紛い物シェリーの現代来訪   作:三日月ノア

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第3話 紙一枚ぶんの同居

 

十時を少し回ったころ、インターホンが鳴った。

 

音は一回だけだったのに、涼葉の肩が跳ねた。画面から目を離し、玄関の方を見る。床に座っていたシェリーも、つられて顔を上げた。

 

「動かないで」

 

小さく言う。

 

シェリーはぱち、と瞬いた。

 

「ぴんぽんです?」

 

「知ってる。喋らないで」

 

また鳴る。今度は少し長い。

 

今日、何か届くものあったっけ、と一瞬考えて、思い出す。洗剤だ。昨夜、半分寝ながら押した定期便。なんで今日、と思いながら立ち上がる。

 

「そこ、見える」

 

「おや」

 

「おやじゃない。立って」

 

シェリーはすぐ立った。返事が軽いくせに、そういうところだけ素直だ。

 

助かる。助かるが、目立つ。髪色がまずい。玄関からまっすぐには見えないはずでも、配達員が少し身を乗り出したらどうなるか分からない。分からないのが嫌だった。

 

「こっち」

 

ユニットバスのドアを開ける。

 

シェリーはそこで止まった。開いたままの狭い空間を見て、笑いそうでもなく、嫌そうでもなく、変な顔をした。

 

「中」

 

「……今だけ」

 

インターホンがまた鳴る。

 

涼葉は声を落とした。

 

「お願い」

 

言ってから、自分で少し嫌になる。頼む筋合いじゃない。けれど命令だけで押し切れる相手でもない、という気はもうしていた。

 

シェリーは涼葉を見た。昨夜から貼りついたみたいだった笑顔が、そのときだけ少し止まる。

 

「はい」

 

短く言って、中へ入った。

 

涼葉はドアを閉める。ぴたりとは閉めない。二センチくらい隙間を残す。閉め切ると音がするし、向こうも嫌がりそうだった。

 

玄関へ行き、モニターを覗く。配達員の男が箱を抱えて立っていた。

 

「は、はい」

 

自分でも分かるくらい声が上ずった。

 

『お届けものでーす』

 

チェーンは外さず、扉だけ開ける。荷物を受け取る。サインする。それだけ。いつもと同じはずなのに、背中が妙に気になる。向こうが室内を少しでも覗き込んだら、と思う。

 

『重いんで気をつけてください』

 

「ありがとうございます」

 

箱は本当に重かった。洗剤だから当然だ。その重さで、昨夜ベッドをへし折った細い腕を思い出す。

 

扉を閉める。鍵を回す。チェーンもかける。

 

そこまでしてから、しばらく玄関の前に立ったままだった。

 

 

配達員の男は、エレベーターを待ちながら首の後ろを掻いた。

 

終わった。荷物も渡した。サインももらった。それだけだ。

 

それだけのはずなのに、部屋の中の空気だけが少し引っかかる。

 

出てきた女は、寝起きみたいな顔だった。部屋着。ひとり暮らしの在宅の人間なんて、だいたいあんなもんだ。眠そうにサインして、すぐ扉を閉める。何件も見てきた。

 

ただ、扉が閉まる瞬間、向こうで何か動いた気がした。

 

白い壁の向こう、ユニットバスの辺り。人ひとりぶんくらいの影が、扉のへりに一瞬だけ落ちた。いや、落ちたと思っただけかもしれない。

 

男は伝票の束を見下ろす。指先に、短い毛が一本ついているのに気づいた。薄い、水色の、髪らしいもの。箱にくっついていたのが、手に移ったらしい。

 

ウィッグだろう、と思う。最近、そういう色のを家で着てる人もいるから。動画用とか、配信用とか。思って、伝票の端でぬぐう。

 

エレベーターが着く。

 

乗り込む直前にもう一度だけ廊下を見る。扉は閉まったまま。静かだ。

 

たぶん、ほんとに、気のせいだ。

 

水色の毛は、エレベーターの床に落ちる前に、男の袖の裏に挟まって、そのまま次の配達先まで運ばれた。

 

 

狭い。

 

白い壁。古い鏡。排水口の匂い。洗剤の甘い匂い。湿った空気。閉め切っていないドアの隙間。

 

シェリーは膝を折ったまま、じっとしていた。

 

じっとしているだけなのに、変に疲れる。頭をぶつけないよう、少し屈む姿勢も嫌だった。狭い場所は好きじゃない、と言いそうになって、好き嫌いの問題か、と口の中で止める。胸の奥だけがざわつく。腕の内側が妙にむず痒い。

 

さっきの涼葉の「お願い」が耳に残っていた。

 

強く言われる方が楽だった。命令なら従えばいい。でも、ああいう言い方をされると、変なところが引っかかる。頼まれた、という形が、体に慣れていない。記憶にない、というのが正しいかもしれない。

 

鏡を見る。

 

水色の髪。白い顔。笑おうとすれば笑える口。

 

橘シェリーがいる。

 

鏡だけだと、まだ平気なふりができる。

 

鏡の中の顔に、少しだけ口角を上げさせてみる。上がる。簡単に上がる。昨夜よりは、ぎこちない。今朝の方が、ぎこちなかった。なのに今はもう、少しだけ滑らかだ。一日も経っていないのに。

 

それが、嫌だった。

 

でも、見られていないと、少し崩れる。

 

さっきみたいに突然誰かが来たら、またすぐ貼り直せるのか。外にいたのが涼葉じゃなくて、知らない大人が何人かだったら。頭に浮かんだ瞬間、細い腕に力が入る。

 

ぎし、と小さく鳴って、シェリーは慌てて手を離した。

 

タオル掛け。

 

危なかった。

 

壊したら終わる。それくらいは学べ。口の中で自分に言う。

 

学べ、と自分に命じている誰の声か、一瞬だけ分からなくなった。男の声で言っているのか、少女の声で言っているのか。その区別が、朝より曖昧になっていた。

 

外で荷物を置く音がした。鍵の音。扉が閉まる。

 

「……終わった」

 

くぐもった声が聞こえる。

 

涼葉だ。

 

シェリーは少しだけ息を吐いて、そっとドアを押した。

 

出た瞬間、涼葉の目がまずタオル掛けに行く。無事だと分かってから、やっとこっちを見る。

 

「……平気?」

 

その一言が少し意外で、シェリーは瞬きをした。

 

「何がです?」

 

「いや」

 

涼葉は箱を床に置く。

 

「別に」

 

別に、ではない顔だった。けれど、それ以上は聞いてこない。たぶんこの人はそこを踏み込まない。踏み込みすぎず、放ってもおかず、じっと見ている。

 

気づかないふりができる相手じゃない。

 

「今の、分かったでしょ」

 

涼葉が箱を足先で寄せながら言う。

 

「この部屋にあんたがいるって、外に出たら終わるから」

 

「終わる、は大げさでは?」

 

「大げさじゃない」

 

そこで涼葉は言葉を切った。玄関、窓、パソコン、部屋の中。順番に視線を動かしてから、机の引き出しを開ける。

 

「紙ある」

 

「名探偵への挑戦状です?」

 

「違う」

 

メモ帳とボールペンを出し、その場で立ったまま書き始める。字は少し急いでいる。角張っていて、癖のない字だ。涼葉の顔はそっちを向いているのに、頭の半分はたぶん別のことを考えている。

 

数秒して、紙が段ボールの上に置かれた。

 

「読む」

 

「おお」

 

シェリーは身を乗り出した。

 

一、窓に近づかない。

 

二、インターホンが鳴ったら隠れる。

 

三、勝手に物を触らない。

 

四、壊しそうなものには触らない。

 

五、外に出ない。

 

紙一枚。箇条書き。味気ない。

 

「雑ですねえ」

 

「急いでるから」

 

「六がありませんよ」

 

「五で足りる」

 

「名探偵は抜けを見逃しません」

 

「名探偵じゃなくていいから守って」

 

その言い方で、少しだけ口をつぐむ。

 

守ること自体はできる。たぶん。問題は、これで何日持つのか、だ。

 

「……ずっと?」

 

「何が」

 

「これ」

 

紙を指で弾く。

 

涼葉は答えなかった。紙の端を押さえたまま、少しだけ眉間を寄せる。

 

「今日は」

 

「今日は」

 

「今日は、これで」

 

今日は。

 

それは明日がある言い方だった。少なくとも今すぐ追い出す気はない。そこに少しだけ息がつく。ついてしまう。顔に出る前に、慌てて笑う。

 

「では、名探偵、暫定的に従います!」

 

「その言い方やめてってば」

 

「暫定は大事ですよ?」

 

「そこじゃない」

 

涼葉は椅子を引いた。座って、画面に向かう。けれど、すぐには打ち始めない。一度だけ、紙の方を見る。

 

シェリーもその紙を見る。

 

字の五つ目の下だけ、少し空いていた。もう一行書こうとしてやめたみたいに。

 

何を書こうとしたのか、少し気になる。

 

でも訊かない。訊いたら、今は壊れそうな気がした。

 

「ねえ」

 

涼葉が画面を見たまま言う。

 

「はい?」

 

「その呼び方」

 

「おや」

 

「私の名前。部屋の中で大きい声で呼ばないで」

 

シェリーは少し考えた。

 

「では、涼葉さん、は小さく」

 

「さん、もいらない」

 

「涼葉」

 

「それはもっとだめ」

 

「難しいですねえ」

 

紙。机。部屋。口の中で転がしてみる。

 

「……家主さん?」

 

涼葉は一拍置いて、ため息をついた。

 

「それでいい」

 

それでいいんだ、と思う。

 

名字でも名前でもなく、他人行儀で、でも今のふたりにはちょうどいい。少なくとも、そういう距離だ。

 

涼葉――いや、家主さんは、ようやくキーボードに手を置いた。

 

その手元を見ながら、シェリーは膝の上の紙をもう一度見た。

 

窓に近づかない。

 

インターホンが鳴ったら隠れる。

 

勝手に物を触らない。

 

壊しそうなものには触らない。

 

外に出ない。

 

紙一枚ぶんの同居だった。

 

薄い。頼りない。少し力を入れたら破れそうだ。

 

破れそうだ、と思った瞬間、自分の指先が紙の端を掴んでいるのに気づいた。爪の白いところが、紙越しに透けている。少しだけ力を込めたら、本当に裂けそうだった。

 

力を込めなかった。

 

込めない、と選ぶ。昨夜はレールを潰した。今朝はタオル掛けを掴みかけた。そのたびに、いちいち「込めない」と選ばないと、勝手に指が動いている。

 

ふつう、紙を破らない選択なんて、選択ですらない。

 

選択にしないと守れない自分は、少し変だ。

 

シェリーは紙をそっと折って、膝の上に置いた。服の感触にもまだ慣れない。座るたび、腕を曲げるたび、体が少しだけ違う場所にある感じがする。

 

窓の外で、遠くにサイレンが鳴っていた。

 

部屋の中では、キーボードを打つ音がようやく戻る。速くはない。少し止まって、また動く。そのたびに、家主さんがまだこっちを気にしているのが分かる。

 

その気配の中で、シェリーは膝の上の紙に指先を置いたまま、なるべく静かに座り直した。

 

とりあえず、今日は。

 

今日はこれで、生き延びる。




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