十時を少し回ったころ、インターホンが鳴った。
音は一回だけだったのに、涼葉の肩が跳ねた。画面から目を離し、玄関の方を見る。床に座っていたシェリーも、つられて顔を上げた。
「動かないで」
小さく言う。
シェリーはぱち、と瞬いた。
「ぴんぽんです?」
「知ってる。喋らないで」
また鳴る。今度は少し長い。
今日、何か届くものあったっけ、と一瞬考えて、思い出す。洗剤だ。昨夜、半分寝ながら押した定期便。なんで今日、と思いながら立ち上がる。
「そこ、見える」
「おや」
「おやじゃない。立って」
シェリーはすぐ立った。返事が軽いくせに、そういうところだけ素直だ。
助かる。助かるが、目立つ。髪色がまずい。玄関からまっすぐには見えないはずでも、配達員が少し身を乗り出したらどうなるか分からない。分からないのが嫌だった。
「こっち」
ユニットバスのドアを開ける。
シェリーはそこで止まった。開いたままの狭い空間を見て、笑いそうでもなく、嫌そうでもなく、変な顔をした。
「中」
「……今だけ」
インターホンがまた鳴る。
涼葉は声を落とした。
「お願い」
言ってから、自分で少し嫌になる。頼む筋合いじゃない。けれど命令だけで押し切れる相手でもない、という気はもうしていた。
シェリーは涼葉を見た。昨夜から貼りついたみたいだった笑顔が、そのときだけ少し止まる。
「はい」
短く言って、中へ入った。
涼葉はドアを閉める。ぴたりとは閉めない。二センチくらい隙間を残す。閉め切ると音がするし、向こうも嫌がりそうだった。
玄関へ行き、モニターを覗く。配達員の男が箱を抱えて立っていた。
「は、はい」
自分でも分かるくらい声が上ずった。
『お届けものでーす』
チェーンは外さず、扉だけ開ける。荷物を受け取る。サインする。それだけ。いつもと同じはずなのに、背中が妙に気になる。向こうが室内を少しでも覗き込んだら、と思う。
『重いんで気をつけてください』
「ありがとうございます」
箱は本当に重かった。洗剤だから当然だ。その重さで、昨夜ベッドをへし折った細い腕を思い出す。
扉を閉める。鍵を回す。チェーンもかける。
そこまでしてから、しばらく玄関の前に立ったままだった。
*
配達員の男は、エレベーターを待ちながら首の後ろを掻いた。
終わった。荷物も渡した。サインももらった。それだけだ。
それだけのはずなのに、部屋の中の空気だけが少し引っかかる。
出てきた女は、寝起きみたいな顔だった。部屋着。ひとり暮らしの在宅の人間なんて、だいたいあんなもんだ。眠そうにサインして、すぐ扉を閉める。何件も見てきた。
ただ、扉が閉まる瞬間、向こうで何か動いた気がした。
白い壁の向こう、ユニットバスの辺り。人ひとりぶんくらいの影が、扉のへりに一瞬だけ落ちた。いや、落ちたと思っただけかもしれない。
男は伝票の束を見下ろす。指先に、短い毛が一本ついているのに気づいた。薄い、水色の、髪らしいもの。箱にくっついていたのが、手に移ったらしい。
ウィッグだろう、と思う。最近、そういう色のを家で着てる人もいるから。動画用とか、配信用とか。思って、伝票の端でぬぐう。
エレベーターが着く。
乗り込む直前にもう一度だけ廊下を見る。扉は閉まったまま。静かだ。
たぶん、ほんとに、気のせいだ。
水色の毛は、エレベーターの床に落ちる前に、男の袖の裏に挟まって、そのまま次の配達先まで運ばれた。
*
狭い。
白い壁。古い鏡。排水口の匂い。洗剤の甘い匂い。湿った空気。閉め切っていないドアの隙間。
シェリーは膝を折ったまま、じっとしていた。
じっとしているだけなのに、変に疲れる。頭をぶつけないよう、少し屈む姿勢も嫌だった。狭い場所は好きじゃない、と言いそうになって、好き嫌いの問題か、と口の中で止める。胸の奥だけがざわつく。腕の内側が妙にむず痒い。
さっきの涼葉の「お願い」が耳に残っていた。
強く言われる方が楽だった。命令なら従えばいい。でも、ああいう言い方をされると、変なところが引っかかる。頼まれた、という形が、体に慣れていない。記憶にない、というのが正しいかもしれない。
鏡を見る。
水色の髪。白い顔。笑おうとすれば笑える口。
橘シェリーがいる。
鏡だけだと、まだ平気なふりができる。
鏡の中の顔に、少しだけ口角を上げさせてみる。上がる。簡単に上がる。昨夜よりは、ぎこちない。今朝の方が、ぎこちなかった。なのに今はもう、少しだけ滑らかだ。一日も経っていないのに。
それが、嫌だった。
でも、見られていないと、少し崩れる。
さっきみたいに突然誰かが来たら、またすぐ貼り直せるのか。外にいたのが涼葉じゃなくて、知らない大人が何人かだったら。頭に浮かんだ瞬間、細い腕に力が入る。
ぎし、と小さく鳴って、シェリーは慌てて手を離した。
タオル掛け。
危なかった。
壊したら終わる。それくらいは学べ。口の中で自分に言う。
学べ、と自分に命じている誰の声か、一瞬だけ分からなくなった。男の声で言っているのか、少女の声で言っているのか。その区別が、朝より曖昧になっていた。
外で荷物を置く音がした。鍵の音。扉が閉まる。
「……終わった」
くぐもった声が聞こえる。
涼葉だ。
シェリーは少しだけ息を吐いて、そっとドアを押した。
出た瞬間、涼葉の目がまずタオル掛けに行く。無事だと分かってから、やっとこっちを見る。
「……平気?」
その一言が少し意外で、シェリーは瞬きをした。
「何がです?」
「いや」
涼葉は箱を床に置く。
「別に」
別に、ではない顔だった。けれど、それ以上は聞いてこない。たぶんこの人はそこを踏み込まない。踏み込みすぎず、放ってもおかず、じっと見ている。
気づかないふりができる相手じゃない。
「今の、分かったでしょ」
涼葉が箱を足先で寄せながら言う。
「この部屋にあんたがいるって、外に出たら終わるから」
「終わる、は大げさでは?」
「大げさじゃない」
そこで涼葉は言葉を切った。玄関、窓、パソコン、部屋の中。順番に視線を動かしてから、机の引き出しを開ける。
「紙ある」
「名探偵への挑戦状です?」
「違う」
メモ帳とボールペンを出し、その場で立ったまま書き始める。字は少し急いでいる。角張っていて、癖のない字だ。涼葉の顔はそっちを向いているのに、頭の半分はたぶん別のことを考えている。
数秒して、紙が段ボールの上に置かれた。
「読む」
「おお」
シェリーは身を乗り出した。
一、窓に近づかない。
二、インターホンが鳴ったら隠れる。
三、勝手に物を触らない。
四、壊しそうなものには触らない。
五、外に出ない。
紙一枚。箇条書き。味気ない。
「雑ですねえ」
「急いでるから」
「六がありませんよ」
「五で足りる」
「名探偵は抜けを見逃しません」
「名探偵じゃなくていいから守って」
その言い方で、少しだけ口をつぐむ。
守ること自体はできる。たぶん。問題は、これで何日持つのか、だ。
「……ずっと?」
「何が」
「これ」
紙を指で弾く。
涼葉は答えなかった。紙の端を押さえたまま、少しだけ眉間を寄せる。
「今日は」
「今日は」
「今日は、これで」
今日は。
それは明日がある言い方だった。少なくとも今すぐ追い出す気はない。そこに少しだけ息がつく。ついてしまう。顔に出る前に、慌てて笑う。
「では、名探偵、暫定的に従います!」
「その言い方やめてってば」
「暫定は大事ですよ?」
「そこじゃない」
涼葉は椅子を引いた。座って、画面に向かう。けれど、すぐには打ち始めない。一度だけ、紙の方を見る。
シェリーもその紙を見る。
字の五つ目の下だけ、少し空いていた。もう一行書こうとしてやめたみたいに。
何を書こうとしたのか、少し気になる。
でも訊かない。訊いたら、今は壊れそうな気がした。
「ねえ」
涼葉が画面を見たまま言う。
「はい?」
「その呼び方」
「おや」
「私の名前。部屋の中で大きい声で呼ばないで」
シェリーは少し考えた。
「では、涼葉さん、は小さく」
「さん、もいらない」
「涼葉」
「それはもっとだめ」
「難しいですねえ」
紙。机。部屋。口の中で転がしてみる。
「……家主さん?」
涼葉は一拍置いて、ため息をついた。
「それでいい」
それでいいんだ、と思う。
名字でも名前でもなく、他人行儀で、でも今のふたりにはちょうどいい。少なくとも、そういう距離だ。
涼葉――いや、家主さんは、ようやくキーボードに手を置いた。
その手元を見ながら、シェリーは膝の上の紙をもう一度見た。
窓に近づかない。
インターホンが鳴ったら隠れる。
勝手に物を触らない。
壊しそうなものには触らない。
外に出ない。
紙一枚ぶんの同居だった。
薄い。頼りない。少し力を入れたら破れそうだ。
破れそうだ、と思った瞬間、自分の指先が紙の端を掴んでいるのに気づいた。爪の白いところが、紙越しに透けている。少しだけ力を込めたら、本当に裂けそうだった。
力を込めなかった。
込めない、と選ぶ。昨夜はレールを潰した。今朝はタオル掛けを掴みかけた。そのたびに、いちいち「込めない」と選ばないと、勝手に指が動いている。
ふつう、紙を破らない選択なんて、選択ですらない。
選択にしないと守れない自分は、少し変だ。
シェリーは紙をそっと折って、膝の上に置いた。服の感触にもまだ慣れない。座るたび、腕を曲げるたび、体が少しだけ違う場所にある感じがする。
窓の外で、遠くにサイレンが鳴っていた。
部屋の中では、キーボードを打つ音がようやく戻る。速くはない。少し止まって、また動く。そのたびに、家主さんがまだこっちを気にしているのが分かる。
その気配の中で、シェリーは膝の上の紙に指先を置いたまま、なるべく静かに座り直した。
とりあえず、今日は。
今日はこれで、生き延びる。
つづきはどうしたらいいやら