守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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ヒューア・フォン・ヒッター子爵はバーへ逃げる

 カイエンは疲れていた。

 

 戦闘で疲れたわけではない。

 騎士としての任務で疲れたわけでもない。

 剣聖としての重責に疲れたわけでも、ファティマの調整に疲れたわけでもなかった。

 

 岸辺露伴である。

 

「あいつは何なんだ……」

 

 カイエンは、夜の街を歩きながら小さく呻いた。

 

 ソープの正体を追うことを一旦諦めた露伴は、すぐさま次の取材対象を見つけた。

 

 ヒューア・フォン・ヒッター子爵。

 

 つまり、カイエンである。

 

 剣聖とは何か。

 ファティマとは何か。

 ヒッター子爵とは何か。

 シュペルターとは何か。

 アウクソーとの関係は何か。

 なぜ釣りが下手なのか。

 

 最後の質問だけは、絶対に許せなかった。

 

「今日は逃げる」

 

 カイエンは決意した。

 

 逃げる先は、夜のショットバー。

 

 静かなカウンター。

 ほどよい暗がり。

 グラスに沈む氷。

 そして、できれば隣に座った綺麗な女性客との気軽な会話。

 

 たまにはそういう夜があってもいい。

 

「ショットバーにナンパでもしに行くか」

 

 そう呟いたカイエンの声は、少しだけ弾んでいた。

 

 だが彼は忘れていた。

 

 自分が逃げると、追ってくる者がいることを。

 

 そして、追ってくる者が、必ずしも岸辺露伴だけとは限らないことを。

 

     *

 

 その店は、細い路地の奥にあった。

 

 控えめな看板。

 磨かれた扉。

 店内から漏れる、琥珀色の灯り。

 

 カイエンは扉を開けた。

 

 からん、と小さくベルが鳴る。

 

 中は、理想通りだった。

 

 静かなジャズ。

 落ち着いた照明。

 カウンターには数人の客。

 奥のテーブル席には、仕事帰りらしき女性客が二人。

 

 悪くない。

 

 カイエンはカウンターに座り、軽く手を上げた。

 

「ウイスキー。軽めで」

 

 バーテンダーは静かに頷いた。

 

 グラスが置かれる。

 氷が鳴る。

 琥珀色の液体が注がれる。

 

 カイエンは一口飲み、深く息を吐いた。

 

「……ああ。こういうのでいいんだよ」

 

 その時、隣から低い声がした。

 

「そうか」

 

 カイエンの動きが止まった。

 

 ゆっくり横を見る。

 

 そこには、空条承太郎が座っていた。

 

 帽子を目深にかぶり、グラスを前にしている。

 いつものように、表情はほとんど変わらない。

 

「……お前、なんでいる」

 

 カイエンが言った。

 

「飲みに来ただけだ」

 

「それは分かる。だがな、なぜ僕の隣にいる」

 

「空いていた」

 

「他にも席はあるだろ」

 

「ここが空いていた」

 

「説明になってねぇ」

 

 承太郎はグラスを傾けた。

 

「静かに飲め」

 

「お前がいる時点で静かじゃねぇんだよ」

 

「俺は喋っていない」

 

「存在感がうるさい」

 

 承太郎は、わずかに目を細めた。

 

「やれやれだぜ」

 

 カイエンは額を押さえた。

 

 とはいえ、承太郎ならまだいい。

 

 喋らない。

 絡まない。

 露伴のように質問責めにしてこない。

 女性客に声をかけるには少し圧が強すぎるが、最悪ではない。

 

 カイエンは気を取り直し、グラスを置いた。

 

「まあいい。お前ならまだ静かだ」

 

「まだ?」

 

「いや、独り言だ」

 

 その瞬間、扉のベルが鳴った。

 

 からん。

 

 カイエンは嫌な予感がした。

 

 振り向く。

 

 白い軍装。

 長い髪。

 静かな眼差し。

 

 ファルク・ユーゲントリッヒ・ログナーが、そこに立っていた。

 

「……なんでお前まで来る」

 

 カイエンの声は、すでに疲れていた。

 

 ログナーは無表情で答えた。

 

「貴様が逃げたからだ」

 

「僕は飲みに来ただけだ!」

 

「なら飲みながら確認する」

 

「何をだよ!」

 

「貴様の逃走傾向と、怪盗Xiの採用条件についてだ」

 

「バーでやる話じゃねぇ!」

 

 承太郎が短く言った。

 

「同感だな」

 

 ログナーは承太郎を見る。

 

「空条承太郎か」

 

「ああ」

 

「貴様もいたのか」

 

「飲みに来ただけだ」

 

「全員それを言うな!」

 

 カイエンが叫ぶ。

 

 バーテンダーはグラスを拭きながら、何も聞かなかった顔をしていた。

 この店もまた、何も見なかったことにする技術を身につける夜になるのかもしれない。

 

 ログナーはカイエンの隣、承太郎とは反対側に座った。

 

 つまり、カイエンは挟まれた。

 

 左に承太郎。

 右にログナー。

 

 逃げ場がない。

 

「……最悪だ」

 

 カイエンが呻く。

 

「静かでいい店だな」

 

 ログナーが言った。

 

「お前が来るまではな」

 

「私は騒いでいない」

 

「存在感がうるさい」

 

「貴様に言われる筋合いはない」

 

 承太郎がグラスを置いた。

 

「二人とも、静かにしろ」

 

「お前が一番静かに怒るタイプだから怖ぇんだよ」

 

 カイエンはぼやいた。

 

     *

 

 しばらく、三人は黙って酒を飲んだ。

 

 奇妙な沈黙だった。

 

 承太郎は静かに飲む。

 ログナーはほとんど飲まず、何かを考えている。

 カイエンは飲んでいるが、どうにも落ち着かない。

 

 奥のテーブル席の女性客が、ちらりとこちらを見る。

 

 カイエンは、ほんの少しだけ姿勢を正した。

 

 すると、ログナーが言った。

 

「やめておけ」

 

「まだ何もしてねぇだろ」

 

「目線がうるさい」

 

 承太郎が言った。

 

「お前もか!」

 

 カイエンが振り向く。

 

「貴様が今、女性客に声をかけたとする」

 

 ログナーは淡々と言った。

 

「仮定から入るな」

 

「その場面を岸辺露伴に見つかった場合、“ヒューア・フォン・ヒッター子爵の女性観”という新たな取材項目が増える」

 

 カイエンは固まった。

 

 承太郎が低く言った。

 

「やめておけ」

 

「……やめる」

 

 カイエンはグラスを持ち直した。

 

「くそ。露伴の名前を出されると急に現実的な危機になる」

 

「正しい判断だ」

 

 ログナーは言う。

 

「お前、僕の保護者か」

 

「監視者ではある」

 

「もっと嫌だ!」

 

 承太郎が短く息を吐いた。

 

「露伴はしつこいからな」

 

「お前がそれを言うと説得力がある」

 

 カイエンは苦い顔をした。

 

「ソープを追うのを諦めたと思ったら、今度は僕だ。剣聖とは何だ、ファティマとは何だ、ヒッター子爵とは何だ。挙句の果てには、なぜ釣れなかったのかだぞ」

 

「最後は当然の疑問だ」

 

 ログナーが言う。

 

「当然じゃねぇ!」

 

「結果は結果だ」

 

「黙れ。酒がまずくなる」

 

「酒で事実は消えない」

 

「お前は本当に嫌なことを言うな」

 

 承太郎が呟いた。

 

「逃げれば追う。露伴はそういう男だ」

 

「分かってるなら止めろ」

 

「止めても聞かん」

 

「断言するな」

 

「事実だ」

 

 カイエンがログナーを睨む。

 

「お前の口癖がうつってるぞ」

 

「事実だからな」

 

 承太郎は平然と返した。

 

 ログナーは少しだけ頷いた。

 

「理解が早い」

 

「お前ら仲良くなるな」

 

     *

 

 バーテンダーが、カイエンの前に新しいグラスを置いた。

 

 カイエンはそれを軽く掲げる。

 

「まあ、いい。今夜くらいは静かに飲もうぜ」

 

「同感だ」

 

 承太郎が言った。

 

「では、怪盗Xiの件だが」

 

 ログナーが言った。

 

「酒の席で仕事の話をするな!」

 

 カイエンが即座に叫んだ。

 

 承太郎も少しだけ眉を動かす。

 

「本人は嫌がっていたぞ」

 

「嫌がる程度なら問題ない」

 

「問題だろ」

 

 カイエンが言う。

 

「逃走能力、変装技術、状況判断。いずれも評価に値する」

 

 ログナーは淡々と続ける。

 

「ただし、軽薄さ、不敬、勤務意欲の欠如、買い食い衝動、生魚への過剰警戒が問題だ」

 

「最後のは採用条件に関係あるのか」

 

 承太郎が問う。

 

「食事交渉時の注意事項だ」

 

「お前、ちゃんと反省してるんだな」

 

 カイエンが笑った。

 

 ログナーは無表情だった。

 

「寿司は除外する」

 

「そこだけ具体的だな」

 

「バラムツも当然除外する」

 

「当然すぎるだろ」

 

 承太郎が低く言った。

 

「バラムツは出すな」

 

「お前まで知ってるのか」

 

「一般常識だ」

 

 カイエンはグラスを置いて笑った。

 

「だめだ。怪盗の採用条件に“寿司不可、バラムツ不可”が入る騎士団なんて聞いたことねぇ」

 

「前例がないなら作ればいい」

 

 ログナーが言う。

 

「その発想が怖いんだよ」

 

「ミラージュとはそういうものだ」

 

「否定しきれねぇのが嫌だな」

 

 ログナーは続けた。

 

「実際、ミラージュも人手不足だ。陛下が地球で動くたびに、専任でお目付け役を派遣する余裕はない」

 

「お偉いさんのお目付け役ってわけか」

 

 カイエンが言った。

 

「陛下のことだ」

 

「はっきり言うな」

 

「事実だ」

 

 承太郎が少しだけ口元を動かした。

 

「苦労しているな」

 

 ログナーは承太郎を見る。

 

「貴様も苦労していそうだ」

 

「まあな」

 

「露伴か」

 

「その一部だ」

 

 カイエンは二人を見比べた。

 

「おい。そこで通じ合うな。僕を置いていくな」

 

 承太郎は短く言った。

 

「お前もすぐ分かる」

 

「分かりたくねぇ」

 

 ログナーが言う。

 

「既に分かっているだろう。露伴に狙われた者の苦労を」

 

「分かりたくなかったんだよ!」

 

     *

 

 その時、店の扉が開いた。

 

 カイエンは反射的に振り向いた。

 

 露伴か。

 

 違った。

 

 入ってきたのは、黒衣の怪盗だった。

 

 怪盗Xi。

 

「やあ」

 

 Xiは片手を上げた。

 

「ここにいたんだ」

 

 カイエンは目を細める。

 

「お前まで来たのか」

 

「僕は通りがかっただけ」

 

 ログナーが即座に言う。

 

「嘘だな」

 

「早いなあ」

 

 Xiは笑った。

 

「いや、白い司令官が夜のバーに入っていくのが見えたからさ。何をしてるのかなって」

 

「採用条件の確認だ」

 

「やっぱり帰る!」

 

 Xiは踵を返しかけた。

 

 ログナーが低く言う。

 

「この道は通行止めだ」

 

「店の入口まで通行止めにしないでよ!」

 

 承太郎が静かにXiを見る。

 

「座れ。騒ぐな」

 

「君も圧が強いなあ」

 

 Xiは仕方なく、カイエンたちから少し離れた席に座った。

 

 バーテンダーが近づく。

 

「ご注文は」

 

 Xiは少し考えた。

 

「オムライス……は、ここにはないよね」

 

「ございません」

 

「じゃあ、ノンアルコールで甘いもの」

 

 カイエンが笑う。

 

「子どもかよ」

 

 Xiはむっとする。

 

「僕は怪盗だよ。飲んで判断力を鈍らせる趣味はないの」

 

「その割に契約金には判断力が鈍っていたな」

 

 ログナーが言う。

 

「それは別!」

 

「国家規模の契約金。効果あり」

 

「メモを読み上げるな!」

 

 承太郎がグラスを置く。

 

「騒ぐなと言った」

 

「ごめん」

 

 Xiが素直に少し小さくなる。

 

 カイエンがそれを見て吹き出した。

 

「承太郎には弱いのかよ」

 

「弱いんじゃない。あの人、怒る前の空気が怖いんだよ」

 

「それは分かる」

 

 ログナーが頷く。

 

「お前も分かるのか」

 

 カイエンが言う。

 

「強者の沈黙は有用だ」

 

「分析するな」

 

     *

 

 Xiのグラスには、甘いノンアルコールカクテルが置かれた。

 

 鮮やかな色の液体に、チェリーが添えられている。

 

 Xiはそれを見て、少し満足そうにした。

 

「うん。こういうのでいいんだよ」

 

 カイエンが指差した。

 

「お前、僕と同じこと言ってるぞ」

 

「やめてよ。僕、まだそこまで疲れてない」

 

「どういう意味だ」

 

「露伴先生に追われてる人と一緒にしないで」

 

「お前もログナーに追われてるだろ」

 

「……同類か」

 

「同類だな」

 

 二人は妙に沈黙した。

 

 承太郎がグラスを傾ける。

 

「逃げ場がない者同士だな」

 

「嫌な言い方をするな」

 

 カイエンが言う。

 

 Xiも頷いた。

 

「そうだよ。僕はまだ逃げる気だよ」

 

 ログナーが言った。

 

「逃げる能力は評価している」

 

「評価するな!」

 

「レフトメンバー向きだ」

 

「入らない!」

 

 Xiは甘いカクテルを一口飲んだ。

 

「だいたいさ、僕は怪盗だよ。人の下につくような生き方は合わないの」

 

「自由契約なら?」

 

 ログナーが言う。

 

 Xiの動きが止まる。

 

「……」

 

 カイエンが即座に笑った。

 

「止まった」

 

「止まってない!」

 

「いや止まった」

 

 承太郎も短く言った。

 

「止まったな」

 

「承太郎まで!」

 

 ログナーは静かに続ける。

 

「任務ごとの契約。報酬は国家規模。変装資料への限定アクセス。機密情報の一部開示。ただし不敬防止の監督つき」

 

 Xiはグラスを置いた。

 

「……限定アクセス」

 

「食いついた」

 

 カイエンが言う。

 

「食いついてない」

 

「機密情報」

 

 ログナーが続ける。

 

「……聞くだけなら」

 

「揺れた」

 

「揺れてない!」

 

 承太郎が言う。

 

「顔に出ている」

 

「そんなに?」

 

「そんなにだ」

 

 Xiは少しだけ頬を膨らませた。

 

「ずるいよ。怪物強盗に国家機密をちらつかせるなんて、餌が大きすぎる」

 

「釣れそうだな」

 

 カイエンが言う。

 

「僕を魚扱いするな!」

 

「生魚は嫌いだろ」

 

「それとこれとは関係ない!」

 

     *

 

 カイエンは、ふと奥の席の女性客に目を向けた。

 

 いい加減、少しは本来の目的を果たしてもいいのではないか。

 そう思った、その瞬間。

 

 ログナーが言った。

 

「やめておけ」

 

 承太郎も言った。

 

「やめておけ」

 

 Xiまで言った。

 

「やめた方がいいよ」

 

 カイエンは三人を見回した。

 

「お前ら全員、僕の保護者か!」

 

 Xiは甘いカクテルを指で回しながら言う。

 

「だって今、君が女性客に声かけたら、絶対に誰か来るよ」

 

「誰かって誰だよ」

 

「岸辺露伴」

 

 カイエンは固まった。

 

 ログナーが冷淡に言う。

 

「“ヒューア・フォン・ヒッター子爵、夜の女性観”だな」

 

 承太郎が続ける。

 

「“バーでの振る舞い”も加わる」

 

 Xiが楽しそうに言う。

 

「“剣聖の口説き文句”とか」

 

「やめろ!」

 

 カイエンは両手で顔を覆った。

 

「もう何もできねぇじゃねぇか!」

 

「何もしなければいい」

 

 ログナーが言った。

 

「正論で人生を狭めるな!」

 

 Xiはにこにこと笑った。

 

「僕、ちょっと見たいけどね。カイエンのナンパ」

 

「お前、あとで覚えてろよ」

 

「覚えてるよ。怪盗だからね」

 

「そこは関係ねぇだろ」

 

 承太郎がふと、店の入口を見た。

 

「……来たぞ」

 

 カイエンの血の気が引いた。

 

 扉のベルが鳴る。

 

 からん。

 

 そこに立っていたのは――岸辺露伴だった。

 

 手帳を持っている。

 

 ペンも持っている。

 

 表情は、獲物を見つけた漫画家そのものだった。

 

「やっと見つけたぞ、ヒッター子爵」

 

 カイエンは立ち上がった。

 

「帰れ!!」

 

 露伴は涼しい顔で入ってくる。

 

「嫌だね。君がバーへ逃げると聞いて、これは非常に重要な取材機会だと思った」

 

「誰から聞いた!」

 

 露伴はちらりとXiを見た。

 

 Xiは両手を上げた。

 

「僕じゃないよ」

 

 ログナーは無表情だ。

 

「私は言っていない」

 

 承太郎も言う。

 

「俺でもない」

 

 カイエンが眉をひそめる。

 

「じゃあ誰だ」

 

 その時、カイエンの背筋に冷たいものが走った。

 

 露伴はにやりと笑う。

 

「君が、昼間のカフェで“今日はバーにでも逃げるか”と呟いたのを、僕は聞き逃していない」

 

「地獄耳か!」

 

「岸辺露伴だからな」

 

「理由になってねぇ!」

 

 露伴はカウンターに近づき、カイエンの隣に立った。

 

 カイエンは左右を見た。

 

 左に承太郎。

 右にログナー。

 斜め後ろにXi。

 正面に露伴。

 

 完全包囲だった。

 

「……何だこれ」

 

 Xiが楽しそうに言った。

 

「通行止めだね」

 

 ログナーが静かに頷く。

 

「その通りだ」

 

 カイエンはXiを睨んだ。

 

「お前、楽しんでるだろ」

 

「少しね」

 

「この野郎」

 

 露伴がペンを構えた。

 

「さて、ヒューア・フォン・ヒッター子爵。まずは君のバーでの振る舞いについて――」

 

「聞くな!」

 

「女性客に声をかけようとしていたという証言がある」

 

「まだ声はかけてない!」

 

「つまり意図はあった」

 

「そこを拾うな!」

 

 ログナーが言う。

 

「行動前に止めた」

 

「お前も証言するな!」

 

 承太郎が静かに言った。

 

「目線はうるさかった」

 

「承太郎!」

 

 Xiも手を上げた。

 

「僕は未遂だと思う」

 

「お前は弁護してるのか追い打ちしてるのかどっちだ!」

 

 露伴は満足そうに頷いた。

 

「面白い。剣聖、バーでのナンパ未遂」

 

「書くな!!」

 

 カイエンの声が、バーに響いた。

 

 バーテンダーは、グラスを拭いたまま、何も聞いていない顔をしていた。

 

 この店も、今夜、ひとつ技術を覚えた。

 

 何も見なかったことにする技術を。

 

     *

 

 結局、カイエンの静かな夜は完全に失われた。

 

 女性客に声をかけるどころか、露伴に質問責めにされ、ログナーに釘を刺され、承太郎に静かに見張られ、Xiに面白がられた。

 

「剣聖とは何だ」

 

「知らん」

 

「知らないわけがない」

 

「じゃあ知ってる」

 

「説明しろ」

 

「嫌だ」

 

「なぜだ」

 

「面倒だからだ」

 

「カイエン、面倒な説明を嫌う」

 

「書くな!」

 

 露伴のペンは止まらない。

 

 ログナーはその横で、Xiに向かって言う。

 

「自由契約案についてだが」

 

「今その話するの?」

 

「酒席は本音が出やすい」

 

「僕、飲んでないよ!」

 

「なら判断力は保たれているな。好都合だ」

 

「逃げ道を潰すな!」

 

 承太郎は一人、静かに飲んでいた。

 

 時折、全員の会話を聞き、必要な時だけ短く言う。

 

「やめておけ」

 

「騒ぐな」

 

「無理だな」

 

 その三語だけで、場を制している。

 

 Xiはそれを見て、小声でカイエンに言った。

 

「承太郎って、少ない言葉で済むからずるいよね」

 

「分かる」

 

 カイエンは疲れた顔で頷いた。

 

「僕ら、喋るほど燃料になる」

 

「だね」

 

 ログナーが二人を見る。

 

「なら黙れ」

 

「お前が話を振るんだろ!」

 

「君が条件を出すんでしょ!」

 

 露伴が笑う。

 

「実に面白い夜だ」

 

「お前だけだ!」

 

 カイエンとXiが同時に言った。

 

 承太郎が、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「息が合っているな」

 

「合ってない!」

 

「合ってないよ!」

 

 また同時だった。

 

 ログナーは低く言った。

 

「レフト向きだ」

 

「そこに戻すな!」

 

 Xiが叫ぶ。

 

 露伴は手帳に書いた。

 

『ヒューア・フォン・ヒッター子爵はバーへ逃げた。

 だが、逃げ場はなかった。』

 

 少し考え、さらに一行足す。

 

『怪盗Xiも同様。』

 

 Xiが覗き込んで叫ぶ。

 

「僕まで巻き込むな!」

 

 露伴は笑った。

 

「君も面白いからな」

 

「最悪だよ、この漫画家!」

 

 カイエンはグラスを空にして、深く息を吐いた。

 

「……僕はただ、静かに飲んで、ちょっと女性客に声をかけたかっただけなんだがな」

 

 ログナーが言った。

 

「露伴に見つかる前でよかったな」

 

 承太郎も言った。

 

「そうだな」

 

 Xiも言った。

 

「うん。それは本当にそう」

 

 カイエンは三人を見た。

 

「なんでそこだけ全員一致なんだよ」

 

 露伴がペンを止めずに言う。

 

「では次回、その“ちょっと女性客に声をかける”という具体的な方法について――」

 

「次回はない!」

 

 カイエンは即座に叫んだ。

 

 バーの夜は更けていく。

 

 ジャズは静かに流れ、氷はグラスの中で溶けていく。

 店の灯りは柔らかく、街の喧騒は遠い。

 

 だが、カウンターの一角だけは、やはり通行止めだった。

 

 ヒューア・フォン・ヒッター子爵はバーへ逃げた。

 

 しかし、岸辺露伴は獲物を逃がさない。

 

 ログナー司令も、怪盗Xiを逃がさない。

 

 そして承太郎は、ただ静かにグラスを傾けていた。

 

 誰よりも少ない言葉で、誰よりも場を制しながら。

 

 カイエンは最後に、小さく呟いた。

 

「次は店を変える」

 

 承太郎が言った。

 

「無駄だ」

 

 ログナーが言った。

 

「追う」

 

 露伴が言った。

 

「聞き逃さない」

 

 Xiが笑った。

 

「僕も見に行く」

 

 カイエンは、頭を抱えた。

 

「……訳わかんねぇよ」

 

 その言葉だけが、その夜のすべてを正しく表していた。

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