて」
「では、シェリーちゃん?」
「そういうことじゃなくて」
少女は少しだけ黙った。
笑顔の形のまま、目だけが涼葉から外れる。
「それ、私も知りたいんですよね」
声の調子が、ほんの少し落ちた。
涼葉は言葉を返せなかった。
少女はすぐまた笑う。
「でも、お腹空きました!」
「なんで今それ」
「大事じゃないです?」
この調子に付き合うのは危険だと、頭のどこかで分かる。分かるのに、完全に無視できるほど薄くもない。そこが嫌だった。
少女はキッチンの方へ行きかける。
「待って」
涼葉は反射で声を上げた。
「勝手に触らないで」
「では何なら触っていいんです?」
「何も」
「厳しいですねえ」
言いながら、止まる。そこは素直だ。
キッチンとの境目で、ふたりは向かい合った。近い。睫毛が長い。頬が丸い。見た目だけなら年相応に見える瞬間があって、そこが最悪だった。この顔で、カーテンレールを握り潰し、ベッドを折る。
「……通報します?」
少女が軽く言った。
涼葉は目を上げる。
「したいなら、してもいいですよ」
「……」
「ただ」
「ただ、何」
「私、知らない人に囲まれるの、あんまり好きじゃないんですよね」
怒っている声じゃない。脅している顔でもない。
それで余計に、ぞっとした。
脅しの声で脅していたら、まだ普通だった。普通の人間は、そういうときに声を荒げる。荒げるから、こちらも警戒の仕方が分かる。
目の前のこれは、脅しを脅しの顔で言わない。
涼葉は喉の奥が冷えるのを感じた。通報しない方がいい、ではない。した方がいいに決まっている。でも、今ここで押すのは違う気がした。違う、というより、怖かった。
「……今日は」
やっと出た声が、ひどく乾いていた。
「今日は、しない」
少女の目が少し細くなる。
「おお」
「でも、今夜だけ」
「はい」
「変なことしたら終わり。勝手に外に出ない。物を壊さない。寝ているあいだに何かしない。触るなって言ったものは触らない」
「はいはい!」
「あとベッド壊したから、あんたは床」
「床」
「床」
「分かりました!」
返事のよさだけが腹立たしい。
「……カップ麺しかないけど」
言ってから、何で食わせる流れになっているんだろう、と涼葉は思った。思ったが、もう遅い。
少女は顔をぱっと明るくする。
「本当ですか!」
やかんに水を入れて火にかける。背中を向けるのが嫌で、何度も振り返る。少女はちゃんとその場にいた。おとなしく立っている。立っているだけなのに、部屋の中でそこだけ濃い。
金属が鳴る。換気扇の唸り。冷蔵庫の震え。いつもの部屋の音だ。その真ん中に、橘シェリーが立っている。
「ねえ」
少女が言った。
「なに」
「あなた、私のこと、けっこう好きですよね?」
涼葉は振り向いた。
「……なんでそうなるの」
「最初に見たときの顔、怖がってるのに、ちょっとだけ、わ、ってなってましたし」
「なってない」
「なってました」
「最推しでもないし」
口から出て、涼葉は一瞬しまったと思った。自分がなぜ今、こういう相手に作品の話を混ぜたのか、分からなかった。たぶん、「知っている」ことを先に示した方が、安全な気がしたからだ。知らないふりを続けて、知っていると気づかれる方が、ずっと嫌だった。
少女は目を瞬かせた。
「最推し、というのは」
「……え?」
「それは、何ですか?」
涼葉は少女の顔を見た。
にこにこしている。嘘をついている顔じゃない。少なくとも、演技の上手い嘘には見えない。
「……知らない?」
「何を、です?」
「まのさば」
水を注ぐ手が、ほんの少し揺れた。
「まの、さば?」
少女は口の中で繰り返した。
「すみません、聞いたことないですねえ」
「……」
「それ、食べ物ですか?」
涼葉はやかんの火を止めた。
頭の中で、何かが一段ずれる。
橘シェリーの顔をしていて、橘シェリーの声で、橘シェリーの口調で喋っているのに、『まのさば』を知らない。
コスプレなら知っている。熱心なファンなら絶対に知っている。知らないふりが上手いにしても、今の「それ、食べ物ですか?」は、ふりにしてはズレすぎていた。本気で名前を聞き逃した人間の聞き返し方だった。
じゃあ何だ。
じゃあ、目の前のこれは、何だ。
「……いい」
涼葉は短く返した。
「忘れて」
「はあ」
「知らないなら、それで」
「それで、というのは」
「いいから」
少女は不満そうに口を尖らせ、すぐ気を取り直したように笑った。お湯の沸く音が、やけに大きく聞こえた。
カップ麺に湯を注ぐ。蓋をする。湯気が上がる。ふたりのあいだに白く溜まって、一瞬だけ顔を隠した。
「三分」
「長いですね」
「待って」
「名探偵に待機命令ですか」
「探偵なら時計なくても測れるでしょ」
少女の目がぱっと光る。
「できますよ!」
「じゃあやって」
「はいはーい!」
本当に目を閉じる。
涼葉はその顔を見ていた。
夜中。折れたベッド。曲がったレール。床で三分を数える水色の少女。『まのさば』を知らない橘シェリー。
知らない、で片づけるには知りすぎている。知っている、で片づけるには、今のやり取りが気持ち悪すぎる。
三分後、少女は目を開けた。
「そろそろですね!」
スマホを見る。二秒しか違わない。
「……なんで」
「勘です!」
「雑」
「名探偵の勘は雑じゃないですよ?」
少女は笑う。
通報しなかったことは、たぶんあとで効いてくる。ろくでもない形で。そんな予感だけはもうある。それでも、カップ麺を受け取った少女が熱そうに息を吹きかけているのを見ると、現実感がまた少し揺れた。
「食べたら床ね」
「はい!」
「勝手にうろつかない」
「はい!」
「変なことしない」
「変なこと、の定義によります!」
「そういうとこ」
少女はへへ、と笑った。
外で救急車の音が遠く鳴って、すぐ小さくなった。隣の部屋は静かなまま。カップ麺の匂いが狭い部屋に広がる。いつもの夜食の匂いなのに、今日は別のものに見えた。
涼葉は折れたベッドの脚を見た。
それから、床で麺をすすっている水色の少女を見た。
通報しなかった。
その事実だけが、部屋の中ではっきりしていた。
*
麺をすすりながら、シェリー──と呼ばれたがっているそれは、妙に熱心に麺を噛んでいた。
熱い。舌の先がひりつく。ひりつくのに、少しだけ助かった気がした。熱いと体があることを思い出す。体があることを思い出すと、ここがどこで、自分が何として喋っているかも、また分かってくる。
分かってきて、よくなかった。
ベッド、折った。レール、潰した。脅しみたいなことも言った。いや、言った。完全に言った。「知らない人に囲まれるの好きじゃない」って何だ。もっと別の言い方があっただろう。普通に、もっと。
でも口から出たのはそれだった。
しかも、言ったあとで、自分の胸のあたりに嫌なものがひとつ残っているのに気づいた。腹の底の方で、温度が少しだけ下がる。脅しを脅しの声で言わなかったのは、たぶん怖がらせようとして出てきた言葉じゃなかったからだ。
違う、と打ち消して、麺を噛む。違う。今のは、生き延びるための台詞だ。自分を守るための脅しだ。それ以上の意味はない。それ以上の意味を持ちそうになる前に、噛み切る。
口のなかだけが熱い。
そこは助かった。
ちらっと女――涼葉の方を見る。
警戒している。当然だ。していなかったら、こっちが困る。視線が何度もこっちに戻ってくる。通報するかしないか、まだ揺れている顔だった。
今夜を越えたら、たぶん少し条件が変わる。
朝になったら、もっとまずい。インターホン、仕事、宅配。そういう生活のものが入り込んでくる。自分はこの部屋にいるだけで異物だ。髪色がまずい。どう見ても。
でも、通報されなかった。
そこだけは助かった。
涼葉が『まのさば』を知っていたのも、助かった。知らない相手なら、「何それ怖い」で即警察になっていたかもしれない。知っている相手なら、半歩だけ猶予が出る。半歩でも、今はそれしかない。
それにしても。
「まのさばってなんですか?」と返したのは、自分でも早かった。
知らないふりは、事前に決めていた。決めていたのに、涼葉の口から出たのを聞いた瞬間、体が勝手に反応した。橘シェリーは『まのさば』を知らない。知っているはずがない。作中人物なんだから。そこで反射的に、知らない口の動きが出た。
出て、助かった、と思った直後、別のことに気づく。
知らないふりができたのは、ふりをしようと意識したからじゃない。一瞬、本当に「まのさば」が遠い単語に聞こえたからだ。頭のどこかで、自分は橘シェリーで、そんな言葉を知らない、という前提がもう動き始めていた。
それがまずい。
演技で知らないふりをしているうちは、まだ自分だ。本当に知らない気がしたら、もう自分じゃない。
麺を飲み込む。
熱いのに、喉の奥は冷えた。
もうひとつ、気になっていた。
この体は、やっぱり強い。レールの曲がり方、ベッドの折れ方。加減を間違える。というか、どこまでが加減なのか、まだ分からない。軽い。動きやすい。軽いくせに、物に触ると力の方だけが変だ。自分の腕なのに、自分の腕の強さが分かっていない。
それから。
怒鳴られても、あまり怖くない。
いや、怖い怖くないじゃなくて、反応の仕方がずれている。普通ならもっと萎縮する場面で、口の端が先に上がる。面白い、と思いそうになる。そういうところがまずい。
怖がらないのは、この体が強いからだ。
たぶんそうだ。
そう思って納めかける。納めかけて、納めきれない。強さのせいにしていい種類の「怖くなさ」かどうか、まだよく分からない。
視界の端で、涼葉がまだこっちを見ている。
最推しではない、と自分で言ってくれた人だ。あれは助かる。最推しなら、もっと細かいところを見られる。普通に知っている程度の人なら、まだ誤魔化せる余地がある。たぶん。
たぶん、で何とかするしかない。
少女の顔で、笑う。
「ごちそうさまでした!」
ちゃんと聞こえるように言う。明るく。感じよく。脅かした直後だから、せめてそこくらいは。
涼葉の肩が少しだけ動いた。
その小さな動きに、息がつける。
今夜だけでいい。まずは今夜だけ。
そう思ったところで、自分の手が目に入った。
麺のスープで少し濡れている、細い、白い手だった。
さっき、そこそこの重さの金属を、握って潰した手だ。
その手を、もう一度開いて閉じてみる。簡単に閉じる。握り潰す力の加減が、ほとんど分からない。
分からないまま、なぜかひとつだけ、はっきり分かることがあった。
その気になれば、この手で、もう一本壊せる。
ベッドの脚の話じゃなかった。
別のものの話だった。
気づいて、麺の器を床に置いた。
置く手が、少しだけ遅れた。