守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
五日目の朝。
怪盗Xiは、少しだけ気が緩んでいた。
昨日の河原で、カイエンから足さばきと体術の基礎を教わった。
ディレイアタック。
パラレルアタック。
攻撃の立ち上がり。
相手の目を騙す足運び。
一人目の気配を置いて、二人目で動く感覚。
正直に言うと、面白かった。
認めたくはない。
認めたくはないが、面白かった。
怪盗として相手の認識をずらす技術と、カイエンが教える騎士の技は、思ったよりも近かった。
だからこそ、Xiは今朝、少し警戒していた。
「面白いと思うと、逃げ道が減るんだよなあ……」
彼は小さく呟いた。
ソープが隣で首を傾げる。
「逃げ道?」
「こっちの話」
「今日はどこへ行く?」
「まずは普通に散歩。普通にお茶。普通に帰る」
「普通が多いね」
「普通は大事だよ。珍味とか文化調査とか、古い請求書とか、そういうのは今日はなし」
ソープは少しだけ目を逸らした。
「古い請求書は昨日使ったからね」
「使い切りアイテムみたいに言わないで」
その時だった。
道の向こうから、桂木弥子が小走りでやって来た。
手には、小さな包み。
Xiの全身に、嫌な予感が走った。
「弥子ちゃん」
「おはよう、Xi! ソープさん!」
弥子は満面の笑みだった。
その笑みは、善意に満ちていた。
善意に満ちているからこそ、危険だった。
「その包み、何?」
Xiが訊く。
弥子は、少しだけ胸を張った。
「ちょっとした差し入れです!」
「具体名を言って」
「郷土料理です!」
「具体名」
「文化調査にもなるかなって!」
「具体名」
弥子は観念したように包みを開いた。
「イナゴの佃煮です!」
「没収」
Xiは即答した。
弥子が叫ぶ。
「早い!」
「前から言ってるでしょ。イナゴとカエルと蜂の子は要審査。ログナー司令の許可なし。ソープに出すのは禁止」
「でも、甘辛くて美味しいんですよ!」
「弥子ちゃんの“美味しい”は安全基準にならないって決まったよね」
「決まってないです!」
「ログナー司令の中では決まってる」
「ひどい!」
ソープは包みの中をのぞき込んだ。
「これが、前に話していた昆虫食?」
「はい!」
弥子の顔がぱっと明るくなる。
「昔から食べられている郷土料理で、甘辛く煮てあって、ご飯にも合うんです!」
「ご飯にも」
「ソープ、そこに反応しない」
Xiはソープの前に立ちはだかった。
「今日は食べない」
「少しだけ」
「少しだけ禁止」
「見るだけ」
「見るだけも危険」
「匂いだけ」
「匂いだけなら……いや、駄目。君は匂いから買うし食べる」
ソープは少し困ったように笑った。
「Xi、厳しいね」
「お目付け役だからね!」
言った瞬間、Xiはまた嫌そうな顔をした。
「……また自分で言った」
弥子が包みを持ったまま言う。
「でも、ソープさんが文化調査したいなら、一匹だけでも」
「弥子ちゃん」
Xiの声が低くなる。
「イナゴは通行止め」
その言葉に、ソープが少しだけ目を丸くした。
「ログナーみたいだね」
「言わないで!」
*
しかし、事故は起きた。
いや、事故というには、少しだけ意思があった。
Xiが弥子の説得に気を取られている一瞬。
ソープが、包みから一匹だけイナゴをつまんだ。
Xiが振り向いた時には、もう遅かった。
「……食べた?」
ソープは口元を押さえ、少しだけ目を泳がせた。
「……うん」
「食べたんだね?!」
弥子は慌てて言う。
「だ、大丈夫です! ちゃんとしたやつですから!」
「ちゃんとしてても禁止だったんだよ!」
ソープはゆっくり噛んでいた。
「甘辛くて……悪くな――」
その動きが止まった。
ソープの表情が、ほんの少しだけ変わる。
「……」
Xiが身を乗り出した。
「ソープ?」
「……脚が」
「脚?」
「頬の内側に、刺さった」
弥子が「あー」という顔をした。
「たまにあります!」
「たまにあるものを出すなよ!」
Xiは叫んだ。
ソープは口元を押さえたまま、少し困ったようにしている。
「痛い……」
「ほら痛いって言ってる!」
「ごめんなさい! ご飯と一緒なら大丈夫だったかも!」
「追加でご飯を出そうとするな!」
Xiは水を渡し、ソープに口をゆすがせた。
大事には至らなかった。
刺さったと言っても、本当に小さなものだった。
だが、ソープが「痛い」と言った瞬間、Xiの背筋は冷えた。
ログナーに知られたら、間違いなく面倒なことになる。
いや、報告しなければもっと面倒になる。
Xiは頭を抱えた。
「五日目にして、ついに珍味事故……」
「事故じゃないです! ちょっと刺さっただけで!」
「それを事故って言うんだよ、弥子ちゃん」
ソープは少し落ち着いたのか、水を飲みながら言った。
「味は悪くなかったよ」
「その評価いらない!」
*
だが、Xiはその場で、ふと黙った。
皿の上に残ったイナゴ。
細い脚。
曲がった節。
先端の硬さ。
刺さった角度。
彼は、その脚をじっと見た。
「Xi?」
ソープが声をかける。
Xiは返事をしない。
弥子も首を傾げる。
「どうしたの?」
Xiは、イナゴの脚をつまんだ。
「……刺さったのは、先端じゃない」
「え?」
「いや、先端もあるけど。たぶん、刺さった理由はそこじゃない。真っ直ぐ入ったからじゃなくて、途中の曲がったところが引っかかって、角度が残ったからだ」
弥子はぽかんとした。
「イナゴで何の話してるの?」
Xiはイナゴの脚を見つめたまま、呟いた。
「剣と足さばき……」
ソープの目が、少しだけ優しくなる。
「昨日の訓練?」
「うん」
Xiは、指先でイナゴの脚を傾ける。
「カイエンが言ってた。相手が“今来る”と思った瞬間を外して、“もう来ない”と思ったところに置く。あと、気配を残すって」
「イナゴの脚に気配が?」
弥子が言う。
「そういうことじゃなくて」
Xiは少し考えた。
「刺さる角度って、真っ直ぐじゃないんだ。少し遅れて、引っかかって、逃げ道を塞ぐ。ディレイアタックに似てる」
「イナゴからディレイアタック……」
弥子は真剣に首を傾げた。
「すごいのか、変なのか分からない」
「たぶん両方だよ」
Xiは言った。
その時、背後から声がした。
「何を見てる」
振り向くと、カイエンが立っていた。
いつものようにふらりと現れたようで、その実、足音はほとんどなかった。
Xiはイナゴを持ち上げる。
「イナゴ」
「……」
カイエンは一瞬だけ無言になった。
「お前、ついに弥子の食文化に負けたのか」
「違うよ。ソープが食べた」
「ソープ」
カイエンはソープを見る。
「無事か?」
「うん。少し痛かっただけ」
「イナゴにやられるなよ」
「味は悪くなかったよ」
「そういう問題じゃねぇ」
カイエンは呆れたようにため息をついた。
Xiは、イナゴの脚を見せた。
「これ、昨日の話に似てる気がした」
「昨日?」
「ディレイアタック。角度を遅らせる感じ。真っ直ぐ刺すんじゃなくて、少し引っかけて、相手が逃げる方向に残す」
カイエンの目が、少し変わった。
「……ほう」
その声を聞いて、Xiは少し嫌な予感がした。
「何その顔」
「ただ気持ち悪がるだけじゃなかったか」
「気持ち悪いとは思ってる」
「だが、見たな」
カイエンはイナゴの脚を指で示した。
「そこに気づいたのは悪くない。剣ってのは、刃を当てるだけじゃねぇ。どう通るか、どこで相手の逃げ道に残るか。角度で勝負が決まることもある」
「イナゴで剣を褒められるの、複雑だなあ」
「褒めてる」
「もっと複雑になった」
弥子が嬉しそうに言った。
「つまりイナゴ、役に立ちました?」
Xiとカイエンが同時に言った。
「調子に乗るな」
「調子に乗らない」
弥子はしょんぼりした。
「二人で言わなくても……」
*
カイエンは、近くの河原へ行くぞ、と言った。
Xiは嫌そうな顔をした。
「また?」
「昨日の続きだ」
「今日はソープの散歩と見張りが任務なんだけど」
「訓練も任務だろ。ログナーから進捗報告を求められてるんだろうが」
「そうなんだよ。増えたんだよ」
「ならやるしかねぇな」
「やる気がない時の言い方じゃない」
ソープは楽しそうだった。
「僕も見ていていい?」
「もちろんだ」
カイエンが言う。
「弥子はイナゴをしまえ」
「はーい」
「持ってくるな」
「え?」
「河原に持ってくるな」
「ちょっとだけなら」
「持ってくるな」
Xiが低く言った。
「弥子ちゃん、今日はイナゴ通行止め」
「はい……」
弥子は包みをしぶしぶしまった。
*
河原に着くと、カイエンはまずXiのバッグを指さした。
「スパッドを出せ」
Xiは一瞬、固まった。
「……剣は抜かないんじゃなかったの?」
「抜かねぇ。まずは持つだけだ」
「持つだけ?」
「そうだ」
Xiはバッグからスパッドのケースを取り出した。
ケースを開ける。
中には、団員用スパッドが収められている。
昨日までは、ただ怖い支給品だった。
今日は、それが少し違って見えた。
怖いことに変わりはない。
だが、怖いだけではない。
Xiはそれを手に取った。
重い。
昨日より、重さがはっきり分かる。
「剣なんて、使えないよ」
Xiは呟いた。
「僕は怪盗だ。盗む、化ける、逃げる、騙す。そういうのが本業。剣で正面から斬り合うなんて、向いてない」
カイエンは、少しだけ笑った。
「誰が正面から斬り合えと言った」
「え?」
「剣は、正面から振るだけのもんじゃねぇ。抜かずに済ませるために持つ。抜いたら、斬らずに終わらせるために使う。斬るのは最後だ」
Xiは黙った。
カイエンは続ける。
「握るな」
「握らないと落ちるよ」
「力で握るなって意味だ。手の中に置け。道具に振られるな。お前が使え」
Xiはスパッドの柄を少し緩める。
「……怪盗道具と似てるね」
「同じだ。道具は、使う者の意思がなきゃただの重りだ」
「スパッド、かなり重りだよ」
「だから持ち方を覚えろ」
カイエンはXiの手首の角度を直した。
「ここを固めるな。硬いと刃は死ぬ」
「刃はまだ出てないよ」
「出てなくても同じだ」
「剣聖の言葉、だいたい物理法則より先に来る」
「そのうち分かる」
「分かりたくなってきてるのが嫌だなあ」
ソープは静かに見守っていた。
弥子は少し離れて座り、イナゴの包みを開けようとして、Xiに睨まれて閉じた。
*
カイエンは木の枝を一本拾った。
「今日は起動しない。まだ早い」
「そこは助かる」
「まずは抜く前を覚えろ」
「抜く前?」
「剣は抜く前から始まってる。抜くか、抜かないか。その判断が一番大事だ」
Xiはスパッドを見た。
「……騎士って、面倒だね」
「そうだ」
「否定しないんだ」
「面倒だから、剣を持つ意味がある」
カイエンは枝を軽く構えた。
「じゃあ、これを受けろ」
「斬るの?」
「斬るな。弾くな。流せ」
「流す?」
「相手の力を、そのまま横へ逃がす。怪盗なら、真正面からぶつかるより、そっちの方が向いてる」
「……それなら少し分かる」
「だろ」
カイエンが枝を投げた。
速くはない。
Xiは反射的に避けようとした。
だが、避ける直前、カイエンの言葉を思い出す。
斬るな。
弾くな。
流せ。
Xiはスパッドを起動しないまま、柄と手首の角度で枝の軌道に触れた。
こつん。
枝は跳ねるのではなく、滑るように角度を変えて、地面に落ちた。
Xiは目を見開いた。
「……今の、できた?」
カイエンは頷いた。
「斬ってねぇ。弾いてもいない。流した」
「これでいいの?」
「いい。お前にはそっちの方が向いてる」
「斬るより、流す」
「ああ」
Xiは手の中のスパッドを見る。
少しだけ、怖さの質が変わった。
重い道具。
危ない武器。
それだけではない。
使い方次第で、傷つけずに済ませるためのものにもなる。
「……これ、ちょっと面白いかも」
カイエンが笑う。
「だろ?」
Xiはすぐに顔を上げた。
「でもミラージュにはならないからね」
「誰も今はそこまで言ってねぇよ」
「“今は”って言った!」
ソープがくすくす笑う。
「Xi、少し楽しそう」
「気のせい」
「そう?」
「そう」
弥子が手を上げる。
「じゃあ、次はイナゴの脚を流す練習とか」
「しない!」
Xiが即答した。
*
その後も、基礎訓練は続いた。
起動しないスパッド。
木の枝。
石ころ。
ゆるい投げ。
角度を変える練習。
カイエンは、容赦なく細かかった。
「手首が固い」
「今度は緩すぎる」
「足が止まってる」
「見るな。感じろ」
「相手の力を殺すな。逃がせ」
「お前は逃げるのが得意だろ。なら、力も逃がせ」
Xiは何度も失敗した。
枝を弾き飛ばした。
石ころを避けてしまった。
手首に力が入りすぎて、自分の腕が痛くなった。
それでも、何度かはうまくいった。
こつん。
すっ。
相手の力が、自分の横を通っていく感覚。
それは、奇妙に気持ちよかった。
「……これ、盗みにも応用できそう」
「悪用すんな」
カイエンが即座に言う。
「まだ小声だったのに」
「顔に出てる」
「怪盗なのに」
「剣を持つと、嘘が下手になるんじゃねぇか?」
「それ、嫌だなあ」
カイエンは少し笑ってから、急に真面目な顔になった。
「いいか、Xi」
「何?」
「騎士ってのは、君主と、美しい婦人のために戦うもんだ」
Xiは一瞬、反応に困った。
「……急に古いこと言うね」
「古くていい」
カイエンの声は静かだった。
「剣を持つ理由なんて、そんなに多くなくていい。守る相手がいる。立つ場所がある。それだけで十分だ」
Xiは、ソープを見た。
ソープは穏やかに微笑んでいる。
次に、弥子を見た。
弥子はイナゴの包みを大事そうに持ちながら、こちらを見守っている。
「……君主は分かるとして」
Xiはぽつりと言った。
「美しい婦人って、誰のこと?」
カイエンはにやりと笑う。
「そのうち分かる」
「それ、面倒な前フリじゃない?」
「そうかもな」
「やめてよ」
*
帰り道。
Xiはスパッドをケースに戻し、バッグにしまった。
手首が少し疲れている。
だが、嫌な疲れではなかった。
ソープが隣を歩く。
「今日はどうだった?」
「疲れた」
「それだけ?」
「イナゴは痛そうだった」
「うん」
「剣は怖い」
「うん」
「でも、流すのは少し面白かった」
ソープは嬉しそうに笑った。
「そっか」
「だからって、ミラージュにはならないからね」
「うん」
「本当に分かってる?」
「うん」
「その“うん”は信用できない」
ソープは笑った。
弥子が後ろから言う。
「Xi、次はイナゴの脚を見ながら剣の練習します?」
「しない」
「でも、気づきにはなったんですよね?」
「なったけど、次は普通の教材にして」
「普通の唐揚げとか?」
「食べ物から離れて!」
*
その夜。
Xiは報告書を書いた。
『怪盗Xi 外注任務五日目報告
・桂木弥子、イナゴの佃煮を持参
・ソープ、監視の隙に一匹試食
・頬の内側に脚が刺さる
・軽微な痛みあり
・追加試食は禁止
・イナゴの脚の角度から、ディレイアタックの遅延角度について示唆を得た
・カイエンに確認。見るところは悪くないとの評価
・その後、河原でスパッド基礎訓練
・スパッドは起動せず
・剣は抜く前から始まる、と指導あり
・木の枝を斬らずに流す練習
・何度か成功
・カイエンに「お前にはそっちの方が向いてる」と言われた
・剣は怖い
・怖いと思えるなら上等、という趣旨の指導を受けた
・カイエンが「騎士ってのは、君主と、美しい婦人のために戦うもんだ」と言った
・僕は騎士ではない。念のため記録
・僕は正式採用されていない。念のため再記録
以上』
送信。
しばらくして、ログナーから返信が届いた。
『報告確認。
桂木弥子による珍味持ち込みは禁止。
陛下の口腔内負傷については、再発防止を徹底せよ。
イナゴの脚からディレイアタックへの示唆を得た点は興味深い。
カイエンによるスパッド基礎指導は有用。
“斬らずに流す”方向性は護衛補助として適性あり。
訓練を継続せよ。
正式採用ではないとの記載、確認済み。
再記録も確認済み。』
Xiは端末を見つめた。
「……訓練、継続になった」
ソープが横から覗き込む。
「よかったね」
「よくないよ。僕の逃げ道がまた細くなった」
「でも、少し楽しかったでしょう?」
Xiは黙った。
少し長く黙った。
それから、小さく言った。
「……少しだけ」
ソープは、ただ微笑んだ。
その頃、遠くでログナーは端末を置き、低く呟いていた。
「悪くない」
イエッタが静かに尋ねる。
「マスター、訓練進捗は良好ですか?」
「良好だ。カイエンが見ているなら、伸びる」
「正式採用に近づきますか」
「近づく」
遠くで、Xiがくしゃみをした。
「……今、ものすごく嫌な方向に褒められた気がする」
彼の一週間は、まだ五日目だった。