眠れなかった。
理由は多すぎた。
体が違う。場所が違う。世界が違う。それなのに、一番しんどいのは、たぶん最後だった。
目を開けた時から、俺はこの体だった。
銀色の長い髪。白でなく銀みたいだ。絵具でもこぼしたかのような毛先のカラー。細く小さい手。軽い肩。喉に触れると、聞いたことのある高さで声が出た。鏡を見なくても分かった。見たら終わる気がして、最初は見られなかった。
それでも見た。
見たら、ちゃんと終わった。
城ヶ崎ノアがいた。
正確には、城ヶ崎ノアに見える何か。そこに俺が入っている。
意味がわからない。混乱して、叫びたかった。けど部屋の持ち主に聞かれるのが怖くて、口を押さえた。叫び声まで女になっていたら、たぶん本当に耐えられなかった。
そこまでは、まだ悪夢で済んだ。
本当にまずかったのは、そのあとだ。
部屋を見回した時、棚に『まのさば』のパッケージがあった。ポスターも、アクスタも、攻略本も、配信者の切り抜きもあった。
この世界には、『魔法少女ノ魔女裁判』がある。
ゲームとして。作品として。俺が知っている、あのままの形で。
その事実が、何よりきつかった。
つまりここは元の世界に似たどこかじゃない。少なくとも、俺にとってはそうじゃない。
俺はこの部屋の女に見つかって、あっさり城ヶ崎ノアだと認識された。つまり外へ出れば終わる。映れば終わる。喋ればもっと終わる。
じゃあどうする。
答えは一つしかなかった。
城ヶ崎ノアとして振る舞う。
それしかない。
……ないんだけど。
「無理だろ」
小声で言って、自分の声にぞっとした。
ノアの喋り方は、真似しやすいタイプじゃない。論理で寄せればいいわけじゃないし、口調だけ撫でてもすぐ嘘になる。あの子は、考え方そのものが少しずれている。善悪より先に、綺麗とか、怖いとか、不思議とか、そういうところに目が行く。世界の受け取り方が、まず感覚から入る。
それを真似るのは、まのさばのほかのキャラで挙げると… 例えば橘シェリーみたいに「名探偵っぽく喋る」より、ずっと難しい。口が出る前に、見え方を変えなきゃいけない。
俺は配信も考察も見ていた。でも全部じゃない。細かい好みや反応まで完璧に把握しているわけじゃない。
半端だ。
半端な知識で、有名キャラの顔を借りている。
最低だと思った。
けど、じゃあ「俺です」と言ってどうなる。信じてもらえるわけがない。信じられたとしても、もっとひどいことになるかもしれない。研究対象だ。炎上だ。晒しものだ。そういう想像ばかり、やけにはっきり浮かんだ。
だから借りるしかない。
借りものの顔で、生き延びる。
喉が詰まった。
床で眠っていたはずなのに、気づけば指先に水がまとわりついていた。昨夜こぼしたらしい麦茶のしずくが、フローリングの上から細く伸びて、俺の爪に巻きついている。
本当に気持ち悪い。
でも、綺麗だった。
その感想が一番嫌だった。
こういうのを綺麗と思う感性が、俺のもとからあったのか、それともこの体から来ているのか、区別できなかった。区別できないことが、もっと嫌だった。
俺は慌てて手を振る。しずくはほどけて、床に落ちた。
「……お絵描き、みたいなもの」
昨夜、自分が言った言葉を思い出す。勝手に出た。考えて言ったんじゃない。なのに妙にしっくりきた。
ノアなら、そう言う気がした。
いや、違う。そんなの俺が勝手に思ってるだけだ。もっと違うかもしれない。もっと本物は複雑で、もっと痛くて――
そこまで考えて、やめた。
今は掘るな。そこはたぶん底じゃない。
女は、奥のベッドでほとんど眠れなかったらしい。何度も寝返りの音がしていた。俺が物音を立てるたびに呼吸が浅くなるのも分かった。
当然だ。俺だって逆なら怖い。
それなのに、一晩だけ置いてくれた。通報もできたのに、しなかった。
甘いのか、現実感がないのか。たぶん両方だ。
その甘さに、少しだけ縋りたくなっている自分がいた。
最悪だ。
朝の薄い光がカーテンの隙間から差し込む。部屋の輪郭がぼんやり明るくなるにつれて、壁際の棚も見えてくる。
ノアのスタンド。ノアの缶バッジ。ノアの切り抜き。
見ないようにしていたのに、目が行く。
誰かに好きだと思われている顔。誰かが金を払って集めた顔。その中心に今、自分がいる。
中身はまるで別物なのに。
笑えなかった。
「……どうかなぁ」
試しに、そう言ってみる。
だめだった。薄っぺらい。自分でもわかる。
もう一度。
「不思議だね」
もっとだめだ。
言葉だけ似せても、その前後の呼吸が違う。考えて喋ると、ノアじゃなくなる。ノアの言葉は、考えてから出てくるんじゃない。感じたものが、フィルターを通らずにそのまま口から出る。その順番が、俺には逆だ。
俺が言葉を選んでいる間、ノアならもう次のものを見ている。
どうしたら、その遅れを埋められるのか。埋まるのか、そもそも埋めていいのか。埋めるほど、こっちが何かを失う気がした。
その時、ベッドのきしむ音がした。
俺は反射で振り向いた。女が起き上がりかけている。
目が合う。
二人とも、少し止まった。
寝起きでぼんやりした顔のまま、彼女が言う。
「……今、喋ってた?」
「ん」
喉がひりついた。ここで間違えるな、と頭のどこかが言う。
彼女は警戒したまま、髪をかき上げた。
「何て」
一瞬だけ迷って、俺は答えた。
「おはよう、かなぁって」
言ってから、内心で歯を食いしばる。
薄い。それでも彼女は少しだけ目を細めた。完全に信じた顔ではない。でも昨夜みたいに、即座に否定する顔でもなかった。
「……顔、洗う」
それだけ言ってベッドを降りる。
洗面所へ向かう背中を見ながら、俺は息を吐いた。
たぶん、もう戻れないところまで来ている。
この部屋にいる限り。この顔でいる限り。
俺は城ヶ崎ノアとして扱われる。そしてたぶん、生き延びるには、それに乗るしかない。
借りものの顔で。借りものの声で。たぶん、そのうち借りものの感情まで使って。
最低だと思った。それでも、もう遅い。
洗面所から水の音がした。
指先が勝手にそちらへ向く。
するり、と。コップの底に残っていた透明な水が、細い線になって浮いた。
俺はそれを見つめたまま、静かに呟く。
「……しばらく、ノアでいよう」
水の線は、ゆっくり頷くみたいに揺れた。
今後はしばらく本編の方にもどりたい