紛い物シェリーの現代来訪   作:三日月ノア

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その4 窓に触れない

 

 

顔を洗わせるだけで、思ったより時間がかかった。

 

 洗面所に立ったノアは、まず鏡を見た。

 正確には、鏡の中の自分を見ていた。

 

 水を出す前に、ずっと。

 

「……何してるの」

 

 私が声をかけると、彼女は少しだけ遅れてこちらを向いた。

 

「見てた」

「それは分かる」

「うん」

 

 うん、じゃない。

 

 朝の洗面所は狭い。私ひとりでも狭いと思う場所に、ゲームのキャラクターそっくりの少女が立っている。

 昨日の夜なら、まだ混乱で押し流せた。けれど朝になって、蛍光灯の下で見ても、やっぱり同じだった。銀色の髪。細い首。寝癖で少し跳ねた毛先。

 現実感だけが、少しずつこちらに寄ってきている。

 

「蛇口、ひねって」

「どっち?」

「……右」

 

 ノアは言われた通りに手を伸ばした。水が出る。

 その瞬間、指先が少しだけ止まった。

 

 私は見逃さなかった。

 

「何もしないで」

「まだ何もしてないよ」

「まだ、って言った」

「言ったかなぁ」

 

 言った。

 

 水は普通に流れている。ただの水道水だ。けれど、彼女が見ていると、ただの水に見えなくなってくる。

 流れ方に意味があるような。排水口へ落ちていく線が、何かの下描きみたいな。

 

「顔だけ洗って。水で遊ばない」

「遊ぶんじゃなくて」

「じゃなくて?」

「……見ちゃう」

 

 小さく言った。

 

 怒るつもりだったのに、そこで少しだけ言葉が詰まった。

 見ちゃう。

 子どもみたいな言い訳だ。でも、嘘っぽくはなかった。

 

 彼女は両手で水を掬った。

 ぎこちない。たぶん、水の触り方を怖がっている。冷たいからではない。手に触れた水が、自分の意思と関係なく何かになってしまうのを警戒しているようにも見えた。

 ぱしゃ、と顔を濡らす。

 銀色の前髪が頬に張りつく。

 目を閉じている顔だけ見ると、普通の女の子だった。

 

 それが一番困る。

 

「タオル」

「そこ」

「これ?」

「それは足拭き」

「あ」

 

 反射でため息が出た。

 ノアは足拭きマットを手にしたまま、少しだけ気まずそうに笑う。

 昨日の夜と違う笑い方だった。へたくそな作り笑いではない。間違えた時に出る、普通の照れ笑い。

 

 やめてほしい。

 そういうところだけ普通になられると、こっちが困る。

 

「こっち。顔はこれ」

「ありがと」

 

 タオルで顔を拭きながら、ノアはもう一度だけ鏡を見た。

 今度は長くない。ちら、と確認するだけだった。

 それでも、私はその横顔を見ていた。

 

 この子は、本当に自分の顔を見慣れていない。

 

 そう思ってしまった。

 

「……風呂は」

「お風呂?」

「昨日も入ってないし、服もそのまま。さすがに入って」

「えー」

 

 初めて、はっきり嫌そうな顔をした。

 

「えーじゃない」

「お風呂、あんまり好きじゃないんだよねぇ」

「それ、設定?」

「設定?」

 

 聞き返されて、私のほうが黙った。

 

 設定。

 自分で言って、嫌になる。

 目の前の相手を、まだキャラクターとして見ている。いや、見ないと無理なのかもしれない。キャラクターなら、説明がつく。プロフィールに嫌いなものがあって、魔法があって、喋り方があって、過去がある。

 でも、生身の人間として見たら、何も説明がつかない。

 

「……いい。風呂は夜。今は着替えて」

「服、ある?」

「私のしかないけど」

 

 タンスを開ける。

 部屋着のTシャツ。大きめのスウェット。未開封のインナー。

 最後の袋を手に取った時だけ、少し迷った。渡すのが嫌、というより、渡した瞬間に「この子をここで生活させる」と認める気がした。

 

「これ、使って」

「いいの?」

「よくはないけど、今それしかない」

「そっか」

 

 ノアは袋を両手で受け取った。

 それから、じっと眺める。

 

「……着方、わかる?」

「たぶん」

「たぶん?」

「絵があるから」

 

 袋の裏に印刷された着用図を見て、そんなことを言った。

 私は額を押さえた。

 

「分からなかったら呼んで。いや、呼ばないで。まず自分で何とかして」

「どっち?」

「……危なくなったら呼んで」

 

 何が危ないのか、自分でも分からない。

 

 洗面所の扉が閉まる。

 中で、がさがさと袋を開ける音がした。布が擦れる音。少し長い沈黙。

 私はリビングに戻って、テーブルの上を片づけた。昨日の夜の紙コップ。飲みかけの麦茶。水滴の跡。

 そこに薄く、丸い染みが残っている。

 

 ただの染みのはずだった。

 けれど、よく見ると小さな顔に見えた。眠そうな目がふたつ。口のような線がひとつ。

 たぶん偶然。

 そう思いたかった。

 

 ティッシュで拭く。

 茶色い跡は伸びて、すぐ消えた。

 

 消えたのに、見たことは残った。

 

「着たよぉ」

 

 振り返ると、ノアが立っていた。

 私のTシャツは彼女には少し大きくて、肩が片方ずれていた。スウェットの裾も余っている。髪はまだぐしゃぐしゃで、顔だけが異様に整っている。

 見慣れないはずなのに、部屋に馴染みかけているのが嫌だった。

 

「肩、直して」

「こう?」

「逆」

「むずかしいね」

 

 何が。

 

 私は深く息を吐いて、引き出しからメモ帳を出した。

 昨日の夜、眠れないまま考えていた。

 警察を呼ばないなら。

 今日すぐ追い出さないなら。

 この部屋に置くなら。

 

 条件がいる。

 

 ノアがテーブルの前に座る。

 私はボールペンを握った。

 

 一、外に出ない。

 二、窓に近づかない。カーテンを開けない。

 三、インターホン、宅配、電話には出ない。

 四、スマホ、パソコン、ゲーム機を勝手に触らない。

 五、水、飲み物、風呂、洗面台を勝手に触らない。

 六、何かしたい時は先に言う。

 

 書き終えると、自分でもひどいと思った。

 人間に出す条件ではない。危ない動物か、故障した機械か、そういうものに対する注意書きだ。

 

 でも、書かなければいけなかった。

 

「これ、守って」

「うん」

「簡単に頷かないで。守れないなら、この部屋には置けない」

「追い出す?」

「……そういう話になる」

 

 ノアは怒らなかった。

 泣きもしなかった。

 ただ、紙を見下ろす。

 

「窓、だめなんだ」

「だめ」

「外、見たい時は?」

「見ない」

「ずっと?」

「しばらく」

「しばらくって、どれくらい?」

「私がいいって言うまで」

 

 言いながら、自分の声が硬くなっているのが分かった。

 私がいいって言うまで。

 何様だろう。

 でも、そう言うしかない。

 

「水も?」

「水も」

「見るだけなら?」

「だめ」

「お水、綺麗なのに」

「綺麗とかそういう問題じゃない」

 

 そこで、ノアは少しだけ黙った。

 

 言い過ぎた、と思った。

 でも謝るほどでもない。謝ったら、条件が緩む。緩めたら、たぶん終わる。

 

「……ノアは、いい子にしてる」

「いい子じゃなくていい。普通にして」

「普通」

「そう」

「普通って、どこまで?」

 

 答えられなかった。

 

 普通。

 朝起きて、顔を洗って、仕事へ行って、帰って、風呂に入って、寝る。

 私にとっての普通はそれだ。

 でも、ゲームキャラの顔をした何かが部屋にいる時点で、そんなものはとっくに壊れている。

 

「……勝手に何もしないこと」

「うん。わかった」

 

 ノアは頷いた。

 今度は、少しだけ真面目な顔だった。

 

 私はその紙を冷蔵庫に貼った。

 磁石で四隅を止める。

 ルールが部屋の中にできた。

 それだけで、少しだけ安心した。

 

 安心したかっただけなのかもしれない。

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷蔵庫に貼られた紙を、俺は何度も見た。

 

 外に出ない。

 窓に近づかない。

 水を触らない。

 

 全部、正しい。

 正しいから、余計に苦しい。

 

 この人は、たぶん悪くない。

 昨日の夜、警察を呼ばなかった。今朝も追い出さなかった。服を貸して、顔を洗わせて、条件まで決めてくれた。

 それは優しさだと思う。

 いや、違う。責任を手放せなかっただけかもしれない。怖くて、混乱して、判断を先送りにしただけかもしれない。

 それでも、俺はその先送りに助けられている。

 

 だから守らないといけない。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、視線は勝手に洗面所へ行く。

 さっきの水の流れが、まだ頭の中に残っている。蛇口から落ちる線。排水口へ吸い込まれる丸。濡れた前髪。鏡の中の顔。

 全部、絵の材料みたいに見える。

 俺はこんなふうに世界を見たことがなかった。

 

 まのさばは好きだった。

 作品全体が好きだった。

 キャラの掛け合いも、裁判の空気も、死に方の悪趣味さも、魔法の理屈も、考察の余白も。

 でも、城ヶ崎ノア、というか特定の誰かを推していたわけじゃない。

 

 ノアの細かい部分、呼吸や息遣いなんかは当然知っているわけない。

 

 なのに、この体は知っているみたいに動く。

 

 左手でフォークを持った時もそうだった。

 何も考えず左手が出た。

 前の俺なら右だった。箸もペンも、スマホを操作する指も、だいたい右。

 でも今は左の方が自然だった。

 借りものの体に、借りものの癖がついている。

 

 怖い。

 

「昼、食べる?」

 

 台所から声がした。

 

「食べる、かなぁ」

「かなぁじゃなくて」

「食べる」

 

 危ない。

 

 そう思ったのに、口は勝手に柔らかくなる。ノアっぽくしようと意識した瞬間、逆に薄くなる。

 薄い。

 自分でもわかる。

 けれど、俺そのものを出したら、取り返しがつかない。

 

 テーブルにトーストと目玉焼きが置かれた。

 焦げ目のついたパン。黄身の端が少し固まった卵。

 普通の朝食。

 俺はフォークを持ち、黄身をつついた。黄色が割れて、皿の上にゆっくり広がる。

 

 綺麗だな、と思った。

 

 すぐに嫌になった。

 そう思うのは、俺か。ノアか。

 どっちでもいいのか。よくないのか。

 

「……何」

「卵、絵の具みたい」

「食べ物でそういうこと言わない」

「ごめん」

 

 謝ったら、彼女は一瞬だけ困った顔をした。

 怒りたいのに、怒るほどでもない。そういう顔だ。

 

 食事の後、彼女はノートパソコンを開いた。

 検索欄に、城ヶ崎ノア、と打つのが見えた。

 すぐ消す。

 また打つ。

 今度は、魔法少女ノ魔女裁判、城ヶ崎ノア、現実、みたいな言葉を入れて、また消す。

 

 そんな検索で答えが出るなら、俺が先に調べている。

 

 でも止められなかった。

 彼女には、調べるしかないのだと思う。俺を見て、ネットを見て、また俺を見る。

 そのたびに、俺は少しずつ品定めされている気分になった。

 

 いや、実際そうだ。

 

 俺は偽物か。

 本物か。

 危険か。

 置いていいものか。

 捨てるべきものか。

 

 そうやって見られている。

 

 夕方近く、彼女は洗濯物を取り込むためにベランダのない窓際へ行った。

 カーテンは開けない。下の方だけ少しめくって、外の物干し竿に掛けていたタオルを引き込む。

 俺は壁際に座って、それを見ないようにしていた。

 

 見ないようにしていたのに、窓が見えた。

 

 カーテンの端。

 ガラスの下の方。

 白く曇っている。

 結露だ。

 

 小さな水滴が、いくつも並んでいた。

 点。点。点。

 それだけなのに、線にしたくなる。

 繋げば、何かになる。

 丸でもいい。魚でもいい。眠そうな顔でもいい。

 

 触らない。

 

 俺は膝の上で手を握った。

 

 触らない。

 水を勝手に触らない。

 窓に近づかない。

 そう決めた。

 決めたはずだった。

 

「ちょっとゴミ捨ててくる。出ないでね」

「うん」

 

 彼女は玄関へ向かった。

 ドアが開く。閉まる。鍵が回る。

 部屋に、俺だけが残った。

 

 静かだった。

 冷蔵庫の音。換気扇の低い音。遠くの車の音。

 そして、窓の結露。

 

 見るだけなら。

 そう思った。

 

 見るだけなら、ルール違反じゃない。

 たぶん。

 

 俺は立ち上がった。

 窓まで、三歩。

 カーテンの裾を指でつまむ。ほんの少しだけ持ち上げる。

 夕方の光が、細く部屋に入ってきた。

 

 ガラスの向こうには、向かいのマンションがある。

 いくつかの部屋に明かりがついていた。ベランダに洗濯物。手すり。鉢植え。知らない人の生活。

 そこへ、ガラスに残った水滴が重なる。

 現実の上に、薄い白い点が乗っている。

 

 触りたい。

 

 触った。

 

 人差し指の腹に、冷たさがついた。

 水滴がすっと集まる。

 線になる。

 思ったよりずっと簡単だった。

 

 俺の手じゃない。

 そう思った。

 

 丸を描く。

 少し歪ませる。

 目を二つ。口をひとつ。

 眠そうな顔。

 たったそれだけなのに、線に迷いがない。俺が昔、ノートの隅に描いていた落書きとは全然違う。

 下手な線が、どこにもない。

 

 気持ち悪い。

 

 でも、嬉しい。

 

 その二つが同時に来て、息が詰まった。

 

「……上手いな」

 

 自分で言ってしまった。

 

 言った瞬間、胸の奥が冷えた。

 これは俺の絵じゃない。

 俺が描いたのに、俺の絵じゃない。

 借りものの顔で、借りものの声で、借りものの線まで使っている。

 

 ノアになっている。

 いや、ノアになれている。

 その違いが、わからない。

 

 玄関の鍵が鳴った。

 

 まずい。

 

 慌ててカーテンを戻そうとした時、外から小さな音がした。

 

 カシャ。

 

 スマホのシャッター音みたいな、乾いた音。

 

 俺は固まった。

 

 カーテンの隙間の向こう、向かいのマンションの廊下か、ベランダか。

 誰かが立っていた。

 顔までは見えない。

 でも、手元に四角い光がある。こちらに向けられている。

 

 撮られた。

 

 たぶん。

 

 いや、違うかもしれない。偶然かもしれない。

 でも、相手は動かなかった。

 こっちを見ている。

 

「ただい――」

 

 背後で、彼女の声が止まった。

 

 俺は振り向けなかった。

 

 窓には、結露で描いた小さな顔。

 その横に、銀色の髪をした少女の影が映っている。

 借りものの顔。

 借りものの輪郭。

 外から見れば、それはきっと、城ヶ崎ノアにしか見えない。

 

「下がって」

 

 彼女の声が低かった。

 

「ノア、下がって」

 

 今度は逆らわなかった。

 俺は窓から離れた。彼女がカーテンを強く閉める。部屋が暗くなる。

 その暗さに、少しだけ安心してしまった。

 

「……何したの」

「ごめん」

「何したの」

「触った。ちょっとだけ」

 

 嘘はつけなかった。

 

 彼女は窓の方を見た。

 カーテンの向こうに、まだ誰かがいるかもしれない。

 俺もそちらを見た。けれど何も見えない。見えないことが、逆に怖かった。

 

「言ったよね」

「うん」

「窓に近づかない。水を触らない。言ったよね」

「うん」

 

 怒鳴られた方が楽だった。

 でも彼女は怒鳴らなかった。

 その代わり、息を殺すみたいに黙った。

 

 冷蔵庫には、さっき貼ったばかりの紙がある。

 まだ一日も経っていない。

 それなのに、俺はもう二つ破った。

 

「……ごめんね」

 

 声が、勝手に柔らかくなる。

 ノアの声で謝る。

 俺の謝罪なのに、俺の声じゃない。

 

 彼女は返事をしなかった。

 

 カーテンの向こうで、夕方の光が細く揺れている。

 その向こうにいる誰かの視線だけが、部屋の中に残っているみたいに。

 

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