奏史演義   作:Yuki_Mar12

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第50話

***

 

 

 

 庭の黄色いヤマブキの花が豊かに咲いていた。冬が過ぎ、季節は春を迎え、人々は、今なお世の中は安定していないけれど、いささか朗らかになった。

 

 庭にある小池のそばに、平服の奏文は腰の後ろで手を組んで佇み、悠々と泳ぎまわる魚たちの姿を見下ろしていた。

 

 以前と比べて、彼は武術の鍛錬にあまり精を出さなくなった。いざという時にはやむなく用いるけれど、それ以外では、人を殺める術は封印した。帰郷した奏文は、もっぱら建物の工事などに携わり、彼は職人に転じたのだった。以前と比べて、彼の身体は、肉体労働によって鍛えられ、俊敏さを失った代わりに、剛強になった。

 

 小さいあずまやでは、奏文の母が、色味の慎ましい着古した着物姿で、息子の背を見るともなしに見ていた。

 

「お母様」、と呼びかけるのは、徐氏。彼女は黒い茶托にのせた白い茶碗を両手で品よく運んで来た。

 

 あずまやの小卓に茶碗が置かれると、母は「ありがとう」と微笑と共に述べた。頬が少し垂れ、目の下はうっすらと黒く、奏文の母の笑顔は、四十を超えた年齢に相応のものではあったが、苦節の痕が窺われた。彼女は、息子が帰ってきてくれはしたものの、夫がいなくなり、長い期間中、ずっと古い王朝の共鳴者として、反乱軍の共鳴者の反感を買い、彼女自身、忠誠心だけで王朝の側に付いていたにすぎないのだが、肩身の狭い思いでいたものだった。彼女は苦労に晒されて、生活は段々と苦しくなって来、複数いた使用人は手放さざるをえなくなったし、新しい着物が買えなくなったけれど、忍耐強く節度と良心を守り抜いた。

 

 彼女はそして、旅を経ていくらか成長した息子と、彼の道連れの徐氏と岩良を、身内として温かく迎えたのである。徐氏は、使用人の代りとして、岩良は奏文と共に職人として働くことになった。

 

 奏文が小池のそばで物思いに耽り、あずまやの中で、彼の母と徐氏とが和やかに談笑している他方、岩良は馬小屋で迅影の世話を見、その体を麻のたわしで磨いてやっていた。

 

 もう迅影は、奏文よりも岩良の方を好いており、戦場を駆けることのなくなった奏文は、その所有権を岩良にくれてやった。岩良は爽快さを求めて、とりわけ春などの過ごしよい時期には原っぱに迅影に乗って出かけたし、徐氏は絵画の材料を求めて、彼に随伴した。

 

 その日は好天で、岩良は粗方磨き終わると、迅影を連れて、いつものように出かけることにし、徐氏がほくほくした様子で彼に付いていった。

 

 彼等のそういった行動を横目に、奏文はあるいは小池のそばに、あるいはヤマブキのそばに佇み、隔世の感に浸るのだった。生活が昔ほど悠々としたものではなくなり、父がいなくなり、義兄弟というべき家族が増え、彼の心中はいくつもの印象で複雑だった。

 

 スッと、息子のすぐ後ろに母が近付き、彼はその気配が察せられた。

 

「二年と経っていませんが」、と奏文はヤマブキの花を観賞して言った。「色々と様変わりしたものですね」

 

「時の流れがそうするのでしょう」、と母。

 

「父はまだ生きておられるはずなんです。戻ってきてくださればいいのに」

 

 そう呟いて、奏文は空を見上げた。

 

「あの方なりの流儀で、お帰りにならないのでしょうが、奏文は、寂しいのですか?」

 

 母はその目線に合わせて目線を上げた。

 

「息子であれば、当然」

 

「いずれ親は失われるものです。その時はいつ来るか分かりません。常に覚悟を持っておかないと」

 

「……」

 

 奏文は返答せず、顔を伏せて沈黙した。

 

 母はその顔を窺おうと隣に来て覗き込んだ。彼女の目には、息子の顔色は、どこか優れないようで、けれど、クスリと笑って頬を緩めた。

 

「ぼんやりするのがあなたの趣味でしたか? 以前とは変わりましたね」

 

「いえ、そういうわけでは……」

 

 彼は困惑したように眉を下げて母の方に顔を上げた。

 

「岩良たちのように、あなたも趣味を持ちなさい」

 

「趣味。そうですね」

 

 奏文がそう返すと、母は屋敷の方に歩いていった。

 

 ――大陸では、十ほどの国が割拠して王朝を巡って互いに争い、統一は遠かった。地方では王朝の衰退に合わせて貴族が没落し、実力でのし上がってきた農民や商人などが土地を掌握して統治し、奏文のふるさとは、最早王朝の勢力下ではなくなっていたし、奏文の家は王朝に与していたが、排斥されるなどせず、豊かではなかったが、比較的平穏に暮らせていた。

 

 奏文は、父への反発を機に始めた旅を経て、荒波に揉まれたことで、失ったものはあったけれど、精神的に成長する糧を得ることは出来たようだった。彼の知らないことはまだたくさんあり、また旅立ってより広く足を伸ばしたいという気がしないではなかったが、寡婦になってしまったかよわい母を一人で置くことは出来なかった。

 

 だが、いずれ今の生活がより盤石になる頃が来れば、あるいは奏文は、岩良か徐氏に留守を頼んで、また旅に出るかも知れないなどと予想した。

 

 

 

 青空の下、ヤマブキが、春の花が笑んでいた。

 

 時が来れば、蕾は開く。

 

 いずれ機縁が巡ってくれば、奏文の思いは、きっと叶うだろう。

 

 

 

***

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