守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
怪盗Xiは、箱を見た瞬間に言った。
「捨てよう」
桂木弥子が首を傾げる。
「まだ何か聞いてないよ?!」
「聞かなくても分かる」
Xiは、テーブルの上に置かれた段ボール箱を指さした。
箱には、黒と赤を基調にした派手なロゴが印刷されていた。
HEXA-BOOST
そして、その下に大きくこう書かれている。
人間を越えろ。疲労は退化だ。
泉京香は、ラベルを見た瞬間に顔を曇らせた。
「……飲料のキャッチコピーとしては、かなり不穏ですね」
弥子は箱を覗き込む。
「栄養ドリンク?」
「そう」
Xiは深いため息をついた。
「箱で来た。差出人はシックス。製造元は株式会社ヘキサクス」
カイエンがコーヒーを置いて言った。
「捨てろ」
「師匠、今日も判断が早い」
「キノコ、チーズ、カレーと来たんだ。学習するだろ」
アウクソーも静かに頷く。
「マスター、今回もお近づきにならない方がよろしいかと」
「近づかねぇよ。栄養ドリンクで人間を越えろとか書いてある時点で嫌だ」
Xiは箱から添え状を取り出した。
「読むよ。たぶん、またろくでもない」
弥子がごくりと息を飲む。
「でも、栄養ドリンクなら、疲れた時に便利そうだけど……」
「弥子ちゃん、便利と危険は別」
Xiは紙を開いた。
「『我が子よ。外注契約、剣の訓練、文化調査の監督。さぞ忙しかろう』」
泉が小さく言う。
「そこだけ聞くと、気遣いに聞こえますね」
「そこだけならね」
Xiは続ける。
「『我が一族自慢の研究所で調合した、至高の栄養ドリンクを贈ろう。慣れると癖になる』」
カイエンが顔をしかめた。
「出たな」
「危険ワード」
Xiは頷いて、最後の行を読んだ。
「『常人は三日三晩眠らず働ける。四日目には、自分が何のために働いていたか忘れるがね』」
沈黙。
カフェテラスの風が、妙に冷たく感じられた。
泉が、真顔で言った。
「労務管理上、完全にアウトです」
Xiが箱を指さす。
「でしょ?! これ栄養じゃないよ。労働災害を瓶詰めにしたやつだよ!」
弥子が恐る恐る手を挙げた。
「でも、三日三晩起きていられるなら、食べ歩きとか、旅行とか……」
「通行止め」
「まだ最後まで言ってない!」
「言う前の顔だった」
ネウロがいつの間にか背後に立っていた。
「クク……疲労を消すのではない。疲労を訴える機能を壊しているだけだな」
「そういうこと言うと、余計怖いんだよ」
Xiは箱を遠ざけた。
*
そこへ、岸辺露伴が現れた。
手には原稿用紙の束。
顔には、明らかに寝不足の気配。
「栄養ドリンク?」
Xiは即座に箱を抱えて後退した。
「露伴先生、駄目」
「まだ何も言っていない」
「締め切り前の顔だった」
泉が露伴の前に立つ。
「先生、絶対に駄目です」
「いや、資料としてだな」
「駄目です」
「一本だけ」
「駄目です」
「飲むとは言っていない」
「今のは飲む人の目です」
露伴は少し不満そうに箱を見る。
「HEXA-BOOST……人間を越えろ、疲労は退化だ、か」
Xiが言う。
「飲料のコピーじゃないよ。思想だよ」
泉も頷く。
「しかもかなり危険な思想です」
露伴はぼそりと言った。
「……人間を越えれば、原稿も越えられるかもしれない」
「先生!!」
泉の声がカフェテラスに響いた。
露伴は肩をすくめる。
「冗談だ」
「冗談に聞こえませんでした」
Xiが真剣に言う。
「露伴先生、これ飲んだら三日目までは原稿進むかもしれないけど、四日目に“何を描いていたか”忘れるやつだよ」
露伴は固まった。
「……それは困るな」
「そこで止まれるんだ」
「漫画家にとって、描く目的を失うのは死に近い」
泉がほっとした。
「では、封鎖でよろしいですね?」
「外箱だけ描く」
「そこは描くんですね」
*
箱の中には、小瓶がぎっしり詰まっていた。
黒い瓶。
赤いラベル。
銀色のキャップ。
ラベルには、商品名とコピーのほかに、小さな文字でこう書かれている。
新しい血族公認 活性飲料
HEXA-BOOST BLOOD RED
用法・用量は悪意の範囲内でお守りください。
泉がそれを読んで、額に手を当てた。
「用法・用量の表現がおかしいです……」
弥子が瓶を見つめる。
「味は何味なんでしょう?」
Xiが叫ぶ。
「味から入らない!」
カイエンがラベルを見て、苦笑した。
「ヘキサクスの社内に置いてありそうだな」
Xiは真顔で言う。
「ありそう。会議室とか、自販機とか、研究所とかに箱で置いてありそう」
泉が青ざめる。
「社員の方、大丈夫なのでしょうか……」
Xiは遠い目をした。
「大丈夫じゃないからヘキサクスなんだよ」
その時、ソープとログナーが到着した。
ソープは瓶を見て、少し興味深そうに目を細める。
「これは?」
Xiと泉が同時に言った。
「駄目です」
「駄目です」
ソープは少し驚く。
「まだ何も」
ログナーが箱のラベルを確認した。
「製造元、株式会社ヘキサクス。差出人、シックス。陛下への提供は却下だ」
「ログナーまで早い!」
弥子が叫ぶ。
ログナーは淡々と言った。
「キャッチコピーの時点で却下だ」
Xiは力強く頷いた。
「今回はログナー司令が百パーセント正しい」
ソープは少し残念そうに瓶を見る。
「三日三晩眠らずに働ける、というのは興味深いね」
「ソープ、その興味は実験の目です」
「少しだけ分析なら」
「分析班を過労死させないで」
ログナーは端末に入力し始めた。
「成分分析は遠隔、無人環境で行う。摂取試験は禁止。開栓時の揮発成分も確認する」
泉が震える。
「栄養ドリンクの扱いではありませんね……」
Xiは深く頷く。
「シックス産だからね」
*
露伴はまだ箱を見ていた。
泉が警戒する。
「先生」
「飲まない」
「本当に?」
「飲まない。だが、ラベルは描く」
「ラベルだけなら……」
露伴は手帳に書き込む。
「HEXA-BOOST。人間を越えろ。疲労は退化だ。これは、企業思想として最悪だな」
Xiが頷く。
「某栄養ドリンクだって、せいぜい“二十四時間”だったのに」
カイエンが言う。
「こいつは三日三晩か」
Xiが箱を見て顔をしかめる。
「張り合う方向がおかしいんだよ。二十四時間でも大概なのに、三日三晩はもう人間の予定じゃない」
ネウロが笑う。
「クク……人間を越えろ、とはよく言ったものだ。人間を越えた先に残るのは、人間ではない何かだがな」
弥子が小さく言った。
「でも、徹夜で漫画描く人とか、会社員の人とか、欲しくなっちゃうかも……」
泉がすぐに言う。
「だから危険なんです」
その声は、かなり真剣だった。
「疲れている人に、“もっと働ける”という液体を渡すのは、とても危険です。体も心も、休む必要があります」
Xiは泉を見た。
「泉さん、今日すごく正しい」
「今日は、ではなく、今日もです」
「失礼しました」
露伴は少しだけ目を伏せた。
「……まあ、君の言う通りだ。原稿は大事だが、描く人間が壊れては意味がない」
泉はほっとしたように微笑む。
「先生」
「ただし、締め切りは壊れても待ってくれない」
「そこは編集部と相談してください」
*
ログナーは箱を密閉する指示を出した。
「HEXA-BOOSTは回収。保管は危険物扱い。ヘキサクス社内での流通実態も調査対象とする」
Xiが言う。
「ついに企業調査に発展した」
ログナーは平然と答えた。
「社員への無償提供が行われている場合、組織的な労務災害の可能性がある」
泉が強く頷く。
「そこは調べた方がいいと思います」
カイエンが笑う。
「シックスの差し入れシリーズ、ついに労務問題に行ったか」
弥子が瓶を見ながら言う。
「味だけちょっと気になるんですけど……」
全員が一斉に見る。
弥子は慌てて手を振った。
「飲みません! 飲みませんけど!」
ネウロが言う。
「弥子。貴様はすでに胃袋だけなら人間を越えている。これ以上越える必要はない」
「それ褒めてます?!」
「褒めてはいない」
Xiは箱を封鎖しながら言った。
「とにかく、これは駄目。キノコ、チーズ、カレーとは別方向で駄目。これは“便利そう”に見える分、余計に危ない」
泉が頷く。
「その通りです」
露伴も渋々頷いた。
「今回は、僕も異論はない」
Xiは少し驚いた。
「露伴先生が完全に引いた」
「僕は危険を好むわけじゃあない。取材価値を好むだけだ」
「似てるようで違う……のかな」
*
その時、Xiの端末が鳴った。
差出人不明。
またメッセージだけが表示される。
『届いたかね。
忙しい我が子には、よい助けになるだろう。
HEXA-BOOSTは、我が社の社員にも好評でね。
疲労を感じる前に飲むのがコツだ。
疲労を感じるようでは、まだ人間だからね』
Xiは無言で端末を見つめた。
「ログナーさん」
「何だ」
「この会社、やっぱり駄目だ」
「同意する」
泉が低く言った。
「疲労を感じるのは、人間として正常です」
ネウロが笑う。
「クク……正常を退化と呼ぶ。実にシックスらしい悪意だ」
カイエンは瓶を見ながら言う。
「僕も三日三晩戦うことはあるかもしれんが、飲んでそうしたいとは思わねぇな」
アウクソーが静かに言った。
「マスターには、きちんとお休みいただきます」
「分かったよ」
カイエンは少し照れくさそうに目を逸らした。
Xiがしみじみと言う。
「普通に休むって大事だね」
弥子が頷く。
「普通に食べるのも大事です!」
「そこに戻るんだ」
*
HEXA-BOOSTの箱は、厳重に回収された。
誰も飲まなかった。
誰も三日三晩働かなかった。
誰も四日目に目的を忘れなかった。
露伴も飲まなかった。
泉は、そのことに一番ほっとしていた。
露伴は手帳に最後の一文を書く。
『怪盗Xiは栄養ドリンクも信用しない。
キノコは前世を呼び、チーズは記憶を奪い、カレーは歯を狙った。
そして栄養ドリンクは、疲労そのものを悪と呼んだ。
だが、疲れることは退化ではない。
疲れを認め、休むことこそ、人間であるための知恵だ。』
泉が横から見て、静かに微笑んだ。
「先生、それは、とても良いと思います」
露伴は少しだけ得意そうに笑った。
「そうだろう」
Xiも頷いた。
「今回ばかりは、かなり良いね」
弥子が手を挙げた。
「じゃあ、休憩として甘いもの食べません?」
泉が言う。
「一つだけですよ」
「はい!」
カイエンが笑った。
「休むのも文化調査だな」
ソープは穏やかに頷く。
「うん。今日はそれを調査しよう」
ログナーも静かに言った。
「休息は必要だ」
Xiは、回収されていくHEXA-BOOSTの箱を見送りながら、深く息を吐いた。
「シックスの差し入れで、まさか休む大切さを学ぶとは思わなかったよ」
ネウロが低く笑う。
「クク……悪意からでも、人間は学ぶ。そこだけは面白い」
こうして、HEXA-BOOSTは封鎖された。
ヘキサクス社内では常備されているかもしれない。
社員には無料かもしれない。
だが少なくとも、このカフェテラスでは誰も飲まなかった。
怪盗Xiは、栄養ドリンクも信用しない。
少なくとも、差出人がシックスである限りは。