目が覚めて、涼葉はすぐには動かなかった。
机の木目を見ていた。白っぽい化粧板。マグカップの底でできた輪染み。端が少し剥げている。見慣れた机だ。寝起きだと、何もかも一拍ずれる。
頬が重い。首が痛い。机に突っ伏したまま寝たらしい。
窓の向こうは、もう明るかった。
昨日の夜のことが戻ってくる。
涼葉は振り向く前から分かっていた。いる。部屋の中に、まだいる。
ゆっくり顔を上げる。
床に、水色が落ちていた。
毛布を半分だけかぶって、丸くなっている。髪が床に広がって、飲み物でもこぼしたみたいだった。夢じゃなかった、と思う前に、折れたベッドの脚が目に入る。カーテンレールも曲がったままだった。
夢じゃなかった。
「……うるさいですよお」
毛布の塊がもぞ、と動く。
涼葉は目を細めた。
「起きてるなら起きて」
「今起きました」
「絶対嘘」
毛布がずるっと落ちる。出てきた顔は、昨夜と同じだった。水色の髪。寝癖で片側だけ跳ねている。白い頬。妙に整った目元。寝起きなのに、その顔。
少女はぱちぱちと瞬いて、それから部屋を見回した。折れたベッドの脚を見て、おお、と声を漏らす。
「おお、じゃない」
「残ってますねえ」
「何が」
「昨日の惨状が!」
にこっと笑う。
朝からその調子なのか、と涼葉は思った。思って、そこで少しだけ助かってもいた。昨夜のまま変に静かでいられる方が、たぶんもっと嫌だった。
立ち上がる。足元が冷たい。時計は八時を回っていた。いつもならとっくに顔を洗って、メールを確認して、コーヒーを淹れている時間だ。
今日はまず、玄関を見た。
鍵は閉まっている。チェーンもかかったまま。窓も閉まっていた。
「外、出た?」
「出てませんよ?」
「ほんとに」
「ほんとです!」
軽い返事だった。軽いのに、そこだけ妙にはっきりしている。
涼葉は少し黙ってから、洗面所へ向かった。鏡に映った顔がひどかった。頬に跡。髪は崩れ、目の下が薄く暗い。水で顔を洗う。冷たさで少しだけ頭が回る。
誰かに相談した方がいい。普通に考えれば、そうだ。
でも、誰に。どう説明する。
まのさばのシェリーそっくりの少女が夜中に部屋に現れて、ベッドを壊して、そのまま床で寝た。今もいる。外には出していない。警察には連絡していない。
自分でも、もうおかしい。
顔を拭いて部屋に戻ると、少女はもう立っていた。
机の前にいたので、涼葉は思わず声を上げかける。
「触ってませんよ?」
先に言われた。
「……まだ何も言ってないけど」
「顔がそうでした!」
「近づくなって意味」
「難しいですねえ」
言いながら一歩下がる。そこは素直なんだよな、と涼葉は思う。素直な相手に見えないのに。
涼葉はスマホを取った。ロック画面に通知がいくつか。仕事のチャット、広告、宅配予定。いつもの朝だ。部屋の中以外は。
「朝ごはん」
独り言みたいに呟く。
少女の顔がぱっと上がった。
「あるんですか?」
「パンくらいなら」
「おおー!」
昨夜のカップ麺でも同じ顔をしていた。たぶん食べ物に弱い。シェリーっぽいかは分からない。
そこまで考えて、涼葉は一瞬止まった。
「シェリーっぽい」と、いま自分が思った。目の前のこれを「橘シェリー」として計る物差しで、無意識に測った。昨夜、「本物じゃない」と線を引いたはずなのに、朝になるとその線がもう薄くなりかけている。
それがまずい気がした。
冷蔵庫を開ける。食パン二枚。バター。半分残った牛乳。卵は切れている。買い物に行かなきゃまずい。でも、この状態で外に出るのは無理だ。
トースターにパンを入れる。少女がこちらを見ているのに気づく。落ち着かない。
「座ってて」
「はい」
「静かに」
「はい」
「勝手に部屋のもの触らない」
「はいはい!」
返事だけはいい。
トースターが温まる音。冷蔵庫の震え。外から車の音。部屋はちゃんと朝をやっているのに、その真ん中だけ変だった。
「ねえ」
涼葉は振り向かないまま言った。
「なにか、覚えてる?」
「昨日のことです?」
「それも含めて」
少し間があった。
「気づいたら、あなたの部屋にいたこと」
「うん」
「ベッドがあんまり丈夫じゃなかったこと」
「そこ強調しないで」
「あと、カップ麺がおいしかったこと」
涼葉は眉を寄せる。
「それ以外」
「それ以外?」
トースターが鳴った。パンを取り出して皿に乗せる。バターを塗る。溶ける。見なくていい手元を見ていると、少しだけ話しやすい。
「自分のこととか」
言うと、少女は黙った。
黙る、というだけで昨日よりずっと人間っぽく見えるのが、嫌だった。
「名探偵です!」
涼葉は小さく息を吐く。
「それは、もう聞いた」
「怪力です!」
「それも見た」
「水色です!」
「髪がね」
少女は口を尖らせた。そこを突かれるとは思わなかった顔だった。
「じゃあ、何を答えればいいんです?」
「知らないなら知らないでいい」
「おや」
「でも、分からないまま分かったふりをされると困る」
言ってから、少しきつかったかもしれないと思った。
少女は涼葉を見たまま、数秒黙っていた。
「……分からないです」
小さい声だった。
昨夜の調子とは違う。ふざけた調子を抜くと、年齢が急に下がって見える。
「何が」
「どこからどこまでが、私なのか」
そこで少女は、はっとしたように笑った。
「おお、今のはちょっと賢そうでしたね!」
自分で壊すのか、と涼葉は思う。
皿を持ったまま立っていた。目の前のそれは、やっぱり変だった。変なのに、今の一言だけは、昨夜の軽口よりずっと残った。
昨夜、涼葉自身が口を滑らせたあの場面がよぎる。「まのさばくらい知ってるよ」と言ったら、目の前の少女は「食べ物ですか?」と返した。作品の名前を、食べ物と間違えた。
本物なら知っている。偽物でも、コスプレでも、ここまで来たら知っている。
じゃあ、このふりは何のためのふりなのか。
それとも、ふりじゃないのか。
皿を差し出す。
「……はい」
「ありがとうございます!」
両手で受け取る。その仕草だけ妙に行儀がいい。育ちの良さじゃない。叩き込まれたみたいな丁寧さだ。そこが引っかかる。
涼葉も自分の皿を持って、机の前に戻った。座る。少女は床に座る。昨夜と同じ配置だ。明るいだけで、こんなにも逃げ場がなくなる。
「聞くけど」
「はい?」
「今のあんたを、私は何て呼べばいいの」
「シェリーちゃん!」
「それはあんたが名乗ってるだけでしょ」
「では、橘シェリーです!」
「フルネームも変わってない」
「おお、たしかに」
涼葉はパンをちぎる。
「私は、まだそれをそのまま信じてない」
「はい」
「似てる。見た目も声も。力もおかしい。けど、それで終わりじゃないから」
少女はパンを持ったまま、こちらを見ていた。返事をしない。
涼葉は、そこで少しだけ声を落とした。
「だから今は、シェリー、で呼ぶ」
「今は」
「今は」
少女は数秒考えてから、にこっとした。
「では、涼葉さん!」
「……なんで名前知ってるの」
「昨夜、パソコンの端に表示されてました!」
涼葉は皿を置いた。
机のモニターの隅。仕事のチャットアプリに自分の名字と名前が出ていた。そういうことか。
「見たの」
「見えたんです!」
「同じだよ」
「違いますよお。覗いたわけではなく、目に入っただけです」
「どっちでも嫌」
少女は、てへっと笑った。そこだけは昨夜と同じだった。
涼葉はパンを飲み込む。喉が少し乾く。
「今日、私は仕事あるから」
「おお」
「在宅。家から出ない」
「はい」
「だから、あんたも出ない」
「はい」
「窓にも近づかない」
「はい」
「インターホン鳴っても声出さない」
「はいはい!」
返事が軽い。
「その返事、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてますよ?」
「じゃあ繰り返して」
少女は目を丸くした。
「尋問です?」
「確認」
「ええと……外に出ない。窓にも近づかない。ぴんぽんが鳴っても静かにする」
「ぴんぽん言うな」
「では、来客音」
「雑」
でも覚えてはいるらしい。
涼葉は少しだけ息をつく。たぶん普通の家出少女でも困るのに、目の前のこれは家出少女ですらないかもしれない。そこがいちばんまずい。
「あと」
「はい?」
「壊さない」
少女は真面目な顔をした。
「努力します!」
「努力じゃなくて結果」
「結果も頑張ります!」
「不安」
少女はへへっと笑う。笑ってから、トーストを齧った。ぱりっと音がした。変に静かな部屋で、その音だけが普通だった。
涼葉はその音を聞いて、自分が少し疲れているのに気づいた。昨夜から気が張っている。普通なら、こんな相手と朝食なんて取っていない。取ってしまっている時点で、もう少しおかしい方に足を入れている。
「ねえ」
少女がパンを持ったまま言う。
「なに」
「私、今日は何をしていればいいんです?」
涼葉は一瞬答えに詰まった。
その問い方が、少しだけ子どもっぽかったからだ。ほんの少しだけ。昨夜の脅しみたいな一言を吐いた相手と同じ口から出たとは思いにくい。
「……じっとしてて」
「ずっと?」
「ずっとは無理でも、せめて午前中」
「事件が起きても?」
「この部屋の中で起きるな」
「難しい注文ですねえ」
涼葉は眉をひそめた。
「その言い方やめて」
「どの言い方です?」
「何でも面白がるみたいな」
そこで少女は、少しだけ黙った。
「……ごめんなさい?」
語尾が上がっている。謝っているのか、様子を見ているのか、よく分からない。
涼葉は視線を外した。
「別に、謝れってことじゃなくて」
「では?」
「分かんないなら分かんないでいて」
言ってから、自分でも変なことを言っていると思った。
少女も少し変な顔をした。けれど、それ以上は聞き返してこない。ただパンを見た。端の方だけバターが多い。
涼葉は机に向き直った。画面を点ける。メールを開く。未返信が三件。チャットはさらに多い。仕事は待ってくれない。
タイピングを始める。二行打って、止まる。背中の後ろに水色の気配がある。静かでも落ち着かない。
画面の隅で、通知が出た。まのさば公式アカウントのメルマガ。シェリーが表紙の新グッズ告知。条件反射で開きかけて、止めた。サムネイルの水色の髪と、背中の後ろの水色の髪が、同じ画面に並ぶ気がした。
閉じる。
閉じてから、自分でも手が早かったことに気づく。
背中の気配に、今のクリック音が聞こえたかどうか、分からなかった。
数分後。
「……あの」
後ろから小さい声がした。
涼葉はゆっくり振り向く。
少女は皿を空にして、膝の上に置いていた。少しだけ言いにくそうな顔。
「なに」
「暇です」
「知ってる」
「何かしていいです?」
「だめ」
「ひどい」
「いま信用がないから」
少女はその言葉で黙った。
さっきまでの軽さが、一瞬だけ消える。
涼葉はそこで、余計なことを言ったかもしれないと思った。でも遅い。
「……では」
少女は膝の上で皿をくるっと回した。
「信用って、どうしたら増えます?」
涼葉は答えなかった。
答えられなかった。
どうしたら増えるんだろう。目の前のこれが本当に増やせる種類のものなのか、それすらまだ分からない。分からないものを部屋に置いて、仕事を始めようとしている自分の方が、たぶんもう少し変だ。
画面の隅で時刻が九時を回る。
外では車の音が増え始めていた。隣の部屋で、何か引きずるような音がした。普通の朝だ。この部屋だけが少しずれている。
涼葉はキーボードに指を置いた。
「……まず」
「はい?」
「午前中、黙ってて」
少女は目を瞬かせ、それから嬉しいのか不満なのか分からない顔で笑った。
「簡単ですね!」
「簡単なら助かる」
「名探偵、静粛モードに入ります!」
「そういう名前つけなくていい」
でも、少女はほんとうにそのあと黙った。
黙って、床に座ったまま、窓の方も見ず、玄関の方も見ず、じっとしている。
それが演技なのか、従順なのか、別の何かなのか、涼葉にはまだ分からない。
ただ、静かにしている水色の気配が背中の後ろにあるだけで、仕事用の文章は少しも頭に入ってこなかった。