守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
怪盗Xiは、純喫茶の奥の席で珈琲カップを見つめていた。
目の前の珈琲は、ブラジルだった。
苦味と酸味のバランスがよく、香りも穏やか。
以前、岸辺露伴がやたら詳しく語っていた、あの店の珈琲である。
だが、今日のXiに味を楽しむ余裕はなかった。
「どうやったら断って逃げられるか考えないと……」
ぼそりと呟く。
向かいには桂木弥子。
隣には泉京香。
少し離れて、ソープ、カイエン、アウクソー。
そしてテーブルの端には、ログナー。
喫茶店は半ば貸し切り状態だった。
マスターはカウンターの奥で静かにカップを磨いている。
おそらく、以前この店でフェザーゴールドだの怪盗の外注契約だのという単語が飛び交った時点で、彼は「何も聞かなかったことにする技術」を相当鍛えられている。
今日も、その技術が試されていた。
「人目を避けるために、わざわざここを押さえた」
ログナーが言った。
「話す内容が機密に近い」
Xiは顔を上げる。
「その時点で帰りたい」
「まだ何も始まっていない」
「始まる前から嫌な予感がするんだよ」
カイエンがコーヒーを飲みながら笑った。
「前にもここで面接したしな」
「面接会場に定着させないで!」
弥子がケーキを一口食べながら言う。
「でも、ここのコーヒーとケーキ美味しいですよね」
「弥子ちゃん、今はそこじゃない」
「逃げる作戦会議ですか?」
「そう」
Xiは真剣な顔で頷いた。
「前回、僕は強気に出た。日当一フェザーゴールド。それ以下では受けないって言った」
「言いましたね」
泉が頷く。
「かなり強気な条件でした」
「でしょ?」
「ただ、ログナーさんが即受けされました」
「そこが問題なんだよ!」
Xiは頭を抱えた。
「こっちは“これで諦めるだろう”ってラインを出したのに、向こうは“妥当だ”って言った。見積もりで負けた」
カイエンが笑う。
「怪盗が国家予算に負けたんだな」
「そのまとめ方やめて」
ログナーは淡々と言った。
「実際、日当一フェザーゴールドは妥当だ」
「また言う!」
「ソープ様の同行補助、危険飲食物の事前制止、文化調査時の安全確認、弥子の暴走抑制、簡易報告、場合によっては護衛補助。業務範囲を考えれば安い」
「弥子ちゃんの暴走抑制が業務項目に入ってる!」
弥子がショックを受ける。
「あたし、業務範囲なんですか?!」
泉が小さく言った。
「状況によっては、そうかもしれません」
「泉さんまで?!」
ソープは少し申し訳なさそうに笑った。
「僕のお目付け役なのに、仕事が増えているね」
「ソープがそれを言うと、責められないんだよなあ……」
Xiはため息をついた。
*
ログナーは書類を一枚取り出した。
その動きに無駄はない。
無駄はないが、Xiにとっては恐ろしく不穏だった。
「本日の議題は、第二回交渉だ」
「第二回にしないで」
「前回の報酬条件を踏まえ、今回は装備、移動手段、訓練範囲、責任区分を確認する」
「ほら。言葉が全部重い」
Xiはカップを置いた。
「僕は外注。短期契約。正式採用ではない。ここ大事」
「契約書には明記する」
「よし」
「ただし、将来的な正式採用の可能性を妨げるものではない」
「その一文を消して!」
ログナーは無表情で書類に目を落とす。
「消す理由がない」
「僕の精神衛生」
「業務上の理由ではない」
「業務になってるのが怖いんだよ!」
カイエンが楽しそうに言う。
「まあ聞いてやれよ、外注後輩」
「後輩じゃない」
「日当一枚の外注後輩」
「肩書きに報酬額を入れないで!」
アウクソーが静かにカイエンのカップへ珈琲を注ぎ足す。
「マスター、あまりXi様をからかいすぎますと、交渉が進みません」
「悪い悪い」
「ありがとうございます、アウクソーさん」
Xiは心から言った。
アウクソーは穏やかに微笑む。
「ですが、Xi様には素質があると思います」
「味方じゃなかった!」
*
ログナーは最初の項目を読み上げた。
「まず、携行装備だ。スパッドの貸与は継続する」
「そこはまあ……もう持ってるし」
Xiは渋々頷く。
「ただし、公共の場では抜かない。緊急時も、まずは抜かずに済ませる。これはカイエンからも言われてる」
カイエンが頷く。
「そこは覚えてるな」
「大事だからね」
「剣は抜く前から始まってる。抜くか抜かねぇかの判断が一番重い」
カイエンの声が少しだけ真面目になる。
Xiはその言葉には反論しなかった。
ログナーも頷く。
「その認識でよい」
「ここまではまだ普通」
「次に、訓練範囲だ」
「普通じゃなくなりそう」
ログナーは淡々と続ける。
「カイエンによる基礎訓練。足さばき、ディレイアタック、パラレルアタック、スパッド基礎、簡易ソニックブレードの継続」
「簡易ソニックブレード、正式に項目化されてる……」
「実戦で使用実績がある」
「未完成だよ!」
「未完成であっても、実績は実績だ」
泉が真面目に頷く。
「確かに、実績として記録されるのは自然かもしれませんね」
「泉さん! 今日は止める側でしょ!」
「訓練項目としては妥当なので……」
「正論がまた回り込んできた!」
弥子が目を輝かせる。
「Xi、真空斬りできるようになったらすごいよ!」
「弥子ちゃん、軽く言うけど、紙ナプキンからやっと小さい紙を動かすくらいなんだよ」
「でもバイク逸らしたじゃん!」
「ネウロの虫もあった気がするし!」
「証拠なしですね」
泉が言う。
「そこを冷静に整理しないで」
*
ログナーは次の項目へ移った。
「次に、移動手段だ」
「徒歩でいい」
Xiは即答した。
「電車でもいい。せいぜいタクシー。これで十分」
「通常時はそれでよい」
「通常時以外を作らないで」
「必要とあらば、MHの貸与も検討する」
Xiの顔が固まった。
「……今、何て?」
弥子が目を輝かせる。
「ロボット?!」
泉が姿勢を正す。
「貸与品としては、かなり高額なのでは……」
「高額どころじゃないよ!」
Xiは椅子から半分立ち上がった。
「星団最強クラスの兵器でしょ?! 外注お目付け役に貸すものじゃない!」
ログナーは淡々としている。
「現在、LEDミラージュに空きが数台――」
「待って待って待って!!」
Xiは両手を振った。
「僕にはファティマもいないし乗れないよ! しかも責任が増える!」
ログナーは少しだけ首を傾げた。
「LEDミラージュは重いか? 陛下の作った史上最強のMHだぞ」
「重いなんてもんじゃない!」
「では、軽装用のクロス・ミラージュを」
「そういう意味じゃないよ!!」
カイエンが吹き出した。
「よかったな。軽装になったぞ」
「師匠までそっち側に行かないで!」
「クロスなら扱いやすいだろ」
「扱う前提で話すな!」
ソープが穏やかに言った。
「Xi、白いミラージュなら似合うかもしれないね」
「似合うかどうかの話じゃない!」
「制服も白かったし」
「制服と同じ基準で推さないで!」
弥子は完全に興奮している。
「すごい! Xi、ロボット貸してもらえるかもしれないんだ!」
「社用車じゃないんだよ!」
「でも貸与って」
「貸与って言葉で軽くならない!」
*
ログナーは、まるで業務用の備品リストでも読むように続けた。
「生憎、隠密活動用のテロルミラージュには空きがなくてな」
Xiは思わず胸をなで下ろした。
「それ聞いてなんかホッとしたよ!」
「しかし、隠密性能を必要としない場合は、別候補もある」
「出さないで」
「あとは、山を消し飛ばすパワーを持つヤクト・ミラージュ――」
「何を僕にさせる気なの?!」
Xiはついに叫んだ。
「ソープのお目付け役! 危険飲料監査! 買い食い制止! その延長にヤクト・ミラージュは出てこないよ!」
カイエンが腹を抱えた。
「山ごと通行止めにできるな」
「僕の“通行止め”を物理兵器化するな!」
弥子は口を開けている。
「山を消し飛ばすロボット……」
泉が真顔で言った。
「弥子ちゃん、“すごい”で済ませてはいけないものです」
「はい……」
アウクソーも少し心配そうに言う。
「マスター、Xi様には、まずスパッドと体術の基礎を続けていただく方がよろしいかと」
「アウクソーさん、ありがとう!」
Xiは救われた顔をした。
だがアウクソーは続ける。
「MH搭乗訓練は、その後でよろしいかと思います」
「結局その後にあるんだね!」
ログナーは頷く。
「段階的な訓練は妥当だ」
「妥当じゃない!」
*
喫茶店のマスターは、カウンターの奥でミルを回していた。
おそらく耳に入っている。
LEDミラージュ。
テロルミラージュ。
ヤクト・ミラージュ。
山を消し飛ばす。
しかし、マスターは顔色を変えない。
この店のマスターも、強くなっていた。
弥子が小声で言う。
「マスターさん、すごいですね」
泉が頷く。
「聞かなかったことにする力が高いです」
Xiは遠い目をした。
「僕もその能力が欲しい」
その時、店の奥の席から声がした。
「その能力は僕にはないな」
全員が振り向いた。
岸辺露伴がいた。
奥の席で、静かに珈琲を飲んでいる。
手帳を開いている。
ペンも持っている。
Xiが叫んだ。
「なんでいるの?!」
露伴は悪びれない。
「この店の珈琲を飲みに来ただけだ」
「絶対嘘!」
「失礼だな。今日はブルーマウンテンを頼んだ」
「そういう問題じゃない!」
ログナーの目が細くなる。
「岸辺露伴。今の話は機密だ」
「もう聞いた」
「忘れろ」
「できるわけがないだろう。LEDミラージュ、クロス・ミラージュ、テロルミラージュ、ヤクト・ミラージュ。どれも取材価値が高すぎる」
「機密だ」
「全部機密にするな!」
カイエンが笑いすぎて肩を震わせている。
「露伴まで来たか。もう駄目だな」
「師匠、笑ってないで助けて」
「いや、面白い」
「面白がるな!」
露伴はXiを見る。
「怪盗Xi、日当一フェザーゴールドに続き、MH貸与案まで提示される。これは描ける」
「描かないで!」
「君は本当に、逃げようとするほど物語に捕まるな」
「今いいことっぽく言ったけど、僕は全然嬉しくない!」
*
ログナーは咳払いを一つした。
場を戻す。
「話を続ける」
「続けないで」
「MH貸与については、当面保留とする」
Xiは一瞬だけ明るい顔になった。
「よし!」
「ただし、必要時には再検討する」
「そこを閉じて!」
「閉じる理由がない」
「僕の胃が痛い!」
泉が言う。
「契約書上は、MH貸与は別途協議、としておくべきではないでしょうか」
Xiが泉を見た。
「泉さん、それは止めてる? 進めてる?」
「責任範囲を明確にするためです」
「また正論!」
ログナーは頷いた。
「別途協議とする」
「協議の余地を残さないで!」
カイエンが言った。
「まあ、いきなりLEDは重いだろ。まずはスパッドと足さばきだな」
「重いってそういう意味じゃないけど、そこだけは同意」
ソープは微笑む。
「Xi、焦らなくていいよ」
「それは優しい」
「少しずつでいいから」
「少しずつ何に近づける気?!」
ソープは答えずに、ただ微笑んだ。
「その笑顔が一番怖い」
*
交渉は、さらに責任区分へ進んだ。
「まず、通常任務では危険対象を発見した場合、制止、回避、報告」
ログナーが読み上げる。
「うん」
「危険飲食物に関しては、香り確認、少量試飲、必要に応じた提供停止」
「これは分かる」
「弥子が関与する場合は、量の管理」
「業務項目に入れないでください!」
弥子が叫ぶ。
ログナーは真面目に言った。
「前例がある」
「前例って強い……!」
泉が少し申し訳なさそうに言う。
「弥子ちゃん、今回は仕方ないかもしれません」
「泉さんまで!」
「それから、露伴の接近時は、機密情報の遮断」
「僕は危険対象か?」
露伴が言う。
ログナーは即答した。
「機密面では危険対象だ」
「失礼だな。正しい」
「認めるんだ」
Xiが呆れる。
露伴は平然としている。
「興味のあるものを描きたいだけだ」
「それが危険なんだよ!」
ログナーはさらに続ける。
「緊急時、スパッド使用は最終手段。ソニックブレードは未完成であるため、原則として補助的使用」
「未完成、ちゃんと書いてある」
「事実だ」
「そこは助かる」
「ただし、成長可能性あり」
「書かないで!」
「必要な記録だ」
カイエンが頷く。
「伸びるぞ」
「師匠まで言わないで」
「今また師匠って言ったな」
「言ってない!」
弥子が言う。
「言いました!」
泉も言う。
「聞こえました」
ソープもにこにこしている。
「うん、言ったね」
Xiはテーブルに突っ伏した。
「全員、通行止め……」
*
ログナーは契約案をまとめた。
「結論として、今回の条件は以下の通りだ」
Xiは顔を上げる。
「聞きたくないけど聞く」
「日当一フェザーゴールド」
「通ってしまった」
「正式採用ではない」
「そこ大事」
「ただし将来的な採用可能性は否定しない」
「消して」
「スパッド貸与継続」
「まあ、うん」
「カイエンによる基礎訓練継続」
「逃げ道が細くなるけど、まあ……ちょっと面白い」
カイエンが笑う。
「素直になってきたな」
「うるさい」
「MH貸与は当面保留。ただし必要時は別途協議」
「そこが怖い!」
「危険飲食物監査、弥子の量管理、露伴の機密接近遮断を業務範囲に含む」
「範囲が広い!」
「食費補助は別途検討」
弥子が反応した。
「食費補助!」
「弥子ちゃんのじゃないよ」
Xiが即座に言う。
「なんで分かったの?!」
「顔」
ログナーは書類を整える。
「回答期限は来週まで」
「また早い!」
「判断は早い方がいい」
Xiは契約書を受け取った。
紙が重く感じた。
フェザーゴールドより重い気がした。
LEDミラージュよりは軽い。
たぶん。
いや、責任の話なら同じくらい重いかもしれない。
「ミラージュナイトって、責任が重いね」
Xiはぽつりと言った。
ログナーは静かに答える。
「当然だ」
カイエンも言う。
「だから、剣を抜く前から始まるんだよ」
その言葉だけは、少し違って聞こえた。
Xiは契約書を見る。
正式採用ではない。
外注契約。
短期。
日当一フェザーゴールド。
逃げ道は、まだある。
でも、細い。
とても細い。
「……僕、また負けてない?」
弥子がケーキを食べながら言う。
「でも待遇は良いですよ!」
「そこじゃない」
泉が言う。
「責任範囲を確認できたという意味では、前進だと思います」
「前進してる方向が怖い」
ソープは穏やかに微笑んだ。
「Xiがいてくれると、助かるよ」
Xiは目を逸らした。
「その言い方が一番ずるい」
露伴が手帳に何かを書いている。
Xiはそれを見つけた。
「露伴先生、何書いてるの?」
露伴は手帳を見せた。
『ミラージュナイトは責任が重い。
報酬は重く、装備も重く、機密も重い。
だが一番重いのは、誰かに「助かる」と言われた時に生まれる逃げにくさである。』
泉が横から見て、少しだけ微笑んだ。
「先生、それは……少し良いですね」
「そうだろう」
Xiは渋い顔をした。
「良くない。僕の逃げ道がまた文学的に塞がれた」
カイエンが肩を叩く。
「頑張れよ、外注後輩」
「後輩じゃない」
「日当一枚の外注弟子」
「弟子でもない!」
「師匠って呼んだくせに」
「呼んでない!」
ソープが笑う。
弥子も笑う。
泉も少し笑う。
アウクソーは静かにカップを置いた。
ログナーはもう次の書類を整えている。
喫茶店のマスターは、また一杯、静かに珈琲を淹れた。
香りだけは、穏やかだった。
交渉の中身は、まったく穏やかではなかったが。