守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
今夜もカイエンは、カウンターに肘をついていた。
グラスの中で、氷がからりと鳴る。
夜のショットバー。
落ち着いた照明。
静かなジャズ。
琥珀色の酒。
磨かれたカウンター。
本来なら、悪くない夜のはずだった。
だが、カイエンの表情は晴れない。
「露伴がしつこくて息が詰まりそうだ」
カイエンは、深々と息を吐いた。
隣で静かに飲んでいた承太郎が、短く言った。
「諦めろ」
「諦められるか」
カイエンはグラスを指で回した。
「剣聖とは何だ。ファティマとは何だ。ヒューア・フォン・ヒッター子爵とは何だ。バーで女性客に声をかけようとしていた意図は何だ。なぜ釣りが下手なのか。あいつは質問の種類が多すぎる」
「最後の質問は妥当だ」
反対側から、ログナーが言った。
「お前は黙ってろ」
カイエンが睨む。
ログナーは、いつもの白い軍装のまま、カウンターに座っていた。
バーの空気から浮いているようで、なぜか妙に馴染んでいる。
ただし、威圧感だけはまったく薄まっていなかった。
「事実だ」
「その言葉を封印しろ」
「事実を封印しても、釣果は増えない」
「酒がまずくなる!」
承太郎が静かにグラスを置いた。
「騒ぐな」
「お前らが騒がせてるんだよ」
カイエンは肩を落とした。
「だいたい、僕は今日は静かに飲みたかったんだ。できれば、隣に座った綺麗な女性客と軽く話してな」
「やめておけ」
ログナーが即答した。
「まだ何もしてねぇだろ」
「露伴に見つかれば取材項目が増える」
「増やすな。あいつの中で増やすな」
承太郎が低く言った。
「目線も控えろ」
「だからお前らは保護者か!」
カイエンは天を仰いだ。
その時だった。
少し離れた席で、甘いノンアルコールカクテルを飲んでいた怪盗Xiが、ふと顔を上げた。
黒衣の怪盗は、にこりと笑う。
「なるほどね」
カイエンは嫌な予感がした。
「何がなるほどだ」
「つまりカイエンは、男ばっかりの飲み会に飽きたんだ」
「言い方」
「綺麗な女性と飲みたいんだね」
「だから言い方!」
Xiは、悪戯を思いついた子どものような顔で立ち上がった。
「じゃあ、僕が気を遣ってあげるよ」
ログナーが即座に言った。
「やめろ」
「まだ何もしてないよ」
「貴様がそういう顔をした時点で、だいたいろくなことにならない」
「ひどいなあ。僕なりの親切なのに」
承太郎が静かに言う。
「やめておけ」
「承太郎まで?」
「やめておけ」
「二回言われた」
Xiは少しむっとしたが、すぐに笑った。
「まあ見ててよ。サービス精神ってやつを」
「不安しかねぇ」
カイエンが呟いた。
次の瞬間、Xiの姿が白い煙に包まれた。
店内の照明が、ふわりと揺れる。
煙が晴れる。
そこに立っていたのは、ラクス・クラインだった。
淡い微笑み。
優雅な立ち姿。
柔らかな声。
「カイエンさん。お酒をご一緒しても、よろしいかしら?」
カイエンは無言で顔を覆った。
「……そう来たか」
ログナーが冷ややかに言う。
「不適切だ」
承太郎も眉をひそめる。
「やめておけ」
Xiラクスは首を傾げた。
「えー、綺麗な女性だよ?」
「中身がお前だろ」
カイエンが言った。
「顔と声は良い。だが中身が最悪だ」
「ひどいなあ。僕なりに気を遣ったのに」
「そこで“僕”を出すな。全部台無しだ」
Xiラクスは少し頬を膨らませた。
「じゃあ、もっとラクスっぽくすればいい?」
「そういう問題じゃねぇ」
「キラくんを呼ぶ?」
「絶対に呼ぶな」
カイエンが即答した。
「キラに殺される」
「大丈夫だよ。キラくんは優しいから」
「優しい奴ほど、本気で怒ると怖いんだよ」
承太郎が短く言った。
「同感だ」
ログナーも頷く。
「同感だ」
カイエンは二人を見た。
「こういう時だけ意見を合わせるな」
Xiは少し考えた。
「じゃあ、ラクスは駄目か」
「駄目だ」
「不敬ではないが、不穏だ」
「やめておけ」
三方向から却下された。
Xiはむっとした。
「注文が多いなあ」
「誰も注文してない」
カイエンが言う。
「僕は気遣いをしてるの」
「気遣いなら、まず普通に飲ませろ」
「普通はつまんないよ」
「つまんなくていいんだよ!」
また煙が広がった。
次に現れたのは、泉京香だった。
眼鏡。
きっちりした服装。
落ち着いた雰囲気。
「露伴先生、締切は大丈夫ですか?」
カイエンは吹き出した。
承太郎も、ほんのわずかに口元を動かした。
ログナーは無表情のまま言った。
「用途が違う」
Xi泉は、少し不満そうに言う。
「カイエン向けじゃなくて、露伴対策だよ」
「露伴対策?」
カイエンが顔を上げる。
「露伴先生が来たら、僕が泉さんになって締切の話をする。そうすれば露伴先生は退くかもしれない」
カイエンは一瞬だけ真剣になった。
「……それは少し有効かもしれない」
承太郎が言った。
「本人には怒られるな」
「露伴にも怒られる」
ログナーが言った。
「あと、編集者を偽るのは別方面で面倒だ」
「また怒られるのか」
Xi泉は肩を落とした。
「僕、気遣ってるのに」
「気遣いの方向が毎回危険なんだよ」
カイエンが言う。
Xi泉は眼鏡を押し上げる仕草をした。
「では、カイエンさん。女性客に声をかける前に、まずその軽率な行動について原稿用紙三枚で反省文を」
「泉さんはそんなこと言わねぇだろ!」
「言いそうじゃない?」
「言いそうだけど、言わねぇ!」
承太郎が低く言った。
「戻れ」
「はい」
Xiは素直に煙に包まれた。
次に現れたのは、ソープダッシュだった。
白い衣。
静かな微笑み。
どこか神秘的な雰囲気。
「カイエン、飲んでる?」
ログナーが立ち上がった。
「やめろ」
Xiソープダッシュが目を丸くする。
「まだ一言しか喋ってないよ!」
「一言で十分だ」
「厳しい!」
カイエンも手を振った。
「それも駄目だ。お前がソープダッシュやると、ログナーの血圧が上がる」
「ログナー司令って血圧上がるの?」
「上がらなくても圧は上がる」
承太郎が静かに頷く。
「それは分かる」
ログナーはXiを睨む。
「陛下の関係者の姿を酒場の余興に使うな」
「じゃあラクスは?」
「キラ・ヤマトが怒る」
「泉さんは?」
「露伴が怒る」
「ソープダッシュは?」
「私が怒る」
「選択肢がない!」
カイエンが言った。
「普通に自分の姿で飲め」
「それじゃカイエンが寂しいかなって」
「今かなり寂しいぞ。別の意味で」
Xiソープダッシュはしゅんとした。
そしてまた煙が広がる。
次に現れたのは、桂木弥子だった。
カイエンは、思わず固まった。
ログナーが即座に言った。
「却下だ」
「早い!」
Xi弥子が叫ぶ。
「まだ何もしてないよ!」
「年齢的に問題がある」
承太郎が言った。
「同感だ」
カイエンも頷いた。
「それは駄目だな」
Xi弥子は腕を組んだ。
「飲まないよ! ノンアルだよ! 唐揚げ食べるだけ!」
「それはそれで桂木弥子としての再現精度が高すぎる」
ログナーが言った。
「予算上危険だ。却下だ」
「予算で却下された!」
カイエンが笑った。
「弥子本人がいたら怒るぞ」
「本人なら食べるだけで怒らないと思う」
Xi弥子が言う。
「そこは合ってる」
承太郎が言った。
「合ってるな」
「合っている」
ログナーも認めた。
Xi弥子はなぜか得意そうにした。
「ほら、再現度高い」
「高いから駄目なんだよ!」
カイエンが突っ込む。
「だいたい、弥子の姿でバーにいるな。ややこしい」
「じゃあファミレスならいい?」
「そういう問題じゃない」
Xi弥子は口を尖らせた。
「もう、みんな注文が多いよ。僕、せっかく気を遣ってるのに」
カイエンは深くため息をついた。
「お前の気遣いは、全部地雷に片足突っ込んでるんだよ」
「片足だけ?」
「両足だ」
承太郎が言った。
「肩までだ」
ログナーが言った。
「沈んでいる」
「そこまで?!」
Xiは煙に包まれ、ようやくいつもの黒衣の怪盗に戻った。
少し不満そうに、甘いカクテルのグラスを手に取る。
「まったく。僕なりに盛り上げようと思ったのに」
「盛り上がりはした」
カイエンが言った。
「ただ、僕の望んだ方向じゃなかった」
「どんな方向がよかったの?」
「普通に綺麗な女性客と飲む方向だ」
「じゃあ、僕が知らない綺麗な人になればよかった?」
「知らない人に化けるな。怖い」
「知ってる人も駄目、知らない人も駄目。難しいなあ」
ログナーが冷淡に言った。
「変装しないという選択肢を覚えろ」
「怪盗にそれ言う?」
「言う」
Xiは少しだけ頬を膨らませた。
「ログナー司令って、ほんと面白くないね」
「貴様の面白さは大抵、後処理が必要だ」
「後処理込みで面白いんだよ」
「不要だ」
「つれないなあ」
承太郎がグラスを傾ける。
「結果として、露伴は来ていない」
カイエンははっとした。
「……確かに」
周囲を見回す。
バーの扉は閉じたまま。
露伴の姿はない。
「もしかして、Xiのおかげで時間が稼げたのか?」
Xiはにこりと笑った。
「そういうことにしておく?」
カイエンは苦い顔をした。
「腹立つが、少しだけ感謝してやる」
「やった」
「少しだけだ」
「うん。じゃあお礼に、もう一回ラクスで――」
「やめろ」
三人が同時に言った。
Xiは肩をすくめた。
「息ぴったりだね」
「不本意だ」
ログナーが言い、承太郎は無言でグラスを置き、カイエンは頭を抱えた。
その時、扉のベルが鳴った。
からん。
全員が一斉に振り向く。
立っていたのは――岸辺露伴だった。
手帳を持っている。
ペンも持っている。
目が輝いている。
「遅くなったな、ヒッター子爵」
カイエンは立ち上がった。
「帰れ!!」
露伴は店内を見回した。
「おや。今日は華やかな女性客はいないのか」
カイエンがXiを睨む。
「お前、時間稼ぎ失敗してるじゃねぇか!」
「頑張ったよ! ラクス、泉さん、ソープダッシュ、弥子まで出したのに!」
露伴のペンが止まった。
「……待て」
カイエンの顔が凍る。
ログナーが目を閉じる。
承太郎が低く言った。
「やれやれだぜ」
露伴はゆっくりXiを見る。
「今、何と言った?」
Xiは、あっ、という顔をした。
「えーと」
露伴の目が光る。
「ラクス・クライン、泉京香、ソープダッシュ、桂木弥子に変装しただと?」
「……言ってない」
「聞いた」
「聞き間違いじゃない?」
「岸辺露伴を侮るな」
カイエンは、カウンターに突っ伏した。
「終わった」
ログナーが低く言った。
「余計な燃料を撒いたな」
「ごめん」
Xiは素直に謝った。
露伴はすでに手帳を開いている。
「怪盗Xiは気遣いを間違える。いいタイトルだ」
「タイトルにしないで!」
「いや、これは描ける。非常に描ける」
カイエンが顔を上げた。
「露伴、今夜の獲物はXiだ。僕じゃない」
Xiが叫んだ。
「囮にするなよ!」
露伴はにやりと笑う。
「安心しろ。両方だ」
「「最悪だ!」」
カイエンとXiの声が揃った。
承太郎が短く言う。
「息が合っている」
ログナーも言う。
「レフト向きだ」
「そこに戻すな!」
Xiが叫ぶ。
バーのマスターは、静かにグラスを拭いていた。
たぶん、今夜も何も見ていない。
何も聞いていない。
たとえ黒衣の怪盗が美女に変装し、剣聖が頭を抱え、漫画家が目を輝かせ、白い司令官が採用評価を下し、承太郎が静かに場を制していたとしても。
この店は、よい店だった。
客の秘密を守る。
たぶん、守りきれない秘密もあるが。
*
結局、カイエンの静かな夜はまたしても失われた。
Xiは気遣いをした。
確かにした。
しかし、ラクス・クラインは不穏で、泉京香は締切を連想させ、ソープダッシュはログナーを怒らせ、桂木弥子は年齢と予算の両面で危険だった。
そして、その全てを露伴に聞かれた。
カイエンはグラスを空にして、深く息を吐いた。
「……もう、男だけでいい」
Xiが少しだけ申し訳なさそうに言った。
「ごめん。僕、気を遣ったんだけど」
「分かってる」
カイエンは疲れた顔で笑った。
「分かってるから余計に腹立つ」
「ひどいなあ」
ログナーが言った。
「次回から、気遣いは事前申請制にしろ」
「そんな気遣いある?」
「貴様には必要だ」
承太郎が静かに言う。
「同感だ」
露伴は手帳に最後の一行を書いた。
『怪盗Xiは気遣いを間違える。
ただし、悪意ではない。
だから余計に始末が悪い。』
Xiがそれを覗き込んだ。
「ひどいこと書いてる」
「事実だ」
露伴が言った。
ログナーが露伴を見る。
「その言い方は私のものだ」
「便利だからな」
「使うな」
「断る」
カイエンは二人を見て、力なく笑った。
「お前ら、本当に仲いいな」
「違う」
「違う」
露伴とログナーが同時に言った。
Xiが楽しそうに笑う。
「息ぴったりだ」
承太郎がグラスを置いた。
「やれやれだぜ」
夜は更けていく。
ジャズは静かに流れ、氷は溶け、男ばかりのカウンターは、なんだかんだで妙に賑やかだった。
カイエンは、もう一度だけ奥の席を見る。
女性客は、すでに帰っていた。
「……」
カイエンは黙ってグラスを持ち上げた。
Xiが小声で言う。
「次は、ちゃんと知らない綺麗な人に――」
「やめろ」
「やめろ」
「やめておけ」
「やめろ」
カイエン、ログナー、承太郎、露伴が同時に言った。
Xiは口を尖らせた。
「はいはい。僕の気遣いは、今日も通行止めってことね」
ログナーが頷く。
「その通りだ」
カイエンはグラスを傾けながら呟いた。
「訳わかんねぇよ……」
だが、その声には、少しだけ笑いが混じっていた。