その夜、私は警察を呼ばなかった。
いま思えば、最初の判断ミスはそこだったのかもしれない。でも、あの場で通報ボタンを押せる人がどれだけいるだろう。
部屋に、ゲームのキャラクターそっくりの少女がいる。水が勝手に動いた。
そんな説明、通るわけがない。薬でもやっていると思われるのが先だ。
それに、という考えも、頭の隅にあった。水が動いた。それがコスプレでも幻覚でも錯覚でも説明のつかないことで、説明のつかない相手を警察に引き渡したとして、何が起きるのか想像もつかなかった。引き渡すという選択自体が、何か違う方向へ踏み込む気がした。
私は玄関に一番近い位置を確保したまま、彼女とローテーブルを挟んで座っていた。小さいテーブルが、やけに頼りなく見えた。
彼女は、さっきから部屋をきょろきょろ見ている。
私の本棚。テレビ台。積みっぱなしの洗濯物。壁際のアクスタ。そして、『まのさば』の限定パッケージ箱。
そこまで見て、彼女の視線が止まった。
「……あ」
「何が」
「ノアだ」
心臓がどくんと鳴る。
私は壁際の棚を見た。去年のコラボカフェで買ったノアのミニスタンドが置いてある。ノアが一番好きなわけじゃない。でも、あのカフェで一人で行って全メニューを頼んで、店員さんに少し引かれた気がした日に買ったやつだ。自分でもかなり痛い部屋だと思うが、今は別の意味で最悪だった。
「あなた、それ見て何かわかるの」
「んー……」
彼女は答えず、じっとスタンドを見つめた。それから視線を落とす。
「かわいいね」
私は言葉に詰まった。推しを本人に褒められる。普通ならうれしい話だが、今は喜ぶ場面じゃない。そもそも本人なわけがない。なのに彼女は、コスプレイヤーへの感想でも、ファンへの世辞でもなく、他人の置き物を眺める時の顔で、静かにそう言った。
「飲む?」
冷蔵庫から麦茶を出しながら聞くと、彼女は少しだけ目を丸くした。
「いいの?」
「毒なんか入れてないから」
「そういう意味じゃないよぉ」
でも、ありがとう、と言った。
紙コップを一つ置く。彼女は両手でそれを持ち、すぐには飲まなかった。中の茶色い液体を、熱心に観察している。
「……何」
「綺麗だなって」
麦茶が?
思わず変な顔をしたのがわかった。彼女はくす、と笑った。
「だって、ちょっと赤いでしょ。光に透けると」
私は台所の蛍光灯を見上げた。安っぽい白い光の下で見ても、麦茶はただの麦茶だった。透かしてみようという気にすらならない。でも彼女はそれをもう一度眺めた。見飽きないみたいに。なんでもないものを見る目じゃなかった。本当に何か見えているのか、見えているふりをしているのか、どっちか分からなかった。
「ねえ」
思い切って聞く。
「あなた、人間?」
彼女は紙コップを持ったまま、しばらく考えた。考えている時間が、普通の人間の「どう答えるか考える時間」じゃなかった。もっと素直な考え方で、本当に分からないから考えている、という感じだった。
「わかんない」
「わかんないって何」
「前は、たぶん、そうだったのかなぁ」
冗談を言っている顔じゃない。私は頭痛がしてきた。
「じゃあ、どうしてここにいるの」
「それも、わかんない」
「何もわからないの?」
「うん」
あっさりしている。追い詰められている人の必死さがない。開き直りとも違う。ただ本当に曖昧なものを曖昧なまま口にしている感じだった。それが怖かった。「帰れない」という深刻な話を、「天気が悪いね」くらいの温度で言う。同情を引こうとするでもなく、泣きもしないし、助けてとも言わない。ただ事実だけ置いてくる。その置き方が、妙に下手だった。かわいそうと思う隙すら、うまく作れない。
「……帰って」
「帰る場所、ないかも」
「そんなの知らない」
「うん。知らないよね」
静かに返されて、今度は私の方が詰まった。
私はスマホを手繰り寄せる。検索欄にはさっき打ちかけた「城ヶ崎ノア」が残っていた。ばかみたいだ。検索してどうする。「部屋にいました」なんて結果は出ない。
「……一晩だけ」
気づけば、そんなことを言っていた。
彼女が顔を上げる。
「一晩だけなら。夜だし。今から放り出して何かあっても困るから」
言い訳みたいに早口になる。「何かあっても困る」は、彼女のことを心配しているんじゃなくて、後で自分が困るから、という意味だ。それくらいは分かっている。分かっているのに、一晩だけなら、と言っていた。
「明日になったら、ちゃんと考える。だから変なことしないで」
「変なこと?」
「水を動かすとか」
その言葉に、彼女は目をぱちぱちさせた。それから、少しだけ肩をすぼめる。
「……ごめんね」
「できるんだ」
「お絵描きみたいなものだよ」
「お絵描きで水が動くの?」
「うん」
全然わからない。
彼女は紙コップの縁に人差し指を沿わせた。その指先を、私は反射的に見てしまう。
麦茶の表面が、静かに持ち上がる。
今度は細い線じゃなかった。茶色い液体が、紙コップの内側でゆっくり渦を巻いて、輪郭だけ細く伸びる。魚みたいな形になりかけて、そこで崩れた。
私はテーブルに手をついたまま固まった。
「……だから、お絵描き」
彼女は言った。悪びれるでもなく、得意げでもなく、ただ説明として。見せた、というより、見えたことを確認させた、という感じだった。
「びっくりした?」
二度目のその言葉に、私は苛立った。
「するに決まってるでしょ」
少し強くなった声に、彼女のまつ毛が揺れる。
「そっか。じゃあ、しないようにする」
その言い方が、子どもみたいで、でも子どもにしては諦めが早すぎた。「やめて」と言われたからやめる。それ以上でも以下でもない。引き止める気もないし、見せたくて見せたわけでもなかったらしい。それがまた変だった。
私は深く息を吐いた。
「お風呂は」
「えっ」
「……入る?」
聞いた瞬間、彼女は露骨に困った顔をした。
「お風呂は、いいかなぁ」
妙に即答だった。私は額を押さえたくなる。
「じゃあ顔だけでも洗って」
「それなら、たぶん」
たぶんって何だ。
とことん会話が噛み合わない。
結局、その日は押し入れから予備の毛布を出して、床に寝かせることにした。毛布を渡した時、彼女は両手でそれを受け取って、少し間を置いてから「ありがとう」と言った。声の調子が、さっきより少しだけ低かった。
私はほとんど眠るつもりがなかった。
部屋の灯りを落とす前、彼女は毛布を抱いたまま、小さく言った。
「ねえ」
「何」
「ノア、どう見える?」
「……」
返答に窮してしまう。
暗がりの中で、その顔はよく見えなかった。それでも、笑っているのはわかった。笑い方がさっきより少し違う気がした。へたくそな笑い方じゃなく、もっと素直に、少し怖がっているみたいな笑い方だった。
私はしばらく黙って、やっと答えた。
「城ケ崎ノアに見える」
そう言うと、彼女は少しだけ嬉しそうで、少しだけ傷ついたみたいな顔をした。
「そっか」
それきり、黙った。
私も黙ったまま、布団に入る。天井を見ているうちに、換気扇の音に混じって、かすかな水音がした。
気のせいだと思うことにした。
けれど朝まで、私は一度も深く眠れなかった。
だれか続きかいてくれないですかねえ