守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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岸辺露伴は何も見ていない

カフェテラスのテーブルに、伝票と領収書が並んでいた。

 

 港町への旅行を終えて数日。

 怪異も、歌も、潮騒も、釣果も、食事も、ひとまず思い出という箱に収まった――はずだった。

 

 だが、会計だけは収まっていなかった。

 

「旅館宿泊費。食事追加分。土産物代。塩菓子。灯台資料館協力費。防波堤保全寄付。釣具レンタル費」

 

 ログナーが、淡々と項目を読み上げる。

 

 白い軍装に身を包んだその姿は、街中のカフェテラスにおいて完全に浮いていた。

 浮いているのに、本人はまるで気にしていない。

 

 隣では、ソープが紅茶を飲んでいる。

 カイエンは不機嫌そうに腕を組み、アウクソーは静かに伝票を整理していた。

 

「釣具レンタル費を強調するな、ログナー」

 

 カイエンが言う。

 

「事実だ」

 

「事実だから腹が立つんだよ」

 

「なら釣ればよかっただろう」

 

「その正論が一番腹立つって言ってんだ」

 

 ソープが困ったように笑った。

 

「まあまあ。カイエンも最後は釣れたんだから」

 

「最初のボウズを帳消しにはできません」

 

 ログナーが即答する。

 

「ログナー、細かいね」

 

「会計とは細かいものです、陛下」

 

 ソープは紅茶のカップを持ったまま、ほんの少しだけ瞬きをした。

 

 カイエンが眉をひそめる。

 

「おい」

 

 アウクソーも静かに視線を上げた。

 

「ログナー様」

 

「……失礼。ソープ様」

 

「だからそれも怪しいんだよ」

 

 カイエンが呻いた。

 

 そのときだった。

 

「怪しいとも」

 

 背後から声がした。

 

 カイエンが顔をしかめ、ログナーが無表情に振り向く。

 

 そこに立っていたのは、岸辺露伴だった。

 

 片手には手帳。

 もう片方の手にはペン。

 その目は、獲物を見つけた漫画家の目をしていた。

 

「やはり君たちは、僕の予想以上に怪しい」

 

「来たか」

 

 カイエンがため息をつく。

 

「来るなと言った覚えはないな」

 

「言っても来ただろ」

 

「当然だ」

 

 露伴は空いている椅子を勝手に引いて座った。

 

「この数日、僕はずっと考えていた。防波堤の凪。六壁坂の霧。あの不可解な気配。そして、君――ソープ」

 

 ソープは穏やかに笑った。

 

「僕?」

 

「とぼけるな」

 

 露伴がペン先を向ける。

 

「君はいったい何者なんだ?!」

 

 その声は、カフェテラスの空気を少しだけ震わせた。

 

 近くの席で、パフェを食べていた桂木弥子が顔を上げる。

 

「あ、露伴先生だ」

 

 向かいに座っていた泉京香も、ストローから口を離した。

 

「また何か始まりそうですね」

 

「何かっていうか、もう始まってるよね」

 

 弥子がパフェを抱えながら言う。

 

「しかもあの白い人、絶対普通じゃない」

 

「普通の人は、カフェで伝票に赤ペン入れませんからね」

 

 泉が小声で返した。

 

「そこなんだ」

 

 弥子が突っ込む。

 

 一方、露伴の追及は止まらない。

 

「君はソープなのか? ソープダッシュなのか? それとも別の何かなのか? 六壁坂の霧は何だ? あの防波堤で、君は海と風に何をした? ただの偶然だと言う気か?」

 

 ソープは少し困ったように笑う。

 

「僕はただの整備士で、旅行者だよ」

 

「またそれか!」

 

 露伴がテーブルを叩いた。

 

「ただの整備士は海を凪がせない。ただの旅行者は霧に向かって“わかるね”などと言わない。ただの少年を、ログナー司令が“陛下”などと呼ぶわけがない」

 

「呼んでいない」

 

 ログナーが言った。

 

 露伴が即座に振り向く。

 

「呼んだ」

 

「聞き間違いだ」

 

「漫画家の耳を侮るな。僕は聞いた。二回聞いた。いや、三回聞いた」

 

「なら忘れろ」

 

「断る」

 

 露伴とログナーの視線がぶつかった。

 

 ログナーは冷淡に言った。

 

「しつこい」

 

 露伴の眉が跳ねる。

 

「何だと?」

 

「聞こえなかったのか。しつこいと言った」

 

「僕は当然の疑問を口にしているだけだ」

 

「当然ではない。無遠慮だ」

 

「取材熱心と言え」

 

「迷惑だ」

 

 弥子が遠くの席から、小声で言った。

 

「うわ、口が強い」

 

 泉が頷く。

 

「でも露伴先生も引きませんね」

 

「引いたら露伴先生じゃないから」

 

「それはそうですね」

 

 カイエンは頭を抱えた。

 

「やめとけ、露伴。そいつを一言で説明しようとするな」

 

「なぜだ」

 

「お前の手帳が負ける」

 

「手帳が負ける?」

 

 露伴は鼻で笑った。

 

「そんなことがあるものか。僕は岸辺露伴だ。見たもの、聞いたもの、感じたものを描く。それが僕の仕事だ」

 

「だから言ってんだよ。底がねぇんだって」

 

 ソープは静かにカップを置いた。

 

「露伴」

 

「何だ」

 

「君は、知りたいんだね」

 

「当然だ」

 

「どうしても?」

 

「当たり前だ」

 

「知ったら、描けると思う?」

 

「描く。必ずだ」

 

 ソープは、少しだけログナーを見た。

 

 ログナーは一瞬沈黙し、それから言った。

 

「陛下。ここはもういっそ……」

 

「おい、待て」

 

 カイエンが即座に制止する。

 

「本当にやる気か」

 

 アウクソーが静かに言った。

 

「マスター。少し離れた方がよろしいかと」

 

「……経験者の忠告は重いな」

 

 カイエンは椅子を少し引いた。

 

 露伴は眉をひそめる。

 

「何の話だ?」

 

 ソープは困ったように笑った。

 

「そうだね」

 

 その一言だった。

 

 風が止まった。

 

 カフェテラスを行き交う人の声が、遠ざかる。

 車の音も、カップの触れ合う音も、弥子がスプーンでパフェをすくう音も、すべてが薄い膜の向こう側に押しやられたように聞こえなくなった。

 

 ソープの輪郭が、ほどける。

 

 それは変身というより、隠していたものが露出する、という方が近かった。

 

 白。

 光。

 静寂。

 圧倒的な気配。

 

 そこに顕現したのは、もはや「旅行者」と呼ぶにはあまりにも大きすぎる存在だった。

 

 天照・ディス・グランド・グリース・エイダス・フォース。

 天照の帝。

 

 その御身の光を前に、露伴は言葉を失った。

 

 ペンを持つ手が止まる。

 手帳の頁が、風もないのに微かに震えた。

 

 弥子は、パフェ用のスプーンを口元で止めたまま固まっていた。

 

「……え」

 

 泉は目を見開き、完全に声を失っている。

 

「……きれい」

 

 それだけが、ようやくこぼれた。

 

 カイエンは目を伏せ、アウクソーも静かに頭を下げる。

 ログナーは、当然のように姿勢を正していた。

 

 アマテラスは露伴を見た。

 

「さて」

 

 声は穏やかだった。

 

 だが、その穏やかさが、むしろ逃げ場をなくす。

 

「何が訊きたいんだっけ?」

 

 露伴は口を開いた。

 

 しかし、声が出ない。

 

 彼は確かに岸辺露伴だった。

 好奇心のためなら、危険にも非常識にも踏み込む漫画家だった。

 

 だが今、目の前にあるものは、好奇心で触れるには大きすぎた。

 

 見た瞬間に、理解した。

 

 これは、見てはいけない。

 

 いや、違う。

 

 見たところで、描けない。

 

「……忘れた」

 

 露伴が、かすれた声で言った。

 

 カイエンが小さく吹き出しかけた。

 

「お前が忘れたって言うの、初めて聞いたぞ」

 

 露伴は手帳を閉じた。

 

「僕は見てない」

 

 弥子が瞬きをする。

 

「えっ、いや、今めっちゃ見て――」

 

 泉が慌てて弥子の口を押さえた。

 

「弥子ちゃん、今は合わせましょう」

 

「むぐっ」

 

 露伴は自分に言い聞かせるように続けた。

 

「何も見ていない。僕は何も見ていない」

 

 ログナーが冷静に言った。

 

「賢明だ」

 

 露伴が顔をしかめる。

 

「君に言われると非常に腹が立つな……だが今回は同意する」

 

「腹が立つ程度で済んでいるなら幸運だ」

 

「いちいち言い方が冷たいんだよ、君は」

 

「事実だ」

 

 アマテラスはくすりと笑った。

 

「大丈夫だよ、ログナー。今の露伴には、まだ描けない」

 

 露伴がゆっくりと顔を上げる。

 

「……“まだ”と言ったな」

 

「うん」

 

「やめろ。希望を残すな」

 

「希望じゃないよ」

 

「じゃあ何だ」

 

「宿題かな」

 

「余計に悪い!」

 

 その瞬間、光がやわらかくほどけた。

 

 空気の密度が戻る。

 カフェのざわめきが帰ってくる。

 車の音が聞こえる。

 弥子のスプーンが、かちゃん、と皿に当たった。

 

 そこにはまた、いつものソープが座っていた。

 

 紅茶のカップを手に、何事もなかったように。

 

「……」

 

 露伴は、しばらく沈黙していた。

 

 手帳は閉じたまま。

 ペンも動かない。

 

 やがて、独り言のように言った。

 

「……結局、君が何者なのか。まるで見えないな」

 

 ソープは、少しだけ困ったように笑った。

 

「一応、簡単な単語はあるよ」

 

 露伴が目を細める。

 

「なら、言えばいい」

 

 ソープは答えなかった。

 

 カイエンも黙っている。

 ログナーも黙っている。

 アウクソーも、静かに視線を伏せた。

 

 誰も、その単語を口にしない。

 

 沈黙があった。

 

 それは秘密を守るための沈黙というより、言葉にした瞬間、何かがひどく狭くなってしまうことを知っている者たちの沈黙だった。

 

 露伴は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……言葉にした途端、違うものになるのか」

 

 ソープは頷いた。

 

「うん。たぶんね」

 

「漫画家に向かって、言葉を疑えと言うのか」

 

「違うよ」

 

 ソープは穏やかに言った。

 

「言葉だけに頼らなくてもいいんじゃないか、って言っているんだ」

 

 露伴はしばらく黙った。

 

 その顔には、悔しさと、苛立ちと、ほんの少しの納得が混ざっていた。

 

「……気に入らないな」

 

「うん」

 

「だが、悪くない」

 

 ソープは微笑んだ。

 

 ログナーが口を開く。

 

「この件はここで通行止めだ」

 

 露伴がすぐに睨んだ。

 

「君は本当にその言い回しが好きだな」

 

「便利だからな」

 

「僕の前に道を置くな」

 

「道ではない。壁だ」

 

「いい性格をしているな」

 

「よく言われる」

 

 カイエンが大きくため息をついた。

 

「お前ら、真面目な話してたのに急に戻すな」

 

 弥子がようやく泉の手から解放された。

 

「ぷはっ! え、今の何?! すごい綺麗だったけど、なんか見ちゃいけないやつ?!」

 

 泉は困ったように笑った。

 

「たぶん、見ちゃいけないというより、見ても説明できないやつですね」

 

「なるほど。じゃあ露伴先生向きだ」

 

「いや、今の露伴先生、完全に処理落ちしてましたよ」

 

「処理落ち!」

 

 弥子は笑いながらパフェを食べた。

 

「でも、あたしも何を見たのか全然分かんない。とりあえず、すごかった」

 

「語彙が消えましたね」

 

「うん、消えた」

 

 露伴は二人をじろりと見た。

 

「君たち、今のことは忘れろ」

 

 弥子がきょとんとする。

 

「露伴先生がそれ言うんですか?」

 

 泉も小さく頷いた。

 

「説得力がすごくないですね」

 

「うるさい」

 

 露伴は手帳を開いた。

 

 ログナーの視線が鋭くなる。

 

「書くな」

 

「見ていない」

 

「なら書くな」

 

「見ていないが、手は動く」

 

「最悪だな」

 

 カイエンが呟く。

 

 露伴は、ほんの少し震える字で書いた。

 

『見ていない。

 ただし、忘れてはいない。』

 

 その下に、さらに続ける。

 

『ソープ。

 簡単な単語はある。

 だが、誰もそれを言わない。

 言えば理解できるのではなく、言えば見失う。』

 

 そこで一度ペンが止まる。

 

 露伴は、閉じかけた手帳に、最後の一行を加えた。

 

『だから、まだ描けない。

 だが、描きたい。』

 

 ログナーがそれを覗き込む。

 

「消せ」

 

「断る」

 

「見ていないのでは?」

 

「見ていない」

 

「ならなぜ書ける」

 

「岸辺露伴だからだ」

 

「理由になっていない」

 

「僕にとっては十分だ」

 

 ソープが笑う。

 

「露伴らしいね」

 

「君に僕らしさを語られるのも腹立たしいな」

 

「そう?」

 

「そうだ」

 

 露伴は手帳を閉じた。

 

 その顔には、まだ混乱が残っていた。

 だが、それ以上に、悔しそうな笑みがあった。

 

「今日はここまでにしておく」

 

 カイエンが目を細める。

 

「珍しいな。退くのか」

 

「退くんじゃない。持ち帰るんだ」

 

「同じだろ」

 

「全然違う」

 

 露伴は立ち上がった。

 

「僕は何も見ていない。何も聞いていない。何も分かっていない」

 

 そう言ってから、ソープを見る。

 

「だが、覚えている」

 

 ソープは静かに頷いた。

 

「うん」

 

「いずれ描く」

 

「楽しみにしているよ」

 

「挑発か?」

 

「励ましだよ」

 

「一番腹が立つタイプの励ましだな」

 

 ログナーが淡々と言った。

 

「帰るなら伝票整理の邪魔をするな」

 

「最後まで失礼な男だな、君は」

 

「事実を言っている」

 

「その言い方が失礼なんだ」

 

 露伴は文句を言いながらも、カフェテラスを後にした。

 

 その背中を見送りながら、弥子が首を傾げる。

 

「結局、露伴先生は何を見たんですか?」

 

 泉が少し考えて、答えた。

 

「本人が何も見てないって言っているので、何も見てないんでしょう」

 

「大人の対応だ」

 

「弥子ちゃんも、そういうことにしておきましょう」

 

「はーい」

 

 弥子はパフェの最後の一口をすくった。

 

「でも、あたしは見た気がする」

 

「私もです」

 

「じゃあ、見てないってことにしよう」

 

「はい」

 

 二人は妙に真面目な顔で頷いた。

 

 テーブルでは、ログナーが再び伝票に目を落とす。

 

「さて、続けます」

 

 カイエンが呻いた。

 

「まだやるのかよ」

 

「当然だ。会計は終わっていない」

 

 ソープが紅茶を飲みながら言った。

 

「ログナー、塩菓子は文化調査だよ」

 

「却下します」

 

「少しは検討してよ」

 

「検討した結果、却下です」

 

 アウクソーが静かに伝票を揃える。

 

「マスターの釣具レンタル費も、こちらにまとめてよろしいですか」

 

「アウクソー、追い打ちをかけるな」

 

「事実ですので」

 

「今日は事実が多すぎる」

 

 ソープは楽しそうに笑った。

 

 街の風が、テラスを通り抜ける。

 何事もなかったように、人々は歩き、車は走り、カフェの店員は注文を運んでいく。

 

 だが、その一角だけには、まだ少しだけ光の余韻が残っていた。

 

 誰も口にしない単語。

 誰も説明しない正体。

 そして、見ていないと言い張る漫画家の手帳。

 

 岸辺露伴は何も見ていない。

 

 少なくとも、本人はそう主張している。

 

 ただし。

 

 忘れてはいない。

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